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2009年3月5日(木)「フジテレビ30年史」制作秘話A〜失われた10年〜

「フジテレビ30年史」という大型特番のチーフADとなった僕が、編成資料室に過去のVTRを探しに行って唖然としたのは、開局当日の番組の映像がほとんど残っていなかったことです。ちなみに開局翌日にスタートした「スター千一夜」の記念すべき第1回目の番組VTRもなかったのです。

もちろん開局当日のニュースのアナウンサー込みの映像も残っていませんでした。「ニュース30年史」というコーナーをやりたくて探したのですが、報道やワイドショーでは30年経った当時でも取材VTRしか残しておらず、放送した番組は30年近く経ったその頃もβテープ(家庭用1/2VTR)に1ヶ月ぐらい保存して破棄してしまっていたのです。こちらとしてはキャスターやアナウンサーがニュースを読んでいる映像は貴重なものだと思っていたのですが、昔からそんな伝統があったのです。

映像はほとんど残っていませんでしたが、写真はたくさん残っていました。放送局なのに写真だけ残しているのもおかしいのですが、何もないよりはマシです。その膨大な写真資料の中に、開局日にスタジオの片隅で座っている柳亭痴楽さんと牧野周一さんの写真がありました。何か放送事故があったらすぐにカメラ前に飛び出して行って視聴者にあやまる「おわび屋」として14時間スタンバっていたそうです。結局放送事故はなく、2人の出番はなかったそうです。

横澤彪ゼネラルプロデューサーは1962年にフジテレビに入社していますが、「しろうと寄席」という番組のADをやっている頃の写真も見つかりました。子供の頃その番組に出演していた片岡鶴太郎さんにその写真を収録の時にサプライズで見せた時は、かなり大ウケしてくれました。うれしかったです。

構成会議で使いたい素材として候補にあがった古い番組としては、「スター千一夜」「おとなの漫画」「お昼のゴールデンショー」「地上最大のクイズ」「テレビ結婚式」などのバラエティ番組や「ザ・ヒットパレード」「ビートポップス」「リブヤング」「勝ち抜きエレキ合戦」などの音楽番組そして「三太物語」「三匹の侍」などのドラマです。僕はフジテレビを昔はネットしていない大分県に育ったので、どんな番組なのかさっぱり見当がつきませんでした。だからスタッフの中では一番開局まもない頃の番組事情に詳しい横澤さんが、誰がやっていた番組かなど丁寧に教えてくれました。

そんな情報と総務部の作ったフジテレビ社史に書いてある情報をインプットして編成資料室に毎日のようにこもってこれらの番組のVTRを探したのですが、またしても残っていませんでした。「スター千一夜」は昭和45年3月26日放送のが最も古いという状態で残っていました。ただ、元フジテレビ社員だった五社英雄監督のドラマ「三匹の侍」(昭和38年10月10日初回放送)だけ全部ちゃんと残っていました。モノクロの貴重な映像です。フィルムで撮影していたから残っていたのだと思います。ちなみに外部制作のアニメやドラマやテレビ映画でもフィルムで撮っているものはその制作会社にほとんど残っています。だから外部制作の素材の方が、局制作のものより遥かに集めやすかったのです。

開局して随分経った後で始まった番組の中で探していたものでも、なかなか開始当時のものは残っていませんでした。毎回残す習慣はなかったのです。長く放送されていた番組で、その時保存されていた最も古い素材ではこんなのが見つかりました。
「ズバリ!当てましょう」(昭和36年8月5日スタート)→昭和44年3月29日放送
「ちびっこのどじまん」(昭和40年7月27日スタート)→昭和41年8月26日放送
「ママとあそぼう!ピンポンパン」(昭和41年10月3日スタート)→昭和48年2月27日放送
「夜のヒットスタジオ」(昭和43年11月4日スタート)→昭和44年1月27日放送
「ラブラブショー」(昭和45年4月5日スタート)→昭和45年6月21日放送

そんなわけで、開局から10年ぐらいの番組の映像もほとんど残っていなかったのです。当時は生放送が多くてそれを録画しておくVTRテープが高価だったのと、二次利用しようという考え方がなかったのかもしれません。各局同じような保存状態だと思います。今思うとかなりもったいない話です。もしテレビ開局時にVTRを残すという考え方を持ち、しかもその二次利用権をテレビ局が持つという考え方をしている人がいたならば、歴史は変わっていたでしょう。

写真はあるが、映像はほとんど残っていない…まさに「失われた10年」という感じでした。10年以上かもしれませんが…。「こんな状態で、果たして30年史と銘打って放送できるのだろうか?」そんな不安が僕の中によぎったのです。(つづく)

コメント

清水さん、あくまでも私の推察ですが、
例えば、この記事でも取り上げている、
「ズバリ当てましょう」は、昭和47年2月にいったん終了したのですが、その「第1期」分で残っているのは、おそらく上記の1本だけだったのではないかと思われます。この「ズバリ・・・」は、昭和50年10月に復活し、昭和57年3月まで放送されましたが、その「第2期」分においても、完プロテープの永久保存が認められて今日まで残っているテープは限られていると思います。
また、「素人民謡名人戦」は、たぶんそうだと思いますが、昭和57年9月までは、半期に一度の「決勝大会」を除き生放送だったそうで、そのせいなのか、完プロで残されているのは、昭和59年前後以降が中心なのではと思うのですが・・・・
このブログでは取り上げていませんが、
昭和45年から10年以上、3000回前後放送した、クイズ帯番組の
「クイズ・グランプリ」は、完プロで残されたのがたった1本だといわれているそうです。
やはり、「一般視聴者参加番組」というのは、その特性がネックになって、昭和58年ごろの番組でも、完プロ・テープの永久保存が認められずにいたのでしょうね。
50thッス!でさんまさんが言ってた通りスター千一夜が最後を締めくくるその週はお笑いばっかりと、でもさんまさんの出演していた証拠が写真のみだったと聞いたことがあります。

平成8年8月8日放送のフジテレビの日888まつり〜祭りだワッショイ〜より

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プロフィール

       清水 淳司
1984年4月1日、フジテレビジョン入社。以来第二制作部12年、FCC7年と主にバラエティ畑を歩む。「いただきます」「笑っていいとも!」「邦ちゃんのやまだかつてないテレビ」「うれしたのし大好き」「ポンキッキーズ〜爆チュー問題」などを担当。現在は美術制作局美術センター勤務で「ミュージックフェア21」「あっぱれさんま大教授」などの美術プロデューサー。大分県出身

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