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風林山房便り

「松本清張生誕百年」(2)

2009/02/12
 前回の(1)で、1968年に東京・浜田山の松本清張邸に2回お訪ねしたことを書いた。それで2回目に伺ったとき、徹夜明けで真っ赤な目をしておられたので、「超多忙な人のところへ気安く来てはいけない」と思い、それきり遠慮していた。その時期に森村誠一さんが江戸川乱歩賞を受賞し、選考委員の清張さんのところへ挨拶に伺ったら、けんもほろろな扱いを受けたそうだ(松本清張記念館発行の講演集「清張と私」より)。

 にもかかわらず、わたしがお招きいただいたのは、北九州出身という理由にほかならない。旧小倉市で小さな印刷会社を転々とし、朝日新聞西部本社時代も広告の版下という地味な仕事で、記者生活ではなかった。その不遇な時代があり、「北九州嫌いだった」と訳知りに解説する人もいるが、それは事実に反する。

 北九州市立中央図書館が開館したとき、清張さんは蔵書千冊を寄贈している。母校の天神島小学校へは、立派なグランドピアノを送った。あるとき北九州青年会議所が、清張さんに講演を依頼したら、快く引き受けて講演料を受け取らなかった。それだけではなく、文庫本1500冊に筆書きで署名し、入場者にプレゼントしている。一冊ずつ署名するだけでも、たいへんな労力が要り、何日間かかったことだろう。これらのエピソードからも、清張さんの郷里への思いのほどがわかっていただけるだろう。

 清張さんが亡くなられたとき、わたしは東京都杉並区に住んでいた。そのあと「杉並区議会便り」を読むと、区長にこんな質問をした議員がいた。
「松本清張記念館が北九州に出来るという。清張先生は長年にわたって杉並区民だったのに、なぜ杉並区が誘致しなかったのか?」
「実は杉並区としても、松本清張記念館を考えていた。しかし、いち早く北九州市が名乗りを上げ、ご遺族が書斎の保存や蔵書の寄贈を承諾されたとのことで、残念ながらあきらめたような次第です」

 その松本清張記念館が、開館して10周年である。行った方はおわかりのように、清張さんの書斎がそっくり移されて、床にタバコの火の焼け焦げがいくつもある。わたしがお会いしたときも、ぷかぷかタバコをふかしておられ、たいへんなヘビースモーカーだったようだ。

 ふつう作家の家へ行くと、お茶がわりにビールが出てくる。それから日本酒かウイスキーになる。清張邸へ伺うとき、どんな高級な酒を振る舞われるだろうかと、さもしい期待をしていたから、お茶が出ただけなのでがっかりした。しかし、清張さんはまったく酒を飲まない人だった。

 岩下俊作さんの死後、「富島松五郎伝」が中公文庫に収められ、解説は松本清張さんが書いている。「岩下さんは酒仙であった。酒徒は酔銘の仙境に時間をとられる。後輩だがわたしは氏に節酒をしばしば進言した。じっさい酒さえなかったら、氏は才能のおもむくままにもっともっと多くの作品を遺したであろう。そうしてそれらの作品はその多彩によって、読者をおどろかせ、愉しませたにちがいない。また現代作家の作品傾向をずっと前に先取りした先駆者として讃迎されたであろう。この短編集だけでもその再評価がなされるように」

 いうまでもなく「富島松五郎伝」は、映画「無法松の一生」の原作である。同じ原作で4回も映画化されているから、他社の文庫本の表題は「無法松の一生」になっている。しかし、中公文庫が「富島松五郎伝」なのは、遺族の意向もあるだろうが、清張さんの配慮もあったはずだ。そもそも中央公論の社長に、「自分が解説を書くから文庫に収めてほしい」ともちかけたのは、清張さんにほかならない。

 これらのことを思い出すと、清張さんが懐かしい。「私は文壇つきあいがなく寂しい思いをしているから、いつでも遊びに来なさい」とおっしゃっていただいたのに、遠慮して近づかなかったことが悔やまれる。とはいえ、わたしは当時30歳の生意気盛りで、「大流行作家に庇護されるのは潔しとしない」との思いもあった。まったく困った性分だというほかない。
写真:佐木隆三

プロフィール

1937年
朝鮮咸鏡北道生まれ
1963年
「ジャンケンポン協定」で新日本文学賞
1976年
「復讐するは我にあり」で第74回直木賞受賞
1999年
東京から北九州市門司区に移住
2006年
北九州市立文学館の初代館長に就任

  • 「犯罪」を主なテーマに、KBCの報道番組に多数出演。
  • KBC制作のドキュメンタリー「その女にこだわる理由」(2006年放送)は、佐木隆三氏の視点から北九州監禁殺人事件の真相に迫った作品。


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