「通州事件」 ー直接の引き金 |
大きく分けて、「誤爆説」「ラジオ放送説」「事前密約説」があります。以下、個別に見ていきましょう。
*ここではあえて「通州事件の直接の契機となった出来事」に焦点を絞っていますが、その背景には、当時の「冀東自治政府」における日本の政策、そしてそれに対する中国側の反発が存在することは、言うまでもありません。
「通州事件への視点」でも述べた通り、事件の背景を無視して「虐殺」のみを取上げることは一面的な議論である、と私は考えています。これはある意味では、日本側の「問題点」に一切目をつぶり、「事件」を中国側に対する非難の材料として利用することのみを目的とした「為にする議論」である、とも言えるかもしれません。ましてや、「南京事件」との「相殺」の材料として「事件」を論じるのは、大杉氏らも述べている通り、 とんでもない議論でしょう。
<誤爆説>
日本軍による「誤爆」が、「叛乱」の契機となった、とする見方です。通州事件の現地解決にあたった外交官、森島氏の記述
などに見られます。
森島守人氏「陰謀・暗殺・軍刀」より 通州事件 北京に関するかぎり、何等の不祥事件もなく、無事に過ごし得たが、一大痛恨事は北京を去る里余の地点、通州における居留民の惨殺事件であった。 通州は日本の勢力下にあった冀東防共自治政府の所在地で、親日派の殷汝耕の御膝元であり、何人もこの地に事端の起ることを予想したものはなかった。むしろ北京からわざわざ避難した者さえあったくらいだった。 冀東二十三県は塘沽協定によって、非武装地帯となっており、中国軍隊の駐屯を認めていなかったにかかわらず、わが現地軍が宋哲元麾下の一小部隊の駐屯を黙認していたのが、そもそもの原因であった。中国部隊を掃蕩するため出動したわが飛行部隊が、誤って一弾を冀東防共自治政府麾下の、すなわちわが方に属していた保安隊の上に落すと、保安隊では自分たちを攻撃したものと早合点して、さきんじて邦人を惨殺したのが真相で、巷間の噂と異り殷汝耕には全然責任がなく、一にわが陸軍の責任に帰すべきものであった。
(P127〜P128) |
田中隆吉氏「裁かれる歴史」より 長氏が報復を叫んだ通州事件とは如何なる内容のものであらうか。それは昭和十二年七月三十日冀東政府の首都通州に於て冀東保安隊の手に依つて行はれた二百数十名の日本居留民の虐殺事件である。 この事件の発端は、当時承徳に在つた日本軍の軽爆撃隊の誤爆からである。通州には元来冀東保安隊二ケ大隊と宋哲元氏の二十九軍麾下の一ケ大隊と、日本軍の歩兵一ケ大隊が駐屯して居た。この日本軍の歩兵一ケ大隊は二十九日夜南苑の攻撃に参加するため北平方面に出発した。三十日朝からこの冀東の保安隊の二ケ大隊は南苑を攻撃する日本に軍策応して、通州の西南端兵営に蟠居して居た二十九軍の一ケ大隊に対して攻撃を開始した。この攻撃を援助するため承徳から中富少将の指揮する軽爆隊が出動した。 この軽爆隊は軽率にも、二十九軍の一大隊を友軍と誤まり、友軍である冀東保安隊を敵と見て痛烈なる爆撃を浴びせた。冀東保安隊は激怒した。そして攻撃を中止して二十九軍と合流し叛乱を起した。殊にこの叛乱に拍車を掛けたものは日本軍が南苑に於て大敗を喫したとの宣伝であつた。 叛乱軍は直ちに冀東政府の主席殷汝耕氏以下の主なる官吏を逮捕すると共に細木特務機関長以下の日本居留民の殆んど全部を虐殺した。これが通州事件の全貌である。 南京周辺の残虐行為は通州事件に比すればその規模に於て正に雲壌万里の差がある。然し何れも日華事件の過程に於て日華両民族の間に生じた拭ふべからざる歴史上の汚点であることは間違いはない。
(P47〜P48) |
これらの「誤爆説」に対して、当時「北京特務機関補佐官」の地位にあった寺平氏は、このようなコメントを残しています。
寺平忠輔氏「盧溝橋事件」より
ところがこの戦闘に関連して、厄介な問題が起った。宝通寺の兵営と境を接している冀東保安隊幹部訓練所では、爆撃隊が対地戦闘を開始したと知るや、好奇心から隊員一同、広い校庭にとび出して、この戦闘を見物し始めたのである。 |
「誤爆」は現地の速やかな措置により解決し、「叛乱」の原因とはならなかった、ということであるようです。
しかし、森島氏・田中氏の記述も、このような「現地解決」の事情を知った上でのものであると推定されますし、また、この「解決」の事実が下級兵士にまで浸透していたかどうかも不明です。現段階では、「誤爆が原因ではない」という即断は避けておいた方が無難かもしれません。むしろ、寺平氏が「保安隊員」の「心中の鬱憤」に言及していることからもわかるように、ひとつの「遠因」として作用した、という見方も可能でしょう。
<ラジオ放送説>
「誤爆説」を否定した寺平氏は、代わって、「ラジオ放送説」を唱えます。
寺平忠輔氏「盧溝橋事件」より
そして最後に
と叫んでいる。 ―こうした気持に駆り立てられた冀東の保安隊総隊長張硯田、張慶余の両名は、それから寄り寄り反乱計画を立て始めたらしい。かねがね冀東顚覆(てんぷく)の策士として入り込んでいた、郭鉄夫あたりがこの虚につけ込んで総隊長連中をたきつけたのは事実だし、共産学生の一味がこれに合流していた事も確実である。
(P369〜P371) |
国民党の「中国有利」の謀略ラジオ放送を聴いた「保安隊」兵士が、このままでは自分も危ない、と保身のために叛乱を起こした、という説明です。
この「ラジオ放送」については、戦前の記事にも見られます。昭和十二年九月発行の「サンデー毎日」臨時増刊、「支那事変皇軍武勇伝」から引用します。
「通州保安隊の叛乱と殷汝耕氏救出記 荒木五郎の活躍」より
夜の十一時半からは、毎夜、東京からの戦況放送がある。細木機関長は、自分の居室で、ラヂオのスイツチを捻った。
機関長は満足さうに、うなづきながら、ダイヤルを廻していつた。突然、別の声が入つて来た!
全く、逆の戦況である。 「チエツ! また支那の逆宣伝か」と、中佐は舌打ちしながら耳をすます。
毎夜のように、でたらめの電波をまき散らす南京のデマ放送だ。このデマ放送に聴き耳をたててゐる保安隊員の殺気立つた顔が、すつと、中佐の脳裏をかすめた。 「モシモシ、外務省の警察分署です。特務機関長ですか? 保安隊営舎の様子がどうもをかしいのですが・・・、いま三個中隊くらゐの隊員が、政府の方へ歩いて行きましたが、この夜更けにどうも変だと思ひます・・・」 切迫した話声の間にも、警察分署の大時計がヴンヴンと二時を打つのが聞えた。 「よし、私はすぐ政府へ行く。各方面に手配して、警戒・・・モシモシ、モシモシ」 電話は中途で切られた。
機関長は、手早く軍装をととのへた。特務機関副官の甲斐原少佐に急を告げて、そのまま、冀東政府にかけつけた。闇に沈んだ政府の門外は、すつかり制服の保安隊員で囲まれてゐた。みんな銃を握つて殺気立つてゐる。拳銃を持った学生らしい姿も交つてゐる。中佐を見ると、パラパラとかけよつて、忽ち、周囲をとり囲んだ。 「特務機関長だ!」 中佐は大声で一喝した。気をのまれて、たじろぐ隙に、素早く庁舎にとび込んだが、殷長官の姿は見えない。すぐ、殷長官の邸へ回ってみた、居室にも、寝所にも長官の影はない。明らかに拉致されたあとだ。 中佐は再び表へとつて返した。静かな夜は一変して、銃声の嵐に包まれてゐた。中佐は再び暴徒に取り囲まれた。銃口の真只中で、最後の説得を試みたが、どうして、その声が彼らの耳に入らう。 「日本軍は大敗したのだ」「このままではわれわれも危い」「中央軍へ合流せよ」「日本人を殺せ」 「ダダン!」 中佐を取囲んでゐた銃口が火を吐いた。中佐の抜き放った日本刀が、闇に踊つた。悲鳴とともに数人の暴徒の影がとびちつた。中佐の大喝が、銃声をさいた。そして、つひに巨木を倒すように、細木中佐の身体が大地にくづ折れた。 (昭和十二年九月発行の「サンデー毎日」臨時増刊、「支那事変皇軍武勇伝」 P80〜P81) *「ゆう」注 ご覧の通り、この記事は、死亡した細木中佐を主人公にした読み物風のもので、この場面は「想像」
に基づくものと思われます。実際には細木氏は「遊郭で襲われた」という情報もあります。しかしこの時期、「ラジオ放送説」が一般的であったことがわかる大変興味深い記事ですので、ここに取上げました。 |
戦前においては、この見方が結構ポピュラーなものであったようです。陸軍省新聞班・陸軍砲兵少佐であった岩崎春茂氏も、同様の見方を示しています。
岩崎春茂氏「戦の北支より帰りて」より かくの如き二十八日の戦況に就きまして支那側は如何なる宣伝をやつたのでありませうか。 (昭和12年8月25日、東京軍人会館にて行われた講演の速記録。朝日新聞社『支那事変 戦線より帰りて』P48〜P49) |
<事前密約説>
1986年、反乱の首謀者だった張慶餘の回想記が公表されました。その中に、盧溝橋事件以前から、「日本打倒の密約」があったことが述べられているようです。岡野篤夫氏が、この回想録を出典として書かれたと見られる「盧溝橋事変風雲篇」の内容を詳しく紹介していますので、以下、見ていきましょう。
岡野篤夫氏「通州事件の真相」より 商震が京津地区から退き、代わって宋哲元の第二十九軍が進駐し、新たに冀察政務委員長となったとき、張慶餘らと宋哲元の間には何のつながりもなかった。宋哲元は表向き日本との協調を表明しており、互いにその本心を明かすことは至難のわざであった。これを結びつけたのは哥老会であった。「盧溝橋事変風雲篇」は、両者が哥老会の会員だったことだけで、そのつながりを当然としている。
哥老会という言葉は日本人には馴染みが薄いが、これは哥弟会とも言い、清朝に亡ぽされた明朝の遺臣、失業軍人などによって組織された地下の秘密結社である。様々な名称を持つ分派に分かれ、紅幇(ホンパン)、青幇(チンパン)などもその一派である。中国全土にわたってその組織細胞を持ち、平素は盗賊や闇商売などをしているが、互いの間では信義と任侠を建前とし、然諾を重んじていた。その隠然たる勢力は計り知れないものがあり、幾多の有名な大親分が現れて、時の権力者に利用されている。上海の張嘯林、吐月笙などというボス達は闇の帝王であって、蒋介石の上海クーデターを成功させた。とにかくその規模と歴史については、われわれ日本人の考え及ばぬものがあったようである。
張樹声は哥老会の河北省支部の指揮者の一人で、張慶餘等はその子分であった。張樹声は大物の宋哲元を信頼させるだけの顔があったようである。その張樹声の内密の要請により、宋哲元は人眼をさけて、天津英租界十七号路の私邸で張慶餘、張硯田と遇った。宋哲元は言った。
「お二人の祖国愛は日頃からよく存じており、最近また俊杰(張慶餘のあざな)兄からお二人がカを合わせて抗日を念願されていることを聞き、自分は政府を代表して歓迎の意を表する。ここにまずお二人に申さねばならぬことがあるので注意されたい。この宋哲元は決して売国ではないので、今後お二人が私に対し他人行儀をされないよう希望し、かつ立場をしっかりさせて、再び動揺しないよう希望する」。
こう言い終わると蕭振■(冀察政務委員会経済委員主席)に命じ、二人にそれぞれ一万元を渡した。
二人がお礼の言葉と共に「われわれは今後協力して委員長に追随し、国家のため忠節を尽くしたい」と述べると、宋哲元は「すばらしい、すばらしい」と言って握手した。このことが保安隊の通州決起と関係がある、と張慶餘は書いている。
この時期、宋哲元は日本の田代軍司令官を真の友人であると称し、日本軍との協力を誓っていた。日本軍は全く迂闊でお人よしだったと言えるが、その理由は日本軍に中国と戦う意思がなかったからで、目的とするところは、居留民の保護と権益の擁護であった。ところが、国民政府や中国共産党は、その権益擁護や日本人の居住することを「侵略」と考えていたのである(他の諸外国に対してはそう考えなかったらしいが)。
盧溝橋事件が勃発したとき、宋哲元は山東省の郷里に帰っていたが、張慶餘は腹心の部下・劉春台(保安隊教育訓練所副所長)をひそかに北京に派遣し、河北省主席(第三十七師長)馮治安に指示を仰いだ。宋哲元から馮治安に張慶餘、張硯田との密約が伝えられていたことが察せられる。馮は「現在、わが軍と日本軍とは、和するか戦うか未決定であるから、張隊長にしばらく軽挙しないよう伝えられたい。わが軍が日本軍と開戦するときを待って、張隊長はその意表に出て通州で決起し、部隊を分けて豊台を側面から攻撃して挟撃の効果を収められたい」と述べ、第二十九軍参謀長・張 樾亭と連絡を保つよう申し付けた。劉春台はその足で張樾亭に面会し、張樾亭は張慶餘と張硯田の部隊を中国第二十九軍の戦闘序列に入れた。
同じ頃、通州の和木特務機関長は冀東保安隊幹部と連絡会議を開き、通州を第二十九軍から守ることを協議した。この席で張慶餘は、各県に散在する部隊を通州に集中することを提起した。これに よって張慶餘の第一総隊と張硯田の第二総隊が逐次通州に集結したのである。第三、第四総隊は動かなかった。
そして張慶餘は「自分は日本軍が大挙して南苑を侵犯し、かつ飛行機を派遣して北平を爆撃したのを見て、戦機すでに迫り、もはや坐視出来ないものと認めて、ついに張硯田と密議し、七月二十 八日夜十二時、通州で決起することを決定した」と書いている。
日本軍は北京を爆撃したことはない。南京のラジオ放送は「北京の日本軍は中国軍に撃滅され、蒋介石は近く二十九軍を提げて通州を攻撃し、売国奴殷汝耕を血祭りに上げる」と宣伝していた。形勢を観望していた 張慶餘が、この放送で意を固めたことは想像し得る。
通州城外の傳鴻恩部隊が萱島部隊に攻められたとき、これを見殺しにして動かなかったことは、張慶餘が必ずしも第二十九軍に忠節を尽くしていたとは言えない。(『正論』1990年5月号所収 P225〜P227)
ただし、張慶餘の回想は、「抗日」のスタンスを強調する方向での一定の「脚色」がある可能性は否定できません。例えば、秦氏は、このようなこのような見方をしています。
秦郁彦「盧溝橋事件の研究」より
張慶餘は、回想記のなかで久しく以前から抗日を決意し、冀察幹部と通謀して反乱の機会を狙っていたと主張するが、二十七日早朝の戦闘で傳営(ゆう注 「傳営長」の誤植と思われます。中国側第ニ九軍)と共に戦う機会を見送っている点からみても、説得力は乏しい。むしろ保身に徹するか、勝ち馬に乗ろうとして形勢を観望していたと思われる。
(P316〜P317)
通州で反乱にぶつかり九死に一生を得た同盟の安藤記者も、二十八日夕方に冀東政府内で同主旨のラジオ放送を聞いているから、張慶餘らはこのデマに踊って反乱に踏み切ったのかも知れない。誤爆や萱島連隊の移動は、それを促進する材料となったのであろう。
(P317)
以上をまとめると、「密約」が存在したのは事実だが、張慶餘自身はその「密約」の実行をためらっており、最終的に実行に踏み切らせた材料としては「誤爆」なり「ラジオ放送」なりの要因もあったのかもしれない、ということになりそうです。(なお、このうち「誤爆」が要因であるかどうかについては論者の見解が分かれています)
(2004.8.18記)
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