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FWF -フットボールは未来の兵器である-
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2007/10/24のBlog
日本における「フットボール・パブ」といえば、ココ、恵比寿のフットニック

そのフットニック、以前からオーナーの今井さんから教えてもらっていた新店が大崎に出来ると聞いて、先日のお披露目レセプションに行ってまいりました。




場所は大崎駅前の再開発で出来た、シンクパークというドデカイビルの1階。目の前にはフットサルコートがある。
このフットサルコートは、大崎の駅のホームからも見えるので、山手線に乗っている人も見つけたことはあるのではなかろうか。あのフッサルコートの目の前に新フットニックがある。

で、これがまたけっこうに豪華な店になっていて驚いてしまった。
高田馬場から恵比寿に移転したときも、小綺麗になっていて感慨深かったのだが、さらにこのうえをいくランクアップぶり!

店にいったら、サッカーからラグビーに魂を売った女、島田佳代子セレブがいたので、フットニックの昔話などしてみる。高田馬場時代は薄暗い店内の中、カウンターにホットプレートがあったりしていたり、怪しい白人がたむろっていた。そんな時代がすでに懐かしいのである。ちなみにセレブ島田は当時の高田馬場店の常連。


恵比寿より席数が増えているので、こっちのほうが居やすいという人もいるはず。
おすすめです。自分もまた呑みに行きます。恵比寿より駅近だし!


日本でサッカー好きが集まる店といえば、このフットニックが確かにナンバー1。うらやましいかぎりのご盛況です。

がんばってください。 >今井さん




---------------------------------------
FootNiK大崎店

141-6001
東京都 品川区大崎
2-1-1 ThinkPark 1F
TEL: 03-5759-1044
---------------------------------------

10/25オープンだそうです








店いったら謎のトウモロコシみたいなのが出てきました。
ジュースにしたのを飲みましたが、微妙な味でした。
13万円でマチュピチュ」の著者でもあるセレブ島田によると、ペルーでは一般的な食べ物らしいです。つまんで生でも食べましたが、さらに微妙な味でした。食べた後に、これは生では食べれませんといわれました。



最後になりますが、セレブ島田のラグビー本はけっこうスゴイ本です。サッカー界に戻ってくるのはいつの日になるのでしょうか?
2007/10/22のBlog
イギリスでは新自由主義的な転換が最も早く行われたがゆえに、新自由主義の限界もいち早く明らかになった。新自由主義的な改革とは玉葱の皮むきのようなものであり、「官から民へ」を推し進めた終着点で、政府が何をするのかについては何の構想もない。新自由主義はその意味で政治の否定なのである。

ブレア時代のイギリス 山口二郎 







イギリスは二大政党制の国であるが、この十年は労働党の政権が続いている。

ところで、労働党政権を誕生させ、戦後最長の同党の政権を率いたトニー・ブレアは、いろんな意味で、小泉元首相と似ている。
党内改革を大胆に実行する手管。世論の風を一手に引き受けるメディア戦略。
ブレアにはスピンドクター(情報操作の専門家)を活用する手法(飯島秘書官の存在が非常に似ている)。

(ブレアのマスコミ戦略や情報戦略の内幕については「仁義なき英国タブロイド伝説 山本浩
」が面白く取り上げていて興味深い内容となっている)

そしてさらに何よりも似ているのは、個人的で人格的な魅力を最大限に発揮した強いリーダーシップスタイルである。これが世論を味方にし、改革を可能にした秘密である。



しかし、もちろんブレアと小泉は政治家として目指したところは全く違う。
さらに政治的背景として、もっとも違うのは、ブレアがサッチャリズムという新自由主義的な政策が綻びを見せ、全く予想したとおりに限界を迎えた後に現れたことだ。

ブレアは、新自由主義の目論見と福祉国家のコンセプトをなんとかバランスよく調合し、新しいイギリスの指針を処方したのである。すなわち「第三の道」である。

小泉は新自由主義の入り口を提示したに過ぎない。







イギリスは第二次世界大戦後、すぐに労働党政権となり、「ゆりかごから墓場まで」と言われる福祉国家政策を取り出した。

公営住宅、鉄道の国有化、社会保障制度の推進、医療費の無料化などなど。社会民主主義的な政策は、その後も70年代のサッチャーの時代まで引き継がれる。


これが否定されるのはサッチャーの時代である。

もともと「新自由主義」と呼ばれる政策は、「サッチャリズム」という名の下に始まった。
小さな政府による、市場経済を前提とした民営化、財政支出によるケインズ流の財政政策の放棄など。
70年代には、イギリスは没落していたのだ。「イギリス病」は、競争力を失った企業と怠惰な労働者を生み出した福祉国家政策が元凶とされていた。



本エントリの「ブレア時代のイギリス」の著者は、森嶋通夫著「サッチャー時代のイギリス―その政治、経済、教育」の続編として読まれるべき作品だ。その「サッチャー時代のイギリス」の作者は、、このサッチャーによる利潤原理による市場の見えざる力を社会に、より大胆に導入する手法を、「逆シュンペーター過程」と呼んでいる。

シュンペーターは、資本主義は放っておけば、資本の独占により「社会主義化/全体主義化」せざるを得ないというマルクスとは違ったスタンスのアプローチで、資本主義がこともあろうに「社会主義化」して自滅すると結論づけた。資本主義は癌で死ぬのではなく、ノイローゼで死ぬというわけである。これは、主に変化を失った社会の中で、民主主義的な仕組みをとらざるを得ない資本主義の市場原理は、かえって経済的な勝者に活力を失わさせていくという逆説的な論である。

もっともサッチャーはシュンペーターを本当に意識していたのかもわからないし、むしろ当時すでに気鋭の経営学者となっていたP.F.ドラッガーの影響のほうが強かったかも知れない。もちろん、サッチャー自身は当の本人に軽蔑されていたというハイエクの影響をもちろん忘れることはできない。

なにはともあれ、資抗するサッチャーは、「ビクトリア朝時代に帰れ」とのスローガンで、資本の活発な動きを促進するために、様々な手立てをとり始めた。
そして、利潤原理で勝者と敗者が現れることは当たりまえのこととして受け止め、「くやしかったら、がんばりなさい」という論理を押し立てた。

その結果、民営化、規制緩和、減税、これらが進み、財政削減による小さな政府へと展開される一方、イギリスでは失業者は増えていき、社会的不満は鬱屈していった。
その一方で海外からの投資は増え、製造業から金融をはじめとするサービス業へとイギリスの産業構造は劇的に変化している。現在のイギリス金融市場の活性化はここがひとつのターニングポイントとなっていることはいうまでもない。



サッチャーからメージャーに変わっても、新自由主義的政策を保持する保守党は足掛け18年政権を担当しつづけた。

その間に問題は膨らんでいた。貧富の差は広がり、医療や教育では公的サービスの荒廃が限界線まで達していた。92年の金融危機をきっかけに、保守党の政策に批判が高まり、そしてブレアが登場する。


ブレアは、労働党の改革に着手したうえで、サッチャリズム政策の修正にとりかかった。

そのとき、労働党はすでに数々の伝統的な社会主義的政策やケインズ流の財政政策を放棄している。例えば、生産手段の国有化は労働党の綱領からブレアによって削除されているし、福祉国家を維持するための政府による租税財源の確保、すなわち高累進課税や法人税を抑えて海外からの投資を導くスタイルは、サッチャー時代のものを引き継いだものだ。
そのうえで、教育や雇用プログラムを改革し、サッチャー時代に荒廃していた医療改革をするなど、公共サービスを新しい手法で立て直すことを行った。

「われわれの目標は、人々が市場の圧力によってなすがままにされるのではなく、市場の中で、自立的に活動できる人間を育成することである。」





ブレアの手法はある程度成功しているのは、イギリスの現在の好況と社会サービスの復活というテーマが著しく改善しているところからわかる。

おそらく、新自由主義的な経済政策や政治改革のプログラムを行う国家は、おおかれ少なかれ、このような社会主義的-福祉国家的-ケインズ主義的な処方を取らざるを得ない局面が出てくるはずである。

中南米の社会主義化の動きも、このような経済のグローバリゼーションに抗するひとつの揺り戻しと考えることが出来る。


世界経済は統合の方向に急速と進んでいる。IMF-WTO-世界銀行というトライアングルで形成された国際市場の枠組みに、今ではどこの国家であっても、それが例えばウーゴ・チャベスのような「新しい社会主義者」であっても、逆らうことは出来ない。市場原理を導入することということはは、すなわち統合された世界経済のステージに立つことを意味する。それに対するショックを少なくするために、国家は「社会的排除」されてきた弱者を手当てすることぐらいしか出来ない。
ときどき、オールドファッションな経済ブロックをつくって自国内の再配分の仕組みをなんとか維持しようとする試みがはじまり、それがあたかも最新の試みのように喧伝されるかもしれないが。




ここで社会民主主義は大きな難問にぶつかる。グローバルな資本主義とどのように折り合いをつけるのかという問いである。
(中略)
イギリスでニューレーバー(ブレアの新しい労働党の戦略)が目指したのは、グローバル資本主義という現実を受け入れたうえで、リスクの社会化や平等を最大限追求するというプロジェクトであった。







自由主義はどこまで行くことが出来るのか、国家は市場の結果(豊かな国の市民が貧しい国の市民に負担させているもの)をどの程度是正すべきなのか、あるいは環境などを射程にすえた調整をどこまで行うべきか、といった問題を議論するのは当然のことである。

マーティン・ウルフ




しかし、問題はそういうことなのか?



「ブレア時代のイギリス」の著者は、ブレア流の「社会民主主義」の実験が、資本主義を是正するのではなく、単に資本主義に人間を慣れさせることに過ぎないのでないかという懸念を示す。


すでに生存手段の生産というような実態経済が全く意味をなさないような金融取引が世界を駆け巡り、世界中の市場が統合されるような時代・・・・ある意味でマルクスやシュンペーターが預言したように資本主義が資本主義を崩壊させるような事態が・・・世界規模で到来するときが来るのではないか。そのとき、洪水に対してわれわれは世界規模で自らを救うための船を用意することは出来るのか。

そして、すでに現時点で絶対的窮乏化にさいなまされている世界中の人々が、自らの救済のために、何か決定的に違うアクションに陥ることはないのか。経済が傾くときに、世界は何度も最悪の選択を選びつづけてきた。


ブレアは、イラク政策の失敗(というか、強引な参戦)を問われ、これが最後まで響いて政権を手放した。が、この問題がなかったら今でも彼は政権を維持していたに違いない。
おそらく、日本にもブレアが試みたものと同じような揺り戻しの時がやってくるだろう。

しかし、まだその先を進めるための想像力を私たちはもっていない。








イギリスの選択は、そのまま数十年遅れて日本にやってきた。だから、日本経済と政治の今後を占うとすれば、まずはサッチャーからブレアへの遷移をチェックするとわかりやすい。

なんでもかんでも小さな政府・民営化・バラマキ是正などというキーワードがくれば正しいと思っている単純なメディアマジックにひっかかっている人は多少とも、イギリスの70年代から現在までの政治史を把握してよいのではないかと思う。

日本人はこういう潮流にキャッチアップする術に長けている反面、調子に乗りすぎることも多い。「バスに乗り遅れるな」方式の思考遮断にトクなどひとつもない。




ブレア時代のイギリス 山口二郎 
2007/10/19のBlog
つづけて。


サパティスタの夢 マルコス/イボン・ル・ボ 
ミシェル・フーコー思考集成〈3〉歴史学・系譜学・考古学
日本サッカー狂会 
反米大統領チャベス―評伝と政治思想
なぜ世界の半分が飢えるのか―食糧危機の構造 スーザン・ジョージ
ゲリラ戦争―キューバ革命軍の戦略・戦術 チェ・ゲバラ
ヘッジファンド―世紀末の妖怪 浜田和幸
ブレア時代のイギリス 山口二郎 
瀬島龍三―参謀の昭和史 保坂正康
イラク戦争 日本の分け前 浜田和幸
ナショナリズム―その神話と論理 橋川文三 





日本サッカー狂会

これについてはいろいろとすでに書いた。
 

反米大統領チャベス―評伝と政治思想

チャベスについてはおおざっぱに取りまとめちう


ブレア時代のイギリス 山口二郎

サッチャー時代のイギリス」と対になるのかな?
これについてはエントリを改め後述。
全体的に「新自由主義」に対して、その最初の出所であるポスト・サッチャリズムはどのように進行しているのかを考える本として読む。


瀬島龍三―参謀の昭和史 保坂正康

先日、たまたま築地をタクシーで通りかかったら、この人の葬儀だった。
謎多き人である。厳しい見方もできる。自分もどちらかといえばそっちのほうだ。


イラク戦争 日本の分け前 浜田和幸

国士サマ曰く、「軍隊はビジネスの守り神。自国企業の利益を守るために、イラクに派兵せよ。もともとイラクの公共インフラは日本が受注していたのではないか?すでに国歌も紙幣の印刷までもが、アメリカとイギリスの民間企業が受注しているのに、この遅れはなんだ、分け前がぜんぜんないのはお人よしすぎるんだよ、ムッキー!」というレトロなカウボーイ型「国際貢献」論の話でした。程度が低い。


他にもあるはずなのだが、すでに疲れきったので、またの機会に。
何事もその場で処理しないのはよろしくない
以下、続けて。
まるでアフィリエイトサイトみたいでスミマセン。

一応個人的な記録のためにやってます。。。

ちなみにこんな作業をやれるのは、風邪ひいて外出一歩もしてない環境だからこそ



市民と武装 ―アメリカ合衆国における戦争と銃規制  小熊英二
浪人の王者頭山満 杉森久英
シュンペーター 根井雅弘
二・二六事件とその時代―昭和期日本の構造 筒井清忠
マルクスと歴史の現実 廣松渉 
日本プラモデル興亡史 井田博
大川周明 松本健一
宗教の経済思想 保坂俊司
日本軍政下のアジア―「大東亜共栄圏」と軍票 小林英夫
軍事学入門 別宮暖朗
三島由紀夫の神話 酒井角三郎 
タリバン 田中宇
甦るヴェイユ 吉本隆明 




マルクスと歴史の現実 廣松渉

「今こそマルクスを読み返す」「マルクスの根本思想は何であったか」と並ぶ、廣松90年代三部作・・・つまりソ連崩壊後のポスト『マルクス主義』の時代に書かれた著作。
1850年の共産主義者同盟中央委員会の「回状」をめぐる『永続革命論』が重要なキーとなって本書は進む。
そもそも、こんな時代のバリケード革命の頃の「戦術」が未だ信奉されているところにダメさがあると思ったのは自分だけか。ちなみに日本共産党が未だに全選挙区で泡沫であったとしても候補者を出すのは、このときの戦術が未だ続いているからである。行動原理としての「マルクス主義」の時代は完全に終わっていると、廣松渉がギリギリのところでつぶやいているような書物。代案が必要である。預言者としてのマルクスの意味は全く色褪せてはいないし、方法論は現在も避けて通れないのならば。

「たとえマルクスのあげた事実や理論付けが現在いわれているものよりいっそう多くの欠点をもつものであったとしても、マルクスが資本主義発展は資本主義社会の基礎を破壊するということを主張するにとどまるかぎり、なおその結論は真理たるを失わないであろう。私はそう確信する。」
J.A.シュンペーター

「マルクスはわれわれに、歴史をただ眺めるのではなく見通すことを教えてくれた(中略)
それこそが、フロイトやプラントの名と同様にマルクスの名がコンテンポラリーであり続けていることの理由である。これまで受けてきた根拠のない崇拝に関わらず、マルクスは確かに無謬ではない。というよりも彼は、彼の発見した社会思想の大陸に消しきれぬ足跡をしるした大探検家、すなわち避けて通れぬ人物と考えるべきだろう。」
ロバート.L.ハイルブローナー




つづく
このエントリー久々。

前回のが去年の11月までだったので、完全に一年ぶり。 この一年で、自分の読書体験に関わる最大の出来事は、かなり巨大な本棚がひとつ壊れたこと。スライドのところが壊れました。たぶんでかい地震一発で崩壊するでしょう。
安い本棚はダメだ。


まとめて全部一年分の記録を書こうとして、ひとつひとつアフィのリンクをつけていったら、ドブログくんに「コメントが長すぎます!」と怒られましたので、以下、一年間をいくつかにわけて。




世界を不幸にしたグローバリズムの正体 ジョセフ・E・スティグリッツ 
闘争の最小回路―南米の政治空間に学ぶ変革のレッスン  廣瀬 純 
WTO―世界貿易のゆくえと日本の選択 村上直久
ルーカス帝国の興亡 ゲリー・ジェンキンズ
昭和天皇独白録 寺崎英成
昭和天皇伝説―たった一人のたたかい  松本健一 
レイテ戦記(上中下) 大岡昇平
昭和経済史
美は乱調にあり 瀬戸内晴美
キメラ―満洲国の肖像 山室信一 





「闘争の最小回路―南米の政治空間に学ぶ変革のレッスン」

ラテンアメリカの政治的なさまざまな動きをキャッチアップするのに大変勉強になった。

新自由主義経済に翻弄されつつ、新しい社会主義的な試みを重ねるラテンアメリカの政治的な流れの下には、旧来の国家主権による富の再配分というこれまでとは変わらぬスタイルの権力システムの確立という罠が潜んでいること。オルターネイティブな選択は、そことバランスをとりながらも、ひとりひとりが「自立(オートノミア)」して、政治を政治家から取り戻さねばならない。だから、ドゥルーズの言葉を思い出そう、
「人々が望みえるのは、せいぜい、いくつかの左翼的な要求や抗議に対して好意的な政権というものであって、左翼政権なんてものはないんだ。そんなものは存在しない。左翼っていうものは政権とは何の関係もないものなんだから。」

この書については、チャベスについてのエントリーで後から触れていく。




昭和天皇独白録 寺崎英成
昭和天皇伝説―たった一人のたたかい 松本健一

明治からの天皇制は、天皇が政治的な「決定者」であるのかを巡って左右に振れる。それは、天皇機関説の不敬を声高く唱えるものが、もっとも天皇を意思なき存在として神格化の中に閉じ込め、天皇機関説を信奉しすぎたものは今度は天皇の声により討伐の対象となる。
北一輝や三島由紀夫の天皇像と、さらには歴史の中を脈々と流れる天皇家の認識をもち、クーデターや裕仁天皇自身の「天皇像」。3つが入り乱れて、隠された構造があぶりだされる。松本健一は、それをいつも「おそろしいこと」として受け取る。
物語を受け取りながら、天皇制の意味がさまざまな角度を検証する試みである。




レイテ戦記(上中下) 大岡昇平

これについては、コチラにて。



キメラ―満洲国の肖像 山室信一

満州国について知るならこの一冊。

民族協和・安居楽業・王道楽土という理想国家を目指したとされる満州国は、その実際のところ、民族差別・強制収奪・兵営国家が正体に過ぎなかった。

経済的な利害関係と中国ナショナリズムの嵐に吹きまくられて、「満州は漢民族のものではない」という口実を嘯きながら、ほとんど中国人と同化してしまった「満州民族」を最後まであてにすることはなく、結局は漢民族が大多数となる複合民族の国家の体裁を作らざるを得なかった。(たとえば、北海道はもともと日本民族のものではない!と戦後のどさくさにソ連が北海道を占領して独立するようなものだよね)


つづく
2007/10/10のBlog
[ 00:55 ] [ なんとなく社会時評 ]
オレは決してゲバラ厨ではないのであるが、ひとつだけ。

以下の記事にはエピソードの前段と後段が省略されている件。



ゲバラ:被爆地・広島を夜行列車でゲリラ的訪問 訪日時

キューバ革命の英雄チェ・ゲバラが訪日団の団長として59年に来日し、広島をゲリラ的に訪問した際、副団長と2人で大阪から夜行列車に飛び乗ったことが9日、分かった。副団長だったオマル・フェルナンデスさん(76)が明らかにした。フェルナンデスさんは「チェは被爆地・広島訪問を熱望し、私と2人で大阪のホテルをこっそり抜け出し、夜行列車で広島に行ったんだ」と振り返った。

 ゲバラは59年1月の革命後、同年6月から3カ月間、アジア・アフリカを歴訪した。訪日団長が当時31歳のゲバラで、副団長を2歳年下のフェルナンデスさんが務めた。7月中旬に来日、10日間滞在し、自動車工場などを視察した。

 フェルナンデスさんによると、アルゼンチン出身の医師であるゲバラは、予定になかった広島の被爆地訪問を強く希望したが、日本政府の許可が出なかったという。業を煮やしたゲバラは大阪のホテルに滞在中、「ホテルを抜け出して広島に行くぞ」と決断。オリーブグリーンの軍服姿で大阪駅で切符を買い2人で夜行列車に飛び乗った。

 「被爆者が入院する病院など広島のさまざまな場所を案内され、私同様、チェも本当にショックを受けていた」とフェルナンデスさん。帰国報告の際にゲバラは、フィデル・カストロ国家評議会議長(当時は首相)に「日本に行く機会があれば、必ず広島に行くべきだよ」と強く勧めたという。カストロ議長は03年3月に広島を訪問。フェルナンデスさんは「フィデルはチェとの約束を守ってくれた」と感激した。

 フェルナンデスさんがゲバラに初めて会ったのは59年1月の革命直後。「外国人としてキューバ革命に参加したチェを私は知り合う前から尊敬していた」と話す。ゲバラが工業相を務めたときには、フェルナンデスさんが副工業相の一人に任命されるなど信頼を得た。しかし、ゲバラが39歳で命を落としたボリビアでのゲリラ闘争には誘われなかった。「一緒にボリビアに行けなかったのが少し悔しい」。フェルナンデスさんは寂しそうな顔をした。





チェ・ゲバラが来日したのは1959年で、革命成立後。キューバ通商使節団として来日したのは、苦境に陥っていたキューバの経済のために移動大使として、日本政府やトヨタやソニーなどの大手企業を訪れキューバとの貿易や投資を求めにきたのだった。

その後に工業相になったゲバラだったが、どちらかというと経済政策やらが必ずしも得意ではなかったようで、いつも工場にいっては、そんなことをやる立場でもないのに、サトウキビ畑でトラクターを自分で運転したり、自ら砂糖袋を担いだりした。


そんなゲバラらしい広島行きだが、次の省略されたエピソードはさらにゲバラらしい。



来日したゲバラは、大使館スタッフから、東京で無名兵士の墓の詣でる予定が決まっていることを告げられる。「しかし、日本の無名兵士とはアジアで多数の人々を殺した兵士のことではないか。そんなとこへ行くわけにはいかない」とゲバラは拒否し、逆に、予定にはなかった広島行きを実現させた。「米国にこんな目にあっておきながら、あなたたちはなお米国の言いなりになるのか」と、ゲバラは案内役の日本人に尋ねたという。

ゲバラを脱神話化する


無名兵士の墓とはあそこのことなんだろうなあ。。。




"GUERRILLERO HEROICO(ゲリラの英雄) "と名づけられたチェ・ゲバラの、あの有名な肖像は、イタリア人が最初にポスターとして出版したものだ。
ネガをもつ写真家は、この肖像からお金を取るつもりはないとのことである。彼の意思を継ぎ、平和目的に使うものであれば、との条件つきである。

ゲバラのイコンが溢れる日本で、彼の革命の夢はどのように理解されるべきなのか?




エピソードのゲバラの来日の翌年、アメリカによる経済封鎖が始まり、そして続いてキューバ危機。アメリカとのチキンレースに勝ち残った後、今度はゲバラはソ連の「社会主義国による帝国主義の共犯行為」をアルジェリアにて批判。
それをきっかけにカストロと袂を分かち、そしてコンゴへ、さらにボリビアへと旅立つ。











ちなみに、チェは日本についてキューバと比較して次のように言っていたことを最後に追記。

「日本人と同じように、われわれもほとんど何ももっていない。石油もない。あっとしてもほんのわずかだ。鉄鋼も石炭も産出しない。日本には米があり、キューバにはサトウキビがある。しかし日本人はわれわれがサトウキビから得られるものよりたくさんのものを米から得ている。国を発展させるために、我々はもっと頭を使わなければならない。」

チェ・ゲバラ -革命を生きる-
2007/09/29のBlog
[ 04:46 ] [ FWF ゴールドディスク ]
"New Glass" Albert Ayler








数年前にタマちゃんとかいうアザラシが世の中の話題に上っていたときがあった。


そのアザラシは東京湾の至るところに姿を現した。しかも、どういうわけか鶴見川とか帷子川とか決してきれいとはいえないばかりか、人間だって大腸菌を恐れて手にさわるようなことはないだろうところばかりにひょっこりと顔を現す。

そのうちのひとつ大岡川の一帯は、実はゲットー的な淫猥さをもつ地域であり、水商売と風俗の日本人と浮浪者やらタイ人やコロンビアから来たビヤッチや近くのコリアンが入り乱れているような場所でもある。

そんなところに現れたアザラシというのも、それだけでシュールなカンジもするのだが、それでも物珍しさと一種独特な哀れさが話題になり、ひとときはずいぶん「人気」があったものだ。

人気に便乗したバカな役人が、住民票をこの動物に与えたりもしていた。けれど、そのニュースが伝わるやいなや、住民票請求の運動を行っている在日外国人の連中が「アザラシに住民票やるって、おれらはアザラシ以下かよ!」と反応していたのは、これまたひたすらマンガのように不条理な光景でもあった。
コリアンをはじめとする在日外国人登録者数が抜群に多い地域でそれやっちゃ、そりゃ、あんた場所が悪いよとしかいいようもないだろう。



その頃自分は、その川のほとりのマンションに住んでいた。
春になると、桜の並木が満開の花をつけて川沿いに咲く。満開の桜の並木はそれは見事なものだ。黒い川の水の上に桜の花びらがいくつも散って、ゆっくりとゆっくりと桜木町のほうへと動いていく。そんな光景がたまらなく好きだった。


毎日毎日そのアザラシが現れるポイントには、黒山の人だかりで、例のタマちゃんを思う会・・・だったっけ・・・・やらが、いつ何時何があってもこのかわいい動物を守る!というような表情で定期的に川をチェックしていたそうだ。

子供づれやら、ヒマなおばさん連中から
「こんな汚いところにいて可哀想ねー」
などと話すのが聞こえる。
けれど、その川沿いには、浮浪者がテントをつくって生活していた。
浮浪者は、もっと悲惨で汚い生活をしてるのだが、こちらの方は自業自得ということなのだろうか。



たまたま横浜で飲んでいて、朝方にちょっと思いついてこのへんを歩いてみることにした。

カラスがゴミをつつき、浮浪者は上ってきた太陽の光に照らされながら川沿いにいつものように転がっている。新聞紙にくるまった背中がやたら大きく見えるのは、何故だか不思議なものだ。
勤めの終わったタイ人や、夜中とはまるで違う顔をしているマッサージを売る中国人の女のコとすれ違い、帰り支度のGジャンに着替えたグラマラスなコロンビアのビヤッチが大声で笑うのが路地から聞こえる。


当時だったら人気があったジャニーズJrかモーニング娘の新メンバーのように、親心をくすぐり、世の関心を集める人気者のあざらしが、こんな町に来たというのはどういうめぐり合わせか?

そんな皮肉に思いを巡らし、水面を汚れた手すり越しに除いてみると、カラスが川岸のゴミをつついているのが見えた。

マッサージの中国人の女のコや浮浪者やタイ食料品店のあんちゃんやガード下の赤線のフィリピン人や用心棒の小僧や伊勢佐木モールのホストやそれをおっかけてる中学生の不良娘や日雇いのおっさんや在日のヤクザや立ちんぼのおばさんやらは皆、アザラシと同じに、あそこになんとなく迷い込んだのだろう。もちろん彼らは、アザラシ以上にもっとうまく立ち回らなければならない。


カラスが加えているのは小さな魚に見えた。

あれが、タマちゃんとかいうアザラシに与えられたエサだったら愉快だな、と思ったそのの瞬間、不法投棄されたボートの向こうでボラが一匹水面から跳ねた。












夜と昼がいくつも通り過ぎていく
いくつも通り過ぎていくけれど
愛は決して変わることはない

夜と昼がいくつも通り過ぎていくけれど
愛はいつでも勝つ

New Ghosts(新しい聖霊)




アルバート・アイラーのNew Glassは、1968年の作品。

コルトレーンをも驚嘆させたというバリバリのフリージャズのテナー奏者であったが、この人の音楽が特殊だったのは、まるで失語症患者の頭蓋の中でうごめく潜在意識のようなフリージャズの迫力とはひとつ隔てたところで、いつでも「愛」を語っていたところだ。
つまり、フリーなのに否定ではない。あれだれのブローイングなのに、旋律はいつでも悲しく、そしてフォークロアのような残酷の中に優しさがあり、アルバムを聴き終えてみれば、その結論は「肯定」だ。


ゴースト」という曲については一度書いた。

このアルバムは、当時の用語で「電化」といわれたエレクトリックの楽器を導入してR&B風味に仕立てたものだ。よって、ジャズ的にはあくまでも外道なものなのだけれども、自分はとても好きな一枚だ。



アイラーは1970年、ニューヨークのイースト・リバーで水死体となって発見された。死因はわからない。

ニューヨークはしばらくいたことがある街で、イースト・リバーが河というより大きすぎる運河みたいなところだし、流れる水はこんな都会なのに冷たく透明なのは後から知った。

それを知るまで、きっと大岡川みたいなところでアイラーは浮かんでいたのではないかと思っていた。





結局、あの迷い込んだアザラシはどこに行ったのだろう、と今思う。








FWFゴールドディスク
〔MGD001〕"Live at Birdland" John Coltrane 
〔MGD002〕"ギル・エヴァンスの個性と発展" Gil Evans
〔MGD003〕"Who is this bitch, anyway?" Marlena Shaw
〔MGD004〕"太陽と戦慄" King Crimson
〔MGD005〕"Second Edition (Metal Box)" Public Image limited
〔MGD006〕 "Hallucination Engine" Material
〔MGD007〕"On Love" David T. Walker
〔MGD008〕"Beggars Banquet" The Rolling Stones
〔MGD009〕"稲村ジェーン" サザンオールスターズ
〔MGD010〕"Chapter one:Latin America" Gato Barbieri
〔MGD011〕"New Glass" Albert Ayler
〔MGD012〕"Somewhere before" Keith Jarrett Trio

無人島レコード
2007/09/21のBlog
[ 05:54 ] [ サポーターとはなんじゃらほい ]
以前、こんな文章を書いた。

『それってプレミアっぽくていいね!』 応援カルチャーの歴史の断絶について


これについて言いたかったことは3点。

ひとつは、アルゼンチン・スタイルの(これってなんか「アルゼンチン式バックブリーカー」みたいだね)応援は、「イングランドスタイル」と言っている応援方法のアンチとして日本のオーウェンカルチャーの中で形成されたこと。よって、歴史が捩れていることに批判者は自覚ねーんじゃね?ということ。


もうひとつ。とはいうものの、選手が実際にオーウェンされていると自覚されてないならオーウェンじゃないのは間違いない。これには考える余地は十分ある。


そして最期に、しかしそれは、いわゆるコアのコールリーダーに何もかもまかせきっている批評者はその問題点に対して何を現実としてやっているの?ということ。




ようするに、現状どうなのよ?という疑問が、それを解決する方向で個人個人の具体的な行動として現れないかぎり、結局はモードが流行のタームで繰り返されるだけじゃね?ってことです。








で、どうやらそんな文章・・・つーか、このブログの他の記事も含めて、いろいろと読んで頂いたらしく、サッカー批評の最新刊36号で、佐山一郎という人が、「応援論序説」って記事を書いている。


詳しくは読んでみてほしいのだが、ご丁寧にも書いた内容を検証して頂いたようで、わざわざ選手アンケートとインタビューでオーウェンについてどう認識しているかリサーチしてもらったり、ホルヘ三村氏(Respect!)の談話までとって、じゃあ実際ボカの「歌いっぱなし」具合ってどうなのかみたいな話まで出ている。


「応援についてネットでは侃々諤々の・・・」とか「それなりの理論武装」みたいな表現もあって、それなり程度の乱筆乱文垂れ流しているオレ様と致しましては、本来であれば、『それなりのブログの紹介はしてくれなかったけど取り上げてくれてありがとうございます(´Д`;)』ぐらいのそれなりの低姿勢であるのがよいのだろうけど、どうにもこうにもその「応援論序説」の認識が納得いかず、それなりのヴェローチェで190円のそれなりのアイスコーヒー飲みながらサッカー批評読んで憤然としていたのはそれなりの事実だ。




何が気に食わなかったかといえば、自分の文脈そのままもっていって裏をとるみたいなところではない。その結論である。



これを書いている今、手元に肝心の雑誌がないので引用できないのだけれど、結論は要するにこんなところ。



ホルヘ氏のコメントを紹介し、「展開にあわせてウィットと試合展開にあわせたコールが効果的なのではないか?」

さらにこちらもホルヘ氏のコメントを借りて、「日本のコールリーダーにキチンと仕切られているスタイルはそれが可能なはず」

で、最期にひとこと。監督が外国人の日本のサッカーと同じく、まだまだ海外に学ぶ必要があるんじゃね?



まずはこの3番目がまずは気に入らない。




以前にも紹介した日本サッカー狂会(日本サッカー狂会編)には、その創成期、つまり日本サッカーの応援スタイルの黎明期の中で、応援方法そのものよりも悩みだったのが次のようなものだったことが書かれている。




「だが、問題は山積している。応援方式のバリエーションとか応援歌などの問題以前に、サポーターとしてのこころ、情熱、さらには熱狂性という基本姿勢のことがあるように思われるのだが、ここで突きあたるかべが"ニッポン人"である。このかべこそイタリア、ブラジルなどにも匹敵する大変な強敵であり難物といえるのではないか」
日本サッカー狂会(日本サッカー狂会編)P17


この文章は1983年に60年代から20年の歴史を振り返って書かれている。決して現在書き起こされたものではない。まあ、ようするにあんまり変わってないということだね~。
「日本にはなぜストライカーが育たないのか?」と戦前からある一時期を除いてずっと嘆かれてきたのとおんなじ文脈でしょ、これは。



ちょっと話は違うが、書籍「日本サッカー狂会」は一級の資料価値のある貴重な書籍であるけれども、自分には読後に何か納得いかないものが残った。
自分がこの本で読みたかったこと、そして書記されなければならかったことは、あくまでもオーウェンの話である。それも、日本サッカー狂会が、百科全書派になる以前、シーンを鮮明に語れる時代の話のみ。ウルトラスの歴史は重要であり、それを継承するものだったかも知れないが、それはこの本で全編の1/3を占めるものでもないだろう。さらには申し訳ないのですが、さらには後藤健生のサッカー旅自慢のウンチクはもう秋田し

自分の知っているかぎりでも狂会はこんなもんじゃなかったはすである。
ちなみに、いつだったかエルゴラの対談で、武藤さんに話を聞く機会があったのだけれども、「横山ヤメロ」ダンマクを世界中にアピールするために、トヨタカップでダンマク出したといわれたので、それでは負けるわけにはいかないだろう、と「川淵ヤメロ」ダンマクをクラブ・ワールドカップで出しにいったよな

たぶん、それなりの事情もあるのだろうけれども、現地で応援するのが会の目的だ、と会員を煽っている記録がいくつも出てくるのに、こうなったのは事情もあるのかも知れないとはいえ、ちょっと残念である。もちろん、この本の価値を落とすものではないにしろ。おかげで、自分は日本サッカー狂会の会報そのものが全部チェックしてみたくなった。






話を戻そう。

「ニッポン人」という壁をどうやって乗り越えるか、そのために何を引き寄せて、何を選択したのか。それはゴール裏にいるものなら、皆、その苦闘を理解しているのですぐにピンとくるだろう。それは、「海外に学べ」などという安直な結論は役に立たない。
もちろんスタイルは学ぶことはできるだろう。けれど、問題はそこにはない。
そして一番問題なのは、したり顔で「海外に学べ」などという結論でわかったようになって、バックスタンドやメインで応援の批評をしている人をどのように巻き込むか、どのように「サポーターとしてのこころ、情熱、さらには熱狂性という基本姿勢」を伝えていくのかということにある。

それがわからないならば、それは単にファッション評論である。ピーコのファッションチェックくらいの意味合いしかもたらさない。





もうひとつ。書いているスタンスのこと。


レヴィ・ストロースというえらいひとをはじめとする文化人類学者は、「フィールド・ワーク」を重視する。
その文化や民族を理解するということは、書籍をカットアンドペーストしたり、ちょっと現地人にインタビューしたりしたり、手に入るところで資料収集することにとどまってもしようがない、その民族や文化を研究することはが訓古学や解釈学であってはいけない、という基本的な姿勢がある。
「揺り椅子の人類学者」ではなく「野を駆ける人類学者」のスタンスは、様々な「発見」をもたらした。それが現在の文化人類学や民俗学のジャイアント・ステップだった。


オーウェンってものは、文化人類学であり、記号論であり、物語論であり、もしかすると科学的管理法かもしれないし、モチベーションマネジメントかもしれないし、ホーソン工場の実験から考えるべきなのかも知れない。まあこんなのはどうでもいいけど。

ティム・パークスは真摯なるかな。「ようやく本物の旅行記を書く」といって、ヴェローナFCのクルバスッドにフィールドワークしていった彼には、次のことがわかっていた。

「サッカースタジアムは、巨大な建造物の中で裏表が逆になっている数少ない建物のひとつである。楕円形の競技場は世界を排除し、その神秘を秘伝を授けられた者たちにしか明かさない。テレビでさえ、それを犯すことはできない。とらえ始めることさえできない」
ティム・パークス「狂熱のシーズン」



日本的な無私の片思いを標榜する「応援団」に入り込んだ人には、次のような哲学を彼らに見つける。
「応援する人間は、応援される人間より強くなければならない」
「より努力する人間こそ、人に対してがんばれ、といえる」
東京大学応援部物語



ついでに書かんでもいいノウガキ。
文化人類学では「刺激伝播」という考え方がある。それは「特別な伝播のプロセスだ。輸入された習俗は、そこでは、すぐに同化されてしまうのではなく、むしろ触媒としての役割を演ずる。つまり、ある習俗が輸入されるとき、それに隣接している環境の中で、潜在的な状態で眠っていた、それとよく似た習俗の出現を引き起こしてくる。」(「サンタクロースの秘密」レヴィ・ストロース/中沢新一)

果たして、ボカスタイル、アルゼンチンスタイルの応援が、何を刺激して何を呼び起こしているのか。それも大変興味深いし、それだけで面白い分析になりそうだ。オレはめんどくさいから書く気はないけど





ようするに、「応援論序説」なんてタイトルならば、もう少しいろいろはいっていっていいのではなかろうか、と。それはそれで面白いものになるのではなかろうか。
このパターンだと、たぶん次があるのなら、なんだかインタビューとか文献出典とか、もうよめそうな感じww





そんなわけで、長々と書きましたが、実を言うとこういう議論が成立するということ自体が、何か動き出しているものがあるということで、それはそれで1968年の日本サッカーサポーターの始まりからの課題を引き継いでいるのではないかとも考えてもいるのですが。まあ、スタ以外でもそれなりに盛り上げないとね
[ 01:46 ] [ FWF ゴールドディスク ]
Chapter one:Latin America Gato Barbieri


中上健次の「千年の愉楽」については、ゆっくり書いていこうと思っているところ。
なので、深くは触れることはないで軽くだけ。

「千年の愉楽」は6つの短編が連作となっている小説である。
それぞれが高貴な血とも汚れた血ともいえる一統の若者の短命の物語として、ひたすら繰り返されていくのだが、フレーズが移調していくかのように、破滅の物語が違う方向に向きだすのは、意味ありげな「天人五衰」と題された6編の連作を折り返す位置にあたる、第四編の物語だ。

「天人五衰」が、三島由紀夫の豊饒の海の最終巻と同じものであり、必ずその三島の物語に対する問いかけがあるはず、とあたりをつけた四方田犬彦は、「貴種と転生」で、三島と中上の貴種流離譚の捉えかたの違いを説き起こした。
滅することによって始まる何かがある。三島は、キッチュでグロテスクともいえる静寂の光景で貴種流離譚の物語を閉じて読み手に謎をかけたままにして、その答えともとれるしさらに謎を深めるともとれる、圧倒的なあの最期を遂げたのに対して、中上の「天人五衰」はふつふつと湧いては現れ、湧いては消える。そればかりか、語り部の役割を持つものまでもが不死の存在かのように偏在し、五衰をも積極的に肯定していこうとする。

千年の愉楽と「天人五衰」の章が、ひとつのターニングポイントとなるのは、ここから先、貴種流離譚の主人公達は、積極的に外部を志向していることだ。そして、物語を読み進めていくにつれ、それが語り部の肉体的な死が同時に訪れているのと同時に語られていることを読み手は知る。

そのときに、貴種流離譚の主人公は、アルゼンチンを目指す。
もちろん、そこから先には主人公達の死は待ち受けている。「天人五衰」の章の主人公は、ブエノスアイレスの革命運動に巻き込まれて消息不明になる。
続く「ラプラタ綺譚」の主人公は、ラプラタ河を「銀の河」と呼び奇妙な逸話をうそぶきながら、ある日水銀の飲んで自殺する。

「天人五衰」から先の物語は、タンゴが甘く切なく鳴り響いている。

このへん、また「千年の愉楽」の試論の続きでまとめていこう。






ガトー・バルビエリは、アルゼンチンのロザリオで生まれる。
ここはチェ・ゲバラの生地としても知られるアルゼンチン第二の都市だ。
ブエノスアイレスでテナー奏者として知られるようになってから、1963年のイタリアに移住。(イタリアとアルゼンチンの関係についてはコチラ)
当時のイタリアを含めた欧州はフリー・ジャズが全盛を極めており、ハード・ブローイングのバルビエリのテナーは注目を浴びるようになり、当時の欧州で活躍していたフリージャズの大御所との共演を重ねるようになる。



Chapter one:Latin America Gato Barbieri は、インパルスから出たバルビエリのソロシリーズの第一弾。

フリージャズのアーチストが、60年代後半から伝統芸能や民族音楽との接近を果たしていく流れは、フリーが全く違う角度から伝承された音楽を見出したというのが正しい表現と思う。


圧倒的なハードブローながら、切ないラテンの旋律が聴こえてくる。見出されたラテン・アメリカ。ケーナやインディアン・ハープが鳴り響き、10弦ギターがラテンのコードでさらに奥行きを与える。しかし、その音と音の遠近感は極めてポスト・モダンである。

きっと中上健次の「熊野」も見出された「ふるさと(坂口安吾)」だったのではないか。ガトーの代表的な一作であり、あえて「ラテン・アメリカ」と題されたこの作品を聴くにつけ、なぜか悪逆非道と「尊い仏様の教え」が交互に展開される物語の中のタンゴが聴こえてくるように思える。






ガトー・バルビエリといえばラスト・タンゴ・イン・パリ」というベルトリッチが技巧の限りをつくした素晴らしい映画サントラでも知られる。むしろ、これが一番有名か。こちらは一応アルゼンチン・タンゴである。念のため、"Chapter one"にはアルゼンチン・タンゴ・モードの曲はない。






FWFゴールドディスク
〔MGD001〕"Live at Birdland" John Coltrane 
〔MGD002〕"ギル・エヴァンスの個性と発展" Gil Evans
〔MGD003〕"Who is this bitch, anyway?" Marlena Shaw
〔MGD004〕"太陽と戦慄" King Crimson
〔MGD005〕"Second Edition (Metal Box)" Public Image limited
〔MGD006〕 "Hallucination Engine" Material
〔MGD007〕"On Love" David T. Walker
〔MGD008〕"Beggars Banquet" The Rolling Stones
〔MGD009〕"稲村ジェーン" サザンオールスターズ
〔MGD010〕"Chapter one:Latin America" Gato Barbieri
〔MGD011〕"New Glass" Albert Ayler
〔MGD012〕"Somewhere before" Keith Jarrett Trio

無人島レコード
2007/09/19のBlog
[ 03:29 ] [ アジアチャンピオンズリーグ ]
浦和と川崎が決勝トーナメントに進出したようで、これをもって自分としては何も語ることがなくなりました。

よって、ACL芸人のインチキ稼業もついに引退と相成りましたので、ここに謹んでご報告いたします。



これからは、なおも横浜のゴール裏にて、「ACLっていうのはだな」とか「おまえらアジアをわかっていない」などと能書きたれながら後進の育成にあたってまいる所存です。
つか、今年優勝して来年でるし。つか、開催国枠はついに決まってしまったのね。。。仕方ないとして今年出る方向でスクランブルアタックするわけだけども。






さて、ACL芸人のチリ際に、以下ACLで困ったことNO.1だったこと、ひとつだけ豆知識として書き残しておきます。










発炎筒=「ちゅっく うんうぉんよん よんまっ」  
※原文スペルはここ見てください。Doblog(バカ)だと原文フォントが表示されません。



「サッカーの応援用の煙幕」(!)という意味で、花火屋?で買えるそうです。

ちなみに自分は今は亡き横浜門旗(鰯)に、発炎筒は「パリョントン」と言うと習ったのですが、どうやらこれはダメダメな直訳だったらしいです。

どうりで半日街中をメモ片手に、「ぱりょんとんぱりょんとん」言いながら放浪しても、聞く人聞く人皆、 (゚Д゚)ハァ? となっていたわけだ。


協力:mixiの「韓国プロサッカーKリーグ」コミュ



ちなみに自分はこれに懲りて、タイの時は飛行機のチェックイン前にカバンの奥に隠し(ry




以上、発炎筒といえばマリサポな豆知識でした
◇コパ・アメリカと反米カマラード(同士)


今年のコパ・アメリカはベネズエラ開催、いや正確に書けば「ベネズエラ・ボリバル共和国」での開催だった。

開会式には、ウーゴ・チャベス大統領が現れるとともに、始球式はマラドーナが行ったとのこと。

このメンツ(しかも、開会式にはやはり南米の左派政権であるボリビアのモラレス大統領も招かれていたらしい)なら、なんかやるだろうと想像していたところ、やっぱりこんなことやっていたらしい。



マラドーナ、「米国心底嫌い」と発言

サッカーの元アルゼンチン代表、ディエゴ・マラドーナさん(46)が19日、ベネズエラのチャベス大統領が毎週出演するテレビのトーク番組に登場し、米国に対する嫌悪感を示した。

反米派で知られるチャベス大統領と同様に、左派のマラドーナさんは、キューバのカストロ議長と親しい間柄にいる。

チャベス大統領とともに同番組に出演したマラドーナさんが「私はチャベス(大統領)を信じる。私に対してフィデル(カストロ議長)がすること、チャベスがすること、すべて最高だ。米国からくるものすべてが嫌いだし、米国が心底嫌いだ」と話すと、観客席にいたチャベス大統領の支持者から拍手喝采(かっさい)を浴びた。

自ら社会主義革命家と認めるチャベス大統領は、米国に対する手厳しい批判を続けており、たびたび米国を「衰退する帝国」と表現している。

一方、米国の国務省はチャベス大統領を「地域民主主義の脅威」と呼び、豊富な石油資源を利用して近隣諸国に干渉していると非難している。






◇棍棒を片手に~中南米へのアメリカ軍事介入の歴史(1)~

マラドーナのアメリカ嫌いは有名なものだが、これは何もマラドーナがひとりでとんがった反米の言説を振りまいているだけのものではないことはすでに一度書いた。

ここには長い長い歴史の積み重ねがある。



以下、ゲバラのTシャツやらゲーフラなどをおしゃれに使いこなしている連中にぜひとも見てもらいたい。



南北戦争の後、工業化が進展しつづけた末、19世紀末には世界一の工業国となったアメリカは、国内の開拓が限界を迎えており、作り続けられる商品のデフレーションを恐れ続け、そして市場を求めて一挙に帝国主義に走り始める。セオドア・ルーズベルトは、「やさしく穏やかに、けれど棍棒は手にもって。そうすれば遠くまで行ける」などとうそぶきながら、中南米の主権に介入していった。(棍棒外交)

自作自演の戦艦撃沈事件をきっかけにスペインと戦争を起こし、キューバは保護領となり、パナマは、コロンビアからむりやり独立させられ、パナマ運河の租借権はアメリカに渡る。さらに同時期、ハワイはアメリカ人のクーデターで王国が倒され、そして共和制を経てから連邦に併合される。
特に中米は圧倒的にアメリカによる棍棒によって叩きのめされる。
1898年から1918年まで、アメリカに様々な理由で軍事介入されてきたり、保護領化されてきた国は、プエルトリコ・キューバ・パナマ・ニカラグア・ハイチ・ドミニカなどなど。

この頃にはモンロー主義というのは、アメリカによる不干渉主義を唱えたものではなく、単にアメリカ大陸におけるアメリカの利権擁護を指すものとなっていたのである。



ちなみに、この手法をそっくりマネしていった日本は、このへん満州国独立そっくりの筋書きなのだが、もちろん石原莞爾などは大いにこのモデルを参考にしているはずである。

もちろん、アメリカは日本の青臭い八紘一宇の精神論や宗教(天皇制)などは振りかざしたりはしなかった。もっとスマートで狡猾だったのである。アメリカのこうした地域に対する投資は進み、一握りのクリオージョ(現地の白人)の富裕層と結びつき、強力な貧富の差を作り出していく。




◇軍事政権を支援しつづけるアメリカ~中南米へのアメリカ軍事介入の歴史(2)~



圧倒的な貧富の差や社会問題を解決するために、世界史の中でも早くから政治的に国民国家を成立させてきた南米諸国の多くは、その後社会主義的な実験を開始する。
貧しい人は貧しいままで人生を終えるような生活から選び取るのは、諦念か行動しかない。そういう意味で、南米の人々は政治的選択を意識的だ。

第二次世界大戦後、そのような試みのほとんどは、アメリカの軍事介入や右派軍事の支援により次々と崩壊していっている。そのため、70-80年代の中南米は軍事政権ばかりが出来上がるという事態に陥っていた。


1954年 グアテマラ
グアテマラの合法的に選挙によって選ばれたハコボ・アルベンス政権が、CIAの支援を受けたに右派のクーデターより転覆。不作遊休地の小作人への分配などの農地改革などを「共産主義的」と一方的に非難したうえでの介入。
なお、このCIAの介入の裏には大規模なプランテーションを保有していたユナイテッド・フルーツ社の土地接収が引き金とされている。


1970年 チリ選挙によって成立した世界初の社会主義政権であったサルバドール・アジェンデ政権が、アメリカの支援を受けたピノチェトによるクーデターにより崩壊。米国の支援を受けた軍部は空軍機を使って大統領官邸にミサイル攻撃し、アジェンデは最後のラジオ放送後に自殺。その後民政になる1988年まで、軍部による反体制派の人々の逮捕・監禁・虐殺などの弾圧は続いた。
このアジェンデに対するクーデターには、社会資本として通信インフラを国有化されることを恐れたAT&T社が暗躍していたことが確認されている。

1983年 ニカラグア
左派サンディニスタ政権に反対するゲリラ「コントラ」をアメリカが支援。
アメリカによるコントラの支援やその他の軍事行動は、国際司法裁判所から違法判決が下されるも、アメリカの支援は続く。
このコントラへの支援の資金が、実はその当時敵対関係にあったイランへの武器売却資金から捻出されていたことが発覚したのが、「イラン・コントラゲート事件」。

キューバの話はここでは書かない。



そろいもそろっていつものパターンなのも特徴である。
米国の「ならずもの政府」転覆作戦は,古くは1948年のギリシャ,イタリア干渉,54年のグアテマラ,イラン干渉以来筋書きが決まっています.まず国内の反政府勢力に最大限の謀略活動をおこなわせます.マスコミを使ってのデマ宣伝,議会での徹底した反政府的態度,ヤクザや不良青年をかり集めての暴力的挑発,そして警察が政府系活動家を弾圧し,テロリストが破壊活動や要人暗殺などをおこなうというもので,CIAには立派な「破壊活動マニュアル」までそろえてあります.

その間に国外で亡命政治家が「暫定政府」を作り,米国に支援を要請します.米国はこの要請に応えて軍隊を出動させ,その国の鼻先で緊急出動作戦をくり返します.そうこうするうちに,やがてエックス・デーがやってきて,国内の反動勢力と軍隊内部の「親米派」が「蜂起」し,これとあわせて雇い兵部隊が国内に侵入することになります.このとき米軍は艦船により海上を封鎖し,場合によっては[米国市民保護のため],どこかに上陸します.同時に航空機が出動し,いち早く制空権を支配します.
ニカラグア革命史



参考アメリカ軍事介入の1世紀




◇「新自由主義」という名の棍棒

「新自由主義」とか「グローバリズム」と呼ばれているものが、レーガノミックスやサッチャリズムを経て、日本に到来してから、さらにその方向性は「改革」という冠をつけられてながら進行し続けている。
曰く、財政赤字の縮小・規制緩和・小さな政府・民営化、そんなキーワードが、あたかもひとつの主張であったり、思想であったりするように、毎日流通している。

この主張は、ワシントン・コンセンサスに原型が見られる。「グローバリズム」という名前の国民国家の枠組みさえ解体するかのようにさえ見える、新しい段階の資本主義段階が始まったのである。
これってどう見てもハイパー資本主義のアメリカによる輸出としか見えない!などと言ってはいけない。国境を超えて、資本主義が世界を覆ったときに、その破綻は最大の規模となる・・・ぐらいにとどめておこう。マルクスの予言がひとつずつ成就されるかのように見えても、ここでは黙っておこう。

グローバリズムという名前のもとに進む、経済の新自由主義(ネオリベラリズム)的な事態は、すでに様々なところから警報が発せられている。今では、アメリカの経済政策にかかわってきた当事者から深刻な指摘すら現れている。(1)(2)(3)※この本は必読

世界中がその、アメリカから発せられた新自由主義経済の影響を受けてきた。

ベルリンの壁が崩壊し、ソ連が消滅したころ、覇権計画が発表され、歴史の終わりを宣言するものも出た。最後の人間、技術万能の時代、新世界秩序が語られた。新自由主義はキューバを除く全米州(北中米すべてのアメリカ大陸)を凌駕した。アルゼンチンでは何が起きたのか?(中略) 同国は新自由主義の過剰服量によって溶解してしまった。(中略)同国はつい五、六年前には、見習うべき経済モデルとされていたのだ。
世界社会フォーラム(2003)でのウーゴ・チャベスの記者会見より



アルゼンチンでは、90年代から始まったレーニンが描いた金融資本の悪相によく似た見てくれの機関投資家どもが巻き起こしたIMF祭り(別名:アジア通貨危機)を、さらに拡大して反復した通貨危機が巻き起こる。



何故、アジア通貨危機の経験は生かされなかったか 

この答えとして、①成長政策に固執するあまりアルゼンチン政策当局が、外資への過剰依存のリスクを過少評価した点、②IMFなど国際機関や、アメリカの強い意向が介在した点、が指摘される。
(中略)
さらに、途上国の金融市場自由化を推進してきたIMFやアメリカの影響力が指摘される。IMFは、従来から一貫して途上国に対して、規制緩和、民営化、経済と金融の対外開放を迫ってきた。
(中略)
中南米の盟主国、アメリカも世界的レベルでの資本市場の開放を主張してきた。巨額の投資資金と国際分散投資で豊富な経験を持つ米国金融機関にとって、途上国が国外に向け市場開放を進めることは、アメリカにとって投資機会獲得や金融サービス分野での海外市場の拡大につながる。拡大する経常収支赤字問題を抱えるアメリカにとって、途上国の金融市場開放推進は、不可欠なのである。



トルーマン米大統領は次のように語ったことがある。
「すべての自由は企業の自由いかんにかかっている。・・・全世界はアメリカの制度を採用すべきであり、アメリカの制度が世界的な制度になったときに初めて、アメリカ国内においてもそれを持続していけるのである。」
本音であって、この手のキチガイじみたアメリカ人の独善的な感覚というのは、この国の外交史のいたるところに現れ出ている。





つづく
2007/09/13のBlog
[ 00:40 ] [ なんとなく社会時評 ]
一年ちょい前にこんなのを書いた。今こそ再掲。



させてはいけない麻生太郎



こいつのことを、ローゼンローゼンなどと持ち上げている連中の気が知れないのだが、まあ、この世の中、占い師のゴウツクババアや野村の嫁やら、わけのわからん魑魅魍魎が幅を利かすものだから、こういうヤツが大手を振って出てくるのだろう。



九州国立博物館の開館記念式典でぶちかました発言とかを見るにつけ、マンガじゃなくてキチンと本読めよ!ということも思いますです。



単一民族神話の起源―「日本人」の自画像の系譜

日本が単一民族の国だというふうになったのは、古いことではない。古いどころか、日中戦争や太平洋戦争以前は日本は多民族国家として位置づけられていた。大日本帝国の時代はむしろ日本は多民族国家・混合民族論を標榜したがった。日本が日本を単一民族国家と見るようになったのは、戦後のことだったのだ。(松岡正剛の千夜千冊)


まあこういう人はほとんどいつも確信犯で言っているので、いくら文献とかあげてもあーだこーだとエクスキューズが始まるのが常なのだが。






そんなわけで、つくづくこいつはダメだと思います
念押しということで。
2007/09/10のBlog
老衰で死に瀕した床のうえで、それが追想なのか、それとも夢や幻なのか定かではないまま、老婆の小さな頭蓋の中で思いが巡らされていく。

それだけではない。老婆の視点は彼女の生涯の時間軸の至る所にいきわたる。そして、あたかも霊魂のように、すでに小さく床に横たわる自分自身の死に瀕したさえも高みから見据え、その自分自身と話を交えたりさえする。

さらには、自分自身の死を迎えつつも、小説の作者の記述なのか、それとも老婆自身から紡ぎだされた「追憶」を写し取ったものなのか、判然とわからないまま、時間軸を無視して、次々と惨たらしい死を迎えた青年達の物語が、綴られていく。

小説は、甘い芳香や艶やかな金、銀、銅、赤、桜、白など様々に彩られ、時として音曲を切なく響かせている。
しかしながら、実はそれを際立たせるのが、暗く澱んで乾いた血の色のような筆致で書かれるエピソードだとも読み手は知る。性と暴力が入り混じり、しかもそのどれもが只ならぬ闇の淵に立たされているかのように切迫したものばかりだ。単にそれだけのエピソードが羅列されているのならば、そこには全く肯定的なものは見いだされない。ひたすら悪逆と女との淫らな交わりが続き、救済すべき善行のひとつも見出されない。

しかし老婆は考えている。


確かに世間の親らのようにオリュウノオバには人の物を盗んではいけない、人を殺めれてもいけない、殺傷してもいけない、という道徳はあたうる限りない。何をやってもよい、そこにおまえが在るだけでよいといつも思った(六道の辻)

どうせこの世がうたかたの夢で自分一人どこまでも自由だと思っても御釈迦様の手のひらに乗っているものなら何をやって暮らしてもよい(六道の辻)

ことごとく肯(うべな)う事なにもかもそれでよいと祝う事、それはオリュウノオバが産婆をやって身に沁み込んだ知恵だが、またそれではこの世が滑らかに行かないし、栄えもしないし増殖もしない事はわかっていたが、ただ滑らかに行く必要もないし、栄える必要も増殖する必要もないし理由もない。礼如さんはそれが無常だと言った。(天狗の松)



そのような「無常」の価値感の中では、すべての悪行も生き死にの中のひとつの出来事として理解されていく。ただ、悲嘆だけを残して。
そしてこの世に身を受けるということは、そのような悲嘆があるからこそ許されたものなのだ。


「オリュウノオバ」とカタカナで表記された老婆の世界の原理は、このような思想がまずはベースとなり、そして「中本の一統」と呼ばれる、揃って短命で生涯を終える青年達の物語をつくりあげる。もちろん、それは実際に生きて死んでいった実在の若者達の実際の軌跡とは違うものだったとしても致し方ない。

老婆は千年生きている、そしてこれから先、千年も生きるだろう、と自称する。



小説を通じて、おそらく、明治後期ぐらいから昭和の終わりまで生き延びただろうとおぼろげながらに解釈される老婆の語りは、千年前の口承と混じりながら、これから先の千年までに人々の中に影響を与えていく。そうして、老婆は時代を超えて遍在することになろう。
それがこの『路地』と名づけられた「世界」を解き明かすいっさいのものであり、悲運の「中本一統」の若者達の死は、その中で、何かを説明するための装置になる。

いや、「説明する装置」というのは正しくない。むしろ、あたかも第三者として生起した事態の由来を説き起こすかに見えて、実際は、その世界を構築している原理そのものなのかも知れない。オリュウノオバが実は残酷な負のベクトルをもつグレートマザーとして機能しているかもしれないのだ。




千年の時のたゆたいに遍在するというオリュウノオバという装置は、何を生み出し、何を
志向し、そしてこれから先にどこへ行くのだろう。それを小説家はどのように書き連ねていこうとしたのか。
さらに、サーガ(物語群)として、書き続ける小説が次々と連環して、次の作品が以前の作品に侵食していくような試みを、どのように解釈していけばいいのだろうか。








中上健次の連作小説千年の愉楽は、1980年から1982年までに書かれた。
自分自身の残酷な血縁の世界を書いた『枯木灘』の後、グロテスクと形容していいような父と子の観念的な戦いを紀州を舞台に書き綴った『地の果て、至上の時』とほぼ同時に連載されている。

オリュウノオバの仏教的な原理が小説の隅々までいきわたり、凄惨で忌まわしい光景が続きながら、フラッシュバックのように、えもいえぬ燦然と美しい光景が極めて印象的に現れては消えていく舞台仕立て。
口頭のもの語りを意識したと思える独自の筆致で描かれる、その小説としての前衛性。それらのクオリティだけで、中上文学の最高傑作と言い切ってしまうこともできるものだが、それよりもこの小説によって、血縁の観念的な闘争というテーマから、中上文学が、さらに大きな物語と和解しつつ、さらにそれに戦いを挑んでいくという新しい段階に入ったという意味でも重要な小説なのである。



中上健次は、あたかも贖罪のために世に現れたように語られる青年達を中心にした貴種流離譚が裏返り、被差別部落の起源の物語として見出されている共同体という筋立てをもとに、人々を拘束し、そしてそれが原理として世の中を支配する制度の根底に何があるのか、オリュウノオバという存在を通じて考えている。そして、この『千年の愉楽』以後、その共同体の行く末について予言をひたすら続けていく。



以降、この『千年の愉楽』から巻き起こる中上健次の予言のひとつひとつを解読するための作業を進めていきたいと思う。

2007/09/08のBlog
[ 20:31 ] [ サッカー時評 ]
五輪の最終予選第二戦が本日。


いまだに誰一人にスゲー!といってもらえない、オシムと反町の監督人事をほぼ完璧にすっぱ抜き予想した件から、はや一年半。

反町もがんばっているのかのう、などとのんきに構えているとそうでもなさそうである。

そう、コノ世代にはみるべき横浜の選手の影がない。さらに監督にはフリューなんとかというところにいた反町その人。興味がわかないのは人の情。


なので、最終予選が始まりだしたこの頃になって、はじめてどんなもんなんだろうと初めて気になりだしたというところ。スミマセン。





そんなこんなで、反町で思い出したことがあったので、ここで一点だけ。




Wikipediaの「反町康治」の項を見ると・・・

愛称:ソリさん・男前



などとあるが、これに付け加えるべきニックネームがあることについてはあまり人口に膾炙されてはいない。

反町監督様の選手時代のニックネームは、「リムジン」



なぜかといえば、反町監督様が現役のみぎり、その足業を魅せていた頃、もっぱら夜の技のお披露目は夜の某所で行われており、その通いつめるところの熱心なあまり、店からの計らいにて、これから向かうとのひとことがあれば、常連様としてリムジンがお出迎えに来ていたからだ。



とある日のU-22の壮行試合か何かで、これを知っていた某君とともに、めずらしく席をとっていたメインのスタンドから、反町監督様が出てくるやいなや、「りむじ~ん!!りむじ~~ん!!!」と、ずっと騒ぎまくっていたら、監督様は思いっきり苦笑いしておりました。なので、これは間違いのない情報と存じます



がんばれ、リムジン!!!



そして、最終予選のベトナム戦を辛勝した後、世間に湧き出る反町批判。
それならばこれに抗して、オレだけでもオーウェンしてやらなければならないのかも知れないなどと、全く根拠のない使命感に突如目覚めたオレ。

リムジンに対して何かできることはないかと考えたところで、思い出したのは、ケットシー派によって行われていた「女子日本代表に焼肉を♪」の企画。

ハタと手をうち、それならば、反町監督様が五輪予選を勝ち残るために、サウジアラビアに行く前の合宿か何かで待ち構えて、リムジンを横付けし夜の壮行会をやるのはどうか!と思いついた。



思いついたのはいいのだが、堀之内から店のリムジン呼ぶのはどうしたらよいのかよくわからず、UGとかに相談の電話してみたのだがつながらず、そのまま途方に暮れたまま現在に至っているというのがここまでのところ。

そうこうするうちに、二戦目のアウェイのサウジ戦が本日になってしまった。残念無念。




そういうわけで、リムジン横付け激励プレゼント企画は流れてしまったものの、遠いサウジの地でこれから始まる戦いをオレはTV観戦乙!のふだらけた状態ながら、リムジンを応援していこうと思う。






超がんばれリムジン!!
2007/09/01のBlog
日本サッカー界を語るうえで、正史とは外れた歴史がありそれを語る書が「奇書」と呼ばれるのであれば、「日本サッカー狂会(日本サッカー狂会編)」は、奇書中の奇書である。

もちろん、それをフットボールという総体が、決してピッチの中だけの記録をめぐる「正史」だけのものではないということを力強く語る。

日本サッカーが、民俗学や文化人類学、流行りのタームでいうなら、カルチャラルスタデーズの中の研究対象として扱われる日が来たときに、この本はきっと一級の資料となりうるはず・・・・



・・・そんなわけで、現在発売されたばかりの同書を読んでいるわけなのですが、これについての感想などは、またリスペクトをこめてまとめて書くとします。





さて、90年代後半から「サポーター」っぽいことをやりだした自分の中での「日本サッカー狂会」の中の人のイメージというのは、どちらかというと百科全書派みたいな人達の集まりというイメージが強くある。完全に大御所となってしまって百科全書派の代表みたいな人は後藤健生氏。
(だが、Jリーグが始まったくらいには、雑誌「ストライカー」で完全なファン視点で、「バックスタンドからの視点」でコラムを連載していたのも同氏。まあ今でも時々そういう出自の部分がチラチラと出てくるのが面白いのですがw)

どこの時点で狂会が変わっていったのかは、同書を見ればなんとなく想像されるのだが、これもまた本題から外れるので、またあとで。






さて、そんな百科全書派的サッカー知識の網羅という意味で、ものすごいサイトとものすごい人がいるのは意外と知られていない。



日本サッカー・ブック・ガイド



このサイト、ようするに、日本にサッカーというもの(最初は「蹴球」ではなく「蹴鞠ノ一種」!)が伝わってきた明治18年の『西洋戸外遊戯法』から、万巻のサッカー本を網羅していく解説していくサイトである。

このサイトの凄いところは、単にメキシコ・オリンピックベルリンの奇跡といった、記念碑的な正史のみならず、それをさらにえぐりこむように実証主義スタンスで文献検証していくところだ。これが本当に面白い。

特にアーカイブになっている「全文紹介、コラムのページ」は必見であるし、さらには現在でも延々と続いている「蹴球本日誌」も読み応えがある。つか、コレは危険なサイトである。延々と読みふけってしまう故に。


たとえば・・・


日本サッカーの基本戦術ともいえるショート・パス主体のサッカーを最初に持ち込んだのが、当時の日本代表のクラブチームだった全関東蹴球団の練習にふらりと現れたビルマ人の留学生だった件。


ベルリン・オリンピックの代表選考では関東と関西と朝鮮が三派に分かれて大揉めになっていた件。


新渡戸稲造が、「野球は害毒であり、賎技なり」とアンチ野球キャンペーンで論陣を張ってサッカーをご推薦していた件。


満州国の国技がサッカーで、FIFA入りを目指していたけど無理だった件。





その他、アーカイブされたものだけではなく、ブログでも興味深い記事が今でも延々続く。




これはすごいです。間違いなく日本国内1級のサッカーサイト。

そんなわけで、百科全書派のサッカーファンならすでに知っていると思われるサイトですが、たぶん一般にはあんまり知られてないと思うので、ここにご紹介です。
2007/08/20のBlog
稲村ジェーン

逗子の高校生にとって、新しい文化をもってくるのは原チャリをもっていたやつらだった。

マルクスが「交通」というタームで、文化が交錯して新しいカルチャーを生み出すときには、テクノロジーが必ず背景にあるっていっていたヤツだよな。オレたちの80年代は、原チャリがつくりだした。それが80年代のテクノロジーだった。


逗子からは、山をひとつ越えると、海が待っていた。しかし、そこは遠かった。

市バスで乗り継いで無理してでかけていった逗子マリーナのボーリング場は、ガラムの匂いでむせ返るようだったのを今でも思い出す。あれが、オレの最初に異文化体験だったと思う。ガラムは、今でもコパトーンのココナッツの匂いと自分自身の汗の匂いが入り混じったオレの10代の追想の香りがする。




まるで、ガンダーラを目指すように、新しいものに色気がある連中は、みんなが横浜に通じる道として知っていた16号を北に向かうか、逗子からさらに西に向かう134号を江ノ島に向かう。
「湘南」と呼ばれていたエリアは、横須賀の連中にとっては、鎌倉であり江ノ島であり、そしてひたすら防砂林がつづく平塚までのエリアだった。
終点には、ハングリータイガーがあり、そこを折れると129号、相模原に続く。
しかし、そこを右に曲がるようになったのは、八王子に大学の場所が定まってからだ。

免許をとって、軽のワンボックスを買っていた連中や、中古でボロボロになった赤のRX-7で流していた連中とは明らかに色合いが違っていた。

RX-7はドアーズが流れていた。スタンリーキューブリックが好きなマニアと、北へ北へと1号線を北上していく。終着地は六本木だったのを強くおぼえている。横須賀のドブ板でウジウジと外部を夢見ている連中の流れる場所は六本木だったのだ。
ドアーズのLAと、オレらの六本木は似通っていた。

軽のワンボックスは、江ノ島の「集会」を目指した。
警察を手玉にとり、カーニバルをオン・ザ・ロードでやっている連中を、そのとき初めて見て、本当にたまげた記憶がある。それは、まだ江ノ島が土日の夜に閉鎖される前の話だ。クルマを降りて、ナンパした女のコを暗闇につれていこうとすると、江ノ島水族館のアシカが奇妙としかいいようのない轟音の泣声をたてる。
ロケット花火が遠くから聴こえるのに混じって、それでもオレはなんとかがんばろうとしているのだ。


もう少したってから、それでもオレは自分でローンを組んで、クルマを所有できるようになっていた。
三浦海岸は、自分の親父が店を出していたところだから、なんとなく足が遠く、馬堀海岸は砂利の海岸だから、オレのような威勢だけがいいような小僧の手にさえあまる、柔らかくて敏感な肌にはむいてないと思い、東京湾は嫌だった。
だから、コパトーンのココナッツが鼻についても、逗子から江ノ島にむけた砂場のエリアを目指す。

すでに、江ノ島も逗子も海の家でアルバイトしていたから、地理もこっちのものだ。
横須賀から江ノ島まで江ノ電でかよう夏は、今では宝島に通う日々のように思い出される。オレも若く、そして何も知らなかった。




江ノ電から、極楽寺を越えて、はじめて海が見えるのが稲村ガ崎だ。

そこには、小さな駐車場が国道沿いにあり、その真下に少しだけ海岸線が露出する。小さな小さな砂の露出、それが稲村ガ崎の海水浴場の一切だった。もちろん海の家など一軒もないし、知っているのはクルマでこのあたりをうごめいている連中だけのスポットだった。当時のっていたパジェロミニは、その小さな海岸の小さな駐車場にちょうどよいサイズだった。




夕方、鎌倉に向けて走るとホブソンズが黄いろいロゴマークを地味にゆらめかせていた。茅ヶ崎にむけて、走っていくとえぼし岩がゆっくりと姿を現す。けれど、それはすぐに夕闇にまみれていく。










稲村ジェーン」は、自分の中でサザンオールスターズの最強の名盤である。
明らかにテクニック志向のフュージョンバンドのリズムセクションに、ジャズ臭がプンプンとするキーボードに入り混じり、そこにさらに輪をかけて淫猥なボーカルが響きわたるサザンオールスターズは、70年代後半の衝撃だった。もちろん、それを感知できたものは少なくない。だから彼らは生き延び続けた。
しかし、自分にとって、彼らの最後の輝きはここまでだった。

同名アルバムの話をしているつもりである。
だが、映画はそれなりに面白かった。横須賀から出てきた的場浩二役のチンピラは、横須賀出身者がもつ逗子や鎌倉や、ましてや観光地となった江ノ島へのいらだたしさを反映しているように思えた。それはまだドブ板にダイエーがショッピングモールをつくる前の話だ。サンタナが古びた看板でまだ店を続けていた頃、ワッペン屋の「大将」はまだ米軍のエンブレムが主流でつくっていて、その前の払い下げ品の店は、おしゃれなどとは程遠かった頃の話だ。それは横須賀のベースの年代でいえば、ミッドウェイの時代。


60年代の稲村ガ崎のサーファー達の物語の映画は、チープなエンディングでバブル真っ盛りの80年代ピープルを鼻白ませたけれど、それでも3輪ミゼットが極楽寺の坂を駆け上る姿や、安い白ペンキの海岸線のバーは、ノスタルジックで夢があった。
どこにもない湘南、それはローカルで、甘いココナッツの安っぽい香りがして、そしてスリリングであった。

サントラでもある「稲村ジェーン」には、映画を見に来たカップルというシチュエーションの男女2人の会話が曲の間に収録されている。
最後の会話で、映画に終わったあと、どこに行くのかという話のオチは、「アンデルセン」となっているが、これは当時でも一番古びた134号線の防砂林の中を抜けていくラブホテルの名前だ。


何もかも皆懐かしい、と死期に面した老船長のようにつぶやきたい気分である。






この映画はDVDにはなっていないらしい。だからがんばってビデオで探して、もう一度、あの頃に見た人間は見るといい。
きっともうチャンスはないだろう、忘れていたあの懐かしい匂いがしてくるはずだから。
80年代は終わり、1990年の映画。



アルバムは小林武史の出世作・・・といっていいのかな。その後、ジャパニーズポップスで、音の作りこみ方を耳にするにつけ、この人のプロデュースと一発でわかるようになりましたYO!
もちろん、この後のこの人の活躍はよくわかっていませんが。







FWFゴールドディスク
〔MGD001〕"Live at Birdland" John Coltrane 
〔MGD002〕"ギル・エヴァンスの個性と発展" Gil Evans
〔MGD003〕"Who is this bitch, anyway?" Marlena Shaw
〔MGD004〕"太陽と戦慄" King Crimson
〔MGD005〕"Second Edition (Metal Box)" Public Image limited
〔MGD006〕 "Hallucination Engine" Material
〔MGD007〕"On Love" David T. Walker
〔MGD008〕"Beggars Banquet" The Rolling Stones
〔MGD009〕"稲村ジェーン" サザンオールスターズ
〔MGD010〕"Chapter one:Latin America" Gato Barbieri
〔MGD011〕"New Glass" Albert Ayler
〔MGD012〕"Somewhere before" Keith Jarrett Trio

無人島レコード
2007/08/08のBlog



死ぬということは当人にとっては意味がないことだ。

その意味は、残されたものだけが見出すことができる。





非戦闘員の民間人の無差別虐殺は、今も昔も世界中で続いている。
それは別に核兵器に限った話ではない。

第二次世界大戦では、日本人は本土の空襲で何十万人も犠牲者が出している。
逆に日本は、日中戦争から終戦まで、アジアの至るところで、民間人や捕虜を殺戮し続けた。
イラクでは未だ戦いは続いているし、さらには巻き込まれるのは決まって民間人だ。




太平洋戦争は、日本とアメリカの中国大陸を巡る利権戦争であった。
双方とも、経済的な矛盾・恐慌への恐れを、武力による植民地政策によって解決しようともくろんだ。「国民国家」というシステムによる一般人をも戦力とする「総力戦」の概念は、別に原爆がなくとも、大きな悲劇を巻き起こす。そのひとつがヒロシマとナガサキに過ぎない


これはいたって簡単な歴史把握であるのだが、その反省は全く省みられていない。

イラク戦争やアフガン戦争は、本当に「テロとの戦い」だったのか?




中上健次は、いつだったか「原爆ファシズム」という言葉を使っていた。
原爆を大声で語る人間の一部には、被害者としての権利主張みたいなものだけが突出してしまっているのは確かで、それを裏返してみたり演繹してみたりする冷静な態度がすっぽり抜け落ちている。
原爆の凄惨さを語るなら、日本人がアジアでやってきたことの悲惨をもあわせて語るべきであり、また現在をも見極める必要があるのではないか。



ヒロシマやナガサキは、世界中至るところにあり、それは今も続いてる。

それを見出して、現在地点から何かを発信していくことのみが、死者にその死の意味を見出すことになるのである。






被爆ファシズム

しかし、今現在わが国でみられる状況、国民のほとんどが一塊となったごとく、原爆投下のことを「人類史に比類なき暴虐」と評する以外は断じて許さず、反対意見は認めずという一貫ぶりには怒りをもよおすほどで、これを「被爆ファシズム」と呼ばせてほしいのです。

ここには自分達の言い分だけが正しいという盲目的確信しか見られません。
こうも「被爆」を神聖視したがるのは、日本人があの大戦で訴えられる唯一の「正義」だから?

(中略)

だからといって、当時の日本が他国になした暴虐の数々を悔い改めもしない連中が、他国から日本になされた暴虐だけ「人類への罪」などと非難するとはもってのほかというものでしょう。
確実に、人類全体への冒涜であります。

















おまけですが、このブログの左のリンク集はとても面白いです。

コレとかコレとかw
2007/07/15のBlog
[ 23:03 ] [ 燃える雨 (白燐弾について) ]
私はこれからレイテ島上の戦闘について、私が事実と判断したものを、出来るだけ詳しく書くつもりである。七五ミリ野砲の砲声と三八銃の響きを再現したいと思っている。それが戦って死んだ者の霊を慰める唯一のものだと思っている。それが私に出来る唯一のことだからである。

『レイテ戦記』上巻P74(以下、「同書」)




「レイテ戦記は、300冊以上の資料文献にもとづいて書かれた徹底した記録なのである。大岡は、そこで「事実」だけを描こうとした。」(松岡正剛「千夜千冊」)
大岡昇平自身、35歳で陸軍に召集され、レイテ島に捕虜になった経験があり、そのときに自分自身の経験と、さらに日本軍作戦参加人数8万4006人中、戦死者7万9261人(戦死率94.3%)という戦いの真っ只中にいた第十六師団の捕虜からの聞き及んだ話から、この戦記を書くことを決めたという。








さて、この著書の中には白燐弾を米軍が、「化学砲」として、壕に潜んだ日本兵に対する兵器として使用してきたことがいくつも記述されている。



「師団は特殊砲弾を使うと通告してきた。(これは八一化学砲兵隊の白燐砲弾で、地上一〇メートルで炸裂し、壕にかくれた日本兵を上方から焼き尽くす。)」
同書上巻P88


ここでいう師団とはアメリカ歩兵二四師団のこと。
レイテ作戦の初期、タクロバン地区を含めたレイテ島上陸作戦に従事。



「その夜第八五化学砲隊がこの日本軍陣地を目標に五〇〇発射撃した。二十日の夕方十字架山の攻略にも用いられた白燐砲弾である。時限信管により地上十メートルで爆発、壕にひそんだ兵士に燃焼性物質を浴びせる。」
同書上巻P148


十字架山とは日本軍がつけた名称。アメリカ軍によるレイテ湾上陸の初期の最大の激戦地。522フィートの小山に日本兵は、激烈な艦砲射撃を逃れてたてこもっていた。
昼間は洞窟に忍び、夜になると激烈な艦砲射撃で肉体が飛び散り、残った捻じ曲がった四肢を乗り越えて、日本兵は夜襲を十字架山で繰り返す。


「米軍がそういう洞窟の全部を火炎放射器と燐性手榴弾で片付けたのは、さらにその四日後であった」
同書上巻P156




「嵐の中を米軍は予定通り進撃してきた。二四師団の戦闘報告によれば、風雨を利用して、日本軍陣地を突破しようとしたとある。火炎放射器、四二ミリ化学砲※も到着していた。これはパロの五二二高地攻撃にも有効だった白燐弾で、時限信管によって地上十メートルで炸裂し、塹壕を上から焼き尽くす効果がある。」

同書上巻P425

※42ミリは4.2インチの記載違いと思われる。
 M2 4.2 Inch Mortar


この二四師団所属の八五化学砲大隊が使用した白燐弾の記述はさらに続く。

「十日から十一日にかけての夜、米八五化学砲大隊はD点の平塚山およびS点からK点にいたるリモン主稜線の南側斜面を、五分間に二発のペースで砲撃した。十一日の〇六四五から〇七四五の間に七五〇発射ち、〇八三〇えら〇九〇〇までは白燐砲弾を集中した。」
同書中巻P22

「十一日から十二日にかけての夜、八五化学砲大隊は(米軍二四師団二十一連隊)第一大隊と第二大隊の正面に、三五〇発の白燐砲弾を撃ち込んだ。」
同書中巻P24

「二十一連隊の夜営円陣に対する敵の夜襲が成功したことはなかった。攻撃には火炎放射器と白燐砲弾が特に有効で、敵にしばしば悲鳴をあげさせることが出来た。」
同書中巻P39



これら以外にも、この米軍二四師団とレイテ島の山を越えた反対側の海岸線に上陸した米軍第七七師団にも、化学砲兵大隊(八八化学砲大隊)による白燐弾の使用が記述されている。
同書中巻P381・下巻P113



大岡昇平の記述は、これまで引用した文章からわかるとおり克明に事実を積み重ねるものとなっている。
細部に入って記述が詳述されているのは、アメリカ側の公刊戦史をもとに、複数の日米双方の記録を照合していったことによる。

この記録の参考文献として、筆者はいくつかの日本軍、そして米軍側の戦闘記録の文献を紹介している。(同書上巻P400・同書下巻P377)





また、日本軍の側も海軍が高角砲(飛行機を狙うための中型の砲)に黄燐を用いた「三式弾」を使っていたことも記している。(同書上巻P194・P235)
ただ、このへんについては、詳細にはいたっていない。





ところで、白燐弾のイラクでの米軍の使用について、その残虐性や人道性についてずっと語ってきたのだが、これに異議を唱えるネット系の「軍事専門ヲタ」というようなヒトたちが、ずっと語ってきたのは、もともと白燐というのは施設延焼などの目的に使うもので、


もちろん派手に燃えて飛び散っている白燐欠片を直接浴びれば火傷をするでしょう。しかしそれは、通常榴弾が炸裂した時に飛び散る弾殻破片の殺傷効果範囲よりも危害半径が狭いのです。そして、白燐が燃焼した時に発生する煙を浴びたところで、人体発火や骨まで溶けるというような奇怪な現象は発生しません。煙は広がるがこれでは人を殺せず、燃える白燐片は遠くまで届かない。それはつまり、白燐弾は通常榴弾よりも殺傷力で大きく劣るという事の証左です。

空中炸裂する白燐弾を検証(週刊オブイェクト)



>煙は広がるがこれでは人を殺せず、燃える白燐片は遠くまで届かない。それはつまり、白燐弾は通常榴弾よりも殺傷力で大きく劣るという事の証左です。

この程度が結局、ネットの専門家(といっても2ch程度の匿名のヲタなのですが)の知識なのか!というのに逆に驚いていたりして





ちなみに、この情報は、この問題についてずっと根気よく追求しつつげている模型ダイアリーからずいぶん前にもらいましたが、問題の「レイテ戦記」を時間がなく延々読み進められなかったことにより、現在のエントリーになっています。



模型ダイアリーは、その後もこの問題について自称「軍事に造詣が深い」2ch系軍事ヲタの知ったかぶり丸出しのガセネタに真っ向から文献を駆使して、ひとつひとつ反証を続けています。



白燐弾ガセビア「白燐弾は焼夷兵器ではない」
白燐弾ガセビア「黄燐爆弾なんて兵器は存在しない」
白燐弾ガセビア「白燐弾の対人使用は国際法違反ではない」
白燐弾ガセビア「黄燐を主剤とした焼夷弾はない」









大岡昇平は「レイテ戦記」という長い長い戦記の最後に、ついにこう語ります。

「死者の証言は多面的である。レイテ島の土はその声を聞こうとする者には聞こえる声で、語りつづけているのである」




この声は、こういうヒトたちには聞こえているのだろうか?と思わざるを得ません。







【追記1】

本項を書くにあたって、ひょんなきっかけで、自分の知り合いにレイテ島で困難を極める戦いを続けざるを得なかった第十六師団の参謀の近親がいることを知りました。
第十六師団は、これまで引用してきた米軍第二十四師団と正面から絶望的な戦いを、飢餓とともに終戦に至るまで続けてきた部隊です。自分はこの偶然に絶句するとともに、これらのくだらねえ軍事ヲタの威勢のいい能書きが、これらの死や残された人たちに対してどういうものだろうか、と改めて思わざるをえなかったです。







燃える雨(白燐弾について)

1.燃える雨(モントットーネ村からの手紙)
2.燃える雨(「ファルージャ 隠された大虐殺」ほぼ完全日本語訳前半)
3.燃える雨(「ファルージャ 隠された大虐殺」ほぼ完全日本語訳後半)
4.燃える雨(白燐弾は「化学兵器」ではなく「通常兵器」であるとの主張について)
5.燃える雨(白燐弾-「極めて卑劣な兵器」 byグローバル・セキュリティ
6.燃える雨(アメリカ軍が違法性を認識:白燐の煙の向こう側で起きたこと)
7.その雨を見たかい?(燃える雨:白燐弾についての否定見解の正体)
8.燃える雨(参考:白燐弾についてのまとめ)
9.燃える雨(追加情報:大岡昇平「レイテ戦記」)

燃える雨、白燐弾 
-米軍による白燐弾使用の実態についてのまとめサイト-
2007/07/14のBlog

Weps打ち明け話

「ビジターの横断幕が張れるのはビジターサイドのゴール裏だけ」というクラブが増えてきたのはいつごろからだろう?これは、短い間とは言えそれまで習慣となっていたことを変えるものだから、「今年からこうなりました」だけでは済まないものだと思う。


 6月23日の日本平の件では、「初めに清水側のダンマクを外して自分たちのダンマクを取りつけたレッズサポーターの行為が騒ぎの発端だが、その後の事態の責任をすべてレッズのサポーターとクラブに負わせるのはおかしい」という見方もある。僕もそう思うし、清水のクラブが主催者としての運営責任について何ら言及していないのは、不思議に思う。





埼玉スタジアムのビジター自由で、アウェイに来るサポーターに対して、彼らなりの「運営責任」のもとに、酷いルールを押し付けてくるのはどこのクラブチームだろう?

ひとつのチームを除いて、J1どこのチームのサポに聞いても、ホームの論理で、ビジターチームのサポーターに一番締め付けが多いところがどこかは一致する見解になるだろう。

「今年からこうなりました」を一番やってくるのはどこのクラブの運営か。




オレはそれが悪いとはいわない。

が、編集だか新聞記者だかライターだかなんだか知らないが、そんなことも知らないでヒト様のチームの「運営責任」をこれみよがしに取り上げているこのヒトはどういう了見の狭さなのか。それこそ、オレは不思議に思う。





最近、浦和が「ビッグクラブ」だ、とか、まるでバブル前夜のジャパン・アズ・ナンバーワン風の自画自賛の論調が、狭いJリーグの世界で広がっているが、この光景はかつて見たことがある。
ヴェルディがいかに成功したか、Jリーグのマーケティングがいかにうまかったのか、そんな話がそこらじゅうで見受けられた時代。


今の浦和を見ていると、この光景を思い出す。
そうしてエゴは拡大し、最後にはそのつけがまわってくる。
平家物語の昔から世の中はそういう風にうまくできあがっているものだ。

おごれるクラブ・サポーター・ファンも久しからず、唯春の夜の夢のごとし。
「ビッグクラブ」も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。






ちなみに・・・・

こういうふうに言うと「またレッズは『数の論理』かよ」という人がいるかもしれないが、「数の論理」とは数の多い方の意見がすべて正しい、というもの。僕が言っているのは、「数に応じて」ほしい、ということだ。

これ日本語として意味もわからないし

「数に応じてほしい」って、それが「数の論理」じゃんwwwwww 
それ以外に「数の論理」の何があるというか。






クラブも戦っているの。それは自分達のところがエゲツなく一番むき出しにやってきているべ?
ルールは自分達のクラブのプライドを守るためにやっているのであって、別にアウェイに来る連中を保護しようとなんてしてないのは当たり前のこと。
そんな単純な話なのに、まるでそれに対する当然感じるだろう不平不満を、まるで倫理とか正義のように取り扱うのは、話が違うべ。あまりにマスコミにおだてられすぎて、まるで自分達のやることなすこと、正義に昇華したかのように勘違いしているんじゃないのかな。そういう建前の正義を否定するだけ否定するスタイルでさんざんJリーグをのし歩いていたのが、急に方向転換されて倫理やルールを説かれても申し訳ないけどまるで説得力はないよ。



味スタいくから、今日はここまで。
2007/06/26のBlog
[ 02:40 ] [ サポーターとはなんじゃらほい ]
2007/06/22のBlog

■俊輔と戸田の発言に日本の応援を考える


ゴール裏が歌いっぱなしで、試合の展開も見ていないし、本当に選手の力になっていないのではないか?という話はよく聞く話である。
けど、これって最近になって、非常によく聞くようになった話なんだよなあ。

オレらも、実際に選手がそういう風にいっているなら考え直さなきゃならないだろう。彼らのためにやっているんだから。


けれど、なんでだろう?

なんで突然最近になってこの手の話が急速に広がりだしたのか。


今日は、この微妙な応援文化・・・ってものが語れるようになりつつあるというのならば・・・・の、フーコー的な歴史の断層について考えてみたい。

ちなみに戸田みたいなことをいう人を、総称して自分は勝手に「プレミア厨」と呼んでいる

このへんの謂れ因縁についてもあわせつつ、以下長文にて失礼。









バンデーラ・チャント・跳ぶ (代表の応援の源流)


もともと、チャント(サポートソングのこと)主体で、応援を組み立てるようななったのはアルゼンチンのクラブチームの影響である。影響というか、その「輸入」または「コピー」。


彼らは90分間歌いっぱなしで応援をつくりだす。

まあ、もちろん本当にずっと歌っているわけではないし、歌が止む時間帯もあるわけなのだけれども、基本的に応援は歌うことによって応援の流れが組み立てられる。
1曲を10分でも20分でも歌い続けて、さらに歌にあわせて跳ぶ。
これにあわせてバンデーラ(あの襷のことね)が、アルゼンチンスタイルの基本。

バンデーラ、マイナー調のチャント、歌にあわせて跳ぶこと。

これがアルゼンチンのクラブチーム式の応援の基本パターンである。


もともと、日本のサッカーの応援は、戸田や俊輔がいうように、選手コールや激励式の拍手などが中心だった。ある意味、スタイルをもっていなかったのである。

Jリーグが始まって、しばらくたつと、まずはブラジル方式のサンバの応援が導入された。ブラジルの場合は楽器である。ずっとずっとサンバのリズムがループされて鳴り続ける。

Jリーグの開始当初を知っている人間であるならば、これがいい意味にしろ悪い意味にしろ革命的な応援スタイルの変化だったことを覚えているだろう。
そして、これに対抗するようにしてアルゼンチンクラブ方式の応援が導入され、Jリーグ創設当初のクラブサポーターは、はっきりこのスタイルのどちらかを選択して、また時には旧来の方法をミックスさせながら、応援を形成するようになっていった。

その当時、はっきりとプレミアスタイルを打ち出していったのは浦和だけだったのではないかと思う。ただし、これも戸田が言っているようなものとはまるで違う。音圧でサポートをつくりだしていこうというスタイルで、もちろんチャントが鳴り響くものだ。その名残りのように、浦和にはイングランドの元歌となるチャントが多い。もちろん、今ではその文化のルーツもミックスされてしまっていて、一聴一見では、すでにそのスタイルの原型はわからなくなってしまっている。



代表の応援は、もちろんアルゼンチンスタイルである。

「ダレ」とか「バモ」とか「オーレ」とかのスペイン語。さらにはチャントもほとんどはボカとかアルゼンチンのクラブチームの応援現場から持ってきたものだ。


(どこかにボカのチャントをmp3でアーカイブしているサイトがあったのだが、どこにあったか見つからない。ここは知らない人には一聴の価値があると思う。誰かコメント欄に貼ってね!)

さっそく教えてもらいました。
ココココ




このアルゼンチンスタイルが、Jリーグ始まった頃の一番新しいスタイルだったわけで、旧来の選手コール中心、プレーに拍手方式だけのスタイルが更新されて現在のスタイルがある。

基本的に、日本の"ULTRAS"と名前がつくサポーターグループは、皆、アルゼンチン・・・というよりボカ・マニアばっかりなので、このスタイルを極めていくことに、大変熱心である。

ちなみに、横浜ゴール裏で満開に咲くパラソルも、もともとはボカやリーベルといったスペイン語圏のサポーターが、チームカラーの黄色と青または白と赤のパラソルとかのパラソルを、応援に使っていたところから「輸入」された文化である。
なお、一番最初にパラソルを応援に使い出したのは、たぶん福岡のULTRAであるオブリだったと思う。


"コーヒールンバ"と呼ばれる曲を現在歌っているのは、横浜とガス。
2003年だったか、トヨタカップでボカはこれを延々20分以上歌っていて、それが即導入された、というのが始まり。
※ "ボカが歌うコーヒールンバは参考のために、ここにmp3おいておきます"








歌いっぱなしのゴール裏と他人任せの「サポーター」と観光気分のバックスタンド


さて、そのスペイン語圏のラテンアメリカのサポーターの歌いっぱなし跳びっぱなしの応援スタイルが、それがすべてなのかというと、それは違う。

コア部分は本当に10分20分歌っているのは確かで、日本の自称「サポーター」の人達のいうならば、眠くなってしまいそうなマイナー調のチャントをゆるゆると跳びながらゆるゆると歌い続けている。

だが、それがすべてというわけではない。
よいプレーには、拍手が広がり、敵がボールを保持するとブーイングがスタジアム全体から鳴り響く。
しかし、一方ではチャントは歌い続けられている。


皆、サッカーと応援をよく知っているのである。

チャントがループし続ける「グルーブ」を保持しつつ、ブーイングの出すところは出し、そして拍手するべきところでは拍手をする。

これがそれぞれ自分自身の応援スタイルとプレーを見る目をもとに、スタジアム全体で巻き起こる。



つまり、歌い続けるコアゾーンが歌いっぱなしなのに対して、ひとつの必要なBGMと理解しつつ、コア以外が声援やブーイングやオーレー!や拍手みたいなのを自力でやって、平行して盛り上げているのがアルゼンチンスタイルなのではないか、と。





ところが、日本の場合だと、コアゾーンが応援をつくる全てだと思っているので、自主的な行動が皆できない。

応援を自力で判断して形成するカルチャーで出来上がっていないから、応援を受身で考えて、誰かについていくのが当たり前と思っているのだ。

そして、コアに頼っているだけなゆえに、コアの歌いっぱなしについていかざるを得ない。








いやさ、ようするにですよ、戸田とか俊輔の言っているみたいにしなきゃダメだと思っているなら、てめーでやれよ!ってことですよ。文句は誰でも言えるからさ。


個人個人が形成するものを誰も否定しないし、むしろ歓迎するはず。

だけど、現在はコアゾーンの歌いっぱなしだけが応援だと思っているから、自分では何もできない→できないから誰かにやってもらおうとする→やってもらえないから文句を言う。
そういうジレンマに陥る。

サッカーのカルチャーって、それ誰かにつくってもらったり、やってもらったりするものなのかね?






ちなみに、その戸田や俊輔が賞賛するイングランドのプレミアリーグのこの人はこんなことを言っていることを明記しておこう。



『人々は観光気分でスタジアムにやって来る。シートにどっかりと腰を下ろし、楽しませてもらうのを待ってる感じだ。
彼らは本当の意味でクラブを応援しているわけではない。伝統的なサポーターというものは、選手の気持ちを奮い立たせるように、唄を歌いながら激励する。
それが本来の姿だ』

『最近のオールド・トラフォードは物見遊山で足を運ぶ人たちばかりだ。
肝心なプロセスには参加せず、ただ単にスリルを味わうためにやって来る。その結果、スタジアムは静まり返り、暗いムードの試合がいくつかあった。
オールド・トラフォードは、いや、サッカーが行われるスタジアムは、そういう人が来る場所ではない。』 

 
-アレックス・ファーガソン-




突然、イングランドのスタイルみたいなのがなんだか妙にクローズ・アップされて、ラテン・アメリカ方式の応援スタイルが、試合の流れに関係なく歌っているだけだ!というのは、たぶん最近になってイングランドやスコットランドに日本人選手いったりしたのが原因だと思う。

しかし、CSで見ている欧州の試合で、彼らが歌っているチャントがなるべく放送に入らないようにされているのを知っているだろうか?
下品で野卑で、オナニー野郎とか他チームをただ罵倒するだけのチャントが歌いまくられているのを知っているのだろうか?


イングランドの応援スタイルが変わってしまっていて、実は自分達が賞賛しているのが、彼らがこれではイカンと思っているものだということを知っているのだろうか?


シートに座っているのは、立ち上がるのが禁止されているからで、やけに紳士的な激励と拍手から形成される応援が、実は高騰したチケットのおかげで、本当にチームと戦いをともにして何十年もの間に形成された彼らのスタイルが消えかかろうとしていることを知っているのだろうか?



本当にイングランドスタイルがいいというならば、席に座ってプレーに反応してたまに拍手するぐらいの応援スタイルはやめるべきなのでは。「サッカーが行われるスタジアムは、そういう人が来る場所ではない。



Stand up if you love England style!







以上、ここまでは、自分がひとりのコアの住人として素直に戸田と俊輔の煽りにムッキーとしたところまでの感想。
















サッカーカルチャーの歴史は断層を重ねながら蛇行して進展していく


応援は選手のためにやるものだから、選手からコレアカンわといわれたら、これは実もふたもない。


では、歌いっぱなしのスタイルをやめて、旧来の選手激励とプレー賞賛型の応援に戻ってみるか?
もちろん、世の中はそんな簡単に二進法で判断しきれるもんじゃないから、そのバランスをとるのが一番いいんだろうと思う。

それは考えていかなきゃならないだろうなあ。




ここから先は、以上を踏まえていつも思うことである。


日本のフットボールの応援文化がスタイルをもって選手に力になり、かつスタジアムというひとつの祝祭的な空間の機能として完全に歯車がかみ合うようになるには、何にしてももう少し時間がかかる。


この最大の原因が、選手とサポが歴史的にいまだ「密着」しきれていないこと。

この「密着」というのは、チームのサポーターが選手になったり、選手を目指していた人間がサポーターになったり、というレベルの交配のことだ。




アルゼンチンの選手なら、チャントが聞こえてこないスタジアムに不満を抱くだろうし、歌いっぱなしであることが当たり前だと思って、力に感じるだろう。

ブラジルの選手なら、打楽器最近たりねーんじゃねーの?くらいのことを思っているヤツもいるかも知れないし、イタリアの不良の選手なら、もう少し発炎筒ほしいよね、ハーケンクロイツ欲しいよね!くらいのことを感じているかもしれない。

ようするに文化差なんですよ。文化差は、もちろん歴史の積み重ねが生み出すもの。そして、まだ日本には文化差を語るほどに、サッカーのカルチャーは成熟しきっていないのだ。




正直、プレミア式のオーウェンスタイルが、わかってきたっていうのもCSがガンガン、イングランドを放送するようになってからだし。

で、その最近のプレミア見て、座席に座り込んでお行儀よく拍手しているがすばらしい!ということになってしまう。
つか、コア部分ならあいつらだって歌いまくりですよ、みんな知らないだけ。

応援における「プレミア厨」って、そういうよくわかってないのにもかかわらず、できもしない現状否定を評論家的に声高に唱えているやつらのことです。
彼らは野次とか聞こえもしない指示出しとか大好きで、そういうのを「プレミアっぽくていいね!」と思い込んでいる。



プロ野球みたいにどっかりと座り込んだファンが、メガフォンたたいて、良いプレーに拍手して迎える、選手コール中心に応援組み立てる、野次と激励の声を優先させる・・・・そんなのが嫌だったから、今のサッカーの応援スタイルがあったんじゃないかな。


歴史は一直線に進んでいくものではなくて、ジグザクに試行錯誤を人々が繰り返し続け、時には、一昔前には常識だったものが、あっさりとひっくりかえされたりするものだ。そしてややこしいのは、ひっくりかえったりジグザグに蛇行していることを、当の歴史を形成している人たちが気づいていないこと。



自然発生で個々人がコールを出していくことができずゴール裏のコールリーダーに頼り続ける人々が多数派であるかぎり、歌いっぱなしやめろ!という話から、簡単にもっと歌え!って話に転化するだろうし、そもそもあれだけ座って歌わないヤツが多いのならば、ぜんぜん根本は変わらないと思うんだよね。




あるときに、歴史は積み重なり、戸田みたいな能書きたれるヤツがコールリードできるようになったり、海外からかえってきてリタイアした選手の子供がバクスタで自分なりのチャントや選手コールを出して、自然発生でそれが広がるようになる光景はきっとやってくる。

コアのかたわれの一人としては、それを待つだけ。
それまでは、きっと今のスタイルは保持せざるを得ないだろうと思いますよ。













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久々にこっちは更新しました。
一年半ぶりに復活した横浜ゴール裏のために、こっちで手いっぱいな状況続いていますが、もう少し余裕もってこっちも書いていきたいです。


で、久々に書くということで、過去の文章みたりしていたら、今回に関連するようなことをずっと繰り返し書き続けていることにも気づきましたYO!

そんなわけで以下参考まで。


主曰く「サポーターあれ」、すると「サポーター」があった
太陽を盗んでやつらにくらわせろ!
マーケティングを超えて、サポーターはたくましく生き延びなければならない
能動的であらんとする存在 -サポーターとファンの差異-
【追記】能動的であらんとする存在 -サポーターとファンの差異-
ピンボールとフットボール
総力戦

2007/05/08のBlog
【横浜の代表的なサイト】

何がおこっているのか概要を把握するには、以下の4サイト。

掟破りの逆サソリ
サカバカ
La Guarida
tricovita




これに加えて、満を持してブログ化。

新・横浜御用牙




以降、横浜関連のネタはコチラで。

パフィ浜の関係者・ファン・サポーターはアクセス禁止になっておりますので、正常にサイトが閲覧できないことがあります。
2007/04/09のBlog
[ 02:52 ] [ アジアチャンピオンズリーグ ]
ACL関連のいんたぶーとか原稿が立て続けに来ております。

基本的にこれ以上ブログのようなところで書いても、浦和や川崎のACL初心者に利便性を提供するだけになりますので、ACL関連の情報はここでは書かないことにしました。必要な情報は「一人フーリガン」には西荻で伝えてあるしw


よって、ACLについての話は、このブログの過去記事アーカイブを読むか、後はカネ払って下記の媒体をチェックして熟知すべし。





J'sサッカー 4月号 宇都宮徹壱氏によるインタビュー(もう店頭にないかも)
PRIDE of URAWA (2006-2007) 原稿
浦和フットボール通信 vol.3 原稿(5月上旬発行予定)
速報!サッカー24 原稿



つか、よく見ると浦和ばっかりだな・・・・コレw
レッズプレスからもいんたぶー受けたし。
この前、某浦和系の編集の人間と話したときに、このネタに限らずなんで浦和関連の媒体はオレに原稿を頼むのか?と聞いたら、「もう浦和の悪口を浦和の雑誌とかで書けるライターとか世の中にいないからじゃないですかね?」といわれましたがwww





そういえばA3は山東で、上海シェンファと山東と城南とで浦和がやるらしいね。
この3チーム、全部マリサポが2年間で戦ったことがある相手なんだよね。不思議なもんですよ。それから、誰だかが、「ACLは罰ゲーム」とか言っているらしいんだけど、コレ、「A3は罰ゲーム」の間違いですYO!
「A3は罰ゲーム」の語源発祥のブログから一言注意しておきたいところですわ。

まあ、罰ゲームであったとしても、この対戦相手なら出てみたかったね。



2007/03/12のBlog
[ 03:00 ] [ サッカー時評 ]
昨日の三ツ沢は美しいスタジアムでした。もちろんフットボール的に。


見に来た連中には、サッカーの楽しさを教えられたんじゃないかな。
ただひとつ教えられなかったのは、横浜F.マリノスの強さだけなんだけれどもねw




今年は自分的にはこれからの横浜をつくるための一年だと思っているので、試合結果だけでgdgd言うのはしないつもりなので、長々と書くつもりもないのだが、ひとつだけ。
こういう試合の意味をわかってくれるプレイヤー、特に松田、それから栗原、上野、こういう選手を使えなかった(使わなかった)のが、とても残念だった。

若い選手はそれでも学んでくれただろうと思う。後悔は、その意味をあらかじめ選手に教えられなかったということ。サポーターが選手に教えてあげることというのはあると思う。

どうしても勝たなければならない試合と、シーズンのひとつの試合だというすれ違いだったんだろうと思う。早野と高木の両監督のコメントに現れているよ、そこは。つか、早野は相手がどこだろうと普通にやれ、とか訓示たれていたんじゃねーの?
これからはオレらがその意味を教えるよ。






試合を取り巻くいろんなところで起こったことには楽しませてもらいました。
この一番の立役者は向こうの運営だね!あいつら味スタの一件とかからまるで学んでねえ

そうそう、そのうちのひとつの祭り会場で、つのだまんにも遭遇しましたよ!あれは戦場マンガシリーズの物語の中の再会みたいで面白かったですわww





マスゲームに関しては、あれは主催者のクラブ側がやったと思っている人もいるみたいだけど、全部手弁当です。向こうは知らんけど。ネタがどんかぶりして、セリエの「ダービー」みたいに、スタジアム360度一周したカラーの戦いになっただけ。

エルゴラのインタビューで、向こうの誰だかが、「参加型ダービー」とか言っていたので、たぶんマスゲームだろうとは思っていたけども。パネルのマスゲームが、「参加型ダービー」という言葉に値するものかは知らんわ。あと、出来については経験の差が出たね。こっちの方が綺麗だわなw

まあ、オレ、あんまりこんなにグルリと完全に一周した、しかも半分ずつ色が違うスタの光景って、Jでは見たことないなあ・・・。

鰯も南米チックだったよ。ピッチに入ったのはアカンかったけど。
ちなみに、オレらはいつも人数相当数さいて、試合後のスタ内外の清掃をホーム恒例でやるんだけど、この日はホーム三ツ沢ということで動員していた掃除部隊がほとんど何もやることがないくらいに、ゴミも鰯もひとつもない綺麗な状態で帰りましたよ。
みんなお疲れ様でした。



そんな感じで、試合結果以外は面白かったのになあ。



まあ、向こうの連中に言いたいことがあるとすれば、盛り上げてやったんだから感謝しろよ!ということかなw
ヨココクで、この盛り上げ代は10-0ぐらいで返してもらうことになっているんですが。
そのうち5点ぐらいは松田と栗原がからむ。マークしとけよ。

あ、次は単にJ2あがりのチームとやる、普通のホームの試合になるので、たぶんなんもやりません。次から自分たちで盛り上げてね!




さて、明日からまた次の試合に進みますよ。
We must continue....と誰かマリサポが書いていたな。そのとおりだね。
みんなおつかれでした!明日からまた楽しんでいこうぜ!
2007/03/11のBlog
[ 22:36 ] [ どうでもいい話 ]
13万円でマチュピチュ 』って、なんかエッチな感じがするのはオレだけですか?



その著者、島田佳代子女史といえば、自分の敬愛するポール・ガスコインに胸を揉まれたことによって、その同等のリスペクトを感じざるを得ない人物である。
(I LOVE 英国フットボールより)

いくらサッカー好きなヤツでもガスコインに胸をもまれるのは難しい。だから、オレはそんな貴重な体験をすることが出来た島田佳代子女史を尊敬してやまない。
ほら、あれだな、アイドルと握手した手をオレにも触らせてくれっていうのと同じ理屈で、その胸オレにも揉ませろ、という感じです。本人に面と向かっては絶対にいえませんが。






で、その彼女のトークイベント&サイン会 が渋谷大盛堂書店で、3/15(木)19時~に行われるそうな


★3/15(木)19時~ トークイベント&サイン会 @渋谷大盛堂書店

参加無料 要予約(本の購入は強制ではありません)

申込み:大盛堂書店 03-5784-4900(担当 今関)

海外旅行に興味がある方、海外でサッカー観戦してみたい方、ぜひぜひお越しくださいね!





★3/18(日)19時~J Wave村治佳織のClassy Cafe に出演!「13万円でマチュピチュ 」にまつわる秘話も明らかに!





>海外でサッカー観戦してみたい方、ぜひぜひお越しくださいね!


・・・ということなので、興味ある方はかよりん(ホンモノ)と会いにいってみてはいかがでしょうか?























・・・・・・・・と、えふしー戦のネタでうじゃうじゃいろんなヤツが湧いてきてPVうなぎのぼりの絶好のタイミングで宣伝でしたw
2007/03/08のBlog
安直な「ダービー」の物語を拒否せよ

スポーツ新聞とテレビが特売商品のようにパッケージ化する、全ての物語を否定して、自分自身の、横浜F.マリノス自身の、新しいサーガ(物語群)をつくりだそう。


マーケティングを超えた向こうに、はじめてオレらのネーションがある。





町と町の間を、頭蓋骨がいったりきたりする、それがフットボールの起源ではなかったのか。
そこに遡行して、ラジカルな(根源的な)戦いを繰り広げよう。




スーパーのチラシにならんだような物語はもうたくさんだ。
それを否定し、そして本当の歴史をつくるのはオレらがやらなければならないことなのだ。

それをやりきることが、逆説的に彼らをリスペクトすることだと知ろう。




そして、構造主義者が「これはパイプではない」というように、物語の起源に遡行し、かつ物語を新しくつくりながら、俺たちは言おう。


これは『ダービー』ではない。




3/10、俺たちの三ツ沢に集合。












連帯するサポーターは決して負けない。










2007/03/05のBlog
[ 01:07 ] [ マスターのつぶやき ]
日本サッカー協会様から、開幕を祝い、横浜国際北ゲートに大変立派なお花を頂戴しました。

ありがとうございました。
2007/02/23のBlog
[ 02:01 ] [ マスターのつぶやき ]
「スタジアムは内と外がひっくりかえった場所である」と言ったのは、ティム・パークス


確かに考えてみると、スタジアムに入ることを「帰還」というのは、よくよく考えてみるとヘンな話である。




が、帰還しました。





ネーションの論理というのは不死がキーワードとなる。
クラブチームのサポーターの物語も、親から子へ語られ続け、そしてサポーターは決して死ぬことはない不死の存在となる。

「選手と監督は来ては去る、しかし俺たちは永遠だ」


サポーターはいつも目に見えないネーションをつくりつづけている。






とある事情にて、横浜のゴール裏から遠ざかって一年と有余。
たくさんの人の応援を受けて、ネーション・オブ・ヨコハマに再び戻ることになりました。
大変な幸せものだと思っています。



ガスコインだって山瀬だって、何年もプレーできないことがあったんだから、サポーターだってそれくらいはあるもんさ、などと大見得を切っていたりもしてみましたが、実のところは大変さびしいものでしたよ。

サポーターとしての歩みを少し休めるようなときが来たら、この一件についてはまた語ることもあるかも知れないけど、今は封印して、このまままた疾風怒濤で開幕を迎えていこうと思います。


そんなわけで、心配してくれた多くの人、ネイション・オブ・ヨコハマの支援してくれた人、たくさんクラブにメールしてくれた人、カンパしてくれた人、それからボランティアみたいことやってたのに参加してくれた人、その他、たくさんのヨコハマ愛をわけてもらいました。ものすごい感謝してます。


文化人類学者のフィールドワークみたいにゴール裏にはいってから、その一員になって、ネイションを創る因子になってみて、振り返るととても長かったような気がするよ。

胸いっぱいのヨコハマ愛を抱えて、生還。







開幕は3月3日、もう来週か。
年チケ買わないとw
2007/01/31のBlog
[ 01:58 ] [ 咲く音楽の日の革命 ]
ライブの映像を見てショックを受けたという経験はそんなに多くはないのだが、この映像を見たときの衝撃は未だ覚えているし、忘れられない。

ボブ・ディランのデビュー30周年か何かのコンサートで、ディランをトリビュートするゲストとして、シンニード・オコナーがステージに立ったときのその映像が、それだ。(Youtube)


映像を始めて見たときに、解説者は彼女がカトリック教会とローマ法王の批判をしたために、このブーイングを浴びていることを解説していたのだが、その時はまるで意味がわからなかった。


そして、彼女が突然予定された曲ではなく、アカペラで歌い出した曲の意味もわからず、ただその衝撃のみが残って、まだネットなどがない時だったから、次の日、すぐにレコード屋に向かい、その曲が収録されているボブ・マーリーのアルバムを買った。


Rastaman Vibration



その頃は、まだボブ・マーリーの政治性について全く知るところがなかったウブなガキだった時代だから、初めてその歌詞を知ってさらに衝撃を受けた。

以下、その曲 "War" の歌詞である。



WAR

ある民族がある民族より優れている、または劣っている
そんな思想が、最終的かつ永続的に根絶され廃棄されない限り
いたるところで、戦争はつづいていく

いかなる国においても、市民の間に差別がなくなり
人間の肌の色が目の色と同じく意味をなさなくなるその日まで
戦争はつづいていく

基本的人権が民族にかかわらず
すべての人に平等に保障されるその日まで
戦争は続いていく

平和の永続、世界市民、国を超えたモラルの法
それらが議論を呼ぶ幻想であるうちは
世界中いたるところで戦争は続いていく

アンゴラやモザンビークや南アフリカで
われわれの同士を束縛し続ける
無知で不幸な政権が
転覆され徹底的に破壊されるまで
戦争はいたるところで続いていく

争いは東に、西に広がり
南から北のはてまでつづく
戦争、戦いの声がきこえてくる


われわれはそれが必要なものだとわかっている
そして、その戦いに勝つことを確信している
善は悪に勝つものだから
善は悪に勝つものだから




エチオピア最後の皇帝で、ジャマイカの黒人にとってラスタファリズムの神であったハイレ・セラシエの演説が、そのまま歌詞になっているこの曲は強力である。




だが、中南米のジャマイカの宗教的な黒人の民族自決/解放運動であるラスタファリズムと、実際のアフリカのエチオピアの社会から出てきた皇帝の間には奇妙な乖離がある。

アフリカ回帰の象徴であった、このエチオピア最後の皇帝は、遠く離れた中南米のジャマイカでは神とあがめられ、しかしエチオピア本国では貧困に喘ぐ国の中でクーデーターでその地位を追われている。

この乖離をどのように捉えていいのか、自分には未だによくわからない。




シンニード・オコナーへのブーイングもいくつかの皮肉であり、残酷でもあり、総じて奇妙な「捩れ」がある。




シンニード・オコナーは、アイルランドの生まれであり、カトリックの国に育った。カトリックの国では、ローマ法王と教会は支配権力であり、法を司る。宗教がステイツの原理として機能しつづけているのである。
離婚の禁止や妊娠中絶の禁止や同性愛の禁止は、その代表的なものである。



アイルランドでは、今日でも離婚、堕胎が法律で禁止されている。同性愛も違法である。このように、アイルランド人の価値観は、他のヨーロッパ諸国ほどリベラルではない。
 アイルランドは「人権に関するヨーロッパ条約」(The European Convention of Human Rights)に加盟している。人権を抑圧され、国内法の救済制度に絶望した国民は、同条約の保障する権利を国が侵害したことを理由にして、ヨーロッパ人権裁判所(The European Court of Human Rights)に提訴することができる。同裁判所の決定は、当然アイルランドを拘束する(ただし、憲法規定のみは、同裁判所の審査の対象から除外される)。したがって、ヨーロッパ人権裁判所がある以上、アイルランドも独自性を主張してばかりはいられない。1981年にホモの禁止につき同裁判所に訴えたケースがあるが、これは手続きミスで退けられた。なお、1990年代初めに国政選挙でホモを認めるべきかどうかが争われたが、まだ結論は出ていない。


アイルランドは95%カトリック。やはりローマカトリックというのは、離婚問題、人工中絶問題に非常に敏感です。もう離婚禁止をめぐる国民投票というのを何回もやりました。女性が二代続きましたメアリー大統領、メアリー・マッカーシー、その前が今、国連の人権高等弁務官のメアリー・ロビンソンさんですが。この方が非常に熱心に改正を呼びかけまして、97年から離婚できるようになりました。それまでは別居はしているけど離婚はできなかったわけです。しかし最近は1万2,000組の離婚が認められたという説があります。
それから人工妊娠中絶は、今も認められておりません。どうしても妊娠中絶をしなければならないという女性は、イギリスに行って妊娠中絶をしておりましたし、その数もだんだん増えています。現実には、生まれた子供を引き取って、どこかに世話する、里子に出すという機構があり、世話しているようです。


カトリック教会は、AIDS予防の完全に有効かつ十分な手段としてコンドームを奨励しているプログラムを繰り返し批判してきた。世界いずれの地域の司教協議会もこのプログラムに関する懸念を表明している。南アフリカ、ボツワナ、スワジランドのカトリック司教協議会は、「無秩序に拡大するコンドームの使用奨励は、次の理由からHIV/AIDSと戦う我々にとって非道徳的で見当違いの武器であるとはっきり見なしている。*コンドームの使用は人間の尊厳に反する。*コンドームは愛という崇高な行為を身勝手な快楽追及の行為に変え、一方で責任を回避させる。*コンドームはHIV/AIDSの予防を保障しない。*コンドームはHIV/AIDS拡大の大きな理由の1つにさえ挙げられる。コンドームの品質の悪さや誤用の可能性は別としても、コンドームが一因となって自制する心や互いを尊重する心が薄れている。




シンニード・オコナーは、離婚や中絶の禁止により、女性の権利が守られていないことを訴えていた。

それがこの映像の挑発行為である。

「本当の敵と戦え」と彼女は言って、ローマ法王の写真を破り捨てたのだ。

これはアメリカでも欧州でも大変な問題になった。



しかし、ここでも複雑な「捩れ」がある。
ディランのコンサートがあったアメリカでは、カトリックはむしろマイノリティであること。
アイルランドでは法王を批判することは反体制であるのだが、プロテスタントの国であるアメリカでは必ずしも法王批判は反体制ではないということ。


だがこれには、もうひとつの事情も加わる。
宗教右派的な価値観が強まるアメリカでは、これらのカトリックの主張とは別に、妊娠中絶の禁止や同性愛への締め付けが強まる傾向にあること。
これらの反動的なキリスト教原理主義は、保守的な傾向をかもし出し政治的なリベラル傾向に次々と対抗処置を行ってきている。



そして、もっとも皮肉なのは、ユダヤ人であるボブ・ディランが、このコンサートのかなり前にキリスト教再生派(ブッシュも入信しているキリスト教原理主義)に入信していたことである。

だから、ディランはすでにプロテストソングのシンガーソングライターなどではなくなっていたということである。おそらく、このときの観客も、信仰が同じ人々が多数含まれていたのではないか。


(ちなみにジョン・レノンは、このキリスト教へ傾倒したディランに批判的な曲を死の直前にレコーディングしている)



ライク・ア・ローリング・ストーンを歌ったときに、強烈なブーイングを浴びたディランがいて、それから数十年後にそのディランのファンが、社会に抗議するひとりのアーティストにブーイングを浴びせかける。


ニューヨークのイタリア人コミュニティに生まれ育ち、初期の映画群では、カトリック信仰のオマージュを至るところに散りばめていたマーティン・スコセッシが監督した映画「No Direction Home」では、ラストシーンは「ユダ野郎!」と観客からのしられるディランの姿であったのを思い出す。





複雑で捩れに捩れた背景の中で、シンニード・オコナーが歌う"WAR"。

そのシンニードも、今はキリスト教系の新興宗教に入っているというのだから、本当にわからないし、複雑なのである。

もちろん彼女は未だ健在で、2005年のアルバムでは、再び"War"を歌っている








そういえば以前、捩れた倫理と正義を装ったお話に"WAR"の対訳をつけたことがあったよな。
こちらの方はいたってわかりやすい捩れ具合だけれども。







本家Bob Marleyの"WAR"はコチラ(Youtube)



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咲く音楽の日の革命
1."If I was a president" Wyclef Jean
2."Killin in the name" Rage against the machine
3."War" Bob Marley / Sinéad O'Connor
2007/01/29のBlog
[ 23:08 ] [ 咲く音楽の日の革命 ]
"Killin in the name" (Youtube) -Rage against the machine
権力を身にまとった連中の中には、
十字架を燃やしている奴らと同じ種類の連中がいる。

美名の下に人が殺される。

そして、おまえはそいつらが言っていたことのいいなり。

殺人は正当化される。
殺人者がバッジをつけているという理由で。
あいつらが選ばれた白人だからだ。

おまえは殺人を正当化する
殺人者がバッジをつけているという理由で。
あいつらが選ばれた白人だからだ。

ボケども!おまえの言いなりなんかになってたまるか!

くそったれ!!

lyric





十字架を燃やす連中とは、この人たちのこと

ネットに巣食ってヘイトスピーチを垂れ流す人種・民族差別主義者も、十字架を燃やす連中と同じなんだよね、当たり前の話だけどついでに書いておくとさ。あと、石原慎太郎とか

ボケども!おまえの言いなりなんかになってたまるか!







そういえば、このまえ書いたマラドーナの発言と同じことをレイジのティムは発言している。

'97年にフジロック出演で来日した際、寿司を食べていて、日本人スタッフに向かい「何故、君たちの国(広島、長崎)に原爆を落としたアメリカ人にそんなにも親切になれるんだい?」(ティム)と発言した



「自虐史観」とか抜かしているバカどもは、何が本当に自虐なのかを知るべきだと思うんだけどもね。数字の粗探しで歴史修正出来ると思っているしょうもない連中は、一生わかんないかもしれないけども。
まあ、「美しい国」というファシストの匂いがぷんぷんするエセ・ステイツ概念は、強いものにはまかれて弱いものに対抗意識を燃やす美学らしいから、なおさらその真実は見えないだろうけど。





このレイジのアルバムのジャケットは、ヴェトナム戦争中、アメリカ傀儡政権の仏教徒弾圧に抗議して焼身自殺する僧侶の有名な写真から。






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咲く音楽の日の革命
1."If I was a president" Wyclef Jean
2."Killin in the name" Rage against the machine
3."War" Bob Marley / Sinéad O'Connor