法学入門 Web教科書

法学入門


宇都宮共和大学発展科目「法学入門1」(2単位)を始めます。
 
この講座は、全15回で次のような予定で講義します。
 
 法学入門
 六法入門
 憲法
 民法
 商法
 民事訴訟法
 刑法
 刑事訴訟法
 その他の法律
 
使用する教科書
 講義の最中に使う指定教科書は
 「プレステップ 法学入門」弘文堂
 
 
第1回目の今日は、「法学入門~法とはなにか、法や国家はどのように発生したか」についてお話したいとおもいます。

原始時代の人間社会と法の発生

 
 文明が発達する以前の人類の姿を想像してみよう。
 鹿やマンモスを狩り、暮らしていたかもしれない。森で木の実を拾っていただろうか。畑を耕して農作物を栽培したかもしれない。いずれにせよ、一人で生きていくことはできずに、老人や子供を保護しながら、いくつかの家族が寄り添いあって生活していただろう。そして、狩猟にせよ農作にせよ、協力し合って生活をしなければ生きてはいけなかっただろう。なぜなら、狩猟する獲物がマンモスのように強大であれば一人で狩りをすることはできないし、秋になって作物が一斉に実ったとき一人では収穫が間に合わないのだ、必然的に他人と協力しなければならない。
 
 
資料:生き抜くのに必死な原始人のみなさん
 
(c)そのやま企画
 

 狩猟や農作で、収穫が少なくて生命の危機が訪れたとき、人間はどうしただろうか。どうすることもできずに死んでいくこともあったろうが、そうなる前に、何らかの行動をおこしただろう。
 老人や子供を切り捨てて、強いものだけが収穫を独占しただろうか。しかし、そうやって生き残っても共同体は消滅してしまう。ならば、近くの他の共同体の集落から、食物を奪ってくるほかないだろう。そこで男たちは、自分たちの家族を養うために、武器をつくり、隊をなして、近隣の集落を襲ったことだろう。
 しかしそれは同時に、自分たちの集落が、近くの集落から襲われる可能性もあるということである。財産を奪われては生きていけないから、常日頃から武器を養い、危機に備えなければならない。
 そのような行動をするとき、集落のめいめいがバラバラに行動していては、敵の襲来を防御することはできない。統一的な指揮をおこなうリーダーが必要になる。優れたリーダーのいる集落は、敵を撃退できるし、近隣の集落を支配できるようになっただろう。
 
統率のとれた軍隊は攻撃力が増大する 
古代ギリシア軍の密集隊形(Wikipedia「ファランクス」より)


 厳しい時代を生き残ることができた集落には、命令一下、いざというときの軍事力を動員できる権限を持っているリーダーが存在したはずである。そのようなリーダーは、われわれのイメージで言えば、「酋長」「村おさ」といったところだろうか。人々は、そのようなリーダーに従って、様々な共同作業をして集落を発展させたに違いない。
 もし、集落の共同作業を拒否する者や、邪魔をして人々に迷惑をかける人物がいたらどうするだろうか。人々はなんとかして、その人物の迷惑な行いを改めさせたいとおもうだろう。自分たちで解決できればいいが、うまくいかなければ、彼を何とかしてほしいと、リーダーに苦情を申立てるのではないか。
 武器を持った人々に命令を下せる立場にいるリーダーは、共同体の運営に責任を感じて、外の敵から共同体を守るだけでなく、おそらく、内なる敵にも、その武力を発揮することができるだろう。
 つまり、リーダーは迷惑な人物を抹殺することができるし、民衆はリーダーに対して、そのような対応を求めることができるとしたら、たいていの者は、他者に迷惑を掛けないようにしながら生活することを選ぶだろう。ここに、回りのものに迷惑をかけないよう暮らした方がいいという一種の「法則」「おきて」のようなものが発生していることが想像できる。
 原始的な「法」の発生である。

原始的な国家における法と裁判

 共同体の段階から、原始的な国家にいたる段階において、民衆にはどのような義務が貸されていただろうか。
 まず、若い男性には兵役が課されただろう。共同体存続のために、防衛力と攻撃力を持つことが絶対に必要だったのだ。
 どのような規模にせよ、軍隊は戦利品を除けば常に非生産的である。軍を編成するにも、訓練をするにも、戦闘をするにも、装備や食料や労働力が大量に必要になる。
 リーダーは、そのような軍隊を維持するための資産を確保しなければならないが、それはもちろん共同体全体から集められたことだろう。リーダーは民衆から、生産物の一部を徴集し、様々な施設を整備するために労働力を動員する必要がある。民衆は、リーダーに命じられ、徴兵され、動員され、年貢を納めさせられるということである。これを拒否しようとしても、リーダーやその代行者から、軍事的実効力をもって、強制されることになる。さらに、国家運営のために果たして必要かどうか不明な、民衆に対する様々な命令も、拒否することはできないということになる。
 結局、共同体ないしは国家の支配者層の命令は、拒絶できない絶対的な「法」として機能することになる。ここに、原始的な国家から民衆に対する強制力としての「法」、現在の分類で言えば「公法・行政法」のような法が人間社会の早い段階から存在したことが想像できる。
 民衆のあいだでは、どうだっただろうか。
 国家から民衆に対する命令は、第一義には、国家そのものを運営するためであるから、民衆同士の間に国家が介入することは二の次であっただろう。
 正当な理由のない殺人など、よほどな社会の秩序を乱す行為であれば、国家がその軍事力・警察力を用いて取り締まったに違いない。
 しかし、民衆の間で交わされた約束を守らないなど、殺人などに比べれば軽微な不当行為にたいして、国家が介入するのは、国家の行政組織が整備され、社会に様々な余裕が生じるのをまたねばならないのではないか。
 それまでの間、民衆の生活はどうであったろう。強いものは国家に目を付けられない程度に富を独占し、弱いものは困窮していったに違いない。
 他者との約束を破ることもあっただろう。しかし、そのような行為を重ねれば、他者の信用を失い、生活がしづらくなることもあるだろう。民衆の生活が落ち着き、農耕などで特定の土地から移動することが難しくなればなおさら、他者との関係を尊重しなければ自らの不利益になることが明白となる。そこで、他者との約束を守ることという「契約」の概念や、他者の持ち物と自分の持ち物を区別する「所有権」の概念などが発生したはずである。
 契約や所有権を無視する市民を放置しておけば、民衆は安心して暮らせないから、民衆の生活が不安定であれば年貢や労働力を徴収しづらくなるから、国家としても何らかの対策が必要になる。そこで様々な紛争解決の方法が考案され、国家はその運営に心を砕いたに違いない。原始的な「裁判」の発生である。

地方豪族から専制君主へ

 各地で集落が統合され、規模が大きくなってくると、人々の間で分業が始まる。
 一人の人間や家族が、必要なあらゆるものを自ら耕作し、制作するのは困難である。それよりも一つの物を作り続けて、余った分を必要なものと交換した方が効率がいい。そこで農民や職人といいった分業がはじまるのである。
 また、他の地域の集落も大きくなってくると、いつ大規模な部隊で襲撃してくるかわからないので、それにそなえて、常に戦争の準備をしておかなければ対抗することができず、そのための専従の兵士が必要になる。兵士という一種の分業職種が発生する。
 兵士は生産をしないから、その分は社会全体でまかなうほかない。そのためには、年貢や税金を集めて、兵士に配分したり、武器をつくったりしなければならず、その手配のために多くの事務作業が必要になる。そのための公務員・官僚という分業も必要になる。
 兵士や官僚を束ねて、農民や職人の生産活動ができるように、全体を指揮するリーダーも分業の一種である。
 武器をもっている兵士や、社会を維持する官僚、それを監督するリーダーは、生産をせず、農民・職人からの年貢・税金で生活している。年貢・税金を強制できる武力や権限を持っているので、農民・職人よりも豊かな生活ができる可能性が高い。 富を奪われる側よりは、奪う側のほうが楽に生活ができるのであれば、自分の家族・子孫もできるだけ楽な環境に置きたいとおもうのは自然な発想である。すでに権力を持っている者は、その権力を使って、自分の子供に地位と権力を譲渡したことだろう。
 一方で権力を持たない領民は、そのようなことはできないから、領民の子に生まれたものは、そのまま領民として一生を暮すほかないだろう。すなわち社会の中に「階層」が発生したことになる。古代社会で権力と武力をもち、地域を支配した人々を日本の場合は「豪族」と呼ぶ。中世日本なら「殿様・武士」、中世ヨーロッパであれば「王様・貴族」といったところである。
 豪族や、各地の王が、引き続き近隣の地域と合従連衡を繰り返し、規模が大きくなり王の権限が大きくなってくると、「専制君主」が発生する。支配するのも、もはや集落や地域でなく、領土と領民と軍と官僚と貴族を完備した「国家」である。
 専制君主の権限は強大で、国家を管理するためのすべての法は、王の命令として発令された、法を作るのも、適用するかどうかも、廃止するのも、人を裁くのも、裁判をするしないも、刑罰の内容も、すべて王様の気分次第である。「我は国家なり」と宣言したのはフランスのルイ14世だが、まさに君主が国家の全てで、君主が法の全てだった。

法思想の発展と市民革命

 絶大な権力をもった君主に「我は国家なり・我は法なり」と言われたら、渋々でも従うほかないが、人々がそれで納得するかどうかは別問題である、不満に思った人もいただろう。
 貴族や富豪などで生活に余裕のある者の中には、様々な文化的な活動を支援する者もあらわれた。音楽・絵画の芸術だけでなく、様々な学問も貴族の支援により発展し、ヨーロッパ各地に大学が開設された。学問の内容も幅広く、建築学、医学、文学のほか、国家のありかたや、政治・君主・法などについて考察する政治学・法学といった社会科学も発展を遂げた。社会科学思想の発展につれ、君主といえども従わなければならない自然発生的な法があるのではないかという「自然法思想」や、国家は社会の運営を市民から契約によりたくされているに過ぎないという「社会契約論」など、様々な新しい考え方が発生した。
 
 学問や大学は当初、一部の特権階級に独占されていたが、産業の技術が発展することにより多くの市民の生存のための日常作業が軽減したことで、市民階級にも読み書き能力が普及し、社会科学の考え方が広まることとなった。すると、それまでは盲目的に君主を尊敬していた市民や農民にも、君主のありかたに対する疑問が発生する土壌が醸成されることとなった。
 そののち、飢饉や戦争など様々理由で、君主が増税をしたり、徴兵をしようとした時に、市民はそれまでと違って、君主の政策がおかしいと感じたり、君主の存在自体を否定したりする者もではじめ、場合によっては暴動に発展した。これが市民革命の背景である。
 ヨーロッパで発生した市民革命は、場所と時代により様々な様相を呈している。
 イギリスでは、君主と貴族階級の間の対立であったが、フランスでは、市民と君主が直接対決することになり、君主は処刑されてしまった。ロシアでは、市民の中の労働者階級が主役となり、君主・貴族だけでなく富豪階級の市民も追放された。
 市民革命は、君主を処刑したり、その権力を制限したりしたので、それまでの君主に代わる新しい国家統治の方法が必要になった。それまでの君主の横暴に懲りていたので、今後の国家のリーダーが何をしなければならず、何をしてはならないか、はっきりと決めておこうということになった。この取り決めが「憲法」である。憲法が国家統治の基本方針を定めた法であるといわれるのはこのためである。
 また、不当な刑罰で多くの市民が犠牲になったので、今後はそのようなことがないように、罪の定義とそれに対応する罰の内容を明記するために、「刑法」が制定された。市民の間の経済活動が発展するにつれ、市民同士の約束が守られないなどのトラブルも増加したので、契約という概念が発展し、契約や財産についての権利の内容を整理するために「民法」も制定された。
 このような段階の国家を、近代国家と呼ぶことにする。

欧米の植民地主義と日本

 中世から続く国家機構の整備と産業技術の発達によって、ヨーロッパでは人口が大幅に増加していた。増加する人口を支えるために国家はさらに発展する必要があったが、狭い地域に多くの国家が存在したヨーロッパでは、拡張するための土地も資源も不足していた。
 すでに発展している隣の国家を打倒するには、大変な軍事力が必要であり採算が取れないので、各国はヨーロッパ以外の地域に注目することになった。アフリカ、北米、南米の各大陸には、文明の遅れた民族が暮らすのみで広大な土地と資源が存在したので、各国は軍隊を率いて各地を占領したり、貿易と称して現地から多くの富を収奪した。これが植民地である。植民地には、自国民を移住させる、自国製品の販売先にする、貿易により資源を獲得する、軍事力で人間を含む様々な資源を略奪するなど、様々なタイプがあった。
 植民地獲得に先に乗り出したのは、スペイン・ポルトガルだった、その後イギリス・フランスが競争に参入し、さらに遅れてアメリカ、ロシアが参入した。アメリカ・ロシアが参入したころには、すでに地球を半周してインド・中国あたりまでが主にイギリスの植民地となっており、残されたのは、日本などの極東地域だけだった。
 
ヨーロッパから世界各地への植民地の進出 
 
 
 そこでアメリカは、ペリー提督を派遣して日本に貿易関係の樹立を求めた。ロシアも日本に使節を派遣し、国交を開くように要請するとともに、シベリア大陸を横断する鉄道を計画し、開拓都市ウラジ・オストックを建設して極東植民地開発の準備を進めた。
 対する日本側は、徳川幕府の時代で海外諸国との交流は限定されていたが、インドや中国の都市が、当初は貿易の名目で外国と貿易を始めたものの最終的には植民地として支配されてしまったという列強諸国の手口は承知していた。そこで、諸外国との国交を開くことを拒絶していた。

徳川支配から明治政府へ

  列強諸国から国交を求められた徳川幕府は当初はこれを拒絶していたものの、圧倒的な軍事力の格差が明らかになると、指導者階級の中には、無駄に抵抗せずまず開国をして国力をつけるべきだという意見を持つものもあらわれた。国内の意見がまとまらないうちに、アメリカに圧力をかけられ通商条約を締結してしまったが、その中身は極めて日本に不利であり、国内でも批判され、開国をするかしないかで、国内の意見が大きく分かれてしまった。
 当時の日本は、徳川家を絶大なリーダーとして大小三百の半独立国(藩)が連合する、一種の連合国家であった。その中の有力な藩であった薩摩藩、長州藩、土佐藩が中心となって、日本も開国をして近代的な国家の建築をいそぐべきだと主張したが、徳川幕府に聞き入れられなかったので、軍事蜂起をし革命を起こした。ただしこれは、欧米のような市民革命ではなく、有力藩の若手指導者たちが起こした一種の貴族革命である。日本に住んでいた庶民にしてみれば、殿様が交替するための戦争がはじまったにすぎなかった。
 薩摩・長州・土佐の革命は成功し、徳川家は江戸城を明け渡し、戦闘は起きなかったが、その後後処理ための掃討戦は長引いて、東京上野、会津若松、函館、熊本などで大規模な戦闘となった(戊辰戦争・西南戦争)。
 革命に成功した指導者たちは、さっそく新しい政府をつくることにしたが、その目的は、列強諸外国と対等に渡り合えるだけの国力を持つことであった。経済力・軍事力で対等になるだけでなく、欧米諸外国から文明国であると認定され、国家として尊敬される必要があったので、国づくりのスタイルも、欧米の様式をとりいれることにした。天皇も代替わりし、年号も慶応から明治と変わった。
 このようにして始まった新政府を、明治政府と呼ぶことにする。

明治政府の国づくり

 革命(明治維新)を成功させた薩摩・長州藩の若手武士たちは、不平等条約をなんとか対等な物に戻し、日本の植民地化を阻止するために、欧米列強諸国に文明国として認めてもらえるような国家を建設する必要にせまられた。そうでなければ、インド・中国(上海・香港・マカオ)のように暴力的に支配されることがわかっていたからである。
 とりわけ、極東開発を焦るロシアとは関係が悪化しつつあり、建設中のシベリア大陸鉄道鉄道が完成すれば大量のロシア軍が極東に配置される模様であり、またロシアがバルト海・地中海に配備していたバルチック艦隊をはるばるウラジオストックまで廻航させ日本を攻撃するという情報もあり、必死で軍備を拡張していた。陸軍・海軍の装備を増強するには膨大な資金が必要であったため、国内の産業を急速に発展させる必要があった(富国強兵)。主な産業は国有化し国費で基盤を作ったのち民間に委託(払い下げ)して、一刻も早く資金を稼ぐ必要があった。そこで労働する国民の健康や生活や人権は二の次であった。なにしろ戦争に負けたらロシアの植民地となってしまうので仕方ないと、当時の指導者たちは思っていたであろう。
 このような強引な国づくりを進めるためには、中央の指導者に強力な権限が必要だった。国民が不満をもって政府の指導者を選挙で交替させられるような仕組みは、無駄だった。
 当時、世界で一番の先進国はフランスであるとされていた。市民革命で君主を倒し、国民が選んだリーダー(ナポレオン)のもとで、自由主義経済を発展させ、強大な国を建設していた。
 しかし、遅れて発展したにも関わらず、急速に国力をつけた国があった。プロシア(現在のドイツ)である。プロシア地域にはたくさんの小国家があったが、それをプロシア皇帝が統一し、市民革命も起きないまま、皇帝の集権的権力によって、効率の良い国づくりをして産業を発展させ軍備を整え、フランスに追い付こうとしていた。
 折しも日本が、国づくりのために欧米に視察に行く直前、フランスとプロシアの間で戦争が勃発し(普仏戦争)、プロシアが勝利してしまった。
 日本の指導者は、遅れた国力を取り戻すための良い見本として、プロシア風の国づくりに強く魅かれたに違いない。その後、日本も天皇を中心にして、内閣、国会、裁判所を備えたプロシア風の憲法を導入することになる。それが明治憲法である。
 また、憲法と同時に、刑法や民法など様々な法律も整備された。個々の法律は必ずしもプロシア風というわけではなかったが、いずれも欧米諸国の法律を参考にして導入された。

明治憲法条文 ひらがな訳

 
 第一章 天皇

第1条 大日本帝国は萬世一系の天皇これを統治す
第2条 皇位は皇室典範の定める所により皇男子孫これを継承す
第3条 天皇は神聖にして侵すべからず

明治初期に制定された六つの法

 
 前章で述べたように、明治維新を達成した明治政府は、外国から侵略されないように、欧米の文明国に引けを取らない国づくりをするために、様々な制度を欧米風に改めた。
 憲法を制定して、議会や裁判所を設置したのもそのためであった。
 同時に、憲法の他にも欧米各国と同様の多くの法律を制定する必要が生じたので、明治政府は取り急ぎ以下の六つの法律を制定した

1. 憲法    1889年(明治22年)
      国家と国民の関係を定める法律
2. 民法    1898年(明治31年)
      国民の社会生活で生じる利害対立を調整する基準を定めた法律
3. 商法    1899年(明治32年)
      商人同士の取引、会社設立、手形・小切手などについての法律
4. 刑法    1882年(明治15年)
      犯罪を定義し刑罰を規定することにより犯罪を防止し社会秩序を守る法律
5. 民事訴訟法 1890年(明治23年)
      民法・商法について生じた紛争を裁判所で解決する手順を定めた法律
6. 刑事訴訟法 1890年(明治23年)
      刑法の犯罪に該当するかを判断し刑罰を科す裁判の手続きを定めた法律
 
 以下、これらの法律について、もう少し詳しく概要を説明しよう。

憲法

 
 憲法は国家の最高規範であり、国家の組織や統治に関する基本的な法である。
 近代的な憲法は、国家による国民への不当な統制を防ぐために、国家が国民に対して行ってはいけないことと国家が国民に対して行わなければならないこと(人権)、それらの国家の行為を実行するための国家組織(統治機構)をどのように編成しどのような権限を持たせるかについて、条文が制定されている。
 憲法の条文は、国家の方針についての大原則のみ規定しているので、実際の国民の生活や、国家機関の細部については、別に法を制定することになる。それらは「法律」とよばれ、日本では主な法律として「民法・商法・刑法」などが制定されている。それ以外の数多くの法律も制定されている。これら法律はみな、憲法の方針に違反した内容を持つことは許されず、その運用や解釈にあたっても憲法の方針にそっていなければならない。
 国家が憲法の方針に従って運営されることは近代欧米国家において常識とされたので、明治維新ののち近代欧米と対等な国交を目指した日本の政府にとって、憲法を制定することは必要不可欠であった。そのため、ドイツの憲法を参考に「大日本帝国憲法」を制定した。
 太平洋戦争後、日本を占領したアメリカ軍司令部の方針に基づき、憲法は大改正され、現在の「日本国憲法」が制定された。
 日本国憲法は、①国民主権、、②基本的人権の尊重、③戦争の放棄、④象徴天皇制、⑤法の下の平等、⑥三権分立、などを基本原理とする、民主的な憲法であり、多くの人権規定があるのが特徴である。
 憲法の大改正にともない、主要な法律の多くも日本国憲法の方針に沿うように改正された。とりわけ民法の家族法の部分は完全に差し替えられた。

民法

 
 市民の間での財産権の取引や家族関係について紛争が起きた場合の強制的な解決方法として民事裁判があるが、そこでの紛争解決の基準として定められたののが民法である。
 裁判は民法をはじめとする各種の私人間のための法律を適用して判決がなされるので、民法は裁判の規範として作用する。民法の内容が裁判の結果を左右する最大の基準であるから、市民は、民法の内容を知ることにより、仮に裁判になったときの結果が予想できるので、紛争により損害を被らないためにはどのような行動ををとればよいかがわかることになる、このような行動のための規範としても作用するのが民法である。
 日本の民法は、市民生活に密接な分野として、財産の取引に関する法律(財産法)と、家族関係に関する法律(家族法)を一つの法典に盛り込んでいる。
 財産法は、日本国憲法に規定された人権である「財産権の保障・法の下の平等」などを実現するために、①所有権絶対、②契約自由、③契約能力平等、などの原則に基づき、契約の方式・効果や、財産権の定義などについて700条を超える詳細な条文を有している。
 家族法は、家族間の相互扶養、相続財産をめぐるトラブルの防止などを目的として、結婚・離婚の条件、親族の範囲、相続の方式などについて、300条を超える条文を有している。

商法

 
 民法は、市民の経済生活や家族についてのトラブルを防止するための法律であるが、その内容は通常の一般人が日常行う契約などを念頭に置いている。
 しかし、商品の取引などを業として行う商人にとって、民法の規定は煩雑に感じられる部分がある。毎日大量に商品を仕入れたりする場合に、個々の商品についていちいち契約成立の確認をしていては業務に差し支えることもあるだろう。契約の成立や代金の支払い方法などにしても、取引の長い商人同士の間には暗黙の習慣があったり、業界独自のルールがある場合もある。
 商人の活動が活発になり、経済社会が発展することは国力の発展につながるので、国家にとっても望ましいことである。そこで、民法の規定よりも、商人が使いやすい特別の法律を用意しようということで制定されたのが「商法」である。
 商法が対象とする分野は、商人が商行為をする場合の規定のほか、大規模な商行為を実現するための団体である会社についての規定や、経済取引を円滑に行うためのツールである手形や小切手に関する規定、さらに企業活動のリスクを減らすための保険契約に関する規定など、多岐にわたっている。
 明治時代に商法が制定された時点では、「商法」という名称の法典に、上にあげた様々な分野についての規定が盛り込まれていたが、経済社会が発展し商法を取り巻く環境が変化するたびに、何度も大改正がなされており、現在では商法の他に会社法や手形法・小切手法などが独立した法律となっている。
 また、独占禁止法・証券取引法・銀行法など、商業活動に関する特別法を広くを含めて「商事法」とよぶこともある。最近はそれに加えて、株主総会の運営・債権回収・不動産取引・顧客対応・労務管理・社会保険などサラリーマンの日常業務に関する様々な法制度を広く含んで「ビジネス法」として取り扱うこともある。

刑法

 
 国民が国家に期待するもののなかで一番重要なのは国民の安全である。国の外からの脅威があればそれから国民を守り、国内に治安を乱すものがあればそれを排除することが国家の大事な役割といえるだろう。
 国内の治安を守るのに効果的なのは、犯罪を犯した者に刑罰を与えることをあらかじめ宣言しておくことである。刑罰を受けたくなければ犯罪をしないので、犯罪が減り、治安が高まることが期待できる。
そこで、どのような行為が犯罪となり、それにたいしてどのような刑罰が科されることになるのかを、法律として明らかにしておくというのが刑法という法律の第一の機能である。また、刑法に書かれていることが悪いことだという価値観が国民に浸透することで、社会の倫理文化を育てるという機能も期待できる。
 ところで、治安を守るための権力は、古来より国家の権力者の重要な統治手段だった。国防や治安のために整備された武力組織は、不当な理由で国民の生命や財産を侵害し、権力者の権力を強化する目的で使うことも可能だからである。近代以前の国家では、そのような国家権力による暴力が横行していた。市民革命後の国民主権のもとでは、国家は国民に奉仕する存在としてとらえられるようになったので、刑法が国家による国民への実力行使の基準として機能することになった。つまり、あらかじめ刑法に書かれていない行為は犯罪とはなりえず、また刑法に書かれていない刑罰を恣意的に科すことはできないとすることにより、国民に対する侵害行為を防止することも可能となった。これも刑法の重要な機能である。
 刑罰の規定は刑法だけでなく、様々な法律なかに条文が存在する。道路交通法・覚せい剤取締法・証券取引法など多くの法律に刑罰を規定した条文が存在する。そのような刑法以外で刑罰に関して規定した法律を「特別刑法」と呼ぶ。

民事訴訟法

 
 民法・商法などの民事法の分野の法律について、当事者の間で権利・義務をめぐって争いが起きた場合、権利を主張する者は、裁判所に対して判断を求めることができる。国民は、法的なトラブルを裁判所で解決してもらうことができ、裁判所では法に沿った判断がされるので、法律は守っておいたほうが結局は余計な手間がかからないということが予想でき、結果的に紛争の件数も減少し、社会が安定することが見込まれる。これは憲法に規定された「裁判を受ける権利」の具体化でもある。
 ただし、裁判がただ開かれるだけで、その内容が当事者にとって不公正なものであっては、国民は裁判の結果を受け入れないし、裁判を利用しないで多少乱暴でも自分の力で自分の権利を実現しようと考えてしまうだろう。
 たとえば、自分の関係する裁判がいつの間にかに開かれて判決がでていたとか、相手当事者が裁判官と妙に仲が良くてこちらの言い分は全く聞いてくれないとか、そのような裁判だとしたら誰も利用したくないだろう。
 そのようなことがないように、民事裁判を行うための手順やルール(これを手続という)を当事者や国民が納得できるように、詳細に規定しておく必要がある。それが民事訴訟法である。
 民事訴訟法では、裁判所への訴えの提起の仕方、当事者の呼び出し方、互いの主張の提出の方法、証拠の調べ方、判決の出し方など、裁判の進行に沿って、公正な裁判が実現できるような手続きの方法が規定されている。
 また、裁判で敗訴した当事者が、判決を無視して債務を履行しなかったりしたばあいも、やはり国民が自分で判決内容を実現するのではなく、裁判所が強制的に執行することになる。このような手続きを民事執行といいい、「民事執行法」に規定されている。
 さらに、債務を負いすぎて、どうにも返済ができない状態になったときには、債務者を奴隷にするわけにもいかず、債務を免除して再起のチャンスを与えなければならない。しかし、簡単に債務を免除してしまってはお金を貸した債権者はたまらないので、慎重に公平に審査をして、相当の理由があれば破産をみとめ、財産が残っていれば債権者で公平に分配する必要がある。そのよう手続きについても裁判所の役割であり、そのための法律が「倒産法」とよばれる法律である。これも民事訴訟法の一種である。

刑事訴訟法

 
 刑法で定義された犯罪と刑罰を被告人に適用するかどうかを判断する裁判とその準備段階の捜査の手順について定めている法律である。
 せっかく刑法を制定しても、裁判がいい加減に運用されていては国民は裁判や国家を嫌悪するようになってしまう。そこで、犯罪を犯した事実が本当にあるのか、刑罰を受ける責任があるのかを公正に判断する裁判が必要となる。また、いかに裁判が公正にされていても、捜査がいい加減では国民が迷惑する。
 なぜなら、刑罰の適用のためには、被告人が逃走しない様に拘束することが必要だからである。真実は裁判で明らかになるからといって、疑わしい者を安易に逮捕して裁判にかけた上でに無罪判決がでたとしても、裁判が終了するまでの間は拘置所に身体を拘束されることになる。したがって捜査方法についても人権を侵害しないような配慮が絶対に必要である。
 近代の日本を含めて、刑事裁判は権力者の権力維持のために恣意的に使われる例が多かった。その反省から日本国憲法にも、刑事裁判の運用手続きについての規定が10条にわたって直接規定されている(31条から40条)。
 刑事訴訟法は、それらの条文の趣旨をさらに詳細に規定し、刑事裁判の運用によって、人権侵害を防ぎつつ真実を明らかにし、刑罰を適正に適用することを目的としている。
 近年は、警察の捜査手法について様々な不祥事が発覚したり、無実で罪を着せられたり(えん罪)が話題となったり、裁判員制度が導入されたりと国民の関心も高まっている分野である。

法学の学習と六法全書


法令集としての六法

 明治初期には、重要な法律といえばこの六つしかなかったので、出版社が法律の条文を記載した書籍を発行した際に、この六つの法律全部が掲載されていることを表すために「六法全書」という名称を用いた。以後、法律が次々に制定されても、書籍の名称は六法全書のままだったので、次第に「六法」という言葉が「すべての法律」あるいは「法令集」を意味するようになった。
 現在、日本には約2000の法律があり、大型の法令集で約1000の法律を収録しているが、名称はやはり「六法」である。また、各業務分野に特化した法令集を出版する際にも、その分野で必要な法律をすべて収録したという意味で「○○六法」(「教育六法」とか「金融六法」など)という名称を使うことが多い。
 

法学の勉強

 私たちが法律というと、分厚い「六法全書」をイメージし、弁護士や裁判官などの法律家はあの六法をすべて暗記していると思いがちである。しかし、どんな法律家でもすべての法律を暗記している人はいない。法律がどのような仕組みになっているかを理解して、必要なときに必要な法律の条文を探し出して、目の前の問題を解決するためにどのように法律を使ったらいいかが大切なのであって、条文を丸暗記することは必要ない。
 ただ、法律がどんな仕組みになっているかを理解するにしても、ほとんどの法律は上にあげた六法のどれかと関連することが多いので、まずは六つの法律がどのような法律なのか、概要を知った上でさらに詳しい勉強に進んだ方が効率がよい。
 受講生の中には、公務員採用試験や教員採用試験で法学を履修しなければならない人も多いと思うが、いきなり試験の過去問題に飛びつくよりまえに、半年間我慢して六つの法律についての概要を頭に入れてほしい。そのうえで、それぞれ必要な法律の細かい知識について考えていくことにしよう。


六法(法令集)を買う・・・かな?

 宇都宮共和大学には法学部はないので、それほど詳しい六法は必要ない。
 まず、学習用六法で有名なのは、①有斐閣「ポケット六法」、②三省堂「デイリー六法」の二つである。いずれも価格は2000円弱で、厚さ4センチ、重さは800グラム以上ある。シャツポケットにはたぶん入らないし、とてもコンパクトには思えず、持ち歩く気にはならないと思う。
 そこで、値段と軽さを優先するなら、③信山社「法学六法」という六法がある。1.5センチと非常に薄くて、重さも300グラム程度である。ただし、条文がそのまま掲載されているだけなので条文を確認するだけなら十分だが、類似の規定が他の法律のどこにある、というようなガイドがついていない(上記の「ポケット・デイリー・コンパクト」には主要法律にガイドが付いている)のが難点といえば難点である。
 今年になって、岩波から、コンパクト六法からさらに法令を絞った④岩波「セレクト六法」が発売された。条文ガイドもあり、厚さもコンパクト六法の3分の2の約3センチ、重さ500グラム程度である。
 お勧めは、③か④、④「セレクト六法」はポピュラーな出版社なので、書店で入手しやすいかもしれない。

この講義の全体構造

次回から、六法にあげられた六つの法律ごとに、多少詳しく説明していくことにしよう。