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どげんかせんと〜 |
☆★☆★2009年05月09日付 |
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「どげんかせんといかん」は、地域活性化にかける東国原宮崎県知事の決まり文句だが、急速に進む少子化を考えると、真剣に何とかしなければならないと思う。 「こどもの日」にちなんで、総務省が毎年発表している人口推計。それによると、今年四月一日現在の十五歳未満の子どもの数は千七百十四万人。やはりと言うべきか、少子化の流れは止められず、二十八年連続での減少という。 少子化が続くと、まず心配されるのは学校の存続問題。報道によれば、気仙とお隣の遠野市では、現在八つある中学校を三校に統合する再編計画があるという。しかし、広大な市域にわずか三校では、スクールバスを使っても通学に四十分かかる地域も出ることなどから、成案を得るまでには至っていないとか。 かつて人口が九万人もあり、県内第二位の都市だった釜石市もまた、少子化が急速に進行していると、地元紙が伝えている。昨年一年間の出生数は二百三十人台にとどまり、戦後ピーク時に比べて七分の一にまで減っている。 気仙地区もまた、右に同じ。三市町合計の年間出生数はここ二、三年は四百五十人を切る状況で、ピーク時の六分の一に落ち込んでいる。 本当に「どげんかせんといかん」のだが、この状況で推移するとどうなるか。どこぞの大臣が「二年前に、リーマン・ブラザーズが倒産して世界がこんな景気になるなんて誰が予想できた。将来の事なんか、神のみぞ知るだ」とのたまったが、確かにそれも一理ある。だが、児童・生徒数の推移なら十五年先まで展望できる。 気仙管内の今年三月の中学卒業生は七百三十七人だった。このうち、気仙四校の全日制高校の受験者は六百三十四人だったことから、管内の86%の生徒が地元高校を目指したことになる。 実際には、管外から気仙の高校を希望する人などもあるため、出入り計算はもっと複雑になるが、地元高校進学が現在の比率で推移したとすると、今年の小学一年生が高校受験する九年先はおよそ四百六十人、昨年生まれた子どもたちが受験する十五年先は三百九十人弱が気仙四校を目指すこととなる。 今春の気仙四校は十八学級で募集したが、九年後は十三学級、十五年後は十学級もあれば足りる。つまり再編されたばかりの四校は、近い将来に一学年五学級の高校なら二校あれば間に合う。地理的な面を考慮しても三校がせいぜいと思われるが、これは大変な事だ。 全国いずこも少子化の中、どうやって活路を見出すか。ここは、早めに英知を結集したい。少子化対策には地域経済の活性化が必要で、雇用の場確保が前提。また、子どもを安心して生み育てられる環境づくりに、子育て相談や学童保育の充実、教育費や医療費の軽減策も必要だ。 それとは別に、全国から気仙の高校を目指す生徒を増やすような政策があっていいとも思う。県立高校だからと、県や県教委にだけ任せていたのでは、いずれ再編統合は避けられないということにもなりかねない。 文部科学白書によれば、全国では年間約七万人の生徒が高校を中途退学している。学校生活への不適応や進路変更が主な理由とされるが、その根っこにあるのは高校生活に対する「意欲の喪失」ではなかろうか。 体中からわき上がるエネルギーや心の底から燃え上がるようなものを求めているのに、既存の学科ではそれが得られないのが、大きな理由ではなかろうか。だとすれば、現在の高校生が求めるような学科を、他に先駆けて開設するアイデア探しを、今すぐ始めなければならない。 少しのやる気と予算さえあれば、文化・運動面で秀でた実績のある監督やコーチを組織的に招へいしても良いし、「これならオレの心が燃えるぜ」という学科も、探せばきっとある。要は、問題が起きた時だけ対応に追われるのか、事前に将来を見越して手を打つか。その差が将来を決めると思う。(谷) |
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野崎総料理長が魅せた心と技 |
☆★☆★2009年05月08日付 |
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東京・南麻布の日本料理の名店「分とく山」の野崎洋光総料理長がゴールデンウイークに来大し、食のイベントに参加した。気さくな人柄で人々と交流しながら、気仙の食材を使って即興で料理を作り、和食の神髄の一端を披露するという貴重な場面もあった。 野崎総料理長の分とく山は、ミシュランガイド東京版にも掲載される有名店で、NHK「きょうの料理」や漫画「美味しんぼ」にも登場する。二〇〇四年のアテネオリンピックでは、長嶋茂雄監督と親しい間柄とかで、長嶋ジャパンの専属料理長を務めたことでも知られる。 そのような和食の巨人というか巨匠が今回やってきたのは、気仙の官民組織「三陸の食卓をおすそわけ」実行委員会の依頼で、三陸産天然活アワビを使用した弁当の開発に協力し、オリジナルレシピを作成したことがきっかけ。 野崎総料理長監修のオリジナルレシピをもとに、三陸町の管理栄養士の方が調理した「三陸の旬彩り膳あわび弁当」(千五百円)が三陸駅で販売されたのに合わせて来大。三陸駅のホームでは総料理長本人が弁当にも合うフノリなどが入った特製みそ汁を調理し、産直リアス号の乗客に振る舞うイベントも行われた。 もちろん大好評で、同時に行われたホタテガイの炭火焼きコーナーでは即興でいろいろな味付けをして見せて、周りにいた人たちを喜ばせた。二日間の滞在中、気仙各地を食材調査しながら刺し網船に乗り、地元の生産者やおすそわけ実行委員会メンバーと番屋で懇談し交流を深めた。 日頃市町の農家レストラン・味どころ休石では、食の匠の休石さんら地産地消グループたんぽぽのメンバーと交流し、食の匠認定料理のきび団子などを食しながら、総料理長は食材の生かし方、調理法を懇切丁寧にアドバイスした。 総料理長はさらには、裏山に出て食材になる山菜を摘み取り、調理場で包丁を握り、実演もしてみせた。タケノコの皮をむいてササッと包丁を入れてすてきな器を作り、「こうしたらすごく収まりがいいと思う」と盛り付けを指導した。 フキの葉も器にし、草花を束ねて箸置きにした。遊び心にあふれていた。料亭のような逸品に仕上げた。ありふれた素朴な食材や郷土料理が新たな息吹を吹き込まれて、光り輝いた。高級料理に生まれ変わり、まるでマジックを見ているようだった。 竹林があるのを見て、手作りの竹箸を使うことも勧めていた。「料理には遊び心が必要。これだけの自然があればいっぱい遊べる。僕らからみると宝の宝庫。せっかくいいものがあるのだから、田舎らしさを出して。そうすることによってお客さんとコミュニケーションができる。コミュニケーションを取ることが大事」と語っていた。 福島出身という総料理長は、田舎に心を向けて作っていると言っていた。田舎の良さを生かし、「一流の田舎もの」を目指すことを何度も説いていたのが印象的だった。 総料理長が監修したあわび弁当は、柔らかく煮たアワビとメカブをのせた酢飯を食べると、底からキラキラとした真珠層があらわれる。アワビの貝殻も生かして遊び心がいっぱい。しかも繊細で奥深い味。限られた値段設定で冷めても美味しい極上弁当のレシピを作るという料理人の技がそこにもみられた。 総料理長は「三陸は宝の山」と言っていた。三陸のために考え出してくれたオリジナルレシピが、黄金にも勝る気仙のお宝となるだろう。(ゆ) |
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セピア色の写真館 |
☆★☆★2009年05月07日付 |
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本紙では、読者の皆さんから昭和の時代の懐かしい写真の提供を受けて、「セピア色のふるさと写真館」というコーナーを設けている。 気仙の「今」を伝える新聞の中に、こうした「過去」を写真で振り返るコーナーは、違和感を持たれる読者もおられるかもしれないが、これでなかなか反響があってやめられない。 例えば、四月十五日付の『気仙初の外車トラック』。 昭和十年ごろ、陸前高田市米崎町脇ノ沢にあった旧大和田商店前に横付けされた二台のフォード製トラックの写真がそれだ。まだ国産車がない時代に、気仙初導入の外車トラックは、木材や薪炭、三陸汽船に陸揚げされる物資の運送などに使われていたという。 この写真が思わぬ波紋を呼んだ。というのは、トラックのボンネットと荷台に腰かけていた四人の運転手の名前も消息も分からない。何しろ七十年以上も前の写真である。写っている人が健在だとしても百歳はゆうに超えているはずだ。 一枚の写真を手に、まるで刑事ドラマみたいに聞き込み≠ノかけずり回ったが、いっこうに埒(らち)があかない。苦し紛れに、掲載した写真の文末に「この人物に心当たりのある方はいらっしゃいませんか?」と読者の記憶に委ねてみた。 効果てきめん。翌日、さっそく電話で吉報≠ェ届いた。「左から二番目のチョッキ姿の人は、佐々木春右衛門さんでは」「右奥のシャツを着た人は、世田米の佐々木道夫さんのようだ」――。受話器の向こうで声が弾んでいる。 「あの写真が欲しいのですが」という電話も多くあった。関係者だろうか、あるいは車マニアかもしれない。写真は一人で楽しむのもいいが、大勢の人を楽しませる力を持っている。一枚の写真からいろいろな話題が広がっていく。記憶をよみがえらせる力も実感した。 これは失敗例だが、四月二十五日付の『海苔干し暮れる頃』。 陸前高田市米崎町沼田に海苔バセが並ぶ昭和三十六年ごろの写真を紹介した。さっそく、読者から「これは暮れ時ではなく、明け方ではないか」とのご指摘。さすが、亀の甲より年の功。当時を知っている人にはかなわない。 当時、カメラを持っている人は少なかった。今は、デジタルカメラやカメラ付き携帯電話の普及で、いつでも、どこでも、誰でも自由に写真を撮ることができるようになった。半面、写真プリントにして「見て楽しむ」「飾って楽しむ」「大切に残す」ことが忘れがちになってはいないだろうか。 そんな思いを強くしたのは、今回の「セピア色」シリーズでも貴重な写真を提供していただいている大船渡市末崎町の後藤敏雄さんだ。昭和三十〜四十年代の情景を大切に残している。 これまで、『故郷の記憶』をテーマに本紙上でも幾度か取り上げさせていただいた。しかも、五十年前に撮影した場所に立ち、同じアングルで時代の変化を写し取っている。記録としても貴重だ。 同じように、消えゆく昭和の残像を追いかけている人がいる。同市赤崎町の佐藤秀夫さんだ。被写体は風景や人物にとどまらず、四季折々の自然、動物、花など幅広い。二人とも過去の風景の中に、当時の人々の生活や表情を浮き彫りにしているところが心憎い。 富士フイルムは、テレビCMで『たいせつな時間は、写真の中で生きている』をキャッチフレーズにしている。遠い忘却の彼方で語りかけてくる一枚の写真は、あのころの瞬きと淡い思いをそっと投げかけてくれる。 押し入れや引き出しの奥に眠っている古い写真があったら、ぜひご連絡、ご提供をしていただきたい。みんなであのころを思い出し、懐かしい記憶を呼びおこし、あの青春時代を振り返りながら、明日への新たな意欲につなげてもらえれば。そんな思いを込めながら、この「セピア色の写真館」を続けていけたらと思っている。(孝) |
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なして「たがく」の語源がつかめない? |
☆★☆★2009年05月05日付 |
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子どものころ、店へ入るときは「もうし」と声をかけたものだった。「申す」が変化したものだろう。「ちょっとおたずね申す」の「申す」である。武士だけでなく庶民一般が「ご免下さい」でも「今日は」でもなく、「もうし」と威儀を正して物を買う様子は滑稽にも思えるが、現実に、はな垂れ小僧たちが手に小銭を握って「飴っこけらい(下さい)」と物申していたのである。 そんな言葉はいまや死語と化してしまった。ラジオやテレビの普及によって「ハイカラ弁」が「ナウイ」となり、藩政時代の名残を駆逐してしまったためだろう。まだ五十銭が通貨単位としてだけでなく、貨幣として通用していた時代のことだから、時間が風化させてしまったとでも換言できようか。 この時代のジャンケンは、グー、チョキ、パーではなく「石」「ハサミ」「紙」と言った。最初の「呪文」も「最初にグー、ジャンケンポン」などといった国籍不明の言葉ではなく「そーれん、そーれん」だった。これは「そーれ、そーれ」が語源であろうと思う。「今晩の勘定は誰が持つことにしようか。それでは三すくみ(拳遊び)で参ろう。そーれ、そーれ」とやっていたのではないか。だが、こんな風習もものの見事に消えてしまった。以上の二例はまさに「昔語り」の部類に押し込められたといえる。 いまも残る方言は古語に由来するものが少なくない。「なじょして(どうして)」は、「何条すべき」の「なじょう」から生まれたことは間違いあるまい。東北だけでなく関西でも使われる「なんぼ?(いくら)」は、元々勘定を聞く「何分?」から転用されたものであろう。こちらはいまだ根強く受け継がれているのは、全国的に共通語として定置されたからだろう。当方も「いくら?」ではなく「なんぼ?」と出てくる。それはこの言い方がすっかり身に付いてしまっているからだろう。 身に付いているといえば、運ぶ、かつぐ、持ち上げるなどの総称でもある「たがく」は、すっかり言語中枢を支配していて、東京にいたころも頻発するものだから、「なんのことですか」と怪訝な顔をされた。さて、この言葉の語源、用法はどこから来たのかとずっと疑問に思っていたが、これぞと得心するような解説にはいまだ出合っていない。雅な語感があるので、おそらく大和言葉に祖形があるのではないかと推量している。この方言がなぜ死滅しなかったのか、それは代用できる便利な言葉が他に見当たらないからであろう。「たがく」ただその一語で、多くの動作を言い表す役割を担っているからである。 もしかしたら「坦」の「たん」にヒントがあるのではないか。というのも「たがく」のニュアンスは、担う、担ぐ、分担するといった用法に多分に受け継がれているような気がしてならないためで、これはいずれ古語研究の中から発見されるのではないか? 県北の岩泉を訪れた時、ある家で道をたずねたら年老いた当主が出てきて、教えてくれたが、奥から「案内してあげてたもんせ」と声があった。その親切心もさることながら、「たもんせ」には驚いた。外部との接触が少ない場所にはこうした昔ながらの言い回しが温存されているのだろう。 当地方言には語源を知りたい言葉がたくさんある。同好の士が集まってこうした研究をしてもらいたいものだと思う。以前にも書いて気仙沼方面からも反応のあった「すばて」(肴、おかず)の決着もまだ付いていない。諸説が開陳されたが当方はまだ納得していない。この言葉についてはいまあるヒントを思いついていて、すこし研究してみたいと考えているが、方言のDNAを探ることは考古学の一助にもなるのに、まったくなおざりにされている一面もあることは残念である。(英) |
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黄金観光のメッカ |
☆★☆★2009年05月03日付 |
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風薫る五月を迎え、「黄金週間」も真っ盛り。さわやかな気候の中、家族や友人、知人らと連れ立ってお出かけの人も多いと思う。行き先をどこへと考える時、基本的にはどこかで見聞きした場所を選ぶことになる。つまり知名度があるかどうかが、行楽先選びのポイントになる。 気仙を訪れる行楽客が増え、感動を提供した側も潤うようにぜひなってもらいたい。しかし、聞こえてくる話の中には「気仙はガソリンが高いようなので、用事をつくってよそに出かけている」との声もある。 わざわざガソリンだけ入れに出かけるのはもったいないので、道の駅巡りなどの用事をつくって出かけているという人の例だが、これでは貴重な購買力が流出してしまう。商売の原則は薄利多売。客が多ければ薄利すなわち安価販売でも経営が成り立つ理屈。とにかく気仙の人には地元を回ってもらい、圏外の人には気仙を目指してもらえるような施策がほしい。 大型連休を機に思いつくまま夢を広げてみたいが、まず手っ取り早いのは既存観光地への「プラス1」作戦。たとえば、大船渡市の碁石海岸は雄大な自然景観が売り物。ここには世界の椿館・碁石や観光椿園があるだけに、椿の植樹を集中させたい。日露戦争の戦勝記念で植えた桜も老木化しているので、そろそろ若返りを図ることも考えたい。 現在は別々の椿館と博物館とは、地下道で結ぶこととする。そこを地下展示室とし、たとえば地球誕生から人類の誕生までを、一目で分かるようにする。地球の歴史を一年にたとえると、人類の誕生は十二月三十一日の午後七時ごろとか。それを実感できれば博物館内の貴重な化石や地層展示も生き、全国の児童・生徒が一度は訪れる研修旅行のメッカとなる。 陸前高田市の高田松原は、松林が延々二`も続く白砂青松が素晴らしい。しかし、書き入れ時の海水浴シーズンは天候に左右され、客足が一定しない。「雨が降ったら行かない」ではなく、「雨が降ったら別の施設を見よう」となるようにしたい。そのため高田松原の一角に、日本一の太鼓会館を作る。 伝統ある気仙町けんか七夕太鼓があり、太鼓の甲子園≠ニ呼ばれる全国太鼓フェスティバルが毎年開かれている地でもあるだけに、全国のあらゆる和太鼓を皮切りに、アジアの変わり種太鼓も収集。映像シアターを備え、時には実演も披露することで、日本中の太鼓ファンのメッカとする。 住田町には滝観洞がある。夏でもひんやりした別天地の奥に、感動的な日本一の洞内滝が待ち受ける。しかし、再訪が少ない傾向もあるだけに、周辺の修景を計画的に行い、四季折々の風情で来訪者を呼びたい。 高速道インターの開設効果を持続させるため、上有住の歴史を発掘して中世の舘を一つか二つ再現したい。奥州市の歴史公園「えさし藤原の郷」は、今やNHK大河ドラマでは定番のロケ地となっている。そこに、有住舘と五葉山火縄銃鉄砲隊が加わることで、全国歴史ファンのメッカとする。 気仙は、言わずと知れた黄金の国=B平泉の黄金文化を支え、それが中国を訪れていたマルコ・ポーロを通じて欧州に紹介され、大航海時代を招来した。その黄金の歴史を気仙の総力を挙げて復元し、世界的な観光地とする。 入洞体験などによる産金観光が可能かどうか。気仙の金山を総点検し、鉱区権を利用できる場所に集中投資していく。黄金ロマンは、国と時代を超えて永遠だと言われる。黄金をイメージした料理や土産品をもっともっと開発し、観光地はトイレのはてまで気を配り、常に音楽が流れて来訪者の度肝を抜く豪華さとする。 観光案内板も、気仙に入った途端に黄金のイメージが目に飛び込むようにする。とにかく、政策を一つの理念で統一することになれば、気仙観光は黄金週間以外でも黄金に輝くことは間違いない。(谷) |
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当代最高の顔合わせ |
☆★☆★2009年05月02日付 |
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大船渡市在住の日本舞踊家で、吉村流師範の吉村弥恵尋さんが主宰する尋の会の「舞の会」が『憲法記念日』のあす、新装間もない市民文化会館・リアスホールで催される。 弥恵尋さんや門下生(といっても出演者全員が名取師範という名手揃い)はもとより、弥恵尋さんの師匠である吉村ゆきそのさんが特別出演するというから、にわか(?)日舞ファンとしては万難を排してでも出掛けなければと思っている。 本欄で改めて紹介するまでもないのだが、ゆきそのさんは香川県高松市出身で、上方舞、地唄舞の第一人者。重要無形文化財保持者、いわゆる人間国宝の四世家元・吉村雄輝(故人)に師事し、多くの舞台を経験。文化庁芸術祭賞など受賞多数。現在は吉村流理事という重鎮=B 天皇陛下即位十周年をお祝いする御前舞、奈良・東大寺の大仏開眼千二百五十年の慶讃大法要での舞奉納などでも絶賛を浴びた。他分野とのコラボレーションも積極的で、クラシック音楽に乗せた創作舞踊なども高い評価を受けている。 雄輝園と名乗っていた平成三年に大船渡市で上方舞公演を、昨年のいまごろは義経を縁として平泉・中尊寺で世界遺産登録を願う舞の会があったが、地方の日舞ファンはなかなかナマの舞台を観る機会が少ない。それでも、ゆきそのさんは著名な舞踊家の中でも比較的テレビ出演が多く、至芸の一端に接することができるのは幸いだ。 そのほとんどはNHK教育で、興味を覚えてからのここ数年に限ってみると「芸能花舞台」が中心だが、四年前に放送発祥の地での「愛宕山古典芸能祭」を収録したBSハイビジョン番組でも拝見した。昨年暮れには源氏物語千年紀を記念する「芸能花舞台」に出演し、地唄舞『葵の上』で幽玄の世界を豊かに表現しておられた。 さて、今回の舞の会に関してはもうひと方を触れないわけにはいかない。それは地唄演奏の富山清琴さんの初来大である。富山さんは地唄・生田流箏曲の二代目家元で、幼くして失明しながら人間国宝に認定された初代・清琴(のち清翁、昨年九月死去)さんの長男。文化庁芸術祭賞受賞三回、日本芸術院賞受賞など三絃と琴の達人として知られ、邦楽界を支える名人の一人でもある。 ゆきそのさんとの共演も数多く、「芸能花舞台」での『珠取海女』(平成十四年)や『葵の上』でも三絃と地唄を演奏していたのが清琴さん。その場面がズームアップされることが少ないのは残念だったが、上品で趣にあふれた歌唱と三味線は、ゆきそのさんと息ぴったりだった。 このお二方が舞の会で共演するのが地唄舞の名曲『雪』。浮き世を捨てた女が、断ち切れない恋人への思いを、雪に重ねて舞うというものだが、この会に合わせたかのように先月二十三日の「芸能花舞台」(二十六日に再放送)は、初代・清琴さんと「動く錦絵」と称された武原はんさんによる昭和六十年収録の『雪』が一部放送された。 二代目・清琴さんの演奏による『雪』は一昨年、女優の藤村志保さんとの共演をテレビで鑑賞したことがあるが、今回は武原さん亡きあとの上方舞の第一人者であるゆきそのさんとの舞台。当代最高の顔合わせによる『雪』が大船渡で実現するとは…。当地では二度とないかもしれないナマの姿を目に焼き付けたい。 ゆきそのさんと清琴さんは本番を前にした三十日、稽古と音合わせ、スタッフとの打ち合わせのためリアスホールで合流。ゆきそのさんは孫弟子らの舞や立ち居振る舞いを細かく指導したあと、「舞を通して作法を学び取り、日本文化再認識の場に」と、清琴さんも「地唄は三味線音楽の原点。テレビでは伝えきれない味、ナマならではの魅力を堪能してほしい」と、気仙の日舞と邦楽ファンにメッセージを寄せてくださった。(野) |
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シバザクラと『和色』 |
☆★☆★2009年05月01日付 |
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我が家の石垣に鮮やかなピンク色のシバザクラが咲いている。ピンクと書いたが、実際の色はピンクよりも濃い。しかし、赤でもなければ、紫でもない。どう表現すればいいのか、とよく悩む。 会社ではパソコンで疲れた目を休めるため、何度か外に出て周囲を眺める。木々の葉や草たちは日々緑を増し、晴れた日は眼下に青い海が、頭上には青い空が広がる。しかし、全てが同じ緑、同じ青というわけではない。その色彩の違いを表現できる言葉を、残念ながら私は持ち合わせていない。 そんな私が興味を持っているのが日本の伝統色、『和色』だ。 きっかけはNHK衛星第二で見た『日本の光がセーヌを染める〜石井幹子とリーサ明理の挑戦』。放送は半年程前だったろうか。 日本人の照明デザイナー親子が船に乗り込み、パリのセーヌ川に架かる二十五の橋を日本の四季の色彩で照らし上げるまで、企画段階から追いかけた番組だった。 光の色を調整し、投光器を操作するフランス人スタッフに、親子が求めた色は「萌葱色」や「若苗色」や「春日大社の藤の色」。スタッフの戸惑いとともに、『和色』の多彩さ、奥深さ、そして繊細さが強く印象に残った。 その『和色』を改めてインターネットで調べてみた。『日本の伝統色和色大辞典』に掲載されている色は、実に四百六十五色。 赤色系をみると、桜色、薄桜、珊瑚色、紅梅色、桃色、撫子色、鴇色……。文字を見ているだけで色が浮かび、心まで和む。 緑色系の色彩も豊富だ。竹の成長に合わせ、若竹色や青竹色、老竹色という色まである。ただ、私には黄緑と若草色、若苗色、若葉色の微妙な違いが識別できない。 青色系も豊富さでは負けない。明るく淡い青色の中でも水色は澄んだ水の色、空色は晴天時の空の色を表す。水色は若干緑味を帯びた深みのある青色で、空色はやや紫側によった青色と紹介する資料もある。さらに、空色よりも濃く、抜けるような青色を天色と呼ぶのだという。花色も白群も文字からは想像できないが青色系だ。 紫色系には青みがかった江戸紫や赤みがかった京紫、くすんだ古代紫という色まである。 『和色』の名前は花や鳥、人の名前などに由来しているものが多いと言われるが、中にはこんな色もある。 例えば、今様色。今様は今流行という意味で、平安時代に流行した薄い紅色のこと。新橋色はくすんだ緑がかった青色で、明治末期から大正時代にかけて東京・新橋の芸者衆に好まれた色から名前がついた。瓶覗きという色は白に近い、ごく薄い藍色。染色の時、藍瓶にちょっと浸しただけで引き揚げてしまうことから、その名で呼ばれるようになったとか。 『和色』の名前の大半は平安時代に生まれたという。当時の人々の色彩感覚の豊かさ、色の名前を作り出す語彙力に驚かされる。 我が服装といえば、色の組み合わせも分からないため、手当たり次第。ネクタイを締める時などはどれを選べばいいかと悩み、胃が痛くなる。私の色彩感覚の欠如を知ったら、平安の都人たちも大笑いするに違いない。 語彙力も同じこと。タンポポやヒマワリの記事を書く時、これまでは「黄色の花を咲かせて」と表現してきた。しかし、『和色』に蒲公英色や向日葵色という色もある。これからは『和色』を使って書くべきではないか、などと要らぬ心配までしている。 日本の豊かな自然や文化、歴史、生活の中から生まれてきた『和色』。その名前や由来、色彩を調べていると、時の経つのを忘れてしまう。子どもたちにも伝えていきたい日本伝統の色だ。 さて、我が家のシバザクラ。『和色』で表すと……。やはり、答えが出てこない。私の色彩感覚の問題なのか、それともシバザクラが北米原産のせいなのか。(下) |
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新型インフルは人類への警鐘 |
☆★☆★2009年04月30日付 |
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弱り目にたたり目とはこのことだろう。世界同時不況の次に世界を襲ったのが豚インフルエンザ。すでに発生元とされるメキシコでは百五十人の死者を出し、犠牲者はさらに各国に広がりそうだ。 このインフルエンザは変異し、新型インフルエンザとなったことが発表された。世界保健機関(WHO)は、世界レベルの警戒水準(フェーズ)を3から4に引き上げた。これは世界的大流行(パンデミック)への移行を懸念してのことである。 パンデミックは世界的流行病をも意味し、文字通り二十一世紀の一大流行病となる可能性を示唆している。日本ではまだ一件の発症例も報告されていないので対岸の火事視している面がなきにしもあらずだが、世界の隅々まで邦人旅行者が足を延ばしている現状から推して「外務省や現地大使館の報告によると日本人の感染者はまだ確認されておりません」などとノホホンを決め込んでいる場合ではなかろうと思う。なにせこの時期常夏、常春の国々に「避寒」する旅行者は多いからである。 新型インフルエンザの発生は、現代に対する警鐘であろうと考える。話はそれるが、わが国の衛生状態は、極めてという表現が思い上がりだとしたら比較的良い方で、これは伝統的にきれい好きの民族であることによるものだろう。 江戸後期日本を訪れた外国人は例外なく日本人が清潔な生活を送っていることに驚いている。住まいは決して立派ではないが、しかし家の中も通りもきれいに保たれ、人々も風呂や行水を好み服装も小ざっぱりとしていて、少なくとも衛生面で不快な思いをすることがないと絶賛している。 つい近年まで地方は水洗便所など普及しておらず、どの家も汲み取り式だったが、それでも便所は毎日のように拭き清められ少なくとも「御不浄」(便所の呼び方)というイメージはなかった。その伝統は現在にも及び、公衆トイレのきれいなこと(例外はあるが)は、当地を訪れた米国人が「信じられない」と驚いていたほどだ。 このように清潔さを好む民族が当然と考える衛生思想がどの国にも普及していると思ったら大間違いなのは、テレビなどで紹介される途上国の様子からも大方が理解済みであろう。 水道はおろか、飲料水の確保さえままならず、ボウフラの湧くような川や沼の水を飲む以外にないような国々において、清潔さを保つなど期すべくもなく、病原菌を自然に培養するような劣悪な環境下に置かれていることは周知の通りである。 だが、このような国々に対する先進国のインフラ整備支援は遅々として進んでいない。作家の曾野綾子さんがアフリカの実情について書いている報告を読むと、医療、衛生、生活その他の現実は想像を絶するというより絶望的ですらあるという。先進国が日々の豊かな生活を享受している一方で、このような「化外の地」(見捨てられた土地)が厳然として存在し、それは新たな病原菌の発生を促す可能性が極めて高い。にもかかわらず、他人事として救援の手は差し延べられずにきた。 新型インフルエンザはメキシコが「震源地」とされるのも、この国が決して経済的に恵まれずその結果、非衛生的な一面を残していることも発生と無縁ではなかろう。いまパンデミックに発展しそうな感染の拡大は、豊かな国々が負うべき世界的な環境の整備を積み残してきたツケが回されたと考えるべきであり、人命を疫病から守るためには、以前はやったコマーシャルではないが「元を断たねばダメ」なのであることを強く促された思いがする。 日本上陸を水際で阻止することはむろん大事だが、この問題をそれだけにとどめ、矮小化してしまってはさらなる「新型」の登場を食い止めることもできまい。「自国だけ安全ならいい」という「我利」主義に対する大きな警鐘、警告が発せられたと自覚する時だろう。(英) |
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いつも心に感動を |
☆★☆★2009年04月29日付 |
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今月頭、ある葬儀のために私の親族が気仙を訪れた。愛知、静岡から車で片道十二時間の旅。しかもETCの付いていない車で、というから高速料金割引もなく、ただただ周りが心配をしてしまうばかり。 せっかくそれだけ時間をかけてきたのだからと葬儀の合間をぬって弊社に立ち寄った後、比較的近場の碁石岬を案内した。葬儀に来ておいて観光もないだろうという思いもあって、浮かない気持ちで末崎町内を車に揺られていると、車内では海が見えるたびに感嘆の声の嵐。 極めつけは碁石に到着してからで、急峻な崖の下に立ち並ぶ奇岩の数々と荒波、そして目いっぱいに広がる水平線に「こんないいところに住んでるなんてずるい」といわれのない非難まで聞こえる始末。気仙をこよなく愛した故人がいいところを存分に見せるべく粋な計らいをしてくれたようで、雲一つない青空がそうはお目にかかれないほどの美しい海を演出していたのだが、それにしても来訪者たちのあまりの感動ぶりにこちらが呆気に取られてしまった。 地元に住んでいる手前、「なるほど、外から来た人にしたらそんなもんかね」などと偉そうにうそぶきつつ、はっと気付かされることがあった。自分も当地で二年しか暮らしていないが、来た当初の新鮮に感動できる気持ちが薄れてしまっていたのだ。 自分で語るのも何だが、「食器を洗っておけ」などの家庭内指令健忘癖は例外として、細かな日常の物事に関してのもの覚えは比較的いい方だと自負している。しかしながら肝心なこと、手痛い失敗の反省や悔しかった思いはすぐに記憶の彼方へ押しやられ、同じ過ちを繰り返す。その学習能力のなさが仇となって今日の未熟者が完成しているのだが、今回もまた大事なことを忘れてしまっていた。 こちらに来てすぐのころ、先輩記者が「町おこしには『若者』『馬鹿者』『よそ者』が必要」との有名な言葉を添えて、外からの視点で気仙に評価を与える重要性を教えてくれた。気仙の発展のために外来者の自分が少しでも貢献できると気付き、使命感に燃えていたのはいまや昔。豊富な海の幸、山の幸に毎晩舌鼓を打っているうちに、心から骨抜きにされてしまったようだ。 この二年間だけを振り返ってみても、今までの人生ではまったく得難い経験を気仙に味わわせてもらっている。盛漁期に魚市場へ行けばこれでもかというほど多種多様の魚が水揚げされ、海の奥深さを思い知らされた。交通事故発生と聞き夜中に住田町の奥まで駆けつければ、田園一面から聞こえる虫たちの大合唱と上空を埋める星々の瞬きにただただ圧倒され、本来の用向きを忘れるほど。食材の豊かさは言うに及ばずで、運動不足もあいまって体脂肪は都会暮らし時の倍と、メタボ化も進行中というオマケまでついた。 そうした新鮮な驚き、感動を地元内外の人に伝え、逆にそのセールスポイントをさらに引き立たせてもらえるよう進言するのが我々の使命だったと、今回の件で再認識させられたのだった。 だが、当地に馴染み、当地の人に半人前だけなり切ったことで、強く幸せを実感できたことが一つある。それは長い冬を越えた後にやってくる春の素晴らしさだ。 雪の降る曇り空やシケで荒れた海といった、暗いイメージがつきまとう東北の冬。それだけに木々が芽吹き一斉に花が咲き誇る春の色鮮やかさは、モノクロテレビを一気にハイビジョンフルカラーに買い換えたような趣がある。 不況で東北、本県の経済も「急速に悪化」と下方修正が進む。しかしこの冬の時代も、乗り越えた後に迎える春の喜びを知っている東北人だからこそじっと我慢し、土中深くへと根を伸ばす努力を続けることができるはずだ。 そしていつかはわが社にも、冬のモノクロを経てカラーあふれる春の紙面℃梠繧ェ到来し、読者の皆さんにもっと喜んでもらえるようになったら、と会社の片隅で一人ひそかに夢見ているのであった。(織) |
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二つの歌といくつかの別れ |
☆★☆★2009年04月28日付 |
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桜って奴は、いくらなんでも忙しなさすぎやしないか。もっとゆっくりしていけばいいのに、ようやく来たかと思ったら、すぐ北へと過ぎ去ってしまった。 などと、ぶつぶつ言いながら、思わず溜息をつく。ここのところ、親しい人たちとの別れが続いたのでナーバスになっているのだ。 機知の仲間が四月に東京へ転勤し、五月にはまた別の知人も異動で大船渡を去ることになった。勤務先も年齢も育った環境も異なるのだが、何かにつけては飲み歩き、下らない話で夜更かしをした「悪友」である。 この年になっても共に悪ふざけができる(とは言え、さすがに公園で全裸になったりはしない)彼らは、私にとって貴重な存在だった。最初から「いつかいなくなる」とは分かっていたけれども、やはり友達になれて良かったと思う。 それにしても、なぜ別れの季節は春と相場が決まっているのだろう。別れは双方にとって寂しさを伴うものだが、見送る側の寂寥感と言ったらこの上ない。春の風景が輝いて美しい分、心の中とのコントラストが際立つではないか。 自分は定点に留まっていて、過ぎ行く人々を見ているだけしかできないというのは、なかなかにつらい。ずっと同じ場所に立っている木のようなものだ、と思う。 時にはその下に憩いを求めて人がやってくることはあっても、ひとたび汽車に乗ってしまえば、旅人にとって木などは流れる景色の一つでしかない。去っていった側は新しい土地での生活に追われ、すぐに木のことは忘れてしまうだろう。 そう考えると胸がスースー空虚な音を立てる。一人だけ置き去りにされたような理不尽な気持ち。この地に骨を埋める覚悟でいる以上、私はおそらくこれから先も見送る側にしかなれない。桜が散るのを見るにつけ、胸のざわつきは強くなる一方だった。 在原業平はかつて「世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」(古今和歌集)と歌った。業平…美男だっただけでなく、なんとうまいことを言う男だろう。人を焦らせ、もやもやと落ち着かない気分にさせる桜とは、吾から罪な存在だったのだなあ。 その心ざわめく桜の季節、祖父との永遠の別れも訪れた。いまわの際には立ち会えたのだが、死ぬ当日の昼まで元気だったため、まったくの寝耳に水。医師が臨終を告げたときも、何より先に「まだ早すぎる!」と思った。 九十二歳の人を前に思うことではないのだが、私にとってはあまりにも早い死だった。百まで生きてもまだ足りないような人だと考えていたのだ。 周りからは「大往生だった」「最期まで潔かった」と言葉をかけてもらってありがたかったし、本人が最期に何か言えたのだとしたら、「わが人生に悔いなし」と呟いたことと思う。しかし、私のほうには悔いが強く残ってしまった。祖父のためにできなかったこと、しなかったことばかりが頭に浮かんだ。 魂がもうそこにはない体を前に、「なんとか生き返らないかな」とひたすら願ってみたり、いつまでもメソメソしたりしていたので、それが往生際悪く映ったのだろう。父からは「こんないい季節に、あれだけ見事に逝ってくれたんだ。むやみに悲しんでその死を台無しにするんじゃない」と諭された。 最初は「そんなこと言ったって悲しいものは悲しいんだよ」と心の中で逆ギレしていたが、やっと気持ちが落ち着いた今、あれは実に天晴れな死だったのだなと思えるようになってきた。 改めて見ると、「天晴れ」というのは、なんとも良い字を書くことだ。祖父は文字通り、よく晴れた春の日に逝った。 ねかはくは花のしたにて春しなんそのきさらきのもちつきのころ(「山家集」西行法師) お世話になっている知り合いが、この歌を教えてくれた。常日頃、「ぽっくりと、明るく死にたい」と言っていた祖父の顔が浮かび、思わず泣けた。これから毎年、この花咲く季節に祖父のことを思い出せるのなら、それはとても幸せなことなのかもしれない。 春に別れがあるのは、残された者がそれを思い出すとき、一緒にその風の暖かさや花の美しさまで感じられるように、と誰かが計らってくれたんじゃないだろうか。 なんて、柄にもなく思ったりしたのだった。(里) |
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