桑名
「鋳物」「時雨蛤」「かぶら盆」

佐藤 誠也 (1980年04月号)

  桑名は尾張熱田の宿から海上七里の川港として古くから四国、・京大阪、・江戸と美濃、 ・尾張を結ぶ交通の要地として賑わいをみせていました。関が原の戦後、四天王の一人本多忠勝が城下町整備に当り、 江戸時代は徳川の親藩で東海道の重要な城下町・宿場町・港町として繁栄したところです。 各種産業も盛んで現在も標題の三つをはじめ味噌溜・醤油・家具、仏壇、タオル、サンダル、 安永餅など全国的にも知られたものが多くあります。

鋳物(キューポラのある町)
  「東の川口、西の桑名」といわれ、キューポラのある町として有名な桑名鋳物の歴史は古く、 本多忠勝が藩主となって慶長8(1603)年、員弁の房三郎を招き鍋屋町に住わせ鉄砲を鋳造させたのが起源だといわれています。 藩の奨励策のもと広瀬、辻内家を中心に明治初期まで神社仏閣の灯籠、梵鐘、鍋釜類を作っていました。 明治13年の洋式溶解技術の導入と辻内氏の「なま型」鋳込みと琺瑯鋳物の研究と技術指導が近隣に鋳物砂の産出と合いまって薄手で鋳膚の美しい桑名鋳物を発展させ、 機械工業の発達とともに今日の基礎を築いたわけです。最近は後継者難、原材料、燃料の値上りと確保の問題、 公害対策など多くの問題をかかえています。
時雨蛤(味も歴史も日本一)
  木曽、揖斐、長良三川と町屋川の河口で貝類がよくとれ、特に蛤の名所であって、江戸の将軍へ献上されるのが慣例となっていたほどでした。 蛤の食べ方は焼蛤か煮蛤で桑名宿の名物でした。前者は即席で旅人に供し、後者は土産品として売られていました。 この販路を伸ばしたのは水谷家(現在総本家貝新と呼ばれる一族四軒)で約200年前頃からです。 「時雨蛤」と命名したのは桑名市史のよると芭蕉の高弟各務支考といわれ、時の俳人佐々部岱山が今一色の業者から命名を頼まれ師匠の支考に相談したところ「十月より製し候事故、 時雨蛤と命題し・・・・・」として名づけたということです。
かぶら盆(元禄時代からの芸術品)
  以前は桑名盆といわれ宮通りの塗師勘六が元禄時代に作り始めたといわれ、 色々な草花や果物の絵を描いていたもので堅牢かつ優雅な漆塗りは人々の人気を呼んでいました。 その後文政時代に藩主松平楽翁公がこれを愛し幕府への献上品として画家谷文晃に命じて「かぶら」の絵を描かせたものです。 現在は「ぬし勘」17代目の伊藤さんが女手一つで「かぶら盆」の製造販売を続けているだけです。

−−会館事務局より−−
 上記「かぶら盆」の記載に「現在は「ぬし勘」17代目の伊藤さんが女手一つで「かぶら盆」の製造販売を続けているだけです。」 とありますが、読者の方から「他の店でも製造販売している」とのご指摘がありましたのでご紹介します。(重複する内容は省略)

 木地呂塗りで朱色に縁取りされた円形の盆におもにウルミ塗り朱漆や色絵蒔絵で描かれており当時は、草花など多様な文様が描か れておりました。
 また、盆の縁を変わり塗りの一種である青漆イジイジ塗りで処理しているのも特徴です。
 「漆工芸 漆師音(六代目 山本 翠松)」は、江戸初期から伝わる文化的作品でもあるイジイジ塗り桑名盆を再現制作し後世 にも伝えております。


三重の伝統産業 1980年