2008-12-29
■[economics] 経済学の超重要な前提

今年の個人的bic issueのひとつは社会学者の芹沢一也氏の知遇を得たことです.そんなわけでセミナー参加以降経済屋としては場違いな評論系のメルマガ(αシノドス)にエッセイを書いたりしています.いままでと読者層が全く異なるので反応も新鮮です.
そのなかで,これはまじめにとりあげにゃあなぁと思ったのが,
です.エントリそのものは少し前に読んでいたんですが,その後中谷巌氏の例の本を呼んで変な意味で重要さを再確認.
まず,細かいところとして,
ここでわたしが注目するのは、どうして「従属論」は間違っているのかという部分ではなく、逆に飯田さんが「従属論にもある程度の根拠があるといっていえないことはない」とした部分だ。正直言って、どうしてこれが「従属論にもある程度の根拠があるといっていえないことはない」例になるのか分からない。
、仮に旧宗主国としか取り引きできなくて、そのために圧倒的に不利な切り分けを受け入れるしかなかったとしても、それでも「貿易は旧植民地国にとって有益」であり従属論ははじめからずっとまったく無根拠だというのでなければおかしい。
ですが,全くご指摘のとおり.トークからの起こしということもあり少し脇が甘かった……反省します*1.僕が何を言いたかったのかというと,
- 自由な取引(の有無)
- (取引の際の)交渉力
のはわけて論じなければならないという点です.
従属論がなぜ今も昔も間違いかというと,不平等の出自が「取引」であると思ってしまったこと(実際は「交渉力」が原因だったにもかかわらず).そして,「昔はある程度は……」と僕がお話したのは,昔は(交渉力の面での不平等ではあるが)確かに不平等が存在したが現在では正当化が困難だという点においてです.
で,続く大きな話題は「自由な取引は必ず厚生を改善する」という点が「正しさ」とが異なるという点.『ダメな議論』書いときながら「正しい」なんて定義なしの単語で語るんじゃない!という耳の痛いご指摘のとおりなのですが,「自由貿易は必ずそうでない場合よりもマシ」と言ったほうがよかったですね.
「改善的」だけど「正しい」とは言えない例として,macskaさんがあげるのが「交換と強盗」の例です.
ある人が別の人に暗闇で銃をつきつけて「命がおしければ財布を寄越せ」と脅迫した場面を考えてみる……(中略)……抵抗する(取り引きに応じない)か」という選択肢がある。抵抗して銃で撃たれて死ぬことに比べれば財布を失うだけで済む方が被害者にとって利益になっているし、犯人にとっても財布を奪うために人殺しなんてしない方が良いに決まっている。
この極端な例をみると,取引の結果を決める要因はさっきのにもうひとつ加えて,
- 自由な取引(の有無)
- (取引の際の)交渉力
- 初期保有(取引拒否時の所得・資源・権利の分配)
だということがわかります.ここにおいても自由な取引は状況改善的.しかし,強盗の場合交渉力は圧倒的に強盗側に強みがあるし,初期保有が襲われた側は拒否時の配分は「死亡」なんだから圧倒的に不利です*2.
強盗が日常的な用語法において「正しくない」のは特に論証の必要はないでしょう.その意味で状況改善的であることが「正しさ」の証拠にはなんらならないことは確かです.しかし,逆もまた真なり*3です.ある悪徳のプロセスに自由な取引が含まれていることは自由な取引を否定するいかなる証拠にもならない.
なんでこんな回りくどいことをいうのか……そのきっかけになったのが中谷巌氏の「転向」です.問題を適切に切り分けることができていないから,うまくいっている経済を見ると資本主義全体がすばらしいと感じ,そうではない経済を見ると資本主義全体を否定してしまう.その意味で中谷巌氏の新著は「転向」ではなく「いつもどおり問題の切り分けができないてない」だけなんではないかと思えてきたり…….
さて話を戻して,では強盗のような悪徳をなくすにはどうすればよいだろうか.自由な取引をなくす(強盗に財布を渡すことを禁じる)のは無理でしょうが,仮にこれが可能なら強盗なんてしても仕方ない.強盗以外の犯罪を選択するであろうから強盗「は」なくなるだろう.
交渉力の差をなくすというのはありかもしれない.強盗が銃ではなく棒切れで武装している状況にする,または襲われる側も銃を持つ……後者はかなりやばい世界だが.そして初期保有を変える……襲われた側がぜんぜん金持ってないとか強盗候補者が金持ちなら強盗という行為に及ばないかもしれない.
ちょっと無理やりになっちゃったので,この話を格差の問題に置き換えてみましょう.労働市場において,資本家と労働者の間の取引の結果を決めるのも「取引の自由度」「交渉力」「初期保有」です.
取引の自由度を下げるというのはどうか……強盗の場合と同様これは根本的な「解決法」ではある.雇う側にとっても雇われる側にとってもその労働市場(市場と呼べるかどうか疑わしいが)の魅力は低下します.すると,より自由な取引が許される場所に逃げる.またはこのような取引自体をあきらめてしまうこともあるでしょう*4.かくして労働者は「労働者に有利に見える取引制限」のせいで自由な取引環境では得られた働き口という大きな利益を失うことになる.
次に交渉力.売り手と買い手のどちらが有利かは需給のバランスによってきまる.労働者が不足しているなら労働者の交渉力は強いし,逆は逆.単純非熟練労働者の待遇が改善されるためには「労働者不足」の状況をつくらにゃならん.これがぼくがずぅぅぅぅぅぅっといっているパイの拡大が必要だという理由です.もっとも労働者の交渉力が強すぎると雇う側にとってその市場の魅力は大きく低下する.両者のバランスがうまく言ってないと両者にとって不幸な状況がおとづれます.
また,政治によって交渉力を変える方法もあるにはあるんですがこれは2つの難点があります.ひとつに企業の活動はますます国際化しているという点.取引の一方に過度の交渉力があるとその市場(ここでは日本の労働市場)そのものを(雇い主である企業は)避けるようになるでしょう.要するに海外生産を選択する企業を増やすだけかもしれない.もうひとつは先進国では「いつでも労働者側の交渉力が低すぎる」って状況ではない点です.
余談ですが,パイの拡大なしに格差の是正を主張する人はどこから取るつもりなんでしょう.企業からとって……と考えている人が多いかもしれませんが,もともと日本の労働分配率*5って不況期に急激に上昇して,最近低下してきていますがそれでも80年代よりやや,その前よりははるかに高いです.おれをこれ以上に上げるとなるとますます日本の製造業は縮小してしまう.
ここまでは経済学の問題.
ここからが別の話題.最後に初期保有.これは大きな問題……「生きるか死ぬか」見たいな状況ではかなり不利な配分でも飲まざるを得ない.ここからは価値判断問題のウェイトが高くなってくる僕としては相続税の大幅引き上げ,累進課税の強化と教育・雇用訓練への支援etc.の腹案はあるけど多分に感情論なのでこれはいずれよそでお話しするとして……この段階に対して経済学ができるのは「目標の初期保有状態の達成のためにはどの程度の効率性低下がおきるのか」を示した上で,「いかに効率性を損ねないで目的の初期保有状態に近づけていけるか」という技術的な支援をするということになります.ちなみに……あたかも所得再分配は大幅に努力のインセンティブをそぐというような主張を見かけることがあるけど,これはそれほど確かな話ではない.それなりの再分配ならそれなりのコストで可能でしょう.少なくともここの市場に介入した場合よりもロスは少ないと思われます.
macskaさんの言うように,リベラル勢力は
自分の周囲にいるリベラルな価値観を掲げる運動や論者の多くが経済学の基本を理解していないために、目先の現実にとらわれた単なる思いつきに過ぎないような主張を繰り広げ、その結果として意図せざる弊害に直面してパニックに陥ったり、経済学的な真理が自分たちの側にあると標榜する保守派に有効な批判を返せなかったりすることが、とてもやりきれない。
という傾向がある.問題が取引・交渉力・初期保有どこにあるのかを明確にした上で考えないと,問題の解決に近づいていくことはできない(時として意図したことと正反対の結果をもたらす)でしょう.
最後に厚生経済学の第二基本定理みたいな話をながながすんじゃねーよと思った経済屋さんへ……そのとおりなんだけど,君も生まれてきた日から第二基本定理知ってたわけじゃないでしょ!フンだ♪
*1:その日の僕の主題はoptical frogさんの追記のとおりです.
*2:初期保有が交渉力を左右すると考えた方が多いかと思いますが,これは分けて考えたほうが便利です.
*3:関係ないけどこの言葉あまりすきくない.だって「逆は真」とは限らないのにこの言葉のせいで勘違いしている学生が結構いるんですよね.
*4:一国社会主義が失敗に終わる大きな理由.もっとも世界全体が社会主義になっても地下経済という外部は残るので話は同じかもしれない.
「取引の自由度」とは、厳密に定義すれば、どういったことになるのでしょうか。
会社法が、どれだけ厳しいか(?)。厳しいとはどういうことか??企業会計基準の緩さ、でしょうか。営業利益の算出基準は個々の企業で自由に決めて良い、というその緩さ=自由さのことでしょうか??アナキーな社会が、パイの最も拡大しやすい社会だということでしょうか?
そう考えると、その「自由」の反対概念として使われている「制限」「規制」、そしてそれを体現した「制度」についても、よく分からなってきます。
思想、信条、社会の合意事項のことなのでしょうか。だとすれば、思想、信条、合意事項の「ない」「自由な社会」などあるのでしょうか。
「制度」を厳密に定義できないのに、「自由」を厳密に定義できるのでしょうか。
「規制」をもっと違う形で表現したのが「強制
」だとすれば、もちろん「強制」についてもきちんとした定義ができていないと、「自由」についても定義ができない、と考えるのは駄目なのでしょうか。
「自由」とは緩やかな定義があるのでしょうか。
上の文脈からすると、先生の考えでは、「脅迫」とは、「自由な取引」と受け取ってよろしいのでしょうか。「脅迫」は、ただ問題を単純化するための例にすぎないので、理論とは全く関係がないということでしょうか。
アメリカなどの諸外国は、労働者の加盟する機関投資家が大企業の株主であることが多く、そちらへの配分は多いため実質的には労働分配率は日本より多いのでは?そもそも、日本の内部留保は諸外国に比べはるかに多い。その理由として株主特に労働者の加盟する機関投資家に分けているのが実情で、取れないわけではないでしょう。たしかに、安易に諸外国より多い日本企業の内部留保を減らすことには疑問がつきますが。経済界は効果的な代替案を提示してきたのかという点は考える必要はあると思う。それもなしで経営者責任も取らずに安易に逃げているだけでは、「既得権益」を守っていると言われても仕方がないのではと考える。
また、「格差の是正」につながるかどうかはわからないけれども、「ワーキングシェア」がありますよね。それを利用する案もなくはないのでは?また、世界的には課題も多いですが「フェアトレード」もあるから安易にどこからとるという発想がそもそもおかしいのでは?
まず双方の合意事項(XとYを交換したい)の実行が可能か否か,またそれに条件(そのような交換の際になにか当事者以外への支払いが生じる)がつくかどうかではかると良いと思います.これが経済的な自由の緩やかな定義何ではないでしょうか.
強盗の例はうまくいってないかな〜.脅迫の部分は初期分配の変更(で武装の度合いが交渉力)何じゃないかと思うんですがもっと上手な切り分け方ありましたらご指摘下さい.
>労働者の加盟する機関投資家
この場合はある人が「労働者兼資本家」なだけなので特に考慮する必要はないでしょう.内部留保の多さはこれまでは成長力(つまりは配当するよりその企業の再投資の方が有利)で正当化されてきましたが,確かにこの正当化は難しくなっているのはそのとおりです.
>ワークシェア
昨日オール・ニート・ニッポンの方たちお話ししたときもこの話が出たのですが,例えば労働者の平均的な生産性が2%くらい伸びている中で成長無し(人口動態はいったん捨象)だと毎年2%の労働力が不要になっていく.これを「2%の首切り」で達成するのが今までの方法,「2%の時短」で達成するのがワークシェアリングとまとめられるでしょう(そして2%の成長でそういうのがおきなくしようというのが僕はベストだと思うんですが……).
で,「2%の時短」を導入しようとすると「いや生産性が伸びた分俺は労働時間そのままで2%昇給がいい」っていう人の説得が必要です.あ.なんかこれって「2%のインフレを我慢して成長を維持しよう」と似てますね.僕としては成長維持の方が実質的な所得が伸びていくので嬉しいと思うんですが,ここは消費と余暇どちらをみんなが求めているかなんじゃないでしょうか.
>フェア・トレード
フェア・トレードについてよく知らないのであまり断定的なことは言えません.僕は健康食品をフェア・トレードのNPO経由で買っていますが普通の取引+寄付のような気分でいるんですがどうでしょ.
取引の自由度とは?
>まず双方の合意事項(XとYを交換したい)の実行が可能か否か,またそれに条件(そのような交換の際になにか当事者以外への支払いが生じる)がつくかどうかではかると良いと思います
つまり、「取引の自由度」とは、当事者(仮に、A君とBちゃんの二人)の取引に対する、第3者(仮にC君)の影響力の強さ、ということでしょうか。
例えば、C君が、A君とBちゃんに、取引を行うときは関税を払いなさいとか。
そこで第一に、疑問に思うのですが、そもそも、ここで第3者とは誰を想定すべきなのでしょうか。僕の自己中心的な想定では、政府とか、自治体とか、地域とか、そんなものが浮かびます。
当然、日本人と外国人の取引であっても、日本の政府、その人がすむ自治体、地域は全くの第3者とは言えない気がします。
さらに進めば、自分と全く関係しない取引(自分が第3者である取引)に、わざわざ介入しようとする第3者がいるのでしょうか。言い換えれば、取引に介入する人は、どんな人であれ第3者ではなくステークホルダーである、と想定したくなるのです。
であれば、どんな如何なる取引であっても(規制があろうが、なかろうが)、「自由な取引」になるのでは?と思うのです。
ここまで間違っていてはすいません。今日は、正月無礼講ということで、僕の意見を述べさせて下さい。
そもそも「自由な取引」という概念が、全く概念として成り立たないものであるならば(僕にはそう見える)、取引が「自由」か否か、を論じても生産性はない。
他方で、比較優位等で、経済的な取引を活発化させれば、社会の富が増大するが(ここでは富の「種類」は問題としない)、その取引には数多くのステークホルダーがいて、ステークホルダーの代表格が政府であるという事実は知られていることか、と思います(僕の偏見もあるかも)。
であれば、ステークホルダーたる政府が取引に「介入」するのは当然だが、それが取引の停滞させるのは面白くない。でも、やっぱりステークホルダーだから取引に「介入」せざるをえない。
であれば、取引にとっては、「取引の自由」こそが「経済の発展には」大切だ!とただ叫ぶよりも、ステークホルダーたる政府のような第3者が、取引へのどのような「介入」を実行すれば、取引は低調にならないのか、「介入」の理想的なあり方、を学問として議論し、探求した方が良いと思います。
ただ、理想的な介入というものが「なにもしないこと」だと言われるかもしれませんが、そうであれば、介入を「なにもしない」でいい社会にするにはどうすれば良いのか(というより、世界は既にそのような状態であるのでしょうか)、を議論した方が生産性があるのではないか、と思うのです。
>「取引の自由度」とは、当事者(仮に、A君とBちゃん
>の二人)の取引に対する、第3者(仮にC君)の影響力
僕もそう考えています.そしてその第三者は政府・自治体あたりというのもその通り.彼らがここに影響力を行使するのは「それによって何らかの意味で状況を改善できる」と考えるからでしょう.
政府がステイクホルダーだとして(僕もその通りだと思う),安易な介入はその政府の利得(おそらく平均的な国民の生活等になるでしょう)を増やすためにはマイナスだというのが僕の見解です.
「A君,B君間の分配を公正公平にすることができるから」という理由での介入.これが一番多そうですが,実はあまり旨い手ではない.仮にA君が「取りすぎている(ように見える)」という理由でこの取引に介入すると,その介入によってA君は同取引そのものから手を引いてしまう可能性がある.分配の公平性を考えるときには個々の市場での公平(に見える)分配を強制するよりも,このような「制限があるから逃げちゃう」という行動が一番おきにくい市場で一括して分配を考慮し(線型でないなら分担の必要があるけどそれはここではひとまず捨象),その他の市場はほっぽらかすのが正解だと思います.
これが近年の「貧困ビジネス攻撃」に僕が冷淡な理由でもある.それどころか僕は貧困ビジネスに感謝することさえあります……個人的な話ですが僕は人生の節目で何度か「貧困ビジネス」のお世話になっていまして,それがなければ経済学者になれなかっただろうし,その結果としてここで通りすがりさんと議論することもなかったでしょう.
ここで取引介入を正当化する論理は「無知のベール」に行き着くことになる.A君とB君の取引は「実はB君には損だけど(A君に騙されて)勘違いで同意している」から「規制が必要だ」っていう理屈です.これはものすごく難しい問題です.そう言うケースがあるのは否定しようがない.でもですね……なんというかきちんとした家に育った上品な「先生方」の「正しい損得勘定」ってどうも信頼できないんですよね.価値観の押しつけのような気がしてならない.
以前チャーリーと話したとき,「ベーシックインカムってある意味最強の自己責任論だよね」と言われたんだけど僕はその意味においてのみ自己責任論者なのだと思います.