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神代辰巳監督 |
神代辰巳は佐賀県の薬問屋の長男に生まれ、早稲田大学文学部を卒業後、1952(昭和27)年に松竹京都撮影所へ入社する。同期に蔵原惟繕・松尾昭典がいる。
1955(昭和30)年に日活助監督部へ移籍し、同年新人として入社した白鳥あかね氏と日活で同期となる。
主に斎藤武市監督のチーフとして、「渡り鳥シリーズ」などの助監督を努めた後、神代辰巳がデビューしたのは、1968年の『かぶりつき人生』でこの時すでに神代は映画界入りから16年目、41歳であった。 |
白鳥:斎藤(武市監督)さんはクマちゃんクマちゃんって、麻雀さそったりゴルフさそったりしてたけどクマさんゴルフなんか一向に巧くならないの。麻雀もいつも負けてて斎藤さんにむしりとられてた。
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クマさん当時、島崎雪子(註:女優。「七人の侍」など出演。)と結婚してたでしょ。
2人の愛の巣が田園調布にあって、もう超豪邸で、遊びに行ったら「僕ちゃん、僕ちゃん」て島崎が呼んでアツアツだった。
でもクマさんあたしにはよくこぼしてた。助監督だから「俺の給料より、運転手の給料の方が上だ」って。 |
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●ロマンポルノを止めた日活が、一般映画の第一弾として『噛む女』を制作したとき、助監督に新人の女性がついていました。まだ20代そこそこの彼女は神代さんの映画なんか見たことも無いような現代的なギャルでしたが、神代さんのことを「かっこいい、艶っぽい」と言っていました。「今晩つきあえ、って言われたらついてっちゃうと思う」とも。それを聞いてセットに見に行ったら単なる汚いおじさんにしか見えませんでした。神代さんは女優さんにモテたのは何故なんでしょう
白鳥:(笑)そうなのよ。クマさんはどこでもモテるのよ。
あれはねえ、私も身近にいて何故かって言われると分からなかったの。「なんで神代さんはモテるんですか」ってニューヨークの神代映画祭でも、外人から訊かれたの。ちょっと答えに困っちゃってね。
クマさんは自分から、あの娘を今晩なんとかしてやろうなんて人じゃないの。
女性の方から寄ってくるの。なんかね、オーラみたいのを発してるのね。女性がふらっとなるような。パキさん(藤田敏八)もそうだったけどクマさんの方がそのオーラが強かった。仕事で夢中の時でもかっこよかったし、どんなときにってことじゃなくっていつだってそうだった。
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クマさんが亡くなったとき、私がかけつけたときはもう病室から出されて廊下についたてがしてあってそこでストレッチャ−の上に寝かされてた。
顔にかかった白い布切れとったら、すっごい綺麗な顔してるの。
それまではずうっと、呼吸のパイプして不精髭のばしてたでしょ。それがパイプ外してもらって、髭も看護婦さん剃ってくれてて。
亡くなった顔見て、「えっ、クマさんってこんなにハンサムだったんだ」って思ったのね。
そのことをお通夜のとき桃井かおりに言ったのね。若い時からずうっとあれだけ一緒にいて仕事してて、死ぬまでクマさんと男女の中はなんとも無かったのを、そのときはちょっと残念に思ったって。
そしたら桃井かおりが、
「ばっかねえ、そんなこと自慢にもなんないわよ」って(笑)。
じゃああんたはなんなのよって、むっとして言いそうになったけど、お通夜の席で女の争いもなんだから黙ってたけど(笑)。
『噛む女』桃井かおり |
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●神代監督は、出世が遅れてようやく『かぶりつき人生』でデビューしますが、会社に不評で興行的にも振るわず役4年間干されることになります。
そしてロマンポルノの土壌で見事開花することになりますが、当時ロマンポルノはどのように始まったのでしょう。
白鳥:ある日召集がかかったの。社員全員に。
私が入ったときはもう文芸路線が頭打ちで、裕次郎や旭で盛り返したアクション路線が
しばらくは全盛だったんだけど、それでも60年代の終わりには飽きられてダメになっていったの。
このままでは会社が潰れるからポルノをやるって言われたの。
ついて行けない人は辞めるしかない。ロマンポルノ始めるに当たって希望退職を募ってたわね。退職金割増で。
あんなものは映画じゃないって、誇り高き映画人たちは殆ど辞めていった。
ことに他の会社から来た人たちは殆ど辞めていった。斎藤武市さんも、
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「これから映画は歌舞伎のようになる。
本当に好きな人間だけがやるものになる。無くなりはしないが文化として生き残って、細々と愛好者がやるようなものになる。俺はテレビへ行く。お前くらい食わせてやるから一緒に来い」
って言われたの。
神代監督・白鳥氏の師匠、斎藤武市監督。 |
その前に日活が「青い山脈」なんかをテレビでやっててあたしもやってたの。日活がやってたTVでもやっぱり安かろう悪かろうで、私はノレなくて不満があったのね。
それで斎藤さんに、「お言葉はありがたいんですが、申し訳ありません。ポルノがどんなものかは分かりませんけれど、映画に残ります」って断ったの。
クマさんと相談はしなかったけど、やっぱりTVが好きじゃなかったのね、晩年は何本かやったけど。クマさんも残った。でもクマさん内心はチャンスと思ってたのかもしれない。
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遅れたデビュー作『かぶりつき人生』現場での神代監督
あたしはポルノなるものに漠然と怖れを抱いてはいたの。
一応女性だから(笑)。
そりゃあ、今とは違いますから。
そこで辞める人間と残る人間が別れて、残った人間も助監督はプロデューサーになる人間と監督になる人間とに分けられた。
助監督だった岡田裕(『女地獄・森は濡れた』『女教師』『桃尻娘』他プロデュース)がプロデューサーになって、彼は予告編とか作るのがすごく上手だったから、驚いてなんで監督にならないんだって訊いたの。
彼が言うには、「監督はかなりファナティックなものを持ってないと出来ない。自分にはそれが無い」って。そうやって本人の意思を尊重した上でね。
社員一同試写室に集まれ、全員参加せよ、って召集がかかったの。
それで行ったらもう、満員で溢れてるの。
そこで西村昭五郎監督のロマンポルノ第一作『団地妻 昼下がりの情事』の試写が始まった。
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撮影所が騒然となった!ロマンポルノ第1作『団地妻・昼下がりの情事』
ロマンポルノを日活が始めるってなった時に、嬉々としてやったのが西村昭五郎。それまでの監督は殆ど辞めて、残った人も名前変えたりしてみんないやいややってた。
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でも西村さんは生き生きとやってた。ピンクから白川和子呼んできてさっさと『団地妻』撮っちゃった。それで集められてこれがロマンポルノだ、これからこれをやるんだって観せられた。
嬉嬉として撮っていた!恐るべし西村昭五郎監督 |
もう、凄いショック!。
ピンクなんか観たこともなかったし、ポルノなんて始めて観たから、もうすっごいショックでね。
でも、「映画に残ります!」ってタンカ切っちゃった後だから(笑)、もう後の祭。
観てからだったらまた違ったかも分からないけど。しょうがないわいと、ヤケっぱちでね。
●白鳥さんは、お父さんが芥川龍之介の弟子で売春防止法の運動をしていた厳しい家庭の、いわばお嬢さんだったと
のことですが…。
白鳥:そう、家は厳しい家なのよ(笑)。ただ、家では一切そんな話はしなかった。
私、その時はもう結婚してたの。日活入って2年後にはもう結婚してたの。(お相手は白鳥信一氏。白鳥氏は先年逝去されました。ご冥福をお祈りいたします。)
白鳥はもうTVを監督したりしてたけど、夫婦で話し合った憶えもないのね。結局夫婦して残った。でも、ロマンポルノの道を選んでよかったと思う。
映画人生においてねロマンポルノは本当に大きな価値をもってる。
クマさんはじめロマンポルノで出会った人たちにしても、それから実際にやったことにしても。
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デビュー作『かぶりつき人生』で神代監督はストリッパーを描いた。ロマポを予見? |
日活って会社はメジャーの映画会社の中でも近代的な会社だから、「いい子ちゃん」の映画だったのね。
ロケーションはからっと晴れてなきゃいけない、ストーリーにしても裕次郎は死んじゃいけない。
映画つくりにいろんな制限があったの。決まりが。
(小林)旭の映画は比較的なかったけど、それでも死んじゃうとシリーズにならないから(笑)、(浅丘)ルリ子にバイバイって去っていく。 |
それはそれで楽しかったんだけれど、ロマンポルノは違ったの。
私、よくクマさんに「予定調和じゃつまらん。予定調和を破れ。」って言われた。
なにかホンのことなんかでくだらないこと言うと、
「なんだくだらん、予定調和じゃないか」って。
「モノを作る可能性は無限にあるんだ」って。
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『かぶりつき人生』現場での神代監督(右)
次回は「神代組の現場で何が起こったか!」です。
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