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皇居遷都提唱運動(こうきょせんと ていしょううんどう)とは戦後南朝正統の皇胤であると主張した愛知県
豊川市の三浦芳聖がが、三浦独自の哲学である地文学(串呂・串呂哲学・神風串呂)
の解釈に基づき、東京都千代田区の皇居の位置が国家の象徴たる天皇の住居として相応しくないとして、
皇居遷都を提唱し、1955年(昭和30年)1月から1959年(昭和34年)6月まで、文書により政府当局者や
国会議員等に呼びかけた運動のことである。
(1)皇居遷都提唱運動概要
皇居遷都提唱運動は、1955年(昭和30年)1月より開始され、1959年(昭和34年)6月の皇居造営審議会
の答申に基づき新宮殿の造営地が、千代田区の皇居内に決定されるまでの足掛け5年間に、三浦芳聖が
私財を投じて、衆参両院議員全員に9回、皇居造営審議会長大野伴睦氏へ9回、政府及び宮内庁に各69
回にわたって進言書を送り続けて実施された運動である。
1960年(昭和35年)5月発行の『皇居遷都提唱理由書』〔『開鏡(天之岩戸開き)の神風串呂』附録〕を見る
と、皇居遷都提唱運動の趣旨は次のように述べられています。〔 〕内は編集者。
「我国肇国以来未曽有の敗戦国辱は、皇室も国民も斉しく大反省をして、依って爰〔ここ〕に至った因由を
窮明し日本国再建に当りては万全の対策を講ずべきだと存じます。
私は敗戦以来現在に至る迄あらゆる角度より検討致しまして、国の象徴たる天皇の皇居の位置が、三浦
家極秘伝の神風串呂地文の上より見て極めて不適格なるに因由することを痛感し、極秘裏に皇居の遷都
を提唱して参りましたが、一向に取上げてくれませんから、余儀なく爰に国民の代表たる衆参両院議員諸
賢の良識に訴えて先づ日本国再建に当っては憲法改正よりも皇居遷都が先決問題である事を提唱致しま
す。
京都の御所は、日本の歴史を学んだ者なら何人も知る如く、逆賊足利の一類が神皇正統の天皇を追放し
て、勝手に自ら擁立せし天皇のために造営せし御所でありまして、天地神明はこれを護持し給わず、幾年
を経ずして世は刈菰〔かりごも〕の如くに乱れに乱れ、凡そ百有余年が間戦国乱麻の世を現出し、織田豊
臣徳川の三傑出でて漸く鎮定され、徳川幕府によって凡そ二百六十年の太平を来たしましたが、此間一
般国民の脳裏からは皇室の存在は殆んど忘却されていました。
然るに薩長土肥をはじめ諸藩の幕末勤王の志士によって尊王倒幕が唱導され、遂にこれが時代思潮と
なって倒幕が実現し、王統の中より明治天皇を擁立し奉って王政復古(皇政復古に非ず)明治御維新を
迎えたが、皇居は足利逆賊の築造せしものより徳川幕府十五代に渉る将軍の居城たりし世界歴史にも
稀なる独裁専制の封建政治の行われたる江戸城へ遷都されました。
西郷南州の如き国家の柱石が逆賊として葬らるるが如き不祥事は、幾多続出致しましたが、とにかく明
治天皇御一代は建武中興の英主後醍醐天皇御再現とも称えまつる御聖徳により国運の隆昌を致しま
した。然るに大正天皇には摂政を必要とする程の御不例に渉らせられ、今上天皇に至っては肇国以来
未曾有の敗戦被占領国の大国辱を蒙るに至りました。
憲法は千古不磨の大聖典といわれたる大日本帝国憲法あり、教育は古今に通じて謬〔あやま〕らず中
外に施して悖〔もと〕らざる教育勅語あり、陸海軍は全世界に絶対比類なき軍人勅諭を以て律せられ、
総てが万邦に冠絶せると自負せられていた大日本帝国は、明治天皇崩後三十三年にして壊滅して世
界の劣等国民に転落したのは一体何の為でありましょう。理由はいろいろありましょうが、我が日本民
族は肇国以来二千有余年、皇室を中心に国家を構成して来た民族であります。此の御住居が、天地
神明の昭示し給う神風串呂上よりお調べして、皇居として極めて不適格なるに因由するものと確信致し
ます。
今日迄に秘かに此の事を要路の方に訴えて来ましたが、全然取上げて頂けませんから、皇室を中心
に考えている私としましては、何としても認識して頂くために、左に現皇居及京都御所に対しまして、
皇大神宮、橿原神宮、多賀大社、公文、御正体山の五方面より串呂致しまして地文を掲げ御参考と
致します。〔後略〕」(注1)
この『皇居遷都提唱理由書』に「国の象徴たる天皇の皇居の位置が神風串呂地文の上より見て極め
て不適格」とありますが、皇居の串呂の解明は、1940年(昭和15年)7月に起きた三宅島雄山の爆発
があったときに始まるという。
このとき三浦芳聖は、たまたま軽井沢の近衛家の別荘で近衛文麿から東洋平和の方策について意見
を求められ面会中(註2)であった。軽井沢に配られた「三宅島雄山爆発の号外新聞」を見て「大戦の勃発
を直感し」、五万分一の地図(註3)を買い求めて貰って、「三宅島雄山」(東京都三宅村)と「大戦防」(茨城
県結城市)を串呂に掛けたとき南方から、
「三宅島雄山」(東京都三宅村)−「池田」(神奈川県三浦市南下浦町松輪)−「
大作」(神奈川県横須賀市)「池田町」(神奈川県横須賀市)−「昭和町
」(神奈川県川崎市川崎区)−「皇居」(東京都千代田区)−「庄和」(埼玉県春日部
市金崎)−「大戦防」(茨城県結城市)−「逆面」(栃木県宇都宮市)
*各地文の地図は脚注を参照下さい。地文のみを掲げると、
「雄山」−「池田」−「大作」−「池田町」−「昭和町」−「皇居」−「庄和」−「大戦防」−「逆面」
と串呂し、
「昭和の御代、大戦防の逆面(大戦)が勃発する」と解明されたので、直ちに近衛公に「皇居遷都」を進言
したのが「皇居遷都提唱運動」の発端になったということです。もちろん近衛公は、直ちに「それは絶対に
不可能の事です」と断固として否定されたそうです。(註4)
(2)運動の提唱理由
『皇居遷都提唱理由書』を見ると、 皇大神宮、橿原神宮、多賀大社、御正体山、広島県御調郡御調町の
公文(現在、尾道市御調町)、の5点の重要串呂起点と昭和天皇の皇居(東京都千代田区)とを結んだ
串呂および串呂図が掲載され、「皇大神宮と皇居との串呂」では「狸穴」(静岡県浜松市北区)、「橿原
神宮と皇居との串呂」では「田貫」(愛知県西尾市)が好ましくない地名として取上げられています。
また、皇居遷都提唱運動中の1958年(昭和33年)4月17日、奈良県御所市御所町の奈良県立御所
高等学校(現奈良県立青翔高等学校)で火災が発生したため、この火災現場の御所市御所町の「御
所高校」と「皇居」(東京都千代田区)とを結んで解明された串呂が増補頁に掲載されていて、その串
呂線上には、「田貫沼」(現静岡県富士宮市の田貫湖)が通ると記載されている。
三浦芳聖の神風串呂の解釈によると、田貫(たぬき)とは、狸(たぬき)の諺文(おんぶん=同音による
隠語)で、狸(たぬき)は、「人をだますもの(たぬき寝入り・たぬきおやじ)、化けて人をたぶらかすも
の(カチカチ山)」の象徴であり「虚偽・詐欺・詐称」等の意味を表すという。こうした解釈から「皇居の
位置が神風串呂地文の上より見て極めて不適格」と断定し、皇居遷都提唱運動が実施されたのである。
『裏切られた三人の天皇−明治維新
の謎』(鹿島昇)
『二人で一人の明治天皇』(松重楊江)
『日本史のタブーに挑んだ男−鹿島昇ーその業績と生涯 』(松重楊江)
『日本のいちばん醜い日』
(鬼塚英昭)
『原爆の秘密(国内
篇)−昭和天皇は知っていた』(鬼塚英昭)
『天皇のロザリオ』( 鬼塚英昭 )
『天皇の金塊』(高橋五郎)
『天皇の金塊とヒロシマ原
爆』(高橋五郎)
『ヒトラーの秘密銀行』(アダム・レボー)
『天皇の陰謀』(ディヴィッド・バーガミニ)
等の文献を拝見すると、三浦芳聖が解明した串呂の解釈が、いかに的確なものであったかが、ようやく
判明しつつあるようだ。
脚注一覧
(1) 三浦芳聖著『皇居遷都提唱理由書』より冒頭部分を抜粋
(2)三浦芳聖は、1940年(昭和15年)7月、元企画院総裁滝正雄に呼び出され、軽井沢の近衛家
の別荘で近衛文麿から東洋平和の方策について意見を求められ面会中であった。三宅島雄山は、
7月12日午後7時30分に爆発した。その時、近衛文麿公の前で「三宅島雄山」と「大戦防」を串呂に
掛けて「大戦防」−「逆面」の串呂を解明した。
(3)国土地理院発行の方角の正しい地形図
(4)三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』(序文59〜61頁)
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