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☆★☆★2009年05月09日付 |
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不携帯といえば、昔は免許証に尽きた。現実に不携帯で一度違反切符を切られた。現在はそれに携帯電話が加わり、こちらの不携帯もなんとなく気になるようになった。「免許より携帯電話を大事がり」若者ならなおさらだろう▼携帯電話は確かに便利だが、掛ける方はともかく、掛かってくるのはまずまれだ。メールも同様で、これはそれだけ世の中に影の薄い存在になったことを意味する。わがメル友(メール友達)は、楽天からのポイントのお知らせぐらいか▼パソコンのメールも以下同文で、毎朝出社後すぐチェックするが、ずらり並んだ受信一覧は、ほとんど、いやすべてが「物売り」のお知らせか、どこでアドレスを検索したかあやしげな案内ばかり。それでも仲間からのそれがないかと一つ一つを眺めていくばからしさ。「削除」ボタンを押し続けるのも楽ではない▼このようにITという文明の利器は便利な半面、機械に踊らされているという一面をなしとしない。そもそも携帯電話にあれほどの機能を持たせる必要がどこにあるのか。電話とメールの機能さえあれば十分なはずと中高年は必ずぼやく、しかし主力の購入層である若者たちがそれを求めているのだから、それは年よりの繰り言になる▼先日の大掃除で保存していたパソコンソフトを大量処分した。かって夢中にもなりお世話になったものばかりだが、パソコンの進歩でいまや使えない。お役ご免というわけだが、なにか現在の自分を物語っているような気分になった。 |
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☆★☆★2009年05月08日付 |
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一口に安全とか安心とかいうが、それは人間の世界だけに通用する論理であって、動物界における生存競争の激しさ、厳しさを目の当たりにし、「生きる」ことのいかに大変かを知る思いがした▼まず、小さな池の物語り。ここには金魚が四匹放たれている。ところがその「シマ」にガマガエルが入り込んで産卵したものだからたまらない。卵が孵化すると片っ端から金魚の餌食となり、オタマジャクシに成長するのは運の良いほんの一握りになりそうな状況だ▼なにせ、蛋白質に飢えている目の前に、飛んで火に入る夏の虫。毎日がビフテキの生活。去年までは金魚がいなかったので、無数の子どもたちがここから巣立っていった。そこで、今年も大丈夫だろうと考えたのがあさはかだった。天敵の縄張りに足を踏み入れてしまった失敗を、果たして親ガエルは「学習」しただろうか▼次はわが家の残酷物語り。庭の木に掛けてある巣箱がある日壊されていた。正面半分が引き裂かれ中からワラくずなどで積まれた巣がのぞいている。「住人」はシジュウカラで、毎年ここで営巣していたから今年も安心して子育てに専念していたのであろう。ところがヒナが孵ったばかりのところを襲われたのである▼犯人はわかっている。黒ずくめの服のあれに間違いない。以前別の場所で同様巣箱が襲われたのと同じ手口である。そのカラスとて生きるために必死なのだ。可哀想にと思ってもこれが自然界。もう巣箱を掛けるのはやめようと思う以外になかった。 |
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☆★☆★2009年05月06日付 |
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「連休難民」でも日々の小遣いは要る。そこでATM(現金自動支払機)に出かけたら休日とて閉まっていた。腹立ちまぎれに一句「人並みに連休するかやATM」これでは本当の難民になってしまう▼その連休が続く五月の暦を眺めていると当たり前のことながら、赤い玉(数字)がずらり並んでいる。数えてみると八個もある。土曜日の水玉五個を加えると十三個に達する。暦通りに休めると、稼働日は十八日しかないが、これから先赤玉はさらに増えよう。そこでまた一句「役人が赤化を早める日本国」▼「働かざる者食うべからず」と言ったのはその赤い国の大親分レーニンだが、その真意はともかく、働かなければ食えないのが現実だ。しかし仕事がない。欲しいのは連休などではなく飯食いダネの方なのに、こちらは無策状態。ここは総選挙をして「落選し無職の辛さ知らされる」ようにしなければなるまい▼その総選挙は「生活」が争点となりそうで、まずは景気浮揚→雇用拡大→生活水準向上というパターンを各党目指すだろう。だが、それは言うに易く行うは難い。微温的な政策では財政赤字を増やすだけで効果の程はさっぱりというのが、これまでの財政出動だった。景況悪化を水際で食い止めるには「タミフルを政治の腕にも効かせたい」▼連休で浮かれた後に待ち受けているのは一種の虚脱感と、忘れかけていた現実の世界。その点「連休難民」は時差ぼけ≠ェない。せいぜい「列島がそんなに広いわけがない」とうさを晴らそう。 |
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☆★☆★2009年05月05日付 |
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雑誌の廃刊があいついでいる。昭和五十五年に創刊されたオピニオン雑誌「諸君!」も六月号をもってあえなく幕を閉じた。保守・反動御用達の雑誌が姿を消すのは残念だが、すでに進歩的文化人御用達の雑誌も廃刊しているから左右これでおあいこか▼なぜ廃刊があいついでいるのか。むろん売れないからである。売れなくとも広告でもあれば話はまた別だが、こちらが激減していて、雑誌はとっくにネットに追い越されている。新聞も含めて活字文化は青息吐息。「新聞が消える日」という予告?本も出されているほどだから、大新聞といえどもうかうかとしてはいられない▼ネットを除く各種媒体の広告収入激減は、景気の後退によるものが主原因だが、ネットの影響というものも負けず劣らずである。不特定多数に宣伝するより、ピンポイントつまり購買層に焦点を当てた方が効率的という「相対性理論」が支配的になったからだ▼むろん、アインシュタインの理論ではない。相対比較してこちらが安くつくという単純な動機が、宣伝法にコペルニクス的発想の転換をもたらした。こんな商品が欲しいと思えばネットで検索し、ずらりと並んだ仮想商店街の中から一番安い店を選ぶというこんな買い方が普及すると、「下手な鉄砲も」式の宣伝法は非効率的となる▼こうして紙に印刷する広告が減りだした。その最初の犠牲者が雑誌といえる。その次はどこかは米国の新聞界がすでに答えを出している。「メディアの興亡」は序章から第二章に移ろうとしているのだ。 |
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☆★☆★2009年05月03日付 |
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鼎は三本の足で成り立っている。「三者鼎立」というのはそこから来た。米国の自動車大手三社も「ビッグスリー」と呼ばれ栄耀栄華を極めてきたが、それもいまや昔の物語になりつつある▼三本足の一つで業界第三位だったクライスラー社が、米連邦破産法の適用を申請、ついに一角、いや一本の足が欠けてしまった。米政府の方針としてすでに織り込み済みとはいえ、かっての栄光を知ればいやでも無常感を禁じ得ない▼オバマ大統領はしかし見捨てたわけではなく、ここは一旦整理し、伊フィアットとの提携を進める一方で公的資金も投入、「民事再生」を図る方針のようである。その先がどうなるか、まさに「鼎の軽重」が問われるだろう▼欠けた足をどう元に戻すか、そこは「鋳掛屋」の技術次第だろう。穴の開いた鍋、釜を修理する鋳掛屋の姿はまったく見られなくなったが、それは需要が完全に途切れたからである。高度成長時代に入って以後、「修理するよりは買った方がマシ」という感覚が日本人にはすっかり身に付いてしまい、直せば使えるものもゴミに出すようになった▼しかし値打ち物の鉄瓶や茶釜に穴があいたらどうするか?こうした時は鋳掛技術の出番。そしていま、穴の開いた経済の立て直しにそれが必要になってきている▼かってクライスラーが経営危機に陥った時、自らの年俸を一jにして見事再建を果たしたアイアコッカ氏の顰みにならい、決してゴミに出さず、なんとか穴をふさぎたい。それだけの値打ちがあるから米政府も必死だろう。 |
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☆★☆★2009年05月02日付 |
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戸棚の中で眠っていた古いオルゴールをなんとなく取り出してみた。フタを開けてみると「白鳥の湖」がチロリンと流れだした。もう二、三十年前に巻いたネジが封印を解かれて動きだしたのだ▼枕元に置き、蘇ってきた時の流れを感じるまま眠りについたが、こんなにも長く凍結されていた音が、再び出番を与えられて喜んでいるように思われたのは、この箱の中に思い出がこめられていたからこそであろう。でなければただの箱である。かっては中からネクタイピンやカフスボタンを取り出すたびチロリンと鳴っていた▼わが家にはもう一つ古いオルゴールがある。二十代のころ御礼にともらったものだが、こちらは「峠のわが家」を奏でていた。山小屋を模した木づくりの素朴なもので、今も大事に取ってある。次はこちらの封印を解く番である。どちらも捨てずに残しておいたのは正解だった▼オルゴールといえば忘れられないのが小学生時代に講堂で見た映画「緑はるかに」である。浅丘ルリ子のデビュー作で、印象に残っているのは、彼女がかわいかったからではない。この少女が「オルゴール」の「ゴ」を、われわれが得意とする鼻濁音ではなく、清濁音で発音したことである▼「ゴール」といえばわれわれとて清濁音となるが、普段は「ゥゴ」と鼻濁音に傾くことが多い。「オルゥゴール」が「オルゴール」と変じたから、ほう都会の子はこういう言い方をするのかと思ったのだった。わが「タイムカプセル」はガラクタがけっこう詰まっていた。 |
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☆★☆★2009年05月01日付 |
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電話帳をめくっていて気付いた。電話の持ち主がすでに故人となっているにもかかわらず、名義がそのままになっている家が実に多いという事実だった▼実際、友人の電話はいまなお亡き父親名義。「まだ家督を譲られねぇのが?」と冷やかすと「面倒だし、それでいいど」との答え。そんな「面倒くさがり屋」が意外に多いことを電話帳は物語っていた。名義人が亡くなって二、三年というのならまだしも、すでに鬼籍に入って何十年という故人もここでは「健在」だ▼そこでア行から丹念に眺めていくと、あるわあるわ。没後数年の「在籍」は序の口。何十年前に現役だったあの人、この人。懐かしい顔ぶれがいまなお頑とにらみをきかせている。そうか。戸籍からは除かれても電話帳からまでは抹殺させたくないという遺族の思いが理解できた▼この行為は電話番号を調べる際、目的を果たせない結果を招くことになる。故人、本人双方を知っていれば問題はないが、本人しか知らないと「あそこは電話を引いていないらしい」と断念する場合もあるだろう。だが、必要な相手にだけ知ってもらえればそれで済むことの方が案外多いし、あえて名前まで「退場」させる必要もないのは確か▼携帯電話が重宝されて固定電話の出番が減っていくこれから、電話帳の存在も影が薄くなっていくだろう。名義変更しないケースが増えればなおさらだ。やがて電話帳が「過去帳」と変ずる時代がやって来るかもしれない。 |
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☆★☆★2009年04月30日付 |
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昼休みが終わるので帰ろうとする背中に仲間の声が飛んだ。「おめぇもジンケァネェなあ」と。「ジンケァネェは当地の言葉で「腎甲斐無い」(佐藤文治著『気仙ことば』より)の意だという。思わず笑ってしまった▼腎は腎臓のことで、精力を司る臓器だから、その甲斐のない(ケァネェ)人間は、情けない、頼りないといったことになるらしい。しかし冷やかした相手は「気の毒に」という文脈で使ったはずである。いまもあくせく働いている「甲斐性なし」に対し、毎日が日曜日の「自由人」が送ってくれた同情の気持ちがこの言葉に込められている▼「気の毒に」といった言葉ならこのニュアンスは伝わらない。同情しかつ幾分か現役であることを羨む気持ちが、この方言の持つ温かみに要約されるだろう。相手に面と向かって「頼りない」と言ったら喧嘩になる。だが、ジンケァネェには思いやりがたっぷりこもっている▼似たような言葉に「ジンネァ」があり、これは中間の「ケ」が抜けただけに見えるが、意味は正反対。決して「腎無い」ではなく「よくやった」「感心だ」というほめ言葉で、子どもの頃、何かを上手くやると「ジンネァ、ジンネァ」と持ち上げられたもの▼ほめ、おだててその気にさせる教育法が生んだ知恵が方言としてそのまま残っているわけだが、この歳まで働いて「ジンネァ」と言われるよりは、やはり「ジンケァネェな」と同情される方が、たそがれ人生にはふさわしい。 |
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☆★☆★2009年04月29日付 |
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詩才はないが代わりに酒才?をいただいて、一晩といえどもその世話にならぬことはない。それにしても唐代の詩人たちは酒をくらいながらよくも名作をものにしたものである。その源泉は酒にありと見てさしつかえあるまい▼唐詩の中にはよく「沽酒」という文字が登場する。「沽」は売る、買うという意味で、だから「沽酒」は酒を買う、あるいは酒店そのものを指す場合もあるようだ。では「沽券に関わる」の「沽券」とはなにか、深く意味を考えずに使ってきたが、調べてみるとこれは売り渡しの証文のことを言い、そこから体面、品位、信用などの意味合いを持つようになったものらしい▼ならば「券」の語源はなにかとついでに調べると、契約の際に使う割り符のこととある。木や竹を用いて契約書を作りそれを両截、半分ずつに分けて売り手と買い手が持つ。その裁断のために「刀」が用いられることから「券」という字が出来上がったと、白川静「字通」にある▼なるほどと感じ入り、では現代どのような券があるかと思いつくままに上げてみると、銀行券、証券、債券、株券、入場券、乗車券などなど券だらけなことに気付いた。唐代に比べ現代「沽券」のなんと多いことか。そのためにトラブルも多く、世界的金融危機もその紙切れに端を発した▼世界経済をリードすると自任していた国々は、国の債券、いや再建がならねば沽券に関わると必死だが、その点まともな銀行券も持たない当方など気楽なもので、「沽酒」が無上の楽しみ、そして酔生夢死を目指している次第。 |
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☆★☆★2009年04月28日付 |
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狂牛病、鳥インフルエンザについで、今度は豚インフルエンザが発生、メキシコではすでに八十人以上が死亡したという。まるで「三役揃い踏み」だ。いや、まだ馬がいるではないかと言われそうだが、昔から馬と鹿は風邪を引かないことになっている▼冗談はさておき、豚コレラだけでなく、豚インフルエンザまであるということは、他の動物も同様の病気を引き起こす可能性があるということだろう。いずれにしてもグローバル化というのは疫病もグローバル化することを意味する。わが国でも水際で食い止めようと検疫に躍起となっているが、風評被害をまともにくらう食品業界は頭が痛いだろう▼疫病といえば、世界中を震撼させた黒死病、つまりペストが代表格で、十四紀に大発生したこの伝染病で実に欧州全人口の三割が死亡したというから、戦争以上に恐ろしい。まだ一般の衛生思想が低かった少年時代、学校では「法定伝染病」の種類を暗記させられたものだった。「将校ペストル充填す」から始まり最後は「赤痢パラパラ痘瘡流行す」で終わる。これで後に加えられた日本脳炎を除く十種類の伝染病を覚えた▼しかし現在の「グローバル伝染病」は数を増やし、覚えきれないほどになってしまった。人間がいかに心掛けても動物にまで衛生思想を徹底させることはできない。悩ましいことではある。▼人間以外の動物に伝染病が発生しても人間には感染しないという勝手な思いこみがこれまではあった。しかし動物はみな同根であるという事実を教え込まれたのが現代である。食物連鎖の輪は人間も例外ではないということだ。 |
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