2009年5月9日17時2分
忌野清志郎さんの遺影を前に弔辞を読む竹中直人さん=9日午後、東京都港区の青山葬儀所、代表撮影
「清志郎さん、またね!」と手を振る竹中直人さん=9日午後、東京都港区の青山葬儀所、代表撮影
忌野清志郎さんに弔辞を送る大竹しのぶさん=9日午後、東京都港区の青山葬儀所、代表撮影
忌野清志郎さんに弔辞を送る甲本ヒロトさん=9日午後、東京都港区の青山葬儀所、代表撮影
忌野清志郎さん愛用の楽器・機材が飾られた葬儀会場=9日午後、東京都港区の青山葬儀所、代表撮影
僕が中学3年生の時、深夜のラジオから独特な歌が流れてきた。「なんて独特な声の持ち主なんだ」。それが僕にとって清志郎さんとの最初の出会いでした。それからずっと清志郎さんの音楽は、RCサクセションの音楽は、僕のそばにいました。そして僕は大学生の時に、古井戸の加奈崎さんの紹介で、本物の清志郎さんに出会え、僕たちの作っていた8ミリ映画に出演してくれることになったんです。でも、撮影途中カメラが倒れて壊れてしまい、清志郎さんの出演シーンはなくなってしまいました。それからライブで清志郎さんに会った時、清志郎さんが「竹中、あの8ミリ映画はどうした」と言ってくれたことを思い出します。その言葉は僕の心の中にずっと残っていて、いつかきっと清志郎さんと一緒に映画を作るんだと夢をふくらませてきました。そしてその夢はかない、清志郎さんは僕が監督した映画の音楽監督をやってくれて、日本アカデミー賞の最優秀音楽賞を取ったんですよね。清志郎さんは僕が映画を撮るたび、「竹中、映画を撮っているそうじゃないか。出番はないか」と必ず駆けつけてくれました。僕がテレビをやっている時も「竹中、出番はないか」と必ず駆けつけてくれました。僕が50歳になった時も、「竹中、おめでとう」と駆けつけてくれました。僕がどんなに落ち込んでいても、「竹中」っていつも声をかけてくれました。清志郎さんの30周年の時も、35周年の時も、「竹中、出番があるぞ」と声をかけてくれました。清志郎さんが5夜連続のラジオをやる時も「竹中、一人では間が持たないから来てくれないか」と呼んでくれました。僕が作った映画が映画館でやっている時も「竹中、お客さん入っているらしいじゃないか」って一緒に映画館に行ってくれて、お客さんが入っているのを見ながら「竹中、やったな、やったな」と何度も何度も言ってくれました。僕はみんなに自慢したいです。オレは忌野清志郎と友達なんだぜ!って。世界中の人に自慢したいです。ずっとずっと自慢していていいんですよね、清志郎さん。僕は、清志郎さんに何もしていない。自分のことばかりで。