日本が韓半島を強制的に占領した1910年、朝鮮に住んでいた日本人は17万人だった。1700万人と推計される朝鮮人口の1%にすぎなかった。にもかかわらず、朝鮮で日本語の新聞は16も発行された。いっぽう、韓国語の新聞は朝鮮総督府の機関紙である毎日(メイル)新報と慶南(キョンナム)日報のみだった。それさえ、発行部数が両方とも3000部を超えなかった。1919年、3・1独立運動が起きて、翌年、日本帝国が「文化政治」という名のもとで、東亜(トンア)日報や朝鮮(チョソン)日報、時事(シサ)新聞の3紙の創刊を認めるまで、韓半島はメディアの暗黒時代だった。
◆日本植民地支配のもとでの韓国の新聞こそ、トーマス・ジェファーソンが語った「政府なき新聞」だった。新聞は政府を失った朝鮮人のために政府の役割を肩代わりしなければならないという使命を持った。それで、東亜日報や朝鮮日報が行ったもう一つの課題は教育や啓蒙だった。民立大学の設立、文盲撃退運動が代表的なことだった。1920年代には新春文芸を新設して、国語を失う危機のなかで、ハングルを守り抜いた。
◆各新聞は欧米で展開される知性の流れを紹介することにも熱心だった。進んだ知識を紹介して、内部の力を育成するためだった。欧州で朝鮮人としては初めて哲学博士号を取った李灌龍(イ・グァンニョン)は、1922年10月の東亜日報の1面に、「社会の病的現象」というタイトルで16回にわたって、西洋学科の研究動向を詳しく紹介した。彼は、延禧(ヨンヒ)専門学校の教授を経て、東亜日報や朝鮮日報の記者として務めた。
◆日本植民地時代に韓国新聞が掲載した哲学関連記事を調査してきた嶺南(ヨンナム)大学・韓国近代思想研究団の作業が終わった。彼らが見つけた哲学記事は、東亜日報が1154件、朝鮮日報が1456件など、計3427件に上る。哲学だけでなく、人文学全般にわたって、レベルの高い文章を掲載し、知性史を先導してきた。「新聞がなかったら、日本植民地時代の知性もない」というのが調査の結論だ。さまざまな役割を果たしてきた「政府なき新聞」がどれだけ厳しい道を歩んできたかは、日本植民地時代に東亜日報が、販売禁止63回、押収489回、削除2423回を強いられたことからも分かる。「政府」は取り戻したものの、「新聞なき政府」を望む勢力はまだなくなっていない。民主化して20年経つというのに…。
洪賛植(ホン・チャンシク)論説委員 chansik@donga.com
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