2008-12-25
他人の気持ちを慮れないことが蔑まれた原因だ
「勉強ができる」というのは別に蔑称でもなんでもない。蔑まれたと感じるのは、そう思い込んでいるだけだ。被害者意識をこじらせた結果である。
こういう記事があった。
それ以来、私には「頭のいい子」という称号がついて回った。
賞賛の意味でそう呼ばれることが多かったが、「変わってる」「すかしてる」という意味での蔑称として呼ばれることもあった。
だから、私は「頭がいい」と言われることが、どうしても好きにはなれなかった。「まじめ」「いい子」という呼び名も、同じ意味で嫌いだった。
そう言って、この人は「頭がいい子」というのが蔑称であったと主張する。そうしてそれは、勉強ができる子に特有の問題だとする。日本には、勉強ができる子を蔑むような風土があって、それで自分は苦しい思いをさせられてきたし、また他にもさせられている「勉強のできる」人々がいると。
確かに、そういう場合もあるだろう。小さな時から勉強が好きで、しかもそこで他より大きく秀でていれば、賞賛だけでなく奇異の目で見られることも多いというのは想像に難くない。
しかしそれは、何も勉強ができる子に限られるわけではないのである。どんな分野にせよ、「出る杭は打たれる」という現象はあるのだ。
ところが、この人はこんなふうに言う。
たとえば体育や音楽でずば抜けた能力をもつ場合、その子は胸を張っていられる。
でも、「お勉強」の教科に秀でている場合、その子はそれを無邪気に誇りに思うことはできないばかりか、後ろめたいことのようにすら思うことを強制させられる。
この非対称性は、なんなのだろう?
どうにも不思議だ。
この一節から分かるのは、この人が、「体育のできる子」や「音楽のできる子」の気持ちを、少しも考えたことがないということだ。彼らの内面に思いを馳せたことなど、これまで一度もないという事実である。
それは、ほんのちょっと考えれば分かることである。「体育や音楽でずば抜けた能力をもつ」子供が、「それを無邪気に誇りに思うこと」などまずあり得ない。彼らは、たいてい強烈なコンプレックスを抱いている。特に勉強ができなければ、そのことをいつも後ろめたく思っている。それは、彼らがいつだって周囲からこう言われてきたからだ。
「勉強しなさい。運動ばかり(音楽ばかり)できたって、そんなのは、大人になれば何の役にも立たないんだから!」
そうして、自分の体育ができる能力であったり、音楽ができる能力を、心から誇らしく思うことができないでいるのだ。
この人は、なんでそういうことに思い至らないのだろうか? なんで、そういう人の気持ちを慮ることができないのだろうか?
何と言うことはない。この人は、ただの独りよがりなのだ。ただの自分勝手だ。ただのわがままで、自分ばっかりが虐げられてきた、蔑まれてきたという、ねじくれた被害者意識の持ち主なのだ。
体育や音楽でずば抜けた才能を持つ子だって、いじめられる子はいる。「体育ができる子」や「音楽ができる子」だって、十分蔑称になり得る。この人は、それこそ勉強ができたのにも関わらず、なんでそんな簡単なことが分からないのだろうか?
理由はきっとこうだろう。この人は理系らしいから、おそらく国語をそれほど真剣に勉強してこなかったかのだ。
国語の勉強をしていれば、普通は「隣の芝生は青い」という諺を習うはずだ。そしてもし、そこでこの言葉の意味を真剣に考えることができたならば、それの意味するところや、自分が抱いているねじくれた被害者意識にも思い至ったはずである。この人は、それを怠ってきたのだ。
日本には、別に「勉強ができる」ということが蔑みの対象になるような風土などない。それよりも、そんなふうに他人の気持ちを慮れなかったり、被害者意識をこじらせたりすることが蔑みの対象になる風土がある。
そうして、もしこの人が蔑まれたのならば、それはそういう文脈においてだ。きっと、子供の頃からそういうねじくれた被害者意識を抱いていたのだろう。だから蔑まれたのだ。
あるいは、この人は本当は勉強が好きではなかったのかも知れない。勉強よりも、勉強をしている自分が好きだった。勉強が楽しいのではなくて、勉強を楽しんでる自分が好きだった。
だから、自分の評価ばかりが気になった。自分を評価する、他人の目ばかりが気になった。そういうナルシスティックな鼻持ちならなさが、蔑みの対象になった可能性も考えられる。
このエントリーの最後に、こんな一説が出てくる。
また、女子がなかなか理系に進学しないことの原因の一つも、ここにあるのではないか。
好きな男の子に「お前は頭いいから、俺とは違うよな」と言われて、胸をえぐられるような思いをしたり、女の子グループに「ちょっと勉強できるからって、大きな顔しないでよ」と仲間はずれにされたことがきっかけで、勉強、特に理数系から遠ざかる女子は、きっとたくさんいると思う。
こういう考え方をすること自体が、この人が本当に勉強が好きだったのかどうかということを疑わせられる。本当は、勉強ではなく勉強をしている自分が好きだったのではないかと思ってしまう。
もし本当に勉強が好きなら、好きな男の子に「お前は頭いいから、俺とは違うよな」と言われたくらいでやめてしまうということは考えられない。もし本当に勉強が好きなら、女の子グループに「ちょっと勉強できるからって、大きな顔しないでよ」と仲間はずれにされたことがきっかけで、理数系から遠ざるなどということは言語道断だ。もしそういうことがあるのだとしたら、この人にとって勉強とは、あるいは理系とは、それほど重要ではなかったのだろうと結論づけるしかないのである。
この人は、記事の前の方で言い訳がましくも、
勉強ができる子供の多くは、ただ勉強がおもしろいから、楽しめるから、できるようになったのだと思う。
ただ、機械のように言われたことだけをやっていたからでもなく、先生に気に入られたい一心の功名心の塊だからでもない。
と言っている。
しかしこれは取り繕っているようにしか見えない。もし「ただ勉強がおもしろいから、楽しめるから」やっているというのであれば、周囲がどう言おうと気にならないはずだ。
例えば、スポーツで身を立てたり、音楽で身を立てている人は、少しの例外を除いて、たいていは周囲から反対されたり、理解されなかった経験を持つ。
「そんなこと、やってどうなる?」と、彼らはその道に進むことに反対された経験を持つ。
しかし彼らは、その反対を押し切ってその道に進んだのである。だから、彼らには、好きな人に理解されなかったとか、女子のグループから仲間はずれされたことなどに対する、ねじくれた被害者意識などない。むしろ、そういう逆風が自分を奮い立たせる原動力になったと、感謝の念すら抱いている。
しかしこの人は、好きな人に理解されなかったからとか、女子のグループから仲間はずれにされたことがきっかけで、勉強をやめてしまったり、あるいは理系の道を断念してしまう人がいるという。そうしてそれを、ことさら問題であるかのようにかき立てるのだ。
そんな言説は、ちゃんちゃらおかしいと言わざるを得ない。そんなことは、子供の戯れ言だ。そういうことを言っているから、勉強をしているのも、「ただ、機械のように言われたことだけをやっていた」のだろうとか、「先生に気に入られたい一心の功名心の塊だ」ったと思われてしまうのだ。
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