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満州は日本の侵略ではない / 渡部昇一

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日本の対中外交を糺す! 満州は日本の侵略ではない 渡部昇一上智大学名誉教授  天下の名著『紫禁城の黄昏』  戦後日本における中国の問題は、満洲国にたいする見方、すなわち「満洲国は日本が中国を侵略してつくった」という見方ですが、そこに端を発していると思います。  そもそも日本の国際連盟脱退も満洲問題が原因です。満洲問題自体が起こったのは、国際連盟が満洲国という国を理解できなかったことによるものであり、とくにアメリカは理解しようとさえもしませんでした。イギリス人であるリットン卿は理解できないまでも、満洲事変は侵略とは簡単に言えないと言っているんです。  アメリカなどは、日本がシナを侵略しているという立場をとりましたが、満洲に関していちばん正しい見方をしていたのは、イギリス人のレジナルド・ジョンストン卿です。彼は溥儀の教師であり、のちに香港大学の教授やロンドン大学の東方研究所所長にもなった人物で、当時第一級のシナ学者です。  清朝にずっと仕えていたので、内部事情にも非常に精通していました。満洲国建国の経緯や溥儀自身の意思も彼はよく知っていました。ですから溥儀が父祖の地である満洲に戻って、そこの皇帝になったことをとても喜んだ。そうして『紫禁城の黄昏』という天下の名著を書いたんです。  この本は東京裁判のときに、日本の弁護団が証拠として使おうと、証拠物件申請をしたんですが却下されました。理由は至極簡単で、この本がジョンストンという学者であり第一級の証言者が著した、ウソ偽りのない資料であるゆえに、証拠採用してしまえば東京裁判自体が成り立たないからです。  『紫禁城の黄昏』は戦後長らく世界中で再出版されませんでした。映画「ラスト・エンペラー」がヒットしたので、岩波書店が岩波文庫として刊行したのです。  ところが、この文庫ではシナという国のあり方を説明した一章から十章までがまったく削除されて十一章からはじまっている。しかも序文でも満洲国に関係ある人物が登場すると、一行でも二行でも虫が喰ったように削除するという、信じられないことをやっている。  満洲のことを中国東北部と称するのは、中国政府の侵略史観のあらわれです。満洲国は、満洲という土地に、満洲族一番の直系の王族が戻ってきて建てた国です。満洲というのは万里の長城の北にあります。それは、万里の長城から北はシナでないという意味なんです。そのことを考えずに、満洲は中国の一部だというのは、チベットや新疆が中国だというのと同じ思想で、シナ人の単なる侵略思想です。  満洲は明らかに清朝政府(満洲民族の帝国)の復活です。満洲人の満洲人による満洲人のための満洲国を作りたかったんだけれども、それをやる能力がないから日本が内面指導したんです。大臣はすべて満洲人か、清朝の遺臣でした。首相だった張景恵は、戦後もずっと日本にたいして友好的な態度をとっていました。  残念ながら、いま満洲族には国家を再建するほどの人間は残っていないでしょう。日本人もせっかく国をつくるのを手助けしたのにと、残念に思っていい。香山健一氏(学習院大学教授=故人)から聞きましたが、満洲人はいまでも涙を流すそうです。「われわれにも自分たちの国があったんだ」と。しかしもう戻らないでしょう。満洲国の血筋は消されてしまったわけですから。これこそ一種の民族浄化です。  今後、日本人、とくに政治家のような中国関連の仕事をやる人たちは、満洲国は日本が侵略したのではなかった、という認識をまずもって持たなくてはならないと私は思います。シナ人にたいする罪悪感を抱えたままでは、いつまで経っても何も変わりません。  歪んだ中国観の元凶  満洲に関してこういう見方がはびこった理由は大きくふたつあります。  ひとつは、戦後の保守派の主要な論客である、林健太郎氏(元東大学長=故人)、猪木正道氏(元京都大学教授、元防衛大学長)の影響が大きかった。このお二人は、戦後は保守的正論の尊敬すべきリーダーでありましたが、青春時代に共産党あるいは左翼勢力の思想・歴史観の影響を受けていて、満洲国の話になると、とたんに「それは日本の侵略だ」という、当時の日本やシナの共産党の見解からなかなか脱却できませんでした。  しかもこのお二人は保守論壇の大御所として保守政党の幹部たちの尊敬を集めていました。その二人が「満洲は日本の侵略だ」と言っていたのですから影響は大きかった。  もうひとつは、シナ事変(日華事変)は日本が仕掛けたと思わされたことです。シナ事変の発端となった盧溝橋事件は、冷静に考えれば日本から発砲するわけはない。  当時大本営の参謀本部第一部長は石原莞爾でした。彼はシナと戦うことには終始絶対反対だった。彼にとって、陸軍の敵はソ連以外には考えられない。彼はシナ事変最中の講演のパンフレットのなかで、シナというのはナポレオンにとってのスペインみたいなものだから、手を出すなという趣旨のことを言っています。  日本は武力衝突する姿勢はなかったし、シナ軍(国民政府軍)もそういう日本の姿勢を認識していた。実際には、国民政府軍に紛れ込んだ共産軍の潜入兵士が撃った。この事件は中国共産党が仕組んだワナであることが認められております。  が、現地で停戦が成立した後に通州事件が起こり、(第二次)上海事変も起こった。この上海事変もシナ側が仕掛けたものです。いったん戦争が始まってしまえばあとは戦争の論理で事態は進みます。当時の日本軍は強かったですから、あっという間に南京も占領してしまった。  占領した時点で、参謀次長の多田駿(参謀総長は閑院宮殿下であったから実質上の参謀総長)が、南京で止めなきゃダメだと言うんですが、近衛首相は止めなかった。彼が「蒋介石(国民政府)を相手にせず」なんて言ってしまったから、シナ事変は泥沼にはまってしまった。  シナ事変というのは日本がはじめたかのように思わされてきました。ところが東京裁判でも、シナ事変の開戦責任を日本に問うことはできませんでした。問おうとして失敗した。開戦の真実なんて調査すればすぐわかりますから。しかしその事実は、戦後ほとんどの日本人の知識として定着していません。  シナ事変がはじまったこと、そしてそれが終わらなかったことは、まったくもって痛恨事でした。われわれが出征兵士を送る時に歌った陸軍の歌でも、「凱旋」の部分は歌わされず、「いつ歌えるのかな」といらいらしたことを覚えています。  そしてそのことがいつの間にか、シナにたいして悪いことをしたという贖罪意識にすりかわってしまったのです。そこには、意図的にすりかえようとした勢力があったことも確かです。   これらふたつのことが日本が戦後の中国問題を見誤っている根本です。  そういった歪んだ中国観がなぜ修正されてこなかったか。三つの要因があります。一つには戦後の占領政策。  アメリカが押しつけた占領政策のひとつに、シナ人の悪口を言ってはいけないというのがありました。  だから、一時、戦後ジャーナリズムの特徴のひとつとして、何かにつけて「そんなことを言ってもいいんでしょうか」と確認するという風景が見られました。  戦前は皇室関係以外はそんなことはなかったんですが、戦後はやたらと言論に関する禁止条項があって、それに引っ掛かると悪ければ戦犯扱いされたり、公職追放令で罰せられました。  それから外務省。外務省の幹部も、とくにチャイナスクールを中心に、日本はシナ人に酷いことをしたんだから、何を言われても聞いてあげなければならないと、はっきり言っている。  東シナ海の海洋資源問題はようやくいまごろになって問題化していますが、この問題は昔から杏林大学の平松茂雄教授が指摘していたことです。外務省の弱腰が、地図まで改竄して尖閣列島を中国領土だと主張したり、中国石油開発会社が日中中間線を越えて鉱区を設定したりというような今日の中国の無法を招いたのです。  そしてマスコミ、とくに新聞、何と言っても朝日新聞と岩波書店の責任は重大です。この二社の中国に対する卑屈なまでの報道姿勢が戦後、日本人の中国観を大きく歪めてしまったのです。  携帯とITで中国は崩壊する  第一次近衛内閣で大蔵大臣を務めた賀屋興宣(戦後、法務大臣)という人が、戦前のシナについて、戦後になってからこんなふうに書いています。シナというのは、四億の民がいるから日本と商売が成り立つかと思ったら、民衆が貧しすぎて成り立たない。地味豊かな国だといわれていたが、じつはあの国には何にもないんだと。  戦後になって、中国では「大躍進」「文化大革命」、そして最近の「大発展」と次々つづいていきますが、その姿を見ていると、いつ転ぶかわからない感じがします。北京オリンピックまでもたないんじゃないかという人すら出てきている。  その理由はいくつか考えられるのですが、例えば長谷川慶太郎氏も指摘するように、携帯電話の存在です。中国では携帯電話は二億人以上が持っています。この携帯電話の普及によって、共産党が情報を統制できなくなっていると言われています。というのも、誰か一人がある情報をつかんで、それを携帯電話に流せば、その情報はたちまち人びとが知ってしまう可能性がでてきたわけです。  今年中国で行われたサッカーのアジアカップ決勝戦のさいの話です。中国人サポーターたちの「反日」的な行動を、当局は厳重に取り締まろうとしたにもかかわらず、結果として彼らを押さえ切れませんでした。  なぜか。それは「スタジアムにいる警官たちのピストルには、今日は実弾を入れないように上から指示がでている」という情報が、携帯電話を通じてサポーターたちに一斉に流れたというのです。今日の警官は怖くないぞ、と彼らは思ったに違いありません。  共産党というのは、国民にたいして情報管理を行っています。しかしこの話は、共産党が情報を管理できなくなりつつあるという端的な例ではないでしょうか。東欧は衛星テレビで崩壊しました。その伝で中国は携帯とITとで崩壊する、しかも極端に進行すれば北京オリンピックまでもたないと、悲観論者は指摘しています。  アメリカと組んで中国と付き合うべし  これから中国と付き合うときには、日本だけで中国と付き合わないことです。全部アメリカと組みながら、あの国と付き合っていけばいい。  中国という国は良心の呵責なくウソをつく国です。ところが日本はそれに対抗するための言語空間を持っていません。しかし、アメリカと組んでおけば、中国に誤魔化されたときにも、アメリカも一緒に誤魔化されているわけですから、彼らが英語で強気で文句を言ってくれる。  満洲国への誤解からはじまり、間違った方向へと日本人のシナ観が作られていきましたが、その過程でいちばん問題だったことは、アメリカを巻き込まなかったことなんです。アメリカにも儲けさせることを考えるべきでした。どの道、日本は資本が足りなかったんですから。  さらに遡れば、日露戦争の直後にアメリカの鉄道王ハリマンが満洲で満鉄を日米共同経営したいと言ってきたのに、結局それを反故にしてしまったことがありました。井上馨や伊藤博文、渋沢栄一といった維新の苦労人たちはみな承諾したんですが、小村寿太郎が強硬に反対して予備契約を破棄させてしまった。小村は愛国者ですからそれを責める気はありませんが、大学の秀才というのは維新の志士よりはスケールが小さい。  維新の志士は視野が広くて、日本の国力がどれほどのものかよく知っていました。私は井上馨を非常に高く買っているんです。彼は幕末のころイギリスに行き、日本とイギリスの国力の落差の大きさというものをよく知っていた。伊藤も渋沢もそうです。  日露戦争には一応勝ったけれど、あの時点でロシアの大軍は北満洲に駐留しているわけです。そんな危険極まりないところで、日本単独で鉄道経営なんてできない。だからアメリカを巻き込めば安心だと彼らは考えていた。  あのときからアメリカと組んでいれば万全だったわけですが、その後の日本は満洲事変の後でも日本の財閥さえも鉄道経営には関与させないほど偏狭でしたから、いわんやアメリカの資本をやです。そんな視野の広さはなかった。国内的には、アメリカ抜きでも日本だけで充分にやれると主張する方が支持されるんです。  アメリカの大資本家を巻き込んでおけば、彼らは一朝事あれば自国の政治家を容易に動かすわけです。  いま、日本の言語空間は世界にないんだと悟って、重要なことはみなアメリカと同調してやるしかないでしょう。  ですから、対中国外交に限らず、外交は小泉政権方式、つまり対米協調外交が正しいのです。「追従」と言われてもかまわない。これしかない。対米協調したことで、日本はどれだけ得したかわかりません。  私は「日本=藤堂高虎論」と言っているんです。日本は藤堂高虎であるべきだと思う。彼はもともと豊臣家で徳川家にとっては外様大名です。ですが、家康配下で最高の股肱の臣になって、本多忠勝や酒井忠次よりも高い石高をもらうまでになりました。  日本はアメリカにとって譜代大名じゃありませんから、弱い立場なんです。外様なんです。フランスは何だかんだ言って譜代なんです。なぜならフランスが支援してくれなかったら、アメリカは独立を果たせなかったわけですから。そんなことは両国とも知っています。  物事が正しいか正しくないかというのは、自分の人生観で変わるものです。ですが国家の場合は違う。国の場合は、日本国にとって何が得になるかということを考えなくてはなりません。ブッシュ政権の悪口なんかいくらでも言えます。しかし、対米協調外交こそ日本の国益のためになるのです。  ここで私は「シナ」という言葉を使いました。「中国」とか「中華」と言えば、それは東夷・西戎・北狄・南蛮と対になっている言葉です。この大陸に住む民族たちや文化や歴史や地理に共通する表現はシナ(英語のチャイナ)が最も適当と考えます。NHKですら「東シナ海」と言っています。「中国」は「中華民国」か「中華人民共和国」の略語として、固有名詞として使うことにしています。日本人が「中国文学史」などと言うのは、シナ文学を知っている人の用語としては国辱と言うべきでしょう。

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