竹熊さんへのイイワケ
 


              岡田斗司夫

 竹熊さんからの熱い反論をもらって、正直、ちょっと驚いた。ここに書いたことは、竹熊さんに会った時も僕が竹熊さんに話したりしていたことで、その時は、竹熊さんもあえて否定はせず、楽しく会話ははずんでいた。
 僕が推測するに、竹熊さんを怒らせてしまったのは、この「おたくウィークリー」なんていう公の場で、不用意に僕の主観を書いた為だと思う。会話では、内容よりも口調や表情によるニュアンスが優先する。僕の極端な表現も、話し言葉では気にならないが、文字にすると誤解を生む可能性が大きい。その誤解が、量産されるのは、確かに良いはずはない。
 僕はよく、初めてあった人に「岡田さんがこんな人だとは思わなかった。もっと怖い人だと思っていた」と言われたりする。又、僕の悪口を言う人に限って、会ったこともない人だったりもする。どうも、誤解されやすいタチなのだ。
 僕も最近、物書きの仲間入りをさせてもらったので、主観を書くなと言われても困ってしまう。主観を主観として書くのは物書きの権利だとも言える。しかし権利の裏には、必ず義務が存在する。物書きにとっては、誤解を生じないように書くことが義務になると思う。
 というわけで、僕の竹熊さんに対する舌足らずな発言を、まずお詫びすると同時に、この場で補足して、竹熊さんを始め、読者の方々の誤解を解いてみたいと思う。



 まず、僕の文章では、一番肝心な大前提が抜けている。それは、「ハマる」という行為に対する価値観だ。
 僕は、何かに「ハマる」事、「ハマれる」事は人生にとって、素晴らしいことだと考えている。何にもハマらず、いつも冷静に批判めいたことばかり言っているヤツのことなど、信用する気にならない。
 が、ハマりっぱなしなヤツもイマイチ信用できない。はまっている最中の人間は、恋愛中の人間と同じで、冷静に廻りが見れない。当然、第三者から見れば、みっともなかったり、迷惑だったりで、どうしようもない存在となる。
 肝心なことは、思いきりハマって、その後、そこから帰って来ることだ。そうすることで初めて、色々なものが見えてくる。その見えてくるものは、ハマっている最中には決して見えなかったものだし、ハマらない人にも、永久に理解できないものなのだ。
 宗教や政治運動にハマって帰ってきた人の言葉は、単にそれを批判している人より,はるかに重みがある。恋愛が人を成長させるというのも、そういう事だと思う。

 僕も、よくいろんな人にハマる。  例えば、僕は一時、唐沢俊一氏にハマった。当時、僕が書いた文章を今見ると、恥ずかしい程、氏の文章を真似ている。漢字の使い方から言いまわし、価値観まで、すべてそっくりに書こうとしている。もちろん、御本人に見せれば「どこが!?」と笑われてしまう出来なので、今見ると実にみっともない。幸い、公の場での発表はあまりしていないので、恥はかかずにすんでいるけど。
 で、熱狂が醒めれば、ようやく冷静に唐沢俊一を語れるようになる。僕の場合、熱しやすく醒めやすいので、だいたい3ヶ月で得心して、帰ってくるパターンになる。
 他にも、江川達也や、飯野賢治にもハマったりした。ガイナ時代には山賀博之や庵野秀明、赤井孝美にもハマった。光山君、という詐欺師(というにはあまりに愛すべき人物だが)にもハマった事がある。つい先日まで会ったこともなかったけど、橋本治や呉智英や浅羽通明や小林よしのりにもハマった。
 一人の人にハマると、その人とすぐ話したくなり、自分なりの意見をぶつけてみたり、質問したりしながら、どんどん考え方をトレースする。会えない人の場合は、次々と本を読んだりする。で、自分なりに、相手を体験し終わると、熱病が治るように醒める。
 僕は、竹熊さんとこの「ハマって、帰ってくる」ことの大切さに関して、何度も話し合った。竹熊さんも、その時は同意してくれていたと思う。
 「おたくウィークリー」に、問題の文章を掲載したあとも、竹熊さんは僕に「岡田さんの主観を否定するつもりはない。でも事実関係に関して誤解があるし、反論させて欲しい」といった穏やかなメールを送ってくれた。この時は、まだ、僕と何度も話し合った「ハマる」のニュアンスが、氏の心の中で生きていたのだと思う。
 が、その後、ニュアンスが豹変した。多分、竹熊さんが、「ハマる」ことを、まるで、何か間違いを犯したような否定的なニュアンスで受け取りなおしたからだと思う。別に、竹熊さんが悪いのではない。常識としては、マイナスイメージを持つ言葉なのだ。僕の舌足らずが、一重に悪かったのだと思う。

 もちろん、僕は肯定的なつもりで使っている。
 ただ、へそまがりな僕としては、肯定的にとられすぎるのもイヤなので、どうしても、こんな複雑なことをしてしまう。何かに熱中することを、美化したくない。何かにふりまわされて、周りが見えなくなることを、否定したくない。自分の過去の暴走を無視したくない。でも、過去を美化したくない。そういう気持ちをこめた、「ハマって、帰ってくる」なのだ。
 僕は、こういうマイナスイメージの言葉を、あえて、肯定的に使うことが好きだ。
 『ぼくたちの洗脳社会』でも、タイトルに「洗脳」という言葉を入れることに躊躇した編集者に、僕は断固、主張した。洗脳というマイナス・イメージの言葉を使うことで、今まで「教育」だの「宣伝」だの「言論」「報道」だのと表現されている行為の本質を、はっきりさせたかったのだ。


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