無題
ちょっと忙しいです。
すこし、
更新を休みます。
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「教え」から「私」が問われるとき。
例えば、
「人が死ぬ(果)のは、生まれてきた(因)からである。病気・事故などは、死へ導くキッカケ(縁)である。だから、いま若いからって油断してはならない。死は、もう赤ちゃんとして誕生したときから定まっている。 たまたま、まだ現在そのキッカケがないだけである。 死に至るキッカケ(縁)さえ整えば、若くても死ななくてはならないのが命である。 だから、いま生きている事が尊いし、それを忘れている私が教えから問われてくる・・・・」
以上を、カルチャー的に、教養として聞くことはできる。「理屈として、なるほどな!」と思う。
しかし、である。
自分の身内に、大切な人に、いや、この私自身がまだ若い(と思ってる)年齢なのに、そういう死という「現実」が突然に直面してきたら、どうなるか?以上の「教え」に頷けるか?
そして、
「現実に直面したら、そんな教えなど理想論だ!」
となってしまうのか。
確かに、
「教え」と真向かいになることは「自分自身との格闘」だ。
でも、教えは、キレイゴトでも理想論でもない。
「俺は、アイツの死を認めないっ!」
と言ってみても、
やっぱり現実は、私の「想い」をこえて「ここ」にあるのだ。
例えば、
「いかなる命も殺してはならない、殺さしめてはならない」
という釈尊の言葉もそうである。
「大切な人や家族を誰かに殺されたら、そいつを死刑にしてやりたいと思うのは当然だ!アンタは、直面してないからそんなキレイゴトを言えるんだ!」
・・・・私もそう思う。
実際にその立場になったら、この僕が何をしでかすか・・・まったく分からない。おまえはキレたら怖い。。。と兄貴が言ってた(苦笑)
しかしである。
「教え」は、キレイゴトでも、理想論でもない。
また、得意になって他者に「したり顔」で語るものでもない。
「私が私と向き合う」ところにあるものだ。
実際に直面していないから・・・、と遠慮するのではなく、
逆に、
実際に直面してしまったら、「教え」がキレイゴトや理想論に変わってしまう。。。のでもない。
実際に直面した現実の中で、確かめられてきたのが「教え」である。
「教え」は、キレイゴトでも、理想論でもない。そこを間違ってはならない。
「教え」がぶっ飛んでしまうくらいの「現実」に直面しても、
やっぱり、「教え」に問うのである。
特に、
袈裟を着ている「私」は。
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室蘭市にある大谷高校での「花祭り」の法話、なんとか終了いたしました。
「開校記念日」の式典と合体して行われる「花祭り」という行事なので、生徒さんの他にも「来賓」の方もいらしゃって・・・・、さらに、近隣のお寺の「ご住職様」たちも来ていらっしゃって・・・。(やりずら~~い)
そんな緊張感が溢れる中、
私の出番が来て、約50分間、ノンストップで語りまくりました。
自分でも思うけど、よく喋るわ。。。俺(笑)。
ま、先月、この法話のご依頼をいただいてから、何について話すか、日々の中で考えたり、当日配布する資料(レジュメ)をパソコンで先週作成してたので、話したい内容の「骨子」はおおよそ決定していました。
ただ問題は、その話の流れの中で盛り込もうとした「実例」なんですわ。
今回は、自分自身の経験してきた中でのエピソードを紹介しようとしたのですが、実は、具体的にどのエピソードを話すか、最終的に決めないで、アドリブで本番に望んだので、
話の流れの中で、その「for example」の部分が弱かったかなぁ。。。自分についてのエピソードは、一歩間違うと「愚痴」に聞こえたり、「露悪的」に「自虐的」に受け止められかねないので、今日も気をつけながら語ったのだけれど、どうだったかな・・・。
眠たそうにしてる生徒さんも多かったけど、顔を真っ直ぐあげて、反応して聞いてくれる生徒さんもたくさんいて、嬉しかったです。
と言うわけで、
室蘭大谷高校の生徒の皆さん、ありがとうございました。
次のKONOの出番は、5月14日。登別大谷高校の「花祭り」の法話に行きます。今日と同じ内容を語るのか、それとも、全然違う話をするのかは、まだ未定。またこれからの日々の中で、考えてみます。
やっぱり、こういう「お寺」以外の場所に呼ばれ、何かを「表現」しなければならない機会は、自分にとって有り難いです。
当日を迎えるまで気が重いし、人前に出るのは疲れるけど、
でも、
その「つながり」の中で、
ものすご~~~く元気な自分になれる・・・。
そう、思います。
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今日(5月1日)は、
近所の室蘭市にある大谷高校の宗教行事「花祭り」に、
“法話講師”としてお願いされたので、お話をしに行く。
「花祭り」とは、
お釈迦様のお誕生をお祝いする法要である。
前にも書いたけど、
今回は、【BOSANソングライターKONO】の「法話ライブ」としてではなく、
【住職KONO】として、「法話」を約50分、生徒さんの前でしなくてはならない。
歌なし、ギターなし、サングラスなしで、高校にお話に行くのは、実は初めてなのである( ̄○ ̄;)!
自分も、約20年以上前、
京都の大谷高校に通ってたのだが、
やはり、仏教系の学校なので、
他の授業を休みにして「講堂」に集められての「宗教行事」が年に数回あった。
お参りをし、その後、ゲストのお坊さんや大学の先生の「講演(法話)」を聞かなくてはならなかった。
正直、ダルかったし、眠かったし、つまんなかった・・・(苦笑)。
みのや師匠の歌に、
♪♪あの日の自分が客席にいるから・・・・♪♪
というフレーズがあるけど、
今日、僕が行く高校には、
あの日の自分が体育館に座っている・・・
・・・・という風に考えると、
なかなかコワイものがあるな( ̄◆ ̄;)
大丈夫かな、俺・・・・(汗)
※高校の頃に体験した「行事」の中で、ゲストのお坊さんとか先生からどんな「法話」を聞いたか、ほとんど記憶がない。
でもひとつだけ憶えている話がある。それは、大谷大学の寺川俊昭先生が昔、恩師からいただいた言葉として紹介された次のフレーズである。
「皆さん、南無阿弥陀仏という言葉を知っていますか?
人は、必ず死ぬんですよ。
死というものを考えていない人生観は、アテにならないものなのです・・・」
この言葉は、ダルくて、眠くて、つまんないと思ってた高校生だった自分に、かなりのインパクトがあった。
「死というものを考えていない人生観はアテにならない・・・」
というフレーズは、ずっとその後の自分の課題になったし、
前半の
「南無阿弥陀仏って言葉を知っていますか?」
という言葉は、当初、後半部分とつながる意味が全然分からなかったけど、やがて自分の「問い」になっっていった。
明日、
僕が生徒さんの前でどんな話をできるのか、また、どう生徒さんに受け止められるのか、分からない。
でも、
あの日の自分が体育館に座っている・・・
とするならば、
精一杯、自分に与えられた時間の中で、
お話をしてきたいと思う。
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