現地の「神風特別攻撃隊慰霊祭」で目撃した
「日本軍−もうひとつの真実」
濛々と立ちあがる砂埃と共に、日章旗とフィリピン国旗を握り締めた子供達の一団が押し寄せてきた。子供達は、バンバン村を去ろうとする、我々日本人一行に大歓声を上げて「日の丸」を振りつづけるのだった・・・。
平成12年10月25日、フィリピンでは、パンパンガ州マバラカットをメインに、タルラック州バンバン、同州カパスの3か所で、「神風特別攻撃隊」をはじめ戦没者の慰霊祭が挙行された。私は、その3か所すべてをl日で回って歩いたのだが、フィリビンの子供達が会場を去る我々日本人訪問団に日章旗を振ってくれたのは、そのうちのバンバン村でのことだった。東南アジアの国々から、常に戦争の責任を追及されていると思い込んでいる我々日本人にしてみれぱ、かなり意外で嬉しいハブニングであった・・・。
「なぜ日本が戦争に至ったかよくわかる」
慰霊祭のメイン会場になったマバラカットは、首都マニラの北方約80kmに位置し、戦時中には、日本の「神風特攻隊」の飛行基地があった。最初の神風特攻隊がマバラカット飛行場から出撃して56年目にあたるこの日の慰霊祭は、鹿児島県・最福寺の住職・池口恵観氏〈63)らによって執り行なわれた。熱帯の強い日差しが照りつける会場には、池口住職の読経が流れ、あたりは厳粛な雰囲気に包まれた。
この慰霊祭には、特攻隊員の遺族ら日本からの参加者に混じって、フィリピン空軍将校やアメリカ人らも参列し、特攻攻撃で戦死した日本軍人に鎮魂の祈りが捧げられたのである。慰霊祭にはアメリカからの参加者もあった
(慰霊祭にはアメリカからの参加者もあった)
慰霊祭の取材にやってきたフィリピン人ジャーナリスト・ジョジョ・P・マリグ氏(25)は語る。「この式典は日本とフィリピンの関係を知るよい機会です。私は先の大戦で戦ったすべての愛国者は”英雄”だと考えています。とりわけその尊い生命を国家に捧げた神風特攻隊員は尊敬すべき”英雄”だと思います。またカミカゼ・アタックを決断した大西瀧治郎中将も本物の”武士”です」
フィリピン空軍軍楽隊の奏でる勇壮な『軍艦マーチ』が、マバラカット飛行場を見下ろすリリー・ヒルの大地を揺さぷった。
かつて大東亜戦争の”天王山”とまでいわれたフィリピン決戦。
圧倒的物量にものをいわせて押し寄せる米軍に、反撃を試みる日本軍に残された手段は、もはや250kgの爆弾を抱えて敵艦に体当たりする特攻攻撃しか残されてい なかった。
昭和19年10月25日、関行男大尉の率いる神風特別攻撃隊「敷島隊」の5機は、ルソン島西部のマパラカット飛行場から出撃し、レイテ湾のアメリカ艦隊に突入していったのである。
この特攻攻撃を皮切りに、終戦までに陸海軍合わせて3375機の特攻機が出撃し、4279名の命が散った。もっとも、特攻攻撃を受けて沈没・損傷した連合軍艦艇は350余隻を数え、連合軍将兵を震えあがらせた。
こうした神風特攻隊も戦後の日本では”戦争の悲劇”の代名詞としてしか語られていない。
ところが、”カミカゼ”を生んだフィリピンではその捉え方がまっ たく違っていた・・・。
式典に参列したダニエル・H・ディゾン画伯(70)は静かに語る。「いまから35年前に私は神風特攻隊の本を読みました。涙がとまらなかった。・・・こんな勇気や忠誠心をそれまで聞いたことがなかったからです。同じアジア人として、このような英雄がマバラカットと私の町アンヘレスで誕生したことを”誇り”に思っています」
1974年(昭和49年)、特攻隊の生き様に感動したディゾン画伯は、神風特攻隊慰霊碑の建立を思い立ち、マバラカット市長に進言した。そして画伯が感銘を受けた『神風特別攻撃隊』の著者である中島正氏(元201航空隊飛行長)・猪口力平氏(元第1航空艦隊参謀)の協力を仰ぎながら、やっとの思いでマバラカット飛行場跡地に慰霊碑を建立することができたのだ。
しかし、残念ながらこの慰霊碑は、先のピナツボ火山の噴火によって喪失してしまったのである。Kamikaze Memorial Society of Philippines(フィリビン・カミカゼ記念協会)の会長を務めるディゾン画伯の自宅には、自らの手になる「敷島隊」の5人(関行男大尉・谷暢夫一飛曹・中野盤雄一飛曹・永峯肇飛長・大黒繁男上飛)の肖像画を掲げた、「カミカゼ・ミュージアム」が設けられている。
ピナツボ火山の噴火で埋もれてしまったが、特攻隊飛行場跡の慰霊碑建立に奔走したディゾン画伯(肖像画は画伯の手になる特攻隊員のもの。左上が関行男大尉)
肖像画の前に立ったディゾン画伯は、「関行男大尉」を見つめて再び語りはじめた。「私は、ヨーロッパ・アメリカ・中国・フィリピンの歴史観を様々な角度から検証してみました。その結果、なぜ日本が立ちあがり、戦争に打って出たのかがよくわかったのです。そして日本が、欧米列強の植民地支配に甘んじていたアジア諸国を叱責した理申も理解できたのです」
私の方に向きなおった画伯は右手に拳をつくって語気を強めた。「当時、白人は有色人種を見下していました。これに対して日本は、世界のあらゆる人種が平等であるべきだとして戦争に突入していったのです。神風特別攻撃隊は、そうした白人の横暴に対する力による最後の”抵抗”だったといえましょう」
「神風特攻隊をはじめ、先の大戦で亡くなった多くの日本軍人をどうか敬っていただきたい。これは私から日本の若者たちへのメッセージです・・・」
東南アジア諸国の中でも「反日的」と思われがちなフィリピンで、こんな考えを持つ人物に出会うとは思わなかった。
さらに、私にはディゾン画伯の、「私達フィリピン人は白人支配の犠牲者ですょ」という言葉が耳について離れない。
この”疑問符”を取り払ってくれたのは、地元通訳のマリオ・ピネダ氏(73)の証言だった。(続く)
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博識なにっきんさんにそんなふうに言われると恐縮ですw
フィリピンや台湾、その他あの戦争で日本に関わり合いのある国々はいろいろ複雑なんでしょう。
親日一色でも反日一色でもないんだと思いますね。
でも、悪い部分のみを取り上げる必要性は全然ないわけでこういった評価もされているんだという認識は日本人には必要だと思います。