日本の占領は、後に大きな影響を及ぼすような利点を残した。
第一に、オランダ語と英語が禁止されたので、インドネシア語が成長し、使用が広まった。日本軍政の3年半に培われたインドネシア語は驚異的発展をとげた。
第二に、日本は青年達に軍事教練を課して、竹槍、木銃によるものだったとはいえ、きびしい規律を教え込み、勇敢に戦うことや耐え忍ぶことを訓練した。
第三に、職場からオランダ人がすべていなくなり、日本はインドネシア人に高い地位を与えて、われわれに高い能力や大きい責任を要求する、重要な仕事をまかせた。」
話は日本の敗戦後に移る
インドネシアの独立を約束した大日本帝国は敗れた
そして、日本軍によってその地を追われていたイギリス、フランス、オランダが軍隊をもって東南アジア諸国に再上陸を始める
現地の人々は、誰もがこう思った
東亜の理想は破れ、夢と潰えたのだ、と
しかし・・・
そこには、大和魂を持ったサムライ達がいた
8月17日、終戦のわずか2日後、インドネシアの民衆の前で二人の男が演説をした
男達は、かつて日本軍によってオランダ占領軍から救いだされた、スカルノとハッタだった
二人はオランダ軍の再上陸を目前にして、宣言文を高らかに読み上げた
「我々インドネシア人民は、ここにインドネシアの独立を宣言する
権力及びその他の移行に関する事項全ては迅速かつ簡略に遂行される
ジャカルタ 17th,8,'05
インドネシア人民を代表して
スカルノ−ハッタ」
ちなみに、この05年というのは、「皇紀」を表している、昭和20年は「皇紀2605年」にあたる
この時、スカルノとハッタの傍らには、4人の日本人もいた
海軍少将前田精氏
新聞記者吉住留五郎氏
陸軍司令官通訳三好俊吉郎氏
海軍嘱託西嶋茂忠氏
そして、50人ほどの若きインドネシア人達がいた
そして、スカルノとハッタに率いられ、インドネシア独立の戦いに立ち上がったのは、
日本軍によって創設されたペタ(PETA) : 祖国防衛義勇軍だった
彼らを統率し、最前線に立ったのは、2000人の元大日本帝国軍人だった
ペタ(PETA) : 祖国防衛義勇軍の歌
「アジア、すでに敵に向かい、蜂起せり
己を捨てて全力を尽くす
連合国を粉砕せんと 玉散ることもいとわず
進め 進め 義勇軍 アジアとインドネシアの英雄 清き東洋に幸あれ
古きアジア 不幸に苦しむ
烈しき圧制に 幾世紀も忍ぶ
【大日本 雄々しく立てり アジアを救い 我らを守る】
進め 進め 義勇軍 アジアとインドネシアの英雄 清き東洋に幸あれ」
この歌は、今も歌い継がれている
インドネシア独立戦争が始まった
-中略-
独立を目指すインドネシアにとっては日本敗戦後の戦いは、まさに死闘だった
日本軍による3年半の軍事訓練を受けたとはいえ、近代的兵器で武装したイギリス、オランダなどの連合軍に抗するのは困難を極めた
そう簡単に勝てるわけがない
敗れた日本軍の兵士たちはこの状況を見て、立ち上がった
独立を約束しながら果たせなかったという責任感もあった
多くの人が現地に残り、インドネシアの民衆の先頭に立って戦い、その半数以上が彼の地の土となった
このインドネシア独立戦争は連合国を相手に4年間も続き、死者80万人という犠牲を払った
そして民族の尊厳と独立に命を捧げた日本兵は、
インドネシア独立の英雄として、ジャカルタ郊外のカリバタにある国立英雄墓地に丁重に祀られている
http://tech.heteml.jp/2007/06/post_989.html
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