●白鳥さんはそもそもどうして映画の記録をやるようになったんですか?
白鳥:もともとは演劇少女だったの。
早稲田では仏文だったんだけど、大隈講堂の舞台踏んだりもしてたのね。白鳥座とかみたいな大きなとこじゃなくって、仲間と劇団やってたの。
その中の友人に猛烈な映画好きがいたのね。なんとなくその彼に誘われて映画館にいくようになって興味をもったの。就職難の時代で卒業する時に新聞社とか落っこっちゃってね。
私の父は芥川龍之介の弟子だった人なんだけど、売春防止法を作ったりしたから新藤兼人さんが以前父のところに取材に来たことがあったのね。
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父はリベラルな人でスクリプターという女性の仕事があるらしいと、新藤さんの所に入ってみたらどうだって紹介する形で、新藤さんのプロダクションに行ったのね。
それで新藤さんの『狼』という作品で修行させてもらうことになった。 |
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中尾さんというスクリプターにすでに1人見習いがついていて、私はその見習いの見習いでついたの。
新藤さんが中尾さんをとっても信頼していて、2人が話しているのを見て憧れるようにしていました。中尾さんはめちゃめちゃ怖い人で殆ど私なんか口もきけない。
じっさいに記録の仕事を教えてくれたのは一番弟子の前畑詠子さん、後にドキュメンタリーの監督になってカンヌで短編の賞をとった方。右も左も分からない心細い中で親切に教えていただいて、私の恩人ですね。
独立プロだからお金がないんだけど、みんな面倒見がよくって優しくってね。乙羽信子さんにかわいがってもらってね、差し入れなんかあるとは私なんか走り使いみたいなもんだからじっとしてると、
「あかねちゃん食べなさい」って乙羽さんが言ってくれ
るのね。
終わったら中尾さんに「独立プロではあなたを養えないから日活へ行きなさい」って言われたの。それで京都大映から日活に引き抜かれて、日活の記録部を作った秋山みよさんに橋渡ししてくれたんですね。
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『人生とんぼ返り』(S30)スナップ。ハンチングのマキノ雅弘監督の右隣が見習いの白鳥氏。その右が白鳥氏の師匠・秋山みよ。手前に山田五十鈴。 |
それで昭和30年に日活に入った。前年29年に日活が再開して第一期生の助監督募集があって、松竹の西河克己さんが呼ばれて仕切って試験した。それで入ったのが、浦山桐郎・西村昭五郎・武田一成・藤浦敦・白鳥信一・鍛冶昇とかの一期生たち。
彼らが後に初期のロマンポルノを作っていく人材。
松竹システムではスクリプト(記録)を助監督がとるんですよ。西河さんが松竹から助監督の今村昌平とか鈴木清順とか斎藤武市とかを呼んだから始めは助監督にスクリプトをとらせようとした。
助監督時代に中平康が新入りの浦山桐郎の上について、浦山にスクリプトをとらせたらもう全然出来ないのね。いつまでたっても出来なくて、
出来るまでは飯を食わせないって苛めて、挙句の果てには浦山桐郎を池に投げこんだって話がある(笑)。
やっぱり日活では記録部をつくろうってことになって京都から秋山みよさんが呼ばれたの。あの人は京都の撮影所で「京都の女帝」って呼ばれてた。そんな人。
また秋山さんもむちゃくちゃ怖い人なんだけど、私はなぜか可愛がられて殆ど怒られなかった。回りから「7不思議だ」って言われたくらい。怖い人だけど。
●当時はアクションの時代ですか?
白鳥:まだ文芸路線。『ビルマの竪琴』とか『警察日記』とか。内田吐夢さんとかが文芸大作撮ってた。
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昭和29年に日活が再開して派手に打ち上げてやってたんだけど、ものの1年も経たないうちに左前になって、アクションになっていくの。私が入った時はその文芸路線はもう傾いてた。入って2本目にマキノ雅弘さんの「殺陣師段平」ものに秋山さんの見習いでつきました
(タイトル『人生とんぼ返り』写真)。森繁久弥、山田五十鈴、左幸子が出てました。 |
マキノさん、左幸子(写真左)さんの芝居が気に食わないのね。
どうするんだろなと思ってると、マキノさんが自分で全部やってみせるのね。女形の動きよね。シナつくってね。で、そっくるそのまま左幸子が真似するとOKになるの。そっくりになるまでNGなの。
この間30年ぶり位にみたら、左幸子がマキノさん生き写しだから笑っちゃったわね。マキノさんの顔が左幸子になってるだけだから。
マキノさん口立てで毎日本を直すのね。朝来るとまず秋山さん呼んで口立てで脚本の直しを言っていくのを秋山さんが書きとっていく。それを私が清書して俳優さんに配るのね。秋山さんの字が読めないのに困ってねえ、聞くに聞けなくて
(笑)。
マキノさんが可愛がってくれて、当時住んでる方向が同じ方だったの。「乗って行きなさい」って帰りに毎日車に載せてくれるの。
師匠が気を利かせて乗って行きなさいっていうから、乗っていくんだけど、毎日梅ヶ丘の澤村國太郎さん(南田洋子のお父さん)のところに寄るの。
そこにいる間ずうっとそこらで待ってるの。電車で帰ったほうが方がよっぽど早い(笑)。
手前左に日本映画の父・マキノ雅弘監督。左に森繁久弥、その左で懸命に聞き耳をたてる白鳥氏。 |
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でもまたマキノ先生が「乗っていきなさい」っておっしゃられるとまた乗っていかざるをえない(笑)。
それで段々日活が傾いてきて、いよいよヤバイっていうことになった時、水の絵滝子さんが裕次郎を見つけてきたの。それで日活アクションが大ヒットして持ち直すのね。
●その頃、後にロマンポルノで活躍する神代辰巳監督が助監督で一緒に働かれています。神代さんは助監督時代どんな助監督だったんですか?
白鳥:もう誠に人のいい、スタッフから愛される助監督だった。
愛される分だけ、どこか頼りないところがあったのね(笑)。
松竹で小津門下だった斎藤武市さんのチーフが多くて、斎藤武市さんには可愛がられてた。私もずっと斎藤組だったから一緒で。
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斉藤武市組『ろくでなし稼業』日活撮影所でのスナップ。前列中央ハンチングの斉藤監督、前列右から3人目にチーフ助監督の神代辰巳。後列左から5人目に白鳥氏。
方向音痴でね。ロケハンに行くでしょ、その後で本隊をバスの先頭に乗って現場に連れて行くのが助監督の役目。
斎藤組の『白い悪魔』って森雅之と野添ひとみがちょっと近親相姦っぽい映画のチーフをクマさん(神代辰巳)やってて、北海道ロケで春のシーンを撮るんで雪よけしなきゃいけない。3台くらい消防車呼んで、ホースで溶かす為にねいい時代だったからそれくらい呼んで、クマさんが先頭で本隊と消防隊を引っ張って行くんだけど、行けども行けども分からないの。
散々もたついた末に、クマさん車止めて、「着きました。ここです、間違いありません」っていって、それーって雪よけ始めたの。でも監督とかいないのよ。全然違う所なの。そこで一所懸命春の情景作ってる。当時携帯なんか無いから連絡つかないで、延々向こうは向こうで待てど暮らせど来ない。まだ来ないかまだ来ないかっていらいらしてる。
クマさん目の玉が飛び出るほど斎藤さんに怒られてた(笑)。
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斉藤組『白銀城の対決』現場スナップより見つかった、助監督の神代辰巳。 |
まあそれが笑い話で済むんだから、余裕のあるいい時代だったのね。
そんな要領の悪い助監督だったの、クマさんは。それが出世が遅れた原因かもしれない。
次回は、ロマンポルノが生まれた日の日活撮影所のお話から、神代監督の製作現場のお話が詳細に語られます。
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