ガールズアトミック
――ガッ!
非日常の音が弾ける。
アキラは衝撃と共に、自分が殴られたのを知った。
右の頬が痛いのは、きっと相手の左フックだ。
右腕でガードは出来ていたはずなのに、腕と共に頬もジンジンと痛む。
アキラは自分を殴った相手を確認する。
ファング、『牙』というリングネームの相手は追撃してこない。様子を見ているのだろうか。
今のアキラにはそれがありがたかった。
この衝撃が連続できたら、たまらない。
格闘技の聖地と呼ばれるホールは最大三千人収容。外は春の嵐が吹き荒れている。それでも会場は、熱心なファンでほぼ満員だ。始まった第一試合を期待して集まっているのではない。今日のメインイベントのライト級タイトルマッチに期待しての観客だ。まばらに席を立っている客も目立つ。思い思いに、飲み物や軽食を買いに行ってるのだ。
目的の試合までまだ九試合もある。
リング上の二人は、ラッシュガードと呼ばれる服に上半身を包んでいる。合成繊維で出来た身体にフィットした服だ。下はスパッツといった服装である。
一方は黒で牙と背中にプリントされている。短髪に精悍な顔つき。無駄な贅肉などない引き締まった体つきだった。
もう一人はスカイブルーに袖のみが黒のラッシュガード。おかっぱの髪を強引に後ろで結んでいる。相手に比べると引き締まった身体とは言えないが、ラッシュガードの上からでも柔らかい背筋が良く分かる。不安げにまつげが揺れている。
二人に共通しているのはおそらくまだ、少女と呼ばれる年代であろうということだ。
ファングはきっちり観察し、そして落胆した。
いや、そもそも期待はしていなかった。
アキラとか言うこの選手の戦績はアマチュア戦三戦全敗。
それでも、自分と試合を組まれた以上、もっと手応えがある相手かと思っていたのだ。
自分は舐められていると思った。
きっと、このマッチメークにも意味があるのかもしれない。そう、心のどこかで信じたかった。
今はもう信じない。
意味なんて、ない。
侮辱されたという怒りがファングを支配する。
アキラとかいうこの素人をきっちり潰そうと心に決めた。
ファングのワンツーの打撃に、アキラはまっすぐ後ろに下がる。
すぐに背中にロープが迫る。
どうしよう、焦る。
「アキラ! 周って!」
セコンドについてくれた桂木麻衣の声にアキラは、自分のすべきことを思い出す。
ファングを中心に周りながら下がる。
自然とアキラはファングと正面に構えず半身ずれる。
マットを蹴る。
ファングの右足に腕を絡め、持ち上げる。
そして、自分の右足で、思いっきりファングの左足を刈る!
二人の視界が一変した。
ファングは天井の明るい照明を見た。
リングを、自分達を照らしている光を。
アキラは、まだ汚れていない、きれいな白いマットを見た。
これから自分達の血で汚れていくだろうマットを。
ファングは背中に衝撃を受ける。
「クッ!」
漏れる苦悶の呻き。
「グラウンド!」
レフェリーが宣言する。
アキラは作り出したチャンスを生かそうと、すぐに動き出す。
時間は限られている。
グラウンド状態の三十秒制限がルールに盛り込まれているのだ。
アキラの右足にファングの足が絡む。
ハーフガードといわれる状態だ。
アキラは右足を抜いて横に回り、出来ればさらに馬乗りになりたい。
ファングにしてみれば絶対に避けたい状況だ。
アキラは強引にファングの脇腹を殴る。
ファングはガードしながら、下から殴る。こちらも殴るのは腹部が中心だ。ルールでグラウンド時の顔面攻撃は禁じられているのだ。
これでいい、とファングは思う。
三十秒、耐えられる。
一方でアキラは焦る。
アキラの右足はしっかりとクラッチされていた。ファングは絡めた足への集中力を切らす様子を見せない。
だめだ、時間がない。
「スタンド!」
レフェリーの声が三十秒の経過と立ち上がっての試合再開を促す。
太い腕がアキラとファングを引き剥がす。この男性レフェリーのたくましさに、アキラはこのリングで一番強い人はこの人だなと思った。
そんなくだらない思考を吹き飛ばすのは、そのレフェリーの声だ。
「ファイトッ!」
試合再開である。
「っーあーっ!」
打ち込まれた拳とミットの乾いた衝撃音が響く。
「よし! 終了!」
コーチの声と共に思いっきり右ストレートを打ち込む!
――バン!
ひときわ高い音の後に、かすれた声でファングは挨拶する。
「……ありがとうございました。」
練習メニュー最後の無呼吸連打を終え、ファングはリングを降りる。
森口ジムは総合格闘技専門のジムだ。ファングが降りたリング以外にもう一面、柔道場のような平面のマットのあるスペースがある。そちらでは数名の男性選手が寝技の練習をしている。それらの周りを囲むようにあるサンドバックでは女性選手の何名かがキックの打ち込みをしている。
ファングは寝技のスペースの端でクールダウンのためのストレッチの準備を始める。ミットを構えてくれたコーチに声をかけられた。
「ファング、あとで事務所に寄ってけ。」
「なんすか?」
「森口さんから話があるんだと。」
『森口さん』というのはジムの会長だ。ジムの名前の由来でもある。ただ、本人は会長と呼ばれるのを嫌がっているため、みんな『さん』付けで呼ぶ。
ファングは練習後のボーっとした頭で考える。頭に酸素が回ってないなと思いつつ、呼ばれる理由をあげてみる。
自分は三連敗中だから、というのが枕詞だ。
『気合入れて練習しろ。』
これなら、まだいい。でも今だって気合入れているつもりだ。
『アマチュア大会から出直せ』
つらい言葉だが、仕方がないことだ。プロではデビュー戦の一勝しかしていない。
アマチュアでは無敗だったのに。
『もうやめろ』
これは最悪だ。
森口さんは才能うんぬんで『やめろ』なんていう人ではない。だからこそ、連敗中の自分にこの言葉を言うとしたら相当なキツイ理由のような気がする。
身体をほぐしつつ、ファングは深呼吸ではなく、ため息をつく。
シャワーを浴びて着替える。
お洒落をしているジムメイトもいるが、ファングの普段着は練習着と大して変わらない。Tシャツに短パン。引き締まった体つきと刈り込んだ髪もあって、 男と間違われることもある。
別に構わない。
スポーツバックを引っつかみ、ファングは深呼吸をして事務所のドアを叩く。
コンコンとなる扉の向こうから「入れ」と声が聞こえる。
「失礼します。」
ファングが扉を開けると、口の端に笑みを浮かべている、いつもの森口さんがいた。
現役の頃からいつも相手を馬鹿にしてきたのだろうか。齢五十を過ぎた今では、この皮肉めいた笑い方が癖になって、顔に張り付いているようだ。
「木羽ちゃん、調子はどう?」
ファングは本名で呼ばれて少し不愉快になる。
ジムやリングでは自分は木羽琴子ではなく、ファングなのだ。リングネームは日常の自分と切り離すスイッチみたいなものだった。練習を終えたとはいえ、ジムにいる間はまだ、オフにはしたくない。
それでも尊敬する先生だから、我慢した。
「……悪くないですよ。」
調子は良いと即答するのは躊躇われた。連敗中の身なのだ。
「そっかぁ、じゃ、出来るかな、二週間後なんだけど。」
「は?」
「いや、試合をさ。」
「!」
ファングは虚をつかれた。悪い予想しかしていなかったのだが、試合となるとまだ見捨てられたわけではなさそうだ。
いや、でも。
「アマチュアの大会ですか?」
森口さんは表情だけでなく声を出して笑う。
「でるよ、ファイトマネー。GAだから金額はアレだけどな。」
GAはガールズ・アトミックという女子専門の格闘技大会の略称だ。
女子格闘技大会の元祖にして、最大勢力だが、運営会社は決して大きくない。
男子の格闘技に比べて女子の格闘技はマイナースポーツだ。
それでも、ファングにしてみれば最高峰の舞台だった。
ファングはその舞台に四度出場している。
そして三連敗中。
名誉挽回のチャンスを与えられたことに、ファングの頬は紅潮した。
「やらせてください。」
「嬉しそうだな、まだ相手も聞いていないのに。」
森口さんは皮肉な笑顔であきれる。
「強い人ですか?」
「わからん、向こうはこれがデビュー戦だそうだ。」
アマチュア大会上がりか。
「でも塚さんのお気に入りみたいだぞ」
塚さんというのはGAの創設者で社長だ。大のお祭り好きなので、相手も派手な選手かもしれない。
ファングも森口さんみたいな笑顔で応えた。
「おもしろそうですね。」
実際は面白くもなんともなかった。後日、GAから送られてきた相手のプロフィールにファングは落胆し、憤りを覚えた。
本名 一之瀬あきら
リングネーム、アキラ。
十六歳 某公立高校在学中 二年生。
桂木禅心会 所属
戦績 GA-L(アマチュアGA) 三戦三敗
資料にはそれだけが記されていた。
十七歳の自分と年齢が近いのは、良いとしよう。
しかし、こっちは進学をやめてまで格闘技一本に絞ってきた。学生なんかに負けたくないという思いはある。
桂木禅心会?
聞いたことのない道場だ。
そして戦績。
アマチュア大会上がりというからには、それなりの戦績を残してプロデビューするのだと思っていた。それが三戦全敗ときている。
自分だってアマチュア戦は四戦四勝、トーナメントで優勝してプロになれたのだ。
一度も勝ったことのない奴がプロデビュー、しかも相手は自分。
これならアマチュア大会から出直したほうがまだスッキリする。どうして、アマチュア選手とプロの舞台で、少額とはいえファイトマネーのかかった試合で戦わねばならないのか。
クシャリ、とトレーニング前に渡されたペラ一枚の資料を丸めると、ファングはストレッチを始めた。
塚さん、相手を潰しますよ、それで良いんですよね?
緑色と赤のビニール畳で作られた柔道場。古い日本家屋で壁や柱はぼろぼろに見えるが清潔感のある道場。桂木禅心会の道場である。
その真ん中で、一之瀬あきらは試合のオファーに動揺していた。
「麻衣さんにではなくて、私にですか?」
「お前に、だ。」
師範の桂木源治は告げる。
七十歳になる源治の顔面に深く刻まれた皺が、眉間を中心にさらに深くなる。
「不可解だが、本当だ。断るか?」
わきでストレッチをしていた麻衣が立ち上がり、二人に告げる。
「塚さんから来たんでしょ?」
源治がうなづく。
「うむ。」
きょとんとしているあきらに麻衣が微笑む。
「塚さん、一之瀬さんのこと気に入ってるみたいだから。」
「……どうして?」
あきらは自分の不甲斐無さを知っている。
桂木禅心会に通い始めて、つまり格闘技をはじめて一年になるが、それにしても上達していないと思う。
何事も経験、という麻衣の指示に従ってアマチュア大会に出ても勝ち星はない。一生懸命にはやっているが。
麻衣は首を振る。
「一之瀬さんは、自分で思ってるほど弱くないよ。」
「いや、弱い。」
麻衣の言葉をすぐさま否定したのは源治だ。
「大会のレベルを下げたいのか、塚という男は。」
あきらはうつむく。
「んも〜、爺さんは余計なことを言わない。毎回いい勝負はしてるじゃん。」
麻衣の言葉に、源治はふん、と鼻を鳴らしそっぽを向く。
麻衣は苦笑いしながら、あきらに言う。
「やりたかったんでしょ、総合格闘技の試合を。」
「……はい。」
「だから、うちに来たんでしょ?」
「はい。」
「じゃ、出るしかないじゃん!」
「……でも。」
でも、こういう不可解な形でチャンスをもらえるとは思っていなかった。アマチュア大会で結果を残し、プロモーターに注目され……、物事には手順があるものだ。
「一之瀬さん、出なよ。今までみたいな小さな大会で勝てなくても、大舞台に強いかもしれないし。やってみないと分からないよ?」
ためらいは、あった。あきらはうつむいていた視線を上げてみる。麻衣はいつもの優しい笑みを浮かべていた。
その笑みに負けた。
「じゃ、じゃあ、がんばって練習します。その…、走ってきます。」
「気をつけて。」
もたもたとロードワークに出かけるあきらを、麻衣は笑顔で見送る。一方で、源治はため息をつく。
「塚とか言う男はあんなドンくさい小娘のどこが気に入ってるんだ?」
「お爺ちゃんも本当は分かってるくせに。」
麻衣の言葉に源治は再び鼻を鳴らした。
川沿いのサイクリングロードを、あきらはハイペースで走っていた。
全力疾走のひとつ手前で、出来るだけ長く走り続けるように源治に言われていた。
中学の部活で卓球部には入っていたものの、ラケットとボールで遊んでいただけ。本格的なスポーツ経験は皆無に等しかったが、スタミナは大分ついた気がする。
ありえない話で驚いていたあきらだが、実際にプロのリングに上がると心に決めると興奮した。驚きと『なぜ?』という気持ちが先行していたのだが、実際に戦うところを想像すると、いてもたってもいられなくなってきたのだ。
次第に、脚の回転が速くなる。興奮が、あきらをオーバーペースに誘っていた。
息が切れる。
道端で、電信柱に寄りかかる。
「……やったっ!」
息を切らせながら、あきらは喜びの笑みを浮かべていた。
聖地の観客席からはまばらな拍手が沸いた。殴られて怯んでいた少女が、思い切ってタックルに行き、相手をなぎ倒す、倒された方も寝技の防御は完璧で、こらえて三十秒耐えた。一連の攻防に、一応の試合らしさを見出した一部のファンがお情けでくれた拍手と言ったところだった。
オールバックの髪型にスーツの男、この大会のイベントプロデューサーである塚泰治はホッとしていた。
二人には良い試合をして欲しかった。アキラの最初の動きを見て打撃への対応に不安を覚えたが、ちゃんとテイクダウンできた。
ハズレ、という試合にはならずに済みそうだ。
再び、試合が動き出す。
アキラは緊張を覚えた。
もう一度、やり直さなければならない。
アキラの勝負できる時間は三十秒。そのチャンスを得るには、また、あの衝撃を潜り抜けながらタックルにいかなければならない。寝技こそがアキラの得意とするところだ。
「いいよ、アキラ! もう一度!」
麻衣の声に励まされる。
アキラは自分の非力さから、タックルだけでなく足技を使って相手を倒す練習をしてきている。それをマンツーマンで教えてきてくれた麻衣、アキラにとっての師匠の教えが間違っていなかったのは先ほど証明された。
あの嵐を抜ければ、襲い来る拳の弾幕をかいくぐれば、倒せる。
アキラはファングと距離をとり、軽く跳ねながら無駄な緊張を取る。
構えたアキラの瞳に集中力が宿る。
試合再開のレフェリーの声を聞いて、ファングは冷静になろうとした。正直なところ、アキラのタックルを切れなかったのはショックだった。だが、寝技では冷静に対処できた。
それでいい。
「ファング、積極的にいけ!」
セコンドの声のとおりだ。スタンドは自分の領域だ。
ファングはジャブを打ちながら前進し、右ストレートを放つ。
ボクシングで鍛えられたそのフォームは、同僚や格闘専門誌の記者もきれいだと褒めてくれた。
ただ、森口さんは言った。
『その打撃は総合向きじゃないかもな。』
総合向きでないその打撃フォームは、あっさりとタックルの餌食となった。
「くっ!」
アキラの腕が自分の左足に絡みつくのを見て、ファングは焦った自分を呪う。
ファングはいつも思っている。
『スタンドでの打撃勝負なら負けない』
総合格闘技の選手にも得意不得意がある。大きく分ければ二種類。
打撃が得意なストライカー、関節技が得意なグラップラー。
GAのルールではグラウンド状態での顔面への打撃は禁じられているので、ストライカーは立ってる状態が基本だ。
ファングは典型的なストライカーといえる。さらに、ファングはキックよりもパンチを得意としていた。
パンチの応酬になれば、負けないつもりだった。
だが、そうなるとは限らないのが総合格闘技である。グラップラーはその打撃を避け、グラウンドに持ち込もうとする。ストライカーでも首に組み付いて膝蹴りを打ち込もうとするタイプもいる。
それも戦略だ。
ファングが連敗しているのは、相手が組み付いてきたのを突き放せないからだ。パンチを打ち込むには相手との距離が必要で、密着していては威力のある攻撃を出せない。突き放して、得意の打撃を叩き込まなければならない。
理解はしているのだ。
だが……。
――やったっ!
丁寧に、相手の右足を払う。
テイクダウン。
アキラはあっさりと相手を倒すことが出来た。
相手に密着すれば、攻撃の嵐はなくなる。そう教わってきた。
「グラウンド!」
レフェリーの声が聞こえる。
アキラは熱くなる身体を感じながら、すぐに次の動きを考える。
アキラは飛び跳ねるように下半身を移動させる。
ファングの左側にまわりサイドポジション、柔道の横四方のような形を取るが、自分の右膝を相手の左脇腹に置く。
左足を立てる。
右膝に体重をかけ、相手を押さえ込む。
アキラが練習で麻衣にいつもやられている、ニー・オン・ザ・ベリーといわれる体勢だ。
これでうまくファングをコントロールできればいいのだが、その小刻みに飛んでくる拳がうざったい。ぽんぽんと飛んでくる拳を嫌がりながらも、アキラは何とかしてファングの腕を取りたかった。
出来れば右がいい。いつも練習している関節技が出せる。
つかもうと思うが、うまくいかない。
もっと膝を嫌がってくれるといいのだけれど。
もういい、腕は取れないと判断すると思いっきり膝に体重を乗せる。相手のスタミナを奪うことだけ考える。
「いいよ、落ち着いていきなぁ!」
麻衣の声に自分の判断の正しさを確認し、ほっとする。
「残り十秒、やらせとけ!」
ファングのセコンドの声が聞こえる。
やりますとも。
アキラはファングの脇腹を殴る。腕だけの体重の乗ってないパンチだが、嫌がらせにはなる。
「スタンド!」
レフェリーの声に膝を離す。
相手の息を聞くために耳を澄ます。
ファングの息の乱れを確認して、アキラは気合を入れなおす。
大丈夫、自分の方が今は優勢だ。
もう一回、テイクダウンは取れるはずだ。
積極的に行こうと思う。
以前の自分なら考えられない思考だ。
一瞬そんなことを思い出す。余計なことは考えないように。
さあ、集中しよう。
うつむき加減で歩くのは意識してのことではない。あきらはこの歩き方が癖なのだ。いつも何かに落ち込んでいるみたいに見える。実際そうなのかもしれない。自覚していないだけだ。
あきらは校庭の隅を通って校門に向かう。
グラウンド中央ではサッカー部が練習を始めていた。
春と夏の変わり目の時期に、ブレザーの制服が重い。
一緒に帰る友人はいなかった。午後三時五十分に学校から帰るのは帰宅部だけだ。クラスメートのほとんどは部活の時間で、何らかの部活動に所属してない子のほとんどは元より学校に来てないか早退しているかだ。最後まで授業に出た上で帰宅部というのはあきらぐらいだった。
入学して一ヶ月たつ。
最初はクラスメートともぎこちなく話していたはずなのに、いつの間にか一人の時間が多くなっていた。
『学校に飽きた』と言って学校に来なくなった子と、一緒にフェードアウトすればもっと楽しかったのかもしれない。
でも、ブレーキがかかってしまうのだ。
学校はサボらずに行かなくちゃいけない。
遅刻はいけない。
早退もいけない。
授業は出ないといけない。
タバコを吸ってはいけない。
スカートの丈は膝上で。
『真面目だね』と言われる。
微かな愛想笑いを浮かべ、思う。
何もできないだけです
あきらは校門を出る。寄り道はしない。ああ、でもコンビニによっていくかもしれない。ジュースでも買っていこう。
クラスメートの一人が学校をサボって、街でブランド物のバックを持って遊んでるという話を聞いた。興味が沸かなかった。遊ぶことぐらい、興味を持ちたかった。でも、やりたいことは浮かばなかった。
部活に誘われた。運動部は先輩が怖くて、入る気分になれなかった。
中学生の時に惰性でやっていた卓球部も、高校では本格的に大会上位進出を狙っており、居場所がなかった。文化部に入るのも、興味がないことをあるように装うのが辛くて、やめた。
紙パックのミックスジュースが入ったコンビニ袋を提げて、あきらは帰宅する。殖産住宅の狭い間口を通る。
「ただいまー。」
呟く。返事はない。母親はパートに出ている時間だ。
そのまま、二階の自分の部屋に上がる。
制服から着替えもせずにベッドで寝転ぶ。携帯の表示を見ると、ため息をつく。液晶に映るスギゾーというのはあきらの兄からのメールだった。
『オクタゴンTV 五時から録画しといて(^^)』
格闘技専門チャンネルがあきらの家のテレビに入るようになって、この手のメールはよく受け取るようになった。大きな身体をした男が、もんどりうってる様の何が楽しいのかあきらには良く分からなかった。
プロレスなんてくだらない。
でも、もっとくだらないのは夕方の五時前に家に戻っている自分のような気もした。
「……することもないし。」
ゆるりとベッドから身を起こし、買ってきたジュースをすすりながらリビングに向かう。あきらは多すぎる我が家のリモコンの並ぶ前まで行き、黒い大き目のリモコンを操作する。テレビが点く。灰色の細長いリモコンを取る。DVDの電源が入り、時間予約する。さらに灰色の小さなリモコンを取り、ケーブルテレビのチャンネルを合わせる。
「やれやれ。」
小さい、あまりにも小さすぎる達成感を得て、あきらは虚しくなる。
自分の部屋に戻る。再びベッドに倒れこむと、睡魔に襲われそのまま寝てしまった。
いつからだろう?
こんなに面白くなくなったのは。
高校入ってから?
中学校のときはすでに?
分からない。
でも小学校のころはもっと笑っていたような気がする。
ふと目が覚めると、五時半。一時間ほどのうたた寝だったようだ。録画予約が気になってリビングに下りてみる。
母親はまだ、パートから戻っていないようだ。
自分もバイトぐらいしてもいいのかもしれない。でも、校則でアルバイトは禁止だ。また、自分の中でブレーキがかかる。
くだらない。
そうだ、くだらない番組は録画できているだろうか? テレビをつける。格闘技の試合のようだ。それもそうだ、格闘技専門チャンネルの番組なのだから。
ただ、あきらの予想とは違い、戦っている選手達は女性同士だった。
「……女子プロレス?」
スギゾーはそっちの方にも興味があったのね。
すばやい動きでパンチを繰り出す選手達を眺める。
あ、倒れた。
相手の上に乗っかってる。
顔面に血が、見える。
なんで、こんなに痛そうなことをしてるんだろう?
あ、ひっくり返した。
逆に乗っかってる。
あ、腕を持ってる。
え、なに、腕がありえない方向に曲がってる。
ん、試合終了?
そっか、逆転勝利だったんだ。
リビングのドアノブの音を聞いて、あきらは反射的にテレビを消した。何で消したのかは分からない。
リビングに入ってきたのは、母親だった。
「あ、おかえり〜。」
「ただいま、あー、つかれた。」
どっかとイスに座った母に冷蔵庫からお茶を出す。
普段はこんなことしないのに。
「……? あ、ありがとう。」
礼を言う母親に気まずくなって、首を振って自分の部屋に戻る。自分でも何に動揺してるのか分からない。
ただ、見てはいけないものを見てしまったような興奮を覚え、あきらは階段を駆け上がった。
あきらはボーっと黒板を見ていた。
ホームルームが終わり一時間目の授業は国語。勉強の準備をするもの、睡眠の体勢に入るもの、友人と話し込むものがいる中であきらはどちらでもなく、昨日見た映像のことを思い出していた。
何だったのだろう、あれは。
またうちに帰ったら、見直してみようか。
「……どうせ時間はあるんだし。」
誰ともなしに呟くと、隣から笑い声が聞こえた。
独り言を聞かれたかと赤面しつつ授業の準備をすると、笑い声の後に聞きなれない芸能人の名前が続き自分には関係ない話だとわかる。被害妄想的な自分の考えに、あきらはさらに顔を紅潮させた。
時間があると思うと、案外なかったりするものである。帰りのホームルームは長かった。来なくなった生徒に対しての担任の場違いな説教が永遠と続いた。
いない生徒に怒ってどうするの?
普段はどうでもよいと聞き流すあきらだが、今日は苛立ちを覚える。
起立、礼。
終わるとすぐにあきらは教室を飛び出す。
と、廊下でドンと硬い壁にぶつかる。
あきらよりはるかに大きい人影が目の前に立っていた。持っている胴着が柔道部の人間であることを示していた。
男に慌てて一礼しつつあきらは帰路を急いだ。
母がパートから帰ってきたら、あの映像を見るのは憚れる。理由はわからないが、直感的にそう感じた。
スギゾーが帰ってきてなきゃいいけど。
あきらは頭の片隅で兄の不在を祈る。
いつも馬鹿にしているプロレスの試合を見ていたら何を言われるかわからない。
走るとすぐに息が切れる。
自分ってこんなに体力がなかったっけ?
走りが歩みに変わり、やや咳き込みながら呼吸する。携帯を取り出し、時計を見る。
間に合わないかも。
そう思うと、急いで帰る気がうせる。歩みがゆったりしたものに変わりながら息を整える。
のども渇いた。
また、コンビニに寄っていこう。
足の向く先を変える。
コンビニには小学生が屯していた。塾前の子供だろうか。
違う。
あきらは先ほども見たような荷物を子供たちも持っていることに気づく。
柔道着だった。
ここら辺に柔道教室でもあるのだろうか。普段から目にしてきた光景なのかもしれない。だが、あきらがこの光景に注目したのは今日が初めてだった。
柔道も格闘技……だよね。
格闘技を教えている教室がここら近辺にある。
そう思うとあきらはじっと小学生の群れを観察し始めた。
わたし、なにやってんだろ?
小学生の群れを尾行しながら、あきらはため息をつく。
これって変態なんじゃ?
尾行する理由などない。強いて言えば気になるから。それだけである。
……やっぱり変態だ、わたし。
電信柱の影で自己嫌悪に陥る。ため息をこぼし視線を外した時、子供たちを見失った。
「あっ……」
焦り、電柱の影から飛び出し辺りを見回す。進行方向にT字路。左右を見る。
子供たちの影はない。だが、目的は達したようだ。
「あった!」
あきらが目にしたのは、古い日本家屋に掲げられた『桂木禅心会 道場』という、これまた古めかしい看板だった。
「うれしいんだけどさ、柔道はキッズクラスしかうちにはないんだ。ごめんね。」
応対してくれた女性は、まだ若い。二十代前半といったところだろうか。
柔和な笑顔を浮かべているが、胴着の着こなし、姿勢からか凛としたものを感じる。伸びた髪を後ろにきれいに束ねていた。
もごもごと道場の前を行ったり来たりしていたあきらを見て、彼女は話しかけてきてくれた。あきらは「入門希望なの?」という言葉にためらいつつ頷くことしかできなかった。
「……あの、柔道というか。」
意を決してあきらは言葉を出す。
「やりたいことがあるんです。」
自分でも何を言ってるか分からない。
「やりたいこと?」
あきらはまた頷く。
何を言ってるんだろう、わたしは。
「どんなこと?」
「……こう、取っ組み合ったり。」
「せんせーっ! はやくっー!」
あきらの言葉を道場の奥から小学生が遮った。
「ごめーん! 今いくーっ!」
先生と呼ばれた彼女も大声で応える。
「ごめん、呼ばれちゃったから……。」
「あ、いえ、すいません、わたしこそ突然……。」
「今度来た時に続き教えて。」
「え!?」
「『やりたいこと』ってやつ」
彼女はあきらに微笑みかけると道場の奥に入っていく。
その背に声をかける。
「DVD、持ってきます!」
ひらひらと手を振る彼女を見つつあきらは道場を発った。
あきらはベッドで布団にくるまれながら、今日の自分の行いを思い出していた。
何を考えてたんだろう、自分は?
第一、あの取っ組み合いの映像は気になってただけで、自分でやりたいと思ってるわけではない。
ただ、気になっているだけ。
そうだろうか?
どこかで「やりたい」と思ってるんじゃないだろうか?
「いや、できないでしょ。」
あきらはつぶやく。
でも、今日言ってしまった言葉「やりたいことがあるんです」というのは何なんだろう。
道場の女性には何て言えばいいんだろう?
「あっ……」
あきらは気づく。
「DVD、持って行かなくちゃ。」
家族が寝静まり、暗くなったリビングルームでモニターの青い光を浴びながら、あきらはDVDにダビングをしていた。
そして、もう一度見直す。
いくつか分かってきたことがある。
この格闘技の大会がGAと呼ばれていること。
この取っ組み合い、殴り合いの競技名が、総合格闘技と呼ばれていること。
ものすごく強いチャンピオンがいるということ。
殴って倒すか、腕または脚を関節とは逆に曲げると勝ちだということ。
その試合を見て自分が強く手を握り締めて汗をかいていること……。
放課後、あきらは自分のバッグに入っているDVDを見つめた。今日は昨日より時間に余裕がある。
本当にまた、あの道場に行くのか?
そういえば、応対してくれた女性は「また今度」とだけ言っていた。
『今度』が翌日である保証はない。
行っても迷惑なだけかも……。
ネガティブな考えにふら付きながら、教室を出る。
どうする?
迷いは校門を出るところで押し込めた。
行こう!
『今度』と言ってくれたのは、『また今度会おう』という約束だ。
……約束は、守ろう。
あきらは意を決して、小走りに昨日の道をたどり始めた。
うろ覚えだったにもかかわらず、迷わずに道場の前まで来ることが出来た。あきらは昨日の女性が玄関で掃除をしているのを見つける。
「あ、こんにちはーっ!」
彼女の元気のよさにあきらは若干たじろぎながら声を出す。
「こ、こんにちは。」
「また来てくれたんだ。」
「また?」
「んー、昨日はあいまいな言い方をしちゃったから。ごめんね。」
「あ、いえ、その押しかけてごめんなさい。あの……。」
「なに?」
「DVDですけど、持ってきました。」
あきらはバッグからDVDを取り出すと、彼女に差し出す。
彼女は、ああと頷きながら受け取る。
「じゃ、一緒に見ていく?」
道場を指して提案する彼女にあきらが戸惑っていると、苦笑いを浮かべる。
「説明してもらわないと、分からないじゃん。」
それもそうだと思う。
「あ、はい。でも、今日はその……。」
「何?」
「子供たちは?」
「ああ、来るよ。でも、まだ時間あるから。」
促がされ、あきらは道場に上がる。
「お、お邪魔します。」
「どうぞ。奥に入っていって。」
おずおずと道場を見渡しながらあきらは足を踏み入れる。
緑の畳と赤い畳が柔道場を作り上げている。余計なものは何も置いていないが、奥には神棚が見えた。
「そういえば名前を聞いてなかったよね。」
彼女が道場に持ってきたDVDとテレビをセットしながら聞いてくる。
「あたしは桂木麻衣。麻の衣って書くの。」
「一之瀬あきら……です。」
「よろしく。」
麻衣は改めてあきらに向き直ると一礼する。
あきらも合わせて一礼する。
「ちょっと待っててね。」
麻衣が道場の奥に消える。
あきらは天井を見上げた。
麻衣さんはなんで自分の話を聞いてくれるんだろう? 突然きて、柔道はやらなくて別のことをやりたいと言ってる人の話を、普通聞いたりするだろうか?
「ほい、お茶。」
戻ってきた麻衣に湯飲みを差し出される。
あきらは礼を言いつつ、おずおずと受け取る。
「じゃ、早速見てみようか。」
麻衣はリモコンを取り、映像を再生させた。
二人とも黙って映された映像を見ていた。と、道場の奥のドアから人が入ってきたのにあきらは気づいた。
年配の男性、六十代ぐらいだろうか。中肉中背といった感じだが胴着に包まれた身体は引き締まってそうに見える。
鋭い目つきが目立つ男だ。
あきらのシンプルな感想。
怖い人。
その怖い人は二人の後方に座り、一緒になってモニターを見始めた。
麻衣は意に介さず映像を見ている。
あきらもモニターに視線を戻す。
映像ではチャンピオンである米原凪が挑戦者である外国人選手キーラ・ブライジに、腕を曲げる関節技で逆転勝利していた。
ブルッとあきらの身体が震える。何度見ても鳥肌立つ光景だった。
ただ、あきら自身にもその理由は分からないのだが。
麻衣が映像を止める。
「ふーん……、凄いね、女子でも総合格闘技ってあるんだね。」
麻衣の笑顔があきらにはどことなく嬉しそうなものに見えた。
「で、一之瀬さんはコレをやりたいと。」
そう言って、麻衣はお茶をすする。
麻衣の言葉にどう反応すればよいか、あきらには分からなかった。
ただ、感動していたことは事実だ。
いてもたってもいられなくなったのだ。
「おじいちゃん、どう思う?」
麻衣は途中から入ってきた男に話を振った。
男は短く返した。
「麻衣、この大会に出ろ。」
「へ? わたしが?」
「『実戦』の機会なんてないと思ってたんだがな。」
男はそう言って立ち上がると、再び奥に消えてしまった。
あきらは呆然とそれを見送る。
何を言ってるんだろう?
麻衣さんが大会に出る?
『実戦』って?
「あいつ、桂木源治ね。一応わたしのおじいちゃん。で、ここの師範ね。」
麻衣が胡坐のまま、あきらに向き直る。
「……まあ、あいつのことは置いといて、一之瀬さんはウチの道場でこれをやろうとしてるの?」
あきらは戸惑う。
何も考えず、発作的な行動でここまできてしまった。
だが、少しずつではあるが考えがまとまりつつある。
動くことで思考が定まることもあるのだ。
「ここで、これをやりたいんです。」
あきらの唇から決定的な言葉が漏れた。
ホールの照明が二人の少女を照らす。
パチンと音がはじけるたびに観客席の一部から「オーイ!」という声が響く。ローキックが当たっているのだ。蹴っているのはファング、受けているのはアキラだ。
ファングのジムメイトが応援団を形成しているらしい。ファングが先手を取るにつれ、会場が徐々に温まってくる。
アキラは太腿の熱さに耐えていた。
ファングが戦法を切り替えてきた。
パンチではなくキック、それもローキックを多く蹴るようになってきた。早く攻めないと、自分の足でタックルにいけなくなるだろう。だが、接近しようとすると相手の足がアキラの腹にめり込む。
前蹴りである。
タイ式キックボクシング、ムエタイでよく使用される技だ。
ファングのは本式ではないだろうが、アキラにとっては簡単によけられる前蹴りではなかった。
ファングはとにかく距離をとることを考えた。
打撃でのリーチならば蹴りにしろパンチにしろ、こちらに分がある。考えた結果の戦法である。
前蹴りを放つ。
相手の腹に突き立てる。
後ろに下がるアキラを見てやや前進。
ローキック。
「いいぞ、ファング、もう一丁!」
ファングは連続でローを放つ。パチンと音が鳴る。観客の掛け声が続く。
そうか、こうやって足を殺せばうざったいタックルも来なくなるかもしれない。
アキラが近づいてくるのを見ると、再び前蹴りで距離をとる。
どうする?
なんとかして、ファングに近づかないといけない。アキラはあえてボディーではなく高めに腕を上げガードする。そして、細かいステップから左の拳を放つ。
相手がタックルを嫌がっているなら、タックルに行く気を失くせばローキックは飛んでこなくなるかもしれない。
打ち合いならば、ファングの望むところだろう。打ち合い出たフリをして、タックルにいく。
そういう考えだった。
左の拳はファングには届かなかったが、そのまま二つ左を続け、一気に間合いを詰めて右ストレートを打ち込む。
その右に相手は左をかぶせてきた。
カウンターの一撃がアキラを襲った。
ゴツイ感触が拳に伝わると、それを手応えとファングは解釈した。
――ドッ!
先ほどのローキックに対する掛け声とは違う、歓声が聞こえる。
KOシーンを期待する声援。
顔面のどこか、骨に当たった感触が拳に残る。
頬骨ならば、かなり痛いはずだ。
アキラの身体が沈むのが見える。
すぐに左の拳を引っ込めて、右で追撃した。
こめかみに一撃を当てた。
戸惑った。
何?
ファングと戦っていた。
相手の顔めがけての打撃戦。
右ストレートを放った。
でも、なんで私は相手の膝を見てるの?
っつ!
痛い。
左からやってきた痛み。
落ちていく身体。
そうか、殴られたんだ。
わたし、倒れるの?
目に見えるもの。
膝。
相手の膝!
――オオォ!
今までとは異種の歓声が沸いた。観客達のKOシーンへの予想を裏切り、粘る少女への驚きと賞賛だった。
アキラはファングの右フックによろめきながらも、目の前にあった膝に取り付いていた。
ファングの左足だった。
体重をかける。
倒れない。
上から覆いかぶさってくる重みに、思いっきり反発する。
しかし、身体はそのまま沈んでいった。
アキラのタックルはファングにきれいに潰されていた。
左右からフックが飛んでくる。
ゴツゴツと痛い。
左足を離したくない。
離してしまったら、左右から来ている以上の大きな衝撃が正面からやってくるはずだから。絶対に離せないとアキラは力を入れる。徐々に、ファングが左足を後ろに持っていっているのが分かる。
必死でしがみつく。
再び腕に力を込める。
行かないで。
いや、むしろ離すなら今かもしれない。
相手の虚をつく。
でも、どうするの?
今は防ぐ。
アキラはファングの左足をリリースした。
すぐに顔を腕で覆う。
その上から大きな衝撃。
ファングの膝蹴りだ。
その勢いに乗って、アキラはファングから離れた。
仕切りなおしとなり、観客席から拍手が沸く。だが、アキラにはそれを聞く余裕はなかった。
腕がビリビリと痺れている。
痛い、辛い。
離れたい、もっと離れたい。
あれ?
でも、さっきは近づくことを考えていたような気がする。
アキラは混乱する思考を落ち着かせるために、フットワークを軽くする。
呼吸すると、段々と思考が落ち着いてくる。
身体の余計な力を抜く。
足がさっきより重い。
そうか、ローキックか。
何度も蹴られてたっけ。
アキラはファングが近づいてくるのを見る。
さて、どうやって倒そう。
ファングは思う。
やり方は間違っていない。
ペースを握ったのは、ローキック、前蹴り。
落ち着いてあれを続ける。
今の相手のタックルなら、潰せる。
仕上げはパンチ。
右ストレート。
だが、落ち着け、勝機に逸るな。
それでも、ファングは自分の身体に熱がこもるのを感じた。久々の、勝利の感覚だ。ここしばらくは味わっていなかった。
そうだ、勝負を決めるときはいつだって身体が熱くなる。
殴っているときの充実感。
それが、頂点に達する。
気持ちがいい。
全部出し切ろうと思う。
デビュー戦の前日だった。
琴子はもうやれるだけのことはやったと思っていた。
リングネームをもらった。琴子の苗字、木羽をもじってファングとつけてもらった。森口さんが、「琴子じゃ、可愛すぎるからな」と言ってつけてくれたのだ。
昼には計量が終わって、夕食は好きなものを食べられる。森口さんが奢ってくれるらしい。
だが、暴食は禁物だ。だから好物の焼肉はやめておいた。和食屋で少しずつ、惣菜を頼む。煮物をつまみながら、話した。
「うれしいですよ、試合が出来て。」
ボクシングをやっていたころは試合など考えられなかった。女子ボクシングはマイナースポーツだが、メジャーを目指していた。だからこそ、中学生や高校生をプロのリングで試合させるわけにはいかなかった。
色物ではない、本当のスポーツだ。
そういうプライドがあり、完全に環境が整っていないという理由で試合の開催は見送られていた。
アマチュアの大会もない。
対して試合が決まった総合格闘技はできたてのジャンルだ。まず、試合を開催しなければ成り立たないという危機感からか、出場選手に寛容だった。ある程度の格闘技経験がある女子ならば、ほとんど出場を許していた。そのうえ、 ファングは十六歳の超若手というだけで、充分ウリになる。
色物扱いである。
それでもよかった。
試合ができれば、それでいい。
森口さんはニヤニヤしながらビールを飲む。
「試合に勝てたらもっと、うれしいぜ。」
そうか。
そりゃあ、そうだろうな。
「上手に殴れるかなぁ。上手に殴れるといいなぁ。」
いっぱい練習してきた。
「お前ならできるさ。」
森口さんが言った。
試合は簡単なもんじゃなかった。
だが、スパーリングと違う、相手も本気の殴り合いは楽しかった。
そのほとんどが上手くは当たらなかった。
相手は抱きついてくるし、距離は上手く取れない。それでも小さく小刻みに打つ左ジャブは、徐々に相手の動きを止めていった。
それと共に、ファングは高揚していくのが分かった。
いける!
一ラウンドの最後に思いっきり振った右フックは相手のこめかみに当たり、ダウンを奪った。
相手が立ち上がってすぐに、ゴングが鳴った。
惜しいな、あと少しだったんだけど。
そう思いながら自分のコーナーに戻る。
インターバルの時に、森口さんに聞いた。
「どうでした?」
「上手だったよ。」
相手コーナーから白いタオルが舞い、歓声が聞こえた。
「お前の勝ちだ。」
背中を押され、前に出た。
ファングのTKO勝ちだった。
笑顔がこぼれた。
琴子でなくなったファングは、その後も勝ち続けた。
周りから美しい打撃フォームだと褒められた。ボクシングをやっていたのが生きてきていた。
うれしかった。
ファングは人を殴って褒められる世界にいる。
すぐにプロのリングからお呼びがかかった。GAの本戦出場である。
参加費はいらない。同じぐらいのファイトマネーを逆にもらえるらしい。選手のレベルもアップするだろう。
やっぱり、ファングはうれしかった。
初めてのプロのリングでもファングは結果を出した。
きれいな右ストレートが、相手の顔面を捉えた。
自分は強い。
毎日の練習はつらかったが、リングでは自分の強さを実感できた。
この世界で生きていけると思っていた。
きれいだったはずのリングに、赤い点が見えるようになってきた。
血だ。
打撃をヒットさせていたのはファング。アキラは効果的なパンチは一度もヒットさせていない。だから、その血が誰のものかは明らかだ。もっとも、アキラも明確にカットした傷口は見られない。口内の出血の可能性が高い。
観客は試合の動き出しを待っていた。歩き回っていた客達も徐々に席に戻り試合に注目しだした。二人の動きが、観客の興味を引いていったのだ。
ファングは徐々にアキラに近づいていった。
随分と遠くにターゲットがいた。
警戒されている。
その警戒もムダだ。
仕留める。
ファングが近づくのを見て、アキラはぐるりとリングを周る。
相手の力が漲っているのが、アキラにも分かった。
表情が違う。気合の入った、笑みにも似た表情。
わたしは今どんな顔をしてるんだろう?
このままじゃ、負ける。
困惑して、何をして良いか分からず、ただ沈んでる。
つまり、一年前の自分。
パン!と弾ける音が、試合の動き出しを告げた。
衝撃が鼻っ面に響く。
アキラは下がった。
自分でも情けないと思う。
でも、怖くなったのだ。
どうすればいいか分からない。
失速するアキラを見て、ファングは左ジャブを丁寧に当てていく。
飛ばす必要はない。相手の動きをしっかり止める。
ローキックも混ぜる。
さらに左のダブル。
連続で打ち込んでいって、右の拳で決める。
それがファングの定番のムーヴだった。確実に相手をしとめられる得意のムーヴだ。
相手が下がる。
よし、勝負はロープ際だ。
「アキラ! しっかり! まわっ……」
アキラに麻衣の声が聞こえた。ただ、『しっかり』のあとが聞き取れない。
しっかり、しっかりどうすれば良いんですか?
不安は晴れない。
下がる。
分からないから下がる。
また来る衝撃。
腕でガードしてても痛い。
痛いのが辛い。
辛くて、苦しい。
痛みは練習でも何度も経験した。
あの時は平気だったはずだ。
でも、今は……。
アキラには腕に来る熱さが、とても苦しかった。
連続でやってくる衝撃。
ファングのコンビネーションブローに、アキラはまた下がる。
背中の感触で分かる。ロープを背負ってしまった。もう、逃げ場はない。
ここで、沈む。
アキラの心はすでに、『何をするか?』ではなく『どうなってしまうのか?』という考えに乗っ取られてしまっていた。
もう嫌だ。
何が嫌なのだろうか?
痛いのがイヤだ。
辛いのがイヤだ。
苦しいのがイヤだ。
ただ、ただ、マイナスの感情が押し進んでいって。
もう、いい。
頭にきれいな一撃が来てもいい。
アキラは腕のガードを下ろした。
ファングは右の一撃のタイミングを計っていた。
フィニッシュは頭部を打ち抜くのが定番であるが、ガードを頭につけて亀になられては無駄になる。
まずは思い切ってボディに打ち込むとしよう。右、左とボディブローを打ち込んで、頭部に右フックを打とう。動きを止めた後ならば、ガードも開くかもしれない。
最初の布石、ファングの右の拳が発射された。
狙うはアキラの左脇腹。
アキラは左肘に強烈な衝撃を受けた。
が、頭部に来ると思われた衝撃は来ない。
続いて右肘に衝撃。
接近したファング。
近くに見える相手。
なぜだか分からない。
自然とアキラの右腕が下から上がっていった。
拳がファングの顎へと吸い込まれていった。
「グッ!」
ファングは一瞬、天井の明かりを見た。
すぐに下を向いて相手の位置を確認する。
密着されている。
足を刈られた。
背中がマットとぶつかった。
慌てて、アキラの右足に両足を絡ませる。
不覚。
自分のボディへの攻撃は読まれていたのか。
左右のボディブローを打ち込んだとき、アキラのガードがふと下がったのだ。
そして右のショートアッパー。
素人のパンチだからダメージはそれほどでもないが、驚きは大きかった。だから、そのままテイクダウンも許してしまった。
しかし、打撃の素人が自分の攻撃を読めるとは思えない。
なんなんだ、こいつは。
右腕をとられる。
クソッ!
左でアキラの腹を打つ。
打ち付ける。
相手の苦しそうな表情が自分のがむしゃらな行動の成果を物語る。
リバーブロー。
左のボディブローは相手の肝臓を打つことになる。
本来はスタンドの状態で決めるつもりだったが、グラウンドで打ちつけスタミナを奪って、右を。
右……右腕が……伸び……。
アキラは苦しかった。
自分がなぜ攻撃したのか分からなかった。
ただ、諦めたと思ったその時にチャンスがやってきた。
ガードを下げたところに相手のパンチがやってきた。
そしてファングの顎が見えたとき、拳が動いていた。
ふらつくファングを見て、浴びせ倒した。
必死で右腕を取った。
瞬間、右足のクラッチも抜いた。
練習でやったとおりに。
苦しい。
息が詰まるファングの打撃。
それでも、右腕を取ると足を首にフックして背中をそらす。
腕ひしぎ十字固め。
初めて見た試合、テレビでチャンピオン米原凪が決めた技だ。そして、何度も練習した関節技、試合を決める技でもある。
身体のどこからだろうか。
アキラは自分の中にこみ上げる熱を感じていた。
いける!
そう思ったアキラの視界をレフェリーのたくましい腕が遮る。
口が動いている。何かを言っている。
スタンディング?
まだ、三十秒たっていない!
「一ラウンド終了だ!」
レフェリーの声がアキラの耳に届いた。
ホールには歓声とともに拍手が響いた。両選手の予想外の健闘への拍手だった。「思ってたより、グダグダの試合じゃないね。」という一部の客から漏れた言葉が、戦前の試合への期待感の薄さを示していた。腕を組み眺めていた塚にもその声は届いていた。
いや、次ラウンドはもっとおもしろくなるよ?
そう心の中で呟く。
ゴングは確かに鳴っていた、らしい。
あまりのチャンスを目の前にして気が付かなかった。
悔しい。
そう思った瞬間、気まずさを感じる。
一度は諦めた勝利。
それが偶然のチャンスで、転がり込んで来るかと思われた。
だが、それだけだ。
たとえこれで勝ったとしても……。
不純だ。
何を浮かれていたんだろう?
『いける』って、何が?
アキラは不安になった。
セコンドのほうを見る。
気が付いているだろうか?
自分の情けない気持ちに。
諦めた気持ちに。
勝負を放棄しようとした自分に。
自分のコーナーに戻るのが、つらかった。
ちらりと、コーナーを見た。
優しい、麻衣の姿が見えた。
あきらと麻衣は下町の大きな通りをキョロキョロとあたりを見渡しながら歩いていた。
「……ここら辺だと思うんだけど?」
「あ、あれじゃないですか?」
あきらの指差す方には『椿アリーナ』と書かれた小さな看板があった。
ビデオを見た翌日から、あきらの道場通いが始まった。
週二回隔日で行く。
親にも、兄にも言わなかった。
今は一人だけのものにしたかったから。
スポーツ経験がまったくないあきらは、まずは基礎体力からとランニングとストレッチ主体のトレーニングがメインだった。
あきらの学校終わりに道場に行きストレッチを始め、麻衣がキッズクラスを教え始めるとランニング。キッズクラスの途中で道場に戻ってくるが、外でストレッチをして道場で待つ。
それだけじゃつまらないだろうから、と麻衣は練習の最後に柔道を教えてくれる。受身の練習、技をひとつ、そして麻衣との乱取り稽古というのが流れだ。
毎日四時には帰宅していたあきらだが、道場に行った日の帰りは七時近くになる。身体は疲れ果てていくが、運動部と違い厳しい先輩がいるわけでもなく、 淡々とこなす運動は苦にならなかった。
ただ、妙な違和感として残るのは『柔道』だった。
麻衣はあきらが見せたDVDを見たときに『総合格闘技』という言葉を口にしていた。そして、麻衣のあきらへの問い。
「一之瀬さんは『これ』がしたいんだ?」
『これ』が柔道ではないのは分かっているはずだ。
あきらも桂木禅心会道場が柔道の道場というのは分かっている。ならば、なぜ自分を受け入れてくれたのだろう?
いつもランニング中に浮かぶ疑問は、酸欠の脳から追いやられる。
「あきら、こんなの見つけたんだけど?」
練習終わりに麻衣があきらに見せたのはプリントアウトされたウェブサイトだった。
GA主催のアマチュアの大会が開かれるらしい。一般参加受付もあると書かれている。
「麻衣さん、これ?」
「行ってみる?」
「はい!」
麻衣の提案にあきらははっきりと応えていた。
『椿アリーナ』の受付にはチケット販売とともに当日参加者受付窓口があった。
ジャージを着た男女が雑談をしている。
奥にあるもうひとつの窓口、『関係者窓口』が一番せわしなく動いているところからこの大会の性格が分かる。
あきらがチケット販売窓口に向かおうとすると、麻衣は一般参加の窓口に向かう。
あきらは驚き、麻衣を見る。視線に気づいた麻衣があきらに笑いかける。
「やってみないと分かんないもんね。」
「参加するんですか!?」
「うん。あきらは応援しててね。」
麻衣は手続きを始める。
「え? 殴っちゃだめなの?」
麻衣が驚いて声を上げる。
「グラップリングルールの大会ですから。」
受付の女性が、ややあきれ気味の声で答える。
どうやら投げと関節技で競う大会らしい。
「柔道みたいなの?」
「どちらかというと柔術に近いです。」
「あー……。」
麻衣は分かってるのか分かってないのか曖昧な返事をする。
その様子に受付の女性は見かねたのか、
「今回の参加は見合わせて、一度ご覧になったらいかがですか?」
そう勧めてきたが、麻衣は微笑で返した。
「参加しますよ、ルール教えてください。」
横であきらは麻衣のやり取りに呆然としていた。
ルールも知らない大会に出るなんて非常識というのは素人の自分でも分かる。だが、麻衣は出る気満々のようだ。
何を考えているんだろう?
突如、あきらを混乱から呼び覚ます声が聞こえる。
「セコンドは?」
受付の質問に麻衣が「あっ」と呟くとあきらに言った。
「ごめん、やってもらえる?」
あきらはさらに混乱した。
『椿アリーナ』は普段はジムとしても機能しているらしく、あきら達が通された控え室も普段は更衣室として使用されているらしかった。各ロッカーには名札がついており、収納棚には備品が置かれている。備品の中には映像で見た選手達もつけていた不思議なグローブも見当たった。手の甲のみををカバーし指は物をつかめるように外に出るようになっている。
オープンフィンガーグローブというらしい。
それを麻衣が指し示して話す。
「あれをつけてやると思ったのに。」
あきらは未だに混乱から立ち戻ってなかった。
なんで観客席じゃなくて控え室にいるの!?
対して、麻衣は飄々としていた。すでに試合用のぴったりとしたラッシュガードに着替えている。ルールの概要を見つつも控え室を見渡す。
多くの選手がセコンドと思われる人々とストレッチをしつつ打ち合わせをしていた。セコンドが耳元で何かをささやく度に、選手は細かく頷いている。セコンドは男性が多い。年齢も三十代から四十代ぐらいであるところから選手たちのトレーナーなのだろう。
一方で、主役の選手たちはみな若い。二十代前半と言ったところだが、中には十代の選手もいるかもしれない。大会は事実上、新人たちの活躍の場という意味合いが強いのかもしれない。
麻衣も簡単にストレッチを始める。
「よかったね、あきら、入場料がタダになって。」
「え、いや、その、麻衣さん大丈夫なんですか?」
「なにが?」
「なにがって、その、試合に出て……、いきなりだし。」
「わたしは出場するつもりで来たからね、いきなりじゃないよ。」
あきらは少し納得した。
麻衣の練習を見て彼女は実践派であることが何となく分かっているからだ。キッズクラスでも乱取り稽古が多いし、技もどんどん教えてくれる。
「麻衣さんは『やってみないと分からない』んですよね。」
あきらの言葉に軽蔑の意味はない。
麻衣も分かっているのでニコリと笑った。
試合はトーナメント方式だった。
体重別で選手は分かれていて、麻衣がエントリーしたのはライト級、五十三キログラム以下の選手の階級だった。
ライト級のエントリーは七名。
くじによる抽選で一人はシード枠に入ることになる。麻衣はシードには入らなかった。
「よかった、せっかくだから三試合やりたいもんね。」
麻衣があきらにささやく。
あきらは麻衣を見る。
この人は勝つつもりなんだ!
確かに、負けるつもりで試合をする者はいないだろう。ただ、あきらは麻衣の表情からただの意気込みの言葉ではないことが理解できた。
麻衣は第三試合だった。
勝っても次はシードの選手と当たる。一番不利な場所かもしれない。
あきらは少し気になったが、麻衣の飄々とした様子を見ると心配しても仕方がないとも思う。
第一試合が始まった。
確かに打撃なしのルールだが、組み付きの際の攻防で目まぐるしく選手たちの両手が動いている。
控え室近くの扉の外で試合を見ながら、麻衣はあきらに解説していた。
「投げて相手を倒したり、寝転がりながら上になったり有利な体勢になるとポイントが入るんだって。」
「あ、投げた!」
「でもつぶれちゃったね、どっちにもポイントにはならないかな。」
試合は寝技の攻防に移る。
腕の取り合いらしい。
「んー、楽しみだな、試合。」
麻衣の笑顔に、あきらはだんだん会場の空気になじんできた自分を感じる。見渡せば、観客席はパイプ椅子とマット。応援の様子から客は選手の知り合いなのかもしれない。
テレビで見た大会とは違う、アットホームな空気が流れていた。
麻衣さんを応援してくれる人はいないかもなぁ。
試合は判定にもつれ込む。勝者が決まると、大きな拍手が会場を包んだ。
第二試合のときは麻衣は控え室で入念にストレッチをしていた。
あきらは混乱してばかりで、麻衣に大事なことを言ってなかったと気づく。
「……あの」
「ん?」
搾り出すように、申し訳なさそうに、あきらは言った。
「がんばってください……。」
なんて自分は気が利かないんだろう。
もっと、何か……。
そう思うあきらをよそに麻衣は笑顔で返す。
「ありがと。」
再び発生した大きな拍手が控え室にも届く。
第二試合が終わったようだ。
「さてと、そろそろかな。」
麻衣が立ち上がるのに引っ張られるようにあきらも立ち上がる。
スタッフが出口の幕から首を出してきた。
「桂木選手、よろしくお願いします。」
「はーい。」
能天気にも聞こえる声で麻衣が応える。
「あー、いよいよかー!」
リング上まで案内される。演出などはない。
姫香、という麻衣の対戦相手と双方がリングに上がると、コールされる。
「青コーナー、桂木禅心会所属、桂木麻衣。」
あきらの耳に「聞いたことないな」という言葉が入る。
声のした方を振り向くと言葉の主らしき男は後方の関係者席にいた。
運営者の一人かな? 背広着てるし偉い人かも。
『聞いたことない』のは名前か、道場かどっちだろう?
まあ、どちらもだろうけど……。
麻衣が前に進み出て礼をする。
レフェリーが双方に話している。
ルールの確認だろうか。
リング下のあきらには聞こえない。
話し終わったのか、レフェリーが手をたたく。
麻衣は相手と距離をとる。
「レディ、ファイッ!」
乾いたゴングの音が鳴る。
ほぼ同時である。
麻衣は姫香の懐に飛び込んでいた。
首を抱え相手を半身で背負いつつ、足を払う。
変形の払い腰の様だったが、ただ、なぎ倒したようにも見えるかもしれない。
すでに麻衣は姫香の右手をつかんでおり、そのまま相手の首に自分の左足を、胴に右足をかけていた。
ありえない方向に姫香の右腕が曲がった。
あきらもテレビで見た技だ。
腕ひしぎ十字固め。
ポンポンと姫香が麻衣の足をたたいた。
タップアウト。
ドッと会場が沸くと直後にコールが入った。
「桂木選手の一本勝ちです!」
ほんの数秒の出来事だった。
あきらが手で顔を覆いながら呟く。
「すごい……!」
相手のコーナーに挨拶して、笑顔で麻衣が戻ってきた。
「ポイント稼ぐより手っ取り早く勝てる方法がルールにあったからね。」
二回戦はシードで上がってきた選手だ。向井沙希という名前らしい。これが初戦なので万全の状態で試合に臨める。もっとも麻衣もスタミナのロスは全くと言っていいほどない。先ほどの試合時間は六秒と発表されていた。
あきらは麻衣の強さに驚いていた。
こんなに凄い人に自分は教えてもらっていたんだ!
控え室でスポーツドリンクを口に含む麻衣を見る。
「麻衣さんっ……」
「ん?」
「その、強いですね!」
麻衣はえへへと笑う。
「でも、テレビで見た人達の方が強そうだったね。あの人達はプロだから今日はいないのかな?」
同室で次の試合に備えていた選手陣も麻衣に注目していた。
とんでもないやつが現れた、といったところだろうか。
「なあ。」
男が話しかけてくる。中年の、ややがっしりした体格、顔には皮肉めいた笑いがこびりついている。
「あんた、柔術やってるのかい?」
男の質問に、麻衣が笑顔で応える。
「ええと、柔道とかですね。」
「柔道にあんな関節技はないぜ、サンボとかか?」
「あー、もろもろテキトーにですねぇ。」
周りがその会話に耳を傾けていた。
男はあきらめたように言う。
「ま、しょうがねぇか。試合まだ残ってるもんな。終わったら飯でも食いながらお前さんのことを教えてくれよ。」
「いやぁ、何も隠してないんですけど、あはは。」
やりとりが終了したところで、また周りは次の試合に備え始める。
先ほどの男もトレーナーのようだった。
自分の選手にマッサージを始める。
マッサージを受ける選手の目が麻衣に向いてるのをあきらは見た。
麻衣は再びストレッチをする。
「次の沙希さんはどんな人かな?」
沙希は背が低いが、がっしりした体格をしていた。低い重心で容易には投げられないかもしれない。レスリングベースなのか、タックルを多用する選手らしい。
麻衣の前の試合を見たのだろう。
ゴングと同時に仕掛けてきたのは沙希の方だった。
素早く、力強いタックル。
麻衣は倒れこんだ。
しかし、沙希の頭を左腕で抱え込んだ状態で、だ。
両脚で沙希の胴をクラッチしていた。
腕で、頚動脈を締め上げる。
タンタンッ!
沙希がマットをたたいていた。
フロントチョークスリーパーによる麻衣の一本勝ちだった。
観客はざわつき始めた。
一回戦はフロックではない。本当に強い選手が現れたのだ!
「次、決勝ですよ!」
あきらも興奮していた。
『大会に出る』と麻衣が言い出した時は混乱したが、麻衣には勝算があったのだろう。
それにしても強い。
こんなに強い人とトレーニングしていたのか。
わたしが何もできないはずだ……。
あきらの思いをよそに麻衣は残念そうな表情だった。
「あと一回だけかぁ。」
実戦は麻衣にとっても初めてだった。
柔道の試合、昇段試験などはやったことがある。ただ、こういった関節技アリの大会の経験はない。出来れば打撃も経験したかった。
もっとやってみたい。
麻衣の本心だった。
「これ、結構おもしろいね。」
麻衣はあきらに笑う。
「いいこと、教えてもらっちゃったな。」
「え?」
あきらの不思議にしてる顔に麻衣は呟く。
「わたしも、『やりたいこと』見つかった。」
決勝の相手は吉見玲子という選手だ。
長い手足でポジションをキープして相手をコントロールしていた。ポイントによる判定決着で決勝まで上がってきたが、どれも大差の圧勝だった。
次戦はGAの本戦とも言われている実力者らしい。
ここで、桂木麻衣の本当の実力が分かる。
関係者たちは決勝戦に注目していた。
入場してきた玲子を見て、先程、控え室で話した中年のマッサージを受けていた選手だと、あきらは気付いた。選手名がコールされる。
「赤コーナー、森口ジム所属、吉見玲子!」
まばらな拍手が続く。
玲子はじっと麻衣を見つめている。
それを全く意に返さず、リング下のあきらに向かって、麻衣は言う。
「今度はあきらもやってみな。」
「え?」
「相当おもしろいよ、これ、腕試しっていうかさ……。」
ゴングが鳴る。
ゆったりと麻衣と玲子は距離を縮める。
この人は、強い。
両者は同じことを思っていた。
スッと玲子の長い手が伸びる。
両腕が麻衣の首に絡みつく。
力も強い。
麻衣は、投げるのはしんどそうだと思った。
麻衣は玲子の左腕を掴む。
と、両脚が宙に浮いた。
投げられたのではない。
立った状態から玲子の胴に足を絡ませたのである。
玲子が麻衣をおんぶしているような状態になる。
麻衣の体重を支えきれずに、玲子が前に倒れる。
ポジション的には不利だが、麻衣は寝技に引き込むことに成功した。
絡めた両足が素早く上がっていく。
腰から首へ。
玲子の左腕はキープしたままだ。
三角締め!
玲子はそう思った。
潰すか、首を抜くか……。
時間はない。
ただ、玲子は冷静だった。
タイミングを図る。
徐々に体重をかけて潰す。
麻衣は身体をうまく反って極めることが出来ない。
麻衣は来るね、と思った。
タイミングを計って、一気に身体を抜くのだろう。
いいよ、って思う。
ただ、腕を放すつもりはない。
玲子が動いた。
縮めた身体を一気に伸ばしつつ、足を踏ん張る!
瞬間、視界の異変に気づく。
白いマットが目前に迫っていた。
――ドドッ!
観客席が沸いた。
麻衣は不思議な動きを見せていた。
玲子が身体を離した瞬間、麻衣は左足のフックをはずし、玲子の左腕に巻きつけた。
そのまま、左腕を引っ張った。
「やられた!」
玲子のセコンドの皮肉めいた笑顔の中年が呟いていた。
オモプラッタ。
ブラジリアン柔術の技である。
下のポジションから上のポジションを取り返すだけでなく、そのまま肩甲骨を極めてしまう。
大技である。
玲子は麻衣の速すぎる動きに、何をされたのか分からなかった。微弱の痛みを背中から感じる。
極まってるって分かってるでしょ?
そういう麻衣からの合図だと理解した。
右手でマットを叩いた。
沸いた観客から、さらに大きな拍手をもらった麻衣は、一礼してリングを降りる。
と、あきらが麻衣を抱きしめた。
「麻衣さん! すごい! すごいよ!」
「はは、ありがと。」
麻衣がポンポンと背中を叩く。
何かに気づいたように、あきらは身を引く。
「?」
「ごめんなさい、わたし、いきなり……。」
赤面するあきらに、麻衣は苦笑する。
「いや、うれしいよ。」
控え室で表彰を待つ麻衣達に、背広の男が話しかけてきた。
あきらはその男が運営席にいた男だと分かった。
「やあ、優勝おめでとう。」
差し出された手に麻衣は素直に応えた。
「運営の塚と言います。よろしく。」
「どうも。」
「君のことをいろいろ知りたくてね。」
場所が場所なら怪しいセリフだが、ここは汗臭い選手控え室である。
「わたしも、知りたいことがあるんです。」
麻衣の言葉に塚もあきらも虚を突かれた顔をする。
だが、次の言葉に、少なくとも塚は喜んだ。
「わたし達、本当はアレをつけてやりたいんです。」
麻衣が指し示したのはオープンフィンガーグローブのある棚だった。
七月になると、あきらの道場通いは毎日になっていた。学校に行き、ただ憂鬱に過ごす日々はなくなった。
さらに早朝のランニングを始めた。
授業中うつらうつらすることが多くなった。
「一之瀬さん、最近、眠そうだねぇ。」
クラスメートの声で目を覚まし、赤面してうつむく。
放課後、すぐに道場に向かう準備をする。
スポーツバックにはジャージなどの練習着と柔道着が突っ込んである。帰宅部が持つには奇妙な持ち物だ。
誰も気にしないだろうけど。
あきらはそう思いつつ、ひっつかんで、教室を出る。
出たところで、男子生徒にぶつかりそうになる。
いつかの柔道部らしい大男。
謝りつつ、廊下を抜けながらあきらは感謝したくなる。あの時、柔道着を見なかったら、柔道着を持った子供達に注目もしなかったかもしれない。
引いては麻衣との出会いもなかったかもしれない。
コンビニに寄ってスポーツドリンクを買っていく。
まだ、屯する小学生の姿はない。
ここにいた小学生にも感謝しないと。
道場に着くと、先客がいた。
「つけてやりたいんだろ?」
胡坐を掻いた塚は道場の畳の上にオープンフィンガーグローブを置いて、話した。
相対する麻衣は笑みを浮かべて頷く。
「はい。」
「やるよ、餞別だ。」
塚はそういった後に書類を取り出す。
「夏の終わりに大会がある。出ないか?」
「出ます」
麻衣は即答した。塚は笑顔で返した。
「じゃ、契約書を渡しとくから、よく読んでおいてくれ。」
書類を渡すと塚は立ち上がった。
「打撃の得意な選手を当てるからな、練習しとけよ。」
「ご丁寧に、どうも」
玄関で立っていたあきらと塚の目が合う。ぺこりと礼をするあきらに塚は片手を上げて挨拶する。
「よう、先輩の試合が決まったぜ。キミもがんばれよ。」
「あ、はい!」
あきらの返事に塚は笑顔を見せて道場を出て行った。
「と、いうことになったよ」
麻衣の言葉に、あきらの頬が紅潮した。
「す、すごいですね!」
「さて、これで道筋が何となく分かったね。」
「え?」
「どうすれば、テレビでやってた大会に出ることができるか、ってこと。」
麻衣は書類を見ながら立ち上がる。
「アマチュア大会で優勝すればいいんだ。」
確かに、この前の組み技のみの大会で優勝したから麻衣にお呼びがかかったのだろう。
でも……。
あきらは思う。
それは麻衣の勝ち方が劇的過ぎたからだ。オール一本勝ち。しかも全ての試合が一分以内の決着だった。
自分には土台無理な話だ。
「奥で着替えてきな。」
「はい。」
麻衣に促がされ、あきらは道場に上がる。
「あ、今日は最初から道着を着てね。」
「え?」
「関節技も教えないと、一之瀬さん、勝てないでしょ?」
麻衣の言葉を理解するのに一瞬だが、時間がかかった。
「この前。麻衣さんがやってた技ですか?」
「ん、そんなところ。あと、今日からおじいちゃんもコーチに入るから。」
「源治さんが?」
「まあ、イジワルじいさんだから、気をつけてね。」
麻衣は頭をかきながら呟いた。
あきらと麻衣が組み、関節技のポイントを探る。
源治はそれを近くて見つめていた。
麻衣が腕ひしぎ十字固めを仕掛けたとき、あきらは妙な実感を覚えた。
テレビで見た技。
麻衣が試合で見せた技。
こんな風景なのか。
こんな苦しさなのか。
こんな痛みなのか。
「一之瀬さんもやってみな。」
今度はあきらが仕掛ける。麻衣の右腕を両手で掴む。右足を胴に、左足を首にかける。引き伸ば……。
「うーっ!」
麻衣が左手で右手をクラッチしていた。
「くーぅぅぅっ!」
なかなか伸ばせない。
麻衣も必死にこらえる。
「うぅぅ……だめだぁ!」
麻衣は左手であきらの胴を叩く。
タップ。
あきらはすぐに右腕を手放した。
息が荒い。
麻衣が解説する。
「まぁ、こんな具合に、この体勢になれば大体決まる技だから。」
「麻衣、ちょっと早く離しすぎだ。」
「はーい。」
源治の言葉にテキトーに応える。
源治はあきらに向き直る。
「引きの強さが甘いな。背筋をもっと鍛えたほうがよい。それから……。」
あきらはポイントを解説する源治の話に真剣に聞き入った。
本格的な『総合』の練習が始まったのだ。
キッズクラスの間はとにかくランニングである。根本的な体力不足を指摘されているあきらは、走る時間が多い。身体は苦しいが、心には負担にならない。
痛い瞬間がある。
でも、それも気持ちよかった。がんばっている実感となる。
終わったら、また技の講習を受けたいなと思う。
腕を、さする。
かすかな痛みの感触を愛でながら、あきらは走る。
戻ってからは柔道の練習の延長だった。
胴着を脱いでの投げを学ぶ。
麻衣の試合が決まったので、その対策の確認も兼ねているようだ。
「打撃の練習もしないと。」
麻衣が呟く。
「すいません、練習相手になれなくて。」
あきらの応えに麻衣が苦笑する。
「謝ることじゃないでしょ。『総合』をやろうとしているのは、ウチの道場じゃ二人だけだもんね。あとは子どもだし。」
源治が頷く。
「出稽古しなくてはな。昔の知り合いで空手の道場をやってるやつが、今はキックボクシングも教えているらしい。」
「なるほど……。」
麻衣が思案する。
「会員も多いらしいからな。悪くないと思うが。」
「慣れるだけでもしときたいな。」
「では、連絡しておこう。」
会員が多い、か。
あ、そうだ。
麻衣と源治の相談を聞きつつ、あきらは秘めていた疑問を口にした。
「あの、ここは会費とかないんですか?」
麻衣と源治が顔を見合わせた。
間違いない、二人とも忘れてたな。
やぶへび、だとは思わない。あきらは充実時間を過ごしていたから。
ただ……。
バイトしなくちゃいけないかも。
源治が告げた。
「勝ったらもらおう。」
「へ?」
「桂木禅心会の誇りとして、お前みたいな弱い者から会費をもらうわけにはいかないからな。」
「……だって。」
「でも……。」
麻衣はあきらの頭をくしゃくしゃにする。
「強くなって、いっぱいファイトマネー稼いで貢ぐんだ!」
源治は鼻を鳴らして奥に消える。
麻衣がその背中を見つつ、言った。
「さすが頑固ジジイ」
くしゃくしゃにされた頭の中で、あきらは思う。
早く強くなりたい。
「でもさ。」
麻衣が座り込んで、あきらに話す。
ストレッチを始めるのだ。
あきらもそれに習う。
「いいの、一之瀬さんは?」
「え?」
「一之瀬さんが『やりたいこと』ってさ、ここで練習することなの? それとも試合に出ることなの?」
麻衣の言ってる言葉の意味をあきらは考える。
「スポットライトの当たる場所で試合をしたいのか、道場で総合格闘技の練習をしていたいだけなのか。」
続いた麻衣の言葉に、あきらは応えた。。
「試合を『やりたい』です。いつかは、すぐじゃなくても……。」
麻衣は笑顔だった。
「それがいいよ。」
麻衣はいつもあきらを肯定してくれる。
あきらはわからない。
「なんで、麻衣さんは優しいんですか?」
あきらは自分で聞いておいて、恥ずかしくなった。麻衣の顔を見る。きょとんとしていたが、やがて赤面した。
「い、いやぁ、そんなつもりはないんだけどなぁ、はは……。」
「え、えと、質問変えます。その、なんで私のやろうとすることを否定しないんですか?」
あきらの問い直しに、麻衣はやや表情を落ち着かせ、応える。
「んー、特に意識はしてないよ。きっと、その方が面白くなるだろうなって方向に一之瀬さんが自然と向いてるんだよ。」
「わたし、何も考えてない。」
あきらはすべての空気を吐き出すつもりで呼吸をしつつ、筋肉を伸ばす。楽な姿勢に戻り、空気を吸い込む。
「わたし、勝手に、自分でも良く分からないうちにここにたどり着いて、格闘技をやりたいと思ってもいなかったのに、麻衣さんに言われたときに、なぜか『やりたい』って言っちゃって……。」
なぜか言葉がとまらなかった。
「でも、やってるうちに楽しくなっちゃって、この前の麻衣さんの試合を見ててもっとここにいたいと思うようになって、それで……。」
「それで?」
「それで、今は試合を『やりたい』と思ってる。成り行きで、何も考えてなくて、凄く身勝手で……。」
「自然と身体がそういう風に動いたんでしょ? すごいじゃん! 感覚で好きなことにめぐり合ったんだ。最高じゃん!」
やっぱり、麻衣は否定しなかった。
そして希望を持たせた。
「あたしたち、きっともっと、おもしろくなるよ!」
「ボサっとしてない、早く戻ってくる!」
麻衣が大きな声でアキラを呼び寄せる。
会場は決して大きなホールではない。観客席にも聞こえているのだろう、あちこちで苦笑する客の表情が見られた。
麻衣はアキラの耳元でささやく。
「最後の流れは良かったよ、惜しかったね、あと十秒あれば……。」
「……麻衣さん。」
アキラはつぶやく。
麻衣は優しい声でたずねた。
「何?」
汗が拭かれる。
水を口に含む。
そして、声を絞り出す。
「……ごめんなさい。」
応えたのは源治だった。
「根性ナシの小娘め。勝負を諦めよったな。ガードを下げ……。」
「お爺ちゃん!」
麻衣が大声でさえぎる。
今の声も観客に聞こえただろう。
でもアキラは客の表情を見る気にはなれない。
「わたしが言ったのに! 『やりたい』って言ったのに!」
「最低だ。麻衣、タオルを投げろ」
「だから! お爺ちゃんは黙ってて!」
麻衣はアキラの背中をさする。
アキラの身体が震えていた。
「わたしが……、言ったのに……。」
「深呼吸して。」
麻衣の優しい声が続く。
「落ち着いたら、向こうのコーナーをよく見て。」
ファングが右腕を軽く回している。
セコンドの声に耳を傾けながら、ダメージを少しでも抜こうとしている。
麻衣が尋ねる。
「どう、あいつに負けたい? 今の気持ちは?」
レフェリーの声が響く。
「セコンドアウト!」
麻衣がマウスピースをアキラにかませようとする。アキラの口が動く。
「わからないです。」
麻衣は微笑んだ。
「じゃあ、確かめてきな、次のラウンドも丁寧に。」
アキラは麻衣に背中をはたかれる。
マウスピースをかみ締める。
負けたくない。
そう思う権利が自分にあるのだろうか?
ガードを下げた。
故意に。
負けたくなって。
アキラは戸惑いながら、ファングに対峙する。
だから相手の左ジャブに反応できなかった。
衝撃に、後ろに下がる事を選ぶ。
痛いのが、イヤだ。
「横に周って、まっすぐ下がらないで!」
麻衣の声に応えることが出来ず、アキラはロープを背負ってしまった。
――今の気持ちは……。
ファングを見る。
目線はアキラのボディー。
構わず密着する。
衝撃が腕を通してわき腹に伝わる。
イタイ。
練習での痛みとは違う、痛烈な、それ。
相手が、ファングが見える。
もう、ガードを下げたくない。
――やっぱり、負けたくない!
アキラは相手の腰に腕を巻く。
顔面、右に左に相手の拳がぶつかる。
腰の入ってない打撃だ。
痛くない、いや、痛い。だが、我慢できないわけではない。
左右に、相手の身体を揺らす。
右に、左に、次にファングの体重が左足に乗った瞬間、刈る!
無様に、二人が倒れこむ。
なりふり構わない、アキラの仕掛け。
テイクダウンに成功すると、アキラの左足はすぐに外に逃げた。ただ、右足はクラッチされている。
またも、ハーフガードの状態だ。
今度はファングの腕がアキラを抱え込む。
密着して三十秒、耐える気だろう。
それでもいい。
アキラの右腕がゆっくりとファングの胸をすべる。
間に合うだろうか? とにかく三十秒。時間はそれほどはない。
ファングは仕留めきれず、無様に倒れたことを悔やんでいた。
しかし、今は冷静に耐えていればいい。
抱え込んだアキラを見る。
視線が交錯した。
アキラが視線をはずさない。
勝つつもりでいる。勝機がある。何かを狙っている瞳。
ファングはより強く抱え込む。
身体を伝ってくる違和感。
アキラの右腕が、徐々にファングの顔に迫ってきていた。
声が聞こえる。
なんて言ってるんだ。
声援? なんだ?
「ファング! 一度離せ!」
コーナーから飛んでくる声。
アキラには聞こえていた。
離さないで、そのままでいいから、あと少し。
ほら! 来た!
アキラの右腕はファングの首に入った。左足を踏ん張って出来うる限りの体重を右腕にかける。
観客達がどよめいた。膠着している様に見えた状態だったが、アキラが仕掛けていたことに気づいたのだ。
ギ……ロチン……チョー……ク。
ファングはあごにぴったりと付いたアキラの腕に焦る。
腕でのどを潰すだけの技。
抱きついていた自分の腕で、今度は逆にアキラを突き放す。
アキラの身体が跳ね上がる瞬間、右に傾いだ。
伸ばした右手が捕らえられている。
しまった!
慌てて、左手で右手を押さえる!
――グッ!
今度は足がファングの首筋に迫っていた。
観客達のどよめきが、大きな驚きの声と共に歓声へと変わった!
アキラにしてみれば、会心の攻撃だった。麻衣との練習でもなかなかこうは連続攻撃は出来ない。
ギロチンチョークで焦ったファングはクラッチしたアキラの右足から集中が途切れてしまい、アキラはあっさりとサイドポジションを奪うことが出来た。
相手の突き放しと同時に伸びた右腕を捉えることも出来た。
そのまま、腕ひしぎ十字固めへ。
これで、ファングの左手から右腕を奪うことが出来れば……。
「十五秒経過!」
レフェリーの声が聞こえる。
グラウンドでいられるのは十五秒!
離して!
右腕をわたしにちょうだい!
その左手を離してよ!
離すもんか!
ファングは両腕に全力を注ぎこむ。
歯を食いしばる。
離したら、終わりだ。
何があっても離さない!
足のクラッチで呼吸が辛い。
じゃあ、呼吸はもういい。
耐える、あと何秒だ、時間ってこんなに経つのが遅かったか?
早く、早くしろ、ダメ、か……。
ファングの指は離れかけていた。
爪が肉に食い込んでもいいから、離したくなかった。
腕はすでに痺れてきている。
指先が滑っていく……。
観客達は大きくどよめいていた。試合が決まる予感がヒシヒシと生まれる。
ルーキーの試合でここまで、試合を決めに行くのは珍しかった。大抵はその実力のなさからなでるような打撃の応酬やごろごろと団子のように転がり続けるだけの寝技の連続による泥試合ばかりだ。KOや一本で決まる試合もあるが、それは大きな実力差があったりした場合だ。
だが、今繰り広げられているこの試合は……!
「五秒前!」
レフェリーの声が聞こえた瞬間、アキラは背中を反った。
ファングの腕を捕らえたまま、伸ばす!
勝った!
が、ファングはタップしない!
「三、二、一、スタンド!」
条件反射的にアキラはファングの腕を放す。
だが、ファングの腕は伸びきっていたはずだ。
仰向けのままファングを見る。
腕を気にしながら、自分を見ている。
薄笑いを浮かべて。
よろよろとアキラは立ち上がる。
思っていた以上のスタミナロスだ。
だが、それは相手も同じだ。
腕は壊したはず、強がっているだけだ。
それとも、ポイントがズレていたのだろうか。
ならば関節は極まっていない。
「アキラ、惜しいよ、もう一度!」
麻衣の声を聞いてアキラは自分を取り戻す。
そうだ、もう一度。
そう思うアキラをファングの笑みが捕らえた。
苦笑い、というには挑戦的なものだった。
その笑みは、アキラに向けられたものだ。
浮かび上がった表情ではない。
そう理解した。
だから、アキラは戦慄した。
きっと効いてないわけじゃない。
ただ、あきらめなかったのだ。
強烈に差を感じる。
さっき、あきらめてしまった自分との差。
いや、やる。
わたしもとことん、やる。
負けたくないと純粋に思ったのだから。
激痛だった。
ファングにとっては悪夢のような三秒間だった。
肘が痛む。
左の拳を握りしめ、痛みに耐えた。
レフェリーが試合をストップしないかヒヤヒヤした。
耐えた甲斐はあった。試合は続行だ。
右で殴れるだろうか?
いや、殴る。
フィニッシュブローは右。
得意のムーブ。左で動きを止めて右。そう心に決めた。
アキラを見る。
強い対戦相手だ。
やってくれた。
舐めて悪かったな。
だが、代償は払っただろう?
この激痛が走る右腕で、あんたを捕らえて見せるよ。
「あは、あははははは!」
塚は自分のマッチメイクに酔っていた。
ああ、オレって趣味が悪い。少女達が痛めつけあう姿を見て笑っている!
だが、素晴らしい試合だ。
そうだ、諦めるな。
不屈の闘志って言葉は陳腐だが、目の前にすると、なんと感動的なのだろう。
GAの大会を見て、やってみたいと思う女性は実のところ多い。だが、辛い思いをすると、心が折れる者も多いのだ。
ファングは連敗が続いていた。
アキラはアマチュアで全然勝てなかった。
だが、二人から辞める気配は感じられなかった。折角なら、心が強い人間にチャンスを与えてやりたかった。
オレは間違えてなかった。
アキラは心が折れかけていたが、気力で劣勢を挽回した。
ファングは試合が終わるかもしれない場面を気持ちだけで乗り切った。
二人の少女が戦いながら支えあう。
そうなって欲しかった。
二人の少女が愛らしかった。
塚は自分を変態だと思った。
「変態め。」
それを肯定する声が背中から聞こえる。塚が振り向くと、見知った顔がそこにあった。
夜を迎えた事務所は薄暗い照明と一人の男を残して、静まり返っていた。
ギッと椅子を軋ませて、塚は次回大会のマッチメイクの一覧を見る。
ライト級のタイトルマッチは規定路線だったので悩まなかった。
挑戦者の金崎こがね、王者の米原凪ともに怪我なく当日を迎えることを祈っていた。
第一試合に目を移す。
ファング対アキラのまだ若い世代の対決。
足音がして塚は顔を上げた。
細身で長身、鋭利な目をした男がそこに立っていた。年は三十代半ばといったところだろうか。
塚には見知った顔だ。
名を品田という、GAの主に競技面を統括している男だ。
「こんな遅くにどうした?」
塚の質問に品田は首を振る。
「まだ、事務所にいてくれて助かったよ。」
品田は椅子を引っ張ってきて、塚の近くに座った。
マッチメイクの一覧を奪う。
「おいっ……」
塚の声に反応せず、品田が問う。
「これ、本気か?」
アキラの名前を指差す。
「まあな。」
塚は、この質問を予想していたかのような表情だった。
だが、あえて聞く。
「不満か?」
「大いに。」
品田の即答に苦笑する。
「まあ、一度も勝ってないしな。」
アキラの戦績はアマチュア大会で三戦三敗。
そんな選手が本戦と呼ばれるプロの試合に組み込まれている。
「根底から間違っている。」
品田の意見だった。
「なんのために、アマチュア大会を開いていると思ってるんだ? 多くの選手にチャンスを与えるためだろう? そこで可能性のある選手を発掘して本戦への切符を与える。だから参加選手はがんばっているんだ。」
塚はうなづく。
「全く、その通り。」
「じゃあ、なぜだ? なぜ、姫香を使わない?」
姫香は前回のアマチュアトーナメント優勝者だ。優勝者が本戦への切符を掴むのは慣例となっていた。実際、アキラの対戦相手であるファングもトーナメントに優勝して本戦に出場したのだ。
塚は黙っていた。薄笑いを浮かべて。
「あんたは!」
品田が怒るのを嬉しそうに見やると、塚は机の資料を漁りだす。そして、一枚の資料を品田に見せた。
「なんだ?」
品田の質問に塚は質問で返す。
「姫香の一回戦を覚えているか?」
「なるほど。」
掲げられた資料に書いてある一回戦の対戦相手は一之瀬あきらだった。
「いい試合だったぜ。二ラウンド二分五十二秒、腕ひしぎ十字固めで姫香の一本勝ちだ。」
「では、なおさら解せないな。」
塚の言葉に品田はさらに問い詰める。
「直接戦って、負けてる相手が先にデビューなんて、選手達が納得しないだろう?」
「姫香のこの試合以前の勝った試合は全部判定勝ちだった。」
塚は無視して説明を続ける。
「しかし、このトーナメントではその後二試合も一本勝ち、オール一本勝ちで優勝ってわけだ。」
ますます品田は不満そうな顔をしたが、今度は黙っていた。
塚は調子に乗っておしゃべりしている。
こういうときは人の話に耳を貸さない男だと、品田は知っていた。
「『開花した才能』『期待の新星の誕生』ってわけだ。対して相手の一之瀬あきらは……」
塚は別の二枚の資料を取り出す。
「過去の二試合も一本負けとノックアウト負け。勝ち星無し。いずれも試合はトーナメント一回戦での敗退だ。だが……。」
自慢げに資料を品田の前に突き出す。
「対戦相手はみんなそのトーナメントの優勝者! そしてみんなオール一本勝ちかノックアウト勝ちで優勝だ!」
今度は塚が興奮する。品田は演説が終了するのを待つしかない。
「運が悪かった、一回戦の相手がみんな実力者だった……。そういう考え方もあるだろう。だが!」
もう一枚、資料を机に叩きつける。
「いずれの選手も一之瀬あきら戦の前は判定勝ちしか収めたことがなく、戦績も負け越してる。」
得意げな顔をする塚の前で、品田は机の資料を拾い上げる。
「芝原里佳子、スガワラリサ。どっちも今や勢いに乗ってる選手だな。」
「一之瀬との試合の後からな。」
互いに目を見た。
納得したか?
仕方ないな。
「オレはファングに期待してるんだよ。」
塚は椅子にどっかと座って、くるりと品田に背を向けた。
「きっかけがあれば、勢いに乗れる。女子総合初の本格的ストライカーだぜ、あいつは。」
品田は頷く。
「確かに。キックボクシングからの転向組みはいても、デビューから見てきたストライカーはいなかったな。」
「あいつは化ける。ジョシカクの未来を担える。」
塚は女子の総合格闘技を時折、略してジョシカクと呼んでいた。
「一之瀬は生け贄か?」
品田の言葉に塚は苦笑する。
「わかんねぇ。だが、あいつの試合は今のところ全部面白いよ。」
「三試合とも、ほぼフルラウンド戦っているんだな。」
「ああ。」
二人、沈黙する。
品田はそのまま、出口に向かうと、振り向きもせず「おつかれさま」とだけ残して去っていった。
「やれやれ、説得するのも大変だねぇ。」
塚は再び椅子を回転させる。
隣接するビルの明かりばかりが見える、決して美しい夜景ではないが塚はそれで落ち着けた。
観客席からは思い思いに歓声が飛び、手を鳴らす音が聞こえた。
会場はすっかり『温まって』いた。
無名のはずのアキラを応援する声すら聞こえる。
「ファイト!」
レフェリーの声で少女達が戦闘を再開するのを見ながら、品田は続けた。
「素っ頓狂な声で笑うな。」
「仕方ないだろう。」
塚は声を出して笑わなくなったが、ニヤニヤとした笑みは止まらなかった。
品田はリングを見つめたままだ。
「レフェリー失格だ。」
「試合は決まっていたか?」
塚の問いに品田が頷く。
しかし、塚は首を振った。
「でも、きっと目覚めたぜ。」
品田が尋ねる。
「どっちが?」
「両者共に、かな。二人ともジョシカクの未来を担えるな。」
塚は嬉しそうに答えた。
ファングは布石を打つ。
左ジャブ。右のローキック。
タックルを警戒して、あまり跳ねない。
すり足で寄っていく。
腰を低くすえる。
みっともないような気もする。
「そうだ、それでいい!」
セコンドの声に押される。
そうか、総合の打撃、か。
軽快なステップでは腰が高く、タックルを受け止めることが出来ない。常に足がリングについた状態であれば、がっちり受け止めることが出来る。
スピードは劣るかもしれないが、寝技には持ち込まれない安全な戦法だ。
左のジャブで接近する。
追い込みたいが、相手がまっすぐ下がらない。
先ほどまでのようなフットワークで相手を追い込むことも出来ない。
右のローキック、左のジャブ。
ダンッ!とマットを跳ねる音がする。
来た、タックル!
うまく相手に覆いかぶさる。
そう、追いつけることは出来なくても、この対応が出来る。
スピードを殺した甲斐があったというものだ。
右のひじが痛い。
それでも胴をクラッチする。
体重を乗せ、潰す。
左の拳を打ち付ける。
場所はどこでも構わない。
連打、連打。
どうだ、もう倒されない。
気付くのが遅くて悪かったな。
お前とは最初からもっと丁寧に、きちんと戦うべきだったんだ。
お前、強いからな。
ファングの下になり、アキラは苦悶する。
地味に右の脇腹に打撃が染みる。
振動が、辛い。
脚を取りたい。
アキラの腕は届かない。
苦しい。
でも、やらなきゃ。
下からアキラも拳を突き上げる。
撫でるような攻撃だ。
ファングの腹筋は硬かった。
ファングも耐えていた。
左腕だけで打ち付ける打撃。
こんな攻撃では何も満足は得られない。
これはただの準備だ。
もう一度しっかり殴る。
そのために、やってきたんじゃないか。
そのために、琴子はファングになったんじゃないか。
中学二年の秋にでもなると、琴子にとっては見慣れた光景だった。
生徒指導室。
そこに構えるしかめっ面の教師。
ケンカをしたのだ。
クラスメートをぶちのめした。
理由はある。
休み時間、校庭に出た。教室に戻ってきたら、自分含め三人の生徒の机に落書きをされていた。自分以外の二人は泣いていた。琴子は驚くだけだったが、それを見てニヤついてる奴らがいた。
だから殴った。
五人ほど、琴子に向かってきたが全員に三発ずつはお見舞いした。自分自身も多少は殴られたが、痛くはなかった。
今日だけの話じゃない。
気に入らない奴は殴ってきた。
言葉はうまく伝わらないが、痛みはダイレクトに伝わる。
琴子はそう思っていたし、だから実行もした。
嫌な事されても、何も出来ない子もいる。
代わりに殴ってやった。
結果、生徒指導室を見慣れるようになった。
「お前はなぁ……。」
担任のため息が聞こえる。
その言い分はこうだ。
いじめがあったら、言葉でまず言え。
自分にも相談しろ。
暴力は良くない。
「……。」
理解できないわけじゃない。
どう応えたものやら。
ん〜……。
「先生、あいつら言葉で言ってもわからないっすよ。あと、相談してる時間もないっす。」
「人間だから、話せば分かるよ。……時間がないってのは?」
「ムカついたらすぐ殴らないと。」
はぁ、と深いため息が聞こえた。
「気付いてないだろ?」
「なんすか?」
「お前さ、笑ってるんだよ、人を殴ってるとき。」
「え?」
本当はケンカをしたいだけ。
そう指摘されると、そうじゃないと否定したくなる。
琴子は何もしない努力を始めた。
また、落書きがあった。
ただ、机を取り替えた。
上履きを隠された。
学校からスリッパを借りた。
教科書を捨てられた。
これは、ま、いいか。
周りから不気味がられていた。
男みたいな言葉遣いだし、男みたいな髪型だし。小学校の時はこれで、何にも言われなかったんだけど。
確かに、粗暴な面がないとは言えない。
だが、心外だった。
自分がケンカ好きなど。
わたしは常に正当防衛をしてきただけだ。
ところで、この気持ちは何だろう。
暴れたい。
いやいや……。
体育後の机の交換が習慣になりつつある。教室を離れる授業の度に、琴子の机には落書きがされていた。
使われていない教室に放置してある机をとりに行く。そのうち、変える机もなくなるんじゃないかとも思う。
そんな時、後ろから声をかけられた。
「キモイ。」
意識はしていなかった。
机を放った。
拳が、言葉の主の顔面を捉えていた。
歓喜が、琴子の身体を駆け巡った。
――ああっ!
殴りつける。
その度に、心が満たされる。
久々に生徒指導室に来た気がする。
でも見慣れた光景はそのままだった。
「先生、やっぱ、殴るの好きみたいっす。」
琴子は担任にそう認めた。担任はがっくりと肩を落とした。
「しょうがないよなぁ、そればっかりは。」
そして、首を振る。
「やばいっすよね、自分。」
琴子はうつむいて呟く。
「ムカついてたのは、あいつらのせいだけじゃなかったんだなぁ。」
両手をぎゅっと握る。
「我慢しててムカついてたんすよ。」
肩を叩かれた。
顔を上げると担任が苦笑いしていた。
「こういう熱血教師みたいなことは嫌いなんだが。」
日曜日、合法的に殴れる場所、ボクシングジムを紹介してもらった。
琴子は安堵した。
わたしはちゃんと生きられる。ただの暴力女ではないのだ。
先生にお礼を言った。
やさしい笑顔で返された。
一週間後、先生は学校を辞めた。
琴子は自分のせいだと思った。
でも、調子は悪くない。
いい感じだ。
ボクシングジムで汗を流す日々が始まった。
サンドバックを叩いてるとき、至福だった。
繰り替えしこみ上げてくる衝動を、その場で解消し続ける。
ミット打ちも好きだった。
リズムに乗ると快感だった。
「いいよ、そう、そこからワンツー!」
殴って褒めてくれる人がいる。それが琴子には嬉しかった。
しかし、いつまでたってもスパーも実戦も出来なかった。
女子ボクシングはマイナースポーツ。
アマチュアの大会で中学生が出場できるものなどなかった。
琴子は人を殴りたくなっていった。
一年が経とうとしていたころ、練習を見に来る人で見知らぬ中年が現れるようになった。皮肉な笑みが顔に張り付いているような男だった。
男の名前は森口といった。
ある日、コーチと一言二言話すと、こちらを向いた。
「よぉ、あんた人を殴りたいんだろ?」
「はい。」
ファングはあっさりと応えた。森口という男は苦笑した。
「あぶねぇ女だな。」
「危なくないですよ。」
ファングは真顔だった。
殴ってもいい世界があって、そこでなら生きていける。自分の欲求を正しく理解してくれる世界があると分かった今、ファングは自分が危ないとは思わなかった。
「殴るって事は、殴られることも覚悟しなくちゃいけねぇ。ボクシングじゃな。」
森口の言葉に頷く。
「だが、あんたはなかなか試合をさせてもらえない。」
「はい。」
また、頷く。
「もっと試合を組んでくれる可能性があるところを俺は知ってる。だが……。」
森口の笑みは挑戦的だった。
「そこでは殴られる覚悟どころか、蹴られたり、腕を折られたり、首を絞められたりされる覚悟がないと、殴らせてもらえない。」
ふざけんな、とファングは思った。続く言葉が想像できたからだ。
「それでもやるか?」
「いいですね。」
あえて挑戦的に応えた。
「痛いぜ、蹴られたり、折られたりは。」
森口の笑みは絶えなかった。
その通りだ、痛いよ。
ファングは右腕にズキズキとした痛みを感じ続ける。
タックルを潰したまま、左をがむしゃらに叩く。
叩きながら思う。
こうじゃない、これじゃ、誰も褒めてくれない。
「スタンド!」
レフェリーの声にスタンドで試合が再開される。
離れたときにアキラを見る。
しんどそうだ。
スタミナは自分のほうが残っている。
距離をとって、ちゃんと殴ろう。
褒めてもらえるように。
アキラは呼吸を確保する。
マウスピースで呼吸が苦しい。
もう一度、噛みしめる。
タックルは読まれている。
打撃で勝負するのでは勝ち目が無い。
どうする?
打撃を浴びてでも密着するしかないのだが。
左ジャブが見えない。
速い。
マットを踏みしめて、前へ。
ファングは徐々に遠のく。
距離を詰めなければ。
やっぱり呼吸が苦しい。
左ジャブのフェイントからマットを蹴る。
潜り込んだが、やはり潰される。
ファングはすっかりタックルに対応していた。
こんなに対応出来るのに、何で最初はテイクダウンできたんだろう?
自分のスピードが思いのほか落ちているのだろうか。
きっちり潰されて、時間が過ぎる。
スタンド再開。
もう時間がない。
ファングが笑っている。
歯の代わりに白とオレンジのマウスピースが見える。
来なよ。
そう語ってる。
じゃあ、いくよ。
何度でも。
負けない。
今度は倒すから。
辛い、でも楽しいかも。
アキラは、自分もまた笑みを浮かべているのに気付かなかった。
ファングは悔やんだ。
最初からこれが出来ていればな。
だが、仕方ないことだ。
今、ちゃんとタックルに対してディフェンスが出来ている。
だからいいじゃないか。
さあ、来い。
相手を見る。
笑ってる。
いくよ、と言ってる。
いつでもいいさ。
右腕が痛む。
フィニッシュブローの一発だけだ。
残弾一発、心をこめて。
左のジャブ。右のローキック。
相手の膝が落ちる。
効いてる。
迫って、左でボディを打つ。
連打。
アキラの動きが止まる。
お膳立ては出来たか。
アキラはファングの打撃に対応できなかった。
打たれるままになっていく。
もう、タックルにいけないのか。
いや、いく。
さっき、そう言ったしね。
「アキラ! こだわらないで! 大丈夫!」
麻衣の声が聞こえる。
「やっちゃえ! やりかえして!」
そうだ、自分も殴る。
「いくよ! 左から!」
付け焼刃で練習した、ジャブからのワンツーを打ち込む。
ファングは軽く避ける。
逆に左ジャブをもらう。
シャープな一撃。
「パンチだけが打撃じゃないよ!」
また、聞こえた。
そうだ、蹴ってもいいんだ。
総合格闘技なのだから。
アキラは左脚で蹴りを放つ。
軌道はミドルキックだった。
ファングの右腕に衝撃が走った。
マウスピースを吐き出しそうになる。
堪えた、右の肘のダメージ。
ミドルキックが見事に当たった。
アキラを見る。
だが、見えたのは拳だった。
パンッ!と弾かれ、ファングは後退する。
なんだよ、来ないのかよ。
痛いな。
足を踏ん張る。
これ以上は下がらない!
リング下で森口は舌打ちをしていた。
向こうのセコンドの指示は正しかった。
いくらファングがスタンドの打撃が上手くても、片手だけで凌ぐのは難しい。
見透かされている。
その上、キックの指示。ファングの右腕にうまいこと当たってしまった。
「椿アリーナで会った時から、なんかある姉ちゃんだと思ってたが……。」
森口は口の端から笑みを消して叫んだ。
「ファング! いいぞ! そこで踏ん張れ! 下がるな!」
立ち止まるファングをアキラは追撃する!
ミドルは腕でガードされたと思った。
だが、そうか、やっぱりさっきの腕ひしぎ十字固めは効いていたのだ。
ファングの表情が歪んでいた。
ごめんね。
でもわたしも、しんどくて。
だから、蹴る。
ここで決める。
前に出る足はおぼつかない。
でも出る!
左から、ワンツーでパンチを繰り出す!
右のパンチにファングが左をかぶらせてくる。
そう思い、最初から引く姿勢で打つ。
頭上をファングの拳が通る。
休むな、次は左足だ!
両者の殴り合いが、場内をヒートアップさせていた。
塚の拳にも汗が握られていた。
さっき、二人は『目覚めた』と思った。
だが、どちらかは潰れてしまうんじゃないか?
もしかしたら、二人とも潰れてしまうんじゃないか?
塚には殴り合いが潰しあいに見えた。
オレはなんて事を彼女達に望んでしまったんだろう。
そのくせ、二人の少女は、笑顔ときてる。
冷たい声が響く。
「何がジョシカクの未来だ。」
品田の声だ。
「止めないと、ここで潰れるぞ。」
技術のない者同士の戦いは、ある意味でトップの選手同士の激しい戦いより危険な場合がある。目や急所などの部位に不意に攻撃があたることもあるのだ。
ましてや、ファングは先ほどの一連の攻防により右腕にダメージがあり、右のガードが効かない状態だ。アキラの打撃が素人のものであるが故に拳の軌道が不安定で、当たってはいけない場所に打撃があたる可能性がある。
「どうやって、止めるんだ?」
塚がにやけた顔で品田に問う。
確かに品田の言う通りかもしれない。二人を戦わせ続けるのは危険かもしれない。
だが、この『熱』をどうやって止めるのか。それが出来ないこともまた、品田は知っているはずだ。
だから問うた。
品田は不快な顔を隠さなかった。リングの激戦を見る。塚はため息を漏らして言った。
「意地悪を言ってすまなかったな。それに、俺も間違っていたよ。前言撤回だ。」
「なんだ?」
「ジョシカクの未来なんてあいつらには背負えない。」
塚は言葉とは裏腹に会心の笑顔だった。
「ここで彼女達はジョシカクの『今』を背負ってるんだもんよ!」
ファングの左の打撃は鋭く、その連続で繰り出される様は、試合が終盤に差し掛かっているとは思えないものだった。かすめるだけで、衝撃が走る。
アキラは押されながらも、なんとか不恰好なローキック、左右のワンツーを繰り出す。だが、決定的にファングを揺さぶることは出来ない。
所詮は素人の打撃なのだ。
アキラが勝つにはタックルしかないと、観客達にも理解できた。
だが、アキラにそのそぶりは見えない。
ファングの打撃に、時に身体が反り返る。
だが、すぐに拳を出し、反撃を試みる。
アキラの左の打撃が、たまにファングに当たっている様に見える。
ファングの右腕は大分下がってきていた。
徐々に力が入らなくなっているのかもしれない。
追い討ちをかけていく。
左の打撃を中心に、当てていく。
少しずつ、右回りに動く。
「そうそう、いいポジションだよ、アキラ!」
麻衣は分かっていたに違いない。打撃でも今なら五分だ。
スタミナなら、負けないと思う。春から格闘技を始めて、夏ぐらいからは毎日ランニングだけはしてきた。
大晦日は朝のランニングだけでトレーニングは終了した。
昼間から母を手伝い、今晩の食事の準備をする。
ご馳走である。
このまま、おせち料理として正月は散々食べることになるだろう。
兄スギゾーも父と共に正月準備をしている。
たいしたことではない。
片付けと、簡単な正月飾りをするだけだ。
アキラが物心ついたときには、年越しはいつもこうだった。
年が明けたら、父母双方の実家にあいさつに行く。
そういう年末年始だ。
だが、今年は朝のランニングが加わっているが。
夕方には父もスギゾーものんびりとテレビを見ている。
父はただ、何も考えずに眺めているように見えたが、スギゾーの方はなにやら興奮していた。
格闘技の試合があるらしい。
「今日こそ、長田がプロレス最強を証明してくれるだろ!」
試合開始前の長い特集番組を見ながら話している。
「今年の紅白には誰が出るのかしら? 最近の音楽は分からないわ。」
アキラは母の会話に付き合う。
「お母さん、前に好きだって言ってた、なんだっけ韓国の人。」
「ええと、あの人ね、なんだっけ、かっこいいのよ。」
「あの人出るって」
「えー、出ないでしょう。韓国の人だもの。」
「いや、なんか衛星中継とかで。」
「へぇ、そうなの。名前なんていったっけ? ねえ、お兄ちゃん?」
「韓国の大巨人だろ? チェ・スンファン」
「……なんか違う気がする。」
盛り付けを終えて、ダイニングテーブルにローストビーフを置く。
母の手作りだ。簡単だというが、あきらは自分が作れるようになる日が想像できない。
テレビ画面に目を向けると、炎のCGをバックに筋骨隆々たる男二人がファイティングポーズをとっている。『この後すぐ!』のテロップが目に付く。
スギゾーが唸る。
「引っ張るなぁ」
はやく試合が始まればいいのに。終わるまでスギゾーはうるさいだろう。
あきらはため息をつく。
試合が始まると、スギゾーはもっとうるさかった。
日本人の有名プロレスラーが次世代のチャンピオンと目される柔術ベースのブラジル人と戦っているらしい。
もっとも、あきらはどちらも知らなかった。女子の選手は少しずつ勉強し始めたあきらだが、男子の選手は未だにさっぱり分からない。
知っておいたほうが良いのかなぁ。
「いけ! タックル、タックル! 上をとれ!」
スギゾーはテレビに向かって選手に指図する。
ブラジルの選手は手足が長い。間合いが広いなぁと思う。
プロレスラーのタックルは成功し、ブラジルの選手は両脚で相手の胴をクラッチしてガードポジションをとっている。
そのクラッチが徐々に位置を上げていくのが見えた。
「あ、三角締めだ。」
あきらは思わず呟く。この前、教えてもらった技だ。両脚で首、頚動脈を絞められる技。あの時は苦しかったなぁ。それにしてもブラジルの選手は上手いなぁと思う。まるで麻衣さんみたいだ。
テレビから叫ぶような実況が聞こえる。
「三角ーっ! 長田! いつの間にか嵌ってしまった寝技地獄! 抜けられるか!」
徐々にプロレスラーはまとわりつくブラジル人を浮かすように立ち上がる。
スギゾーがうるさい。
「いけ! パワーボム!」
画面ではプロレスラーがブラジル人を持ち上げ、マットに叩きつけていた。
だが、そこから動きが止まると試合は終了した。
プロレスラーが気を失ったらしい。
「ちくしょー! 後一発叩きつけることができれば……」
スギゾーが叫んでる。
「三角がっちり決まってたし、無理だよ。」
あきらの言葉にスギゾーの動きが止まる。
「お前、なんで三角なんて知ってるんだ?」
「え?」
「いや、お前こういうの興味ないんじゃなかった?」
「べ、別に興味ないけど、テレビで今、言ってたじゃん、三角って。」
一昨日まで練習してましたなんて言わない、言えない。
「あ、紅白に変えないと、見れないよ、あの韓国人。」
話題を変えようとするあきらに、母は何も考えずに乗ってきた。
「そろそろなのかしら? チャンネル変えてよ。」
「チェ・スンファンはメインイベントだから最後だよ。」
「いや、だからそうじゃなくて。」
父だけが、黙っている。
ふと、あきらは思う。
今は秘密でやってる格闘技のことを家族が知ったらどうなるだろう?
やはり反対されるだろうか?
スギゾーはプロレスや格闘技が好きだ。喜ぶかもしれない。
母は心配するかもしれない。自分の娘が決して運動神経が良いわけではないことを知っているし、怪我をすることもあるかもしれないのだ。
父は、どう思うだろう。
視線を向ける。
父は黙っているが嬉しそうにお酒を飲んでいる。
反対されるかな。自分の娘が首絞められたり、殴られたり、叩きつけられたり。
でも、楽しいよ。少なくても、四月よりは。『やりたい』こと、できてるからね。
学校では相変わらずだけど。
昆布巻きを食べる。
食事も前よりおいしくなった気がする。悪くない。
痛い。けど、悪くない。
アキラは痛みを感じながら、全力で拳を打ち込んでいた。
痛みながらパンチを繰り出していると充実感がある。がんばっているなという、充実感が。
蹴りも織り交ぜる。
全力で身体を動かす。
がむしゃらに。
そうか、これがやりたかったんだ。
私の『やりたい』ってこれだったんだ。
麻衣さん、分かりました。
いつも、なんとなく、よく分からないまま、言ってたけど、ここでならこれが出来る。
だから『やりたい』って。
うらやましかったんだ。
テレビで見た、あの試合。
あの人たちは、これをやってたんだ。
でも、今は、自分がやってる!
もう一度、左で蹴る!
ファングは再び、右腕の激痛を感じた。
打撃では自分が上だとしても、片手でこの猛攻をしのぎきるのは辛い。
潮時かもしれない。
右の一発。
アキラの笑顔が見える。
楽しそうだな、おい。
私も楽しむよ、この一発で!
「ブレイク!」
突然の声で試合は中断された。
レフェリーが二人の少女の間に割って入る。リング下の人間を指す。
なんなの?
アキラもファングも「いいところなのに」という顔をし、互いのそれに気付いた。アキラが気まずく視線をそらすと、ファングは苦笑した。
そのファングにレフェリーは指示を飛ばした。
「ドクターチェックだ。」
右腕か。ここで試合終了なんて冗談じゃない。
表情を作り、自分のコーナーに向かう。
リングドクターが腕を見る。
平気なフリを。
そう思ったファングに森口さんから援護射撃がとんだ。
「先生、作戦を台無しにしてくれるなよ。」
森口さんはニヤけた顔のまま、続けた。
「右は使えないフリしてるんだから。」
そうですよね。左手で森口さんに抗議する。
『なんで言っちゃうんですか!』
感謝したい。本当なら止める立場かもしれないのに。気持ちを汲んでくれた。
「やはり、止めたな。」
品田の声に塚は不満そうだ。
残念なことになった。まあ、二人にはまだ先がある。続けていけば決着戦と銘打って再戦させることも出来るだろう。
だが、今日の客席の雰囲気が冷めてしまうのも、もったいない。折角、温まったのに。この試合で弾みがついて、メインまで熱戦が続けば、興行も成功だったのだが。
「初めてになるのかな、一之瀬あきらの一本・KO以外での決着は。」
塚の声に品田は首を振る。
「一応、TKOだろうな。事実上、アキラの一本勝ちだろう。」
確かに、見方によってはそうかもしれない。それでも、不満はたまったままだ。
アキラはニュートラルコーナーに下がって、様子を見る。
やはり、腕十字、極まってたのだ。
麻衣を見る。
「息を整えて、集中集中!」
麻衣が手を叩き、アキラを鼓舞する。
麻衣は笑顔だ。初めて会った時と同じ、柔和な笑顔。そして凛とした雰囲気。今も、それに励まされる。
と、レフェリーがアキラをリング中央に呼び戻した。
アナウンスが試合会場に響く。
「試合続行!」
ファングが右の拳を差し出す。アキラはそれに合わせる。拳と拳がぶつかり、それが二人の合図となった。
再び、乱打戦が始まった!
ファングはホッとしていた。ドクターをだませたとは思っていない。痛みはあるが、重症ではないのかもしれない。とにかく、試合は続く。絶対に負けない。左の打撃を打ち込む。相手の打撃をスウェーでかわす。
アキラも再び、がむしゃらに身体を動かす。もがくように身体を動かしているうちに、一瞬、冷めたと思った身体が再び熱くなる。痛みと充実感が再び訪れる。
アキラはファングの表情が、苦悶から嬉々としたものに変わっていくのを見た。
ああ、ファングさん、あなたもこれを『やりたい』と思ってたんですね!
仲間が、いるんだ!
撃ちます、その笑顔に!
ファングは先ほど打ち損ねた右のタイミングを計っていた。撃ちごろの左ストレートがきたら、決行だ。苦難を乗り越えて待つチャンス。
せーのっ!
アキラの左に、ファングの右の打撃がかぶさった。
クロスカウンター。
素晴らしいタイミングのカウンターだと、見ていたものは思った。
――パンッ
しかし、生まれたのは軽い音だけだった。それを聞けたのも、撃ったファングと受けたアキラだけだった。
ファングの右ストレートはすばらしい軌道を辿っていたが、道半ばに折れた。
こんな、こんなものなのか、わたしの右は。
こんなに弱くなってしまったのか。
こんなので決めようとしていたのか。
虫も殺せない一撃。
こんなので、褒めてもらおうと思ってたのか。
腕が痛い。
――ドンッ!
アキラの左が、効く。
後ろに下がる。
スタンドの打撃じゃ負けないんだろ?
今のザマはなんだ?
ちくしょう。
左ジャブ、右ローキック、機械的に出していく。
肉体が動くままに。
しかし、試合を決める、意思をこめた一撃が打てない。
右に意思をこめることはもう出来ない。
くそ。
でもいい。
倒せばいいんだろう?
左のジャブを放った。
そして、右足がマットを蹴った。
不恰好なタックルが、アキラに決まった。
うそ……。
アキラは倒されていた。
まさかのファングのタックルだった。
いや、落ち着け、下からでも攻撃は出来る。
そういう練習もしてきたじゃない。
ボディにズンズンと衝撃が来る。
密着しての左ボディ。
蓄積されたダメージが、さらにアキラを苦しませた。
ファングの左腕を押さえる。
右腕は使えないのだ。
とにかく左をつかむ。
そのまま、ガードポジションの足を上げて……。
ああ、だめだ。
くっつくきすぎだよ、ファング!
ファングも必死だった。
寝技で決められるとは思わない。
とっさにタックルをしたが、自分は何をしたいんだ。
グラウンドでの顔面への打撃は禁止されている。
では、どうすれば勝てるんだ。
左腕も捕らえられてしまった。
懸命な判断だ。
右腕では攻撃が出来ないのだから。
時間とスタミナだけが減っていく。
三十秒が経った。
スタンドでの再開だ。
さあ、どうする?
簡単なことだ。
どうするも何もない。
もう一度、ファングの右腕を折りに行けばいいのだ。
アキラの戦法はシンプルだ。
しかし、あの構え。
序盤とは違い、テイクダウンは中々取れそうもない。
ファングの左ジャブの嵐は健在だ。
しかし、行かなきゃならない。
ファング、笑ってないよ。
いくよ?
アキラの笑みにファングは気付く。
悪かったな、考え事をしてたんだ。
まだ、結論は出てないけど。
でも、いいぜ、待たなくて。
来いよ。
ちゃんと、受け止めてあげるからさ。
アキラの左ジャブ。
明らかなフェイントからのタックル。
それでも、フェイントにファングは一瞬反応した。
アキラはそれを逃さず、左足に両手を絡ませる。
久々成功の片足タックルだ。
そのまま、テイクダウンした。
また、マットが見える。白いマットは少し汚れていた。血の斑点。ファングは血を流してなかったな。じゃあ、自分の血かな。まあ、どうでもいいか。
ほら、余計なこと考えるから、ガードポジションになっちゃったじゃない。
ファングは自分の思考能力の低下にあきれた。
あんな見え見えのフェイントに引っかかるなんて。
だが、そのあとはしっかり動けていた。
アキラの腰を両脚でしっかりクラッチして離さない。
ギロチンチョークが来ないように警戒もしている。
右腕がズキズキと痛む。
こいつが打てればなぁ、役立たず。
お前の笑顔に応えられるのに。
まてよ。
いや、まだ、右には利用価値がある!
スタンドになったら、やろう。
結論は、でた。もう終わらせる。
ファングは赤コーナーの控え室に入れて嬉しかった。同じジムの先輩にしてチャンピオン、米原凪と同じ控え室だからだ。
春先で外はまだまだ寒かった。ベンチに荷物を置くと上着をその上にかぶせ、着替える前に思わずカチコチに固まった身体をほぐすようにストレッチをしてしまう。
先輩の王座戦ということもあり、森口ジムのメンバーは総動員体制だ。セコンドと応援合わせると三十人近くになる。そんなジムメイトのファングへの期待は一つ。『勝って、弾みをつけろ。』米原の試合の前の露払いだ。ファングも当然納得していた。いい流れを作る。もっとも、米原凪の強さはスパーリングを通して嫌な程知っている。別に自分の試合に関係なく、チャンピオンの座を防衛して見せるだろう。
「ファング、気負い過ぎたらあかんよ。」
米原がやわらかい関西弁でファングを励ます。
「自分の試合を落ち着いてしたら、ええんや。」
米原はいつもマイペースだ。試合でも自分の動きを貫く。ファングはそれがうらやましい。今日はそれを少しでも真似できるだろうか。
そばでバンテージの準備をしていた森口さんがニヤついている。
「それが出来てたら苦労しないわなぁ、ファング。」
仰るとおり。
「がんばります。」
ファングは短く応える。いつもがんばってるつもりだけど。それに戦績を見る限り、今日は勝てない相手じゃない。
「あんまり、がんばんないほうがええよ。」
米原の口調は淡々としている。
「練習で、あれだけがんばったんやし。今日は楽しんだらええ。」
そうか、楽しむか。
「ありがとうございます。」
礼を言うファングに米原が微笑んだ。
茶々を入れたのは森口さんだ。
「なんだ、凪、ガラにもなく緊張しているのか? 今日はまた、ずいぶんとおしゃべりだな。」
確かに今日の先輩は確かにいつもより良くしゃべる。米原は軽く首を振る。
「ファングの試合はドキドキするんよ。」
「他人の試合で緊張してるのかよ。」
米原はにっこり笑った。森口さんはあきれ顔だ。
ファングは毎度のことなので大分慣れてきたが、それでも時に信じられないこともある。このチャンピオンの日常でのおっとりした印象とリング上の獰猛さ。その乖離は二重人格といわれれば信じてしまいそうなほどだ。アマレスでは日本代表クラスの実力者だった米原はそのタックルでグラウンドに持ち込むと、素晴らしいボディコントロールで相手に何もさせず関節技を極めてしまう。そのときの目はまさしく、獲物を狩る獣の目なのだ。だが、米原は練習でもそんな目をしない。試合のときだけだ。ファングはそれをなんともありがたいと思う。
「いつも、ハラハラと心配させて申し訳ないです。」
ファングの応えに、今度はパタパタと手を振り米原は否定する。
「心配はしてへんよ。」
「えーっ、少しはしてくださいよ。」
ファングもおどけてみせる。
「そう? して欲しい?」
「少しは。」
「じゃあ、少し心配しとるよ、ファング。」
「なんか、それも微妙ですね。」
「じゃあ、どうすればいいん?」
森口さんが、手をたたく。
「はいはい、二人ともそろそろ着替えろ。」
「はーい。」
米原が更衣室に向かうのに、ファングも従った。
アキラ達は会場に早めに入っていた。格闘技の世界では新参者のグループである桂木禅心会、桂木源治としては一つの礼儀のつもりだった。
すでに一度、麻衣の試合でこの会場の控え室は知っている。決して広くはないが、椿アリーナのそれよりは広い。
隅のロッカーを借りる。
「ゲンを担いでね。」
麻衣が笑う。
彼女がこの会場の試合で勝ったときと同じロッカーだ。だが、アキラは麻衣がゲン担ぎだとか、運などで勝ったなどとは思わない。椿アリーナでの飛び入り参加の時と同じだった。麻衣はデビューして二試合戦っているが、どれも圧勝だった。
それでも、麻衣の気遣いは嬉しい。
荷物をロッカーに整理する。アキラの試合は第一試合なので、他の選手より早めの準備を始める。スカイブルーのラッシュガードに着替え、軽く腕を回す。
このラッシュガードも半年前にアマチュアの試合に出るために購入した。練習では着ない、試合用だ。いつもより、気が引き締まる気がする。
グローブはまだ着けない。全選手入場しての開幕セレモニーがあるらしい。バンテージを巻いたりするのもその後だ。
ストレッチをして身体をほぐす。
徐々に、他の出場選手も控え室に到着する。あちこちで挨拶が交わされる。
「よろしくおねがいしまーす。」
「今日はがんばれよ。」
「終わったら飯食いに行こうぜ。」
交わされる言葉はさまざまだ。
アキラ達に向かってくる選手もいた。姫香、アマチュアで麻衣に負け、アキラには勝っている選手だ。今日の出場選手には名を連ねてはいない。
「こんにちは。」
姫香は名前と違わず、お姫様のようなルックスだ。顔が小さく童顔なのもあるが、服装も白のレースやピンクを多く使った、いわゆるロリータファッションなのだ。『ブリッコ』と揶揄されることもあるが、実力もついてきている。
麻衣も明るく挨拶を返す。
「今日は応援?」
「タイトルマッチに出る金崎さんはあたしのジムの先輩だから。」
「なるほど」
姫香のプロデビューがまだなのは、アキラも知っている。だから面を合わせては気まずさも感じる。うまく言葉を出せないでいると向こうから声をかけてくる。
「アキラちゃんもわたし達の世代の代表としてがんばってね!」
その言葉に嫉妬は感じられなかった。純粋な激励。姫香はアキラよりは三歳は年上のはずだが、同時期にデビューという意味では同世代という感覚なのだろう。しかし、その精神年齢はぐっと上にアキラは感じた。
「ありがとうございます、がんばります。」
多少声が震えてたかもしれない。ただ、その声に姫香は満足したのか笑顔で立ち去る。姫香はジムの先輩に会釈をして控え室を去っていった。
アキラは激励の言葉がここまで嬉しかったのは初めてだった。今まで『がんばって』という言葉はあらゆる場面で聞いてきた。学校での運動会、合唱会、テスト。高校受験のときも言われた。でも、言われるとどこかに苛立ちが残った。素直になれない。『どうせ、他人事の癖に』って思う。自分でも嫌な女だとは思うけど、否定できない感情があった。
今日は素直にがんばろうと思った。
「応援してくれる人がいてよかった。」
アキラの呟きに、麻衣が応える。
「一之瀬さんの試合見たことがある人は応援したくなるんだよ。」
アキラの目線が麻衣に向く。麻衣は続ける。
「ましてや、姫香さんは一之瀬さんと試合をしたしねぇ。」
意味がよく分からなかった。
「人ががんばってる姿を見ると応援したくなるでしょ? でも応援された側はもっとがんばろうとするんだよね。本当はそのままでいてくださいね、て意味のときもあるんだけど。」
アキラの背中を麻衣がさする。
「まあ、今の場合はこの前みたいにがんばってねってところかな。」
「はい。」
「くれぐれもムリはしないようにね。」
「はい。」
アキラは一つ一つ返事する。麻衣はアキラに全てを教えてくれた。今、ここにいるのはこの人のおかげだと思っていた。だから、全て言うことは聞く。納得できる。
麻衣がアキラに問いかける。
「ねぇ、そうだ。あたしもアキラって呼んでいい?」
「え?」
アキラは麻衣を見る。
「一之瀬さんじゃ呼びにくいでしょ、指示の時。」
ああ、そうか。確かに。
「なんてね、本当は呼んでみたかったんだ、リングネームで。」
「はは。」
麻衣は本名で参戦している。アキラもアマチュア大会では本名で出場していた。それを変えたいと思ったのは相手選手の名前を見たときだ。『ファング』と名乗ってるのを知り、自分も変えようと決めた。かといって、すぐに思いつくこともなく、アキラという本名から苗字を取っただけのリングネームになった。『一之瀬』をとったというのは一人の人間になったような気がしてアキラは嬉しかった。誰も知らない自分がいる。
「親御さんには教えなくて良かったの?」
麻衣の問いにコクリと頷く。
「いいんです。」
「私としては心配なんだけどなぁ。」
麻衣の心配も分かる。格闘技の試合なのだから怪我をする可能性も高い。万が一のこともある。本来は親の了承を取るべきなのだろう。だが、アキラは拒否した。理由は色々ある。反対されそうだから。知られたくないから。ちゃんと変わってから報告したいから。心配して欲しくないから。最後のは嘘かもしれない。だが、本当の理由は分からない。あの時、初めてテレビで見た試合。アレを見ているところさえ、親に知られたくなかった。漠然とした、大きな不安。それがアキラが両親に伝えない真の理由だった。逆を言えば、それがしっかり分かっていれば、ちゃんと話せたかもしれない。
「アキラの意思は尊重するけど、怪我したら報告するからね。私も謝らないと。」
「あ、え、ごめんなさい。」
そうか、周りには迷惑な話のはずだ。
「ま、怪我しなければ問題ないもんね。」
麻衣の笑顔にアキラは励まされる。
「……正直言うと、少し分かる気もするんだよね、アキラの気持ち。」
「……そうですか?」
「反抗するって言うんじゃないけど、見返してやろうというか、なんというか。でも、今はその時じゃない。そう思ってる。」
そうか、そうかもしれない。
「ずっと隠している気はないんでしょ?」
「はい。」
自分が納得できた時、両親には話そう。自分が判断して、やってきたこと。それが間違いではなったことを自分でも確認できた時、その時には。
運営の女性スタッフの人が控え室に入ってくる。
「十分後に開幕の挨拶が始まります。準備、よろしくお願いします。」
はきはきとした声で選手達に準備を促す。アキラは緊張してベンチから立ちあがる。いよいよだ。
「全選手入場!」
男性アナウンスが響く。GAでは必ず試合開始前に全選手でお客さんに挨拶する。
パープル、レッド、ブルーと派手な照明が会場を照らし始めた。ロックミュージックの重低音が響く中、アキラは入り口からリングに向かう。入り口のある会場の南側はスクリーンと選手入場口に使い、客席には人を入れていない。
事前の打ち合わせの通りニュートラルコーナーの近くにいく。左を向くと今日の対戦相手がいた。短く刈り込まれた髪。引き締まった筋肉。凛々しい表情もあいまって、かっこいい男の子にも見える。向こうはこちらを見る気配はない。眼中にないのかな。ファングさんはすでに本戦デビューしてる。きっと自分より実力は上だろう。
アキラは正面を見た。続々と選手が入場してくる。ドキリとする。初めて見た試合に出ていたあの選手。きっかけになった、あの米原凪が最後に入場してきた。そうだ、今日のメインイベントに出場するんだった。テレビで見たときと同じ黒に青のラインの入ったラッシュガードということもあり、アキラは少し興奮した。
米原は入場でお客さんが見ているというのに、眠そうな顔で入場してきた。
その顔のまま正面にピースサイン。正面では携帯で写真を撮る笑みの貼りついた中年男性。森口だった。試合が迫るのに呑気な光景だが、常連の客には見慣れた光景らしく、「またやってるよ」と指差す客もいる。
そんな光景を見ながらアキラは思い出していた。
そういえば、ファングさん森口ジムだった。よく考えてみたら、チャンピオンと練習してるのだろうから、相当強いんじゃ……。
いや、それは分かっていたことだ。
アキラは思いなおす。少なくとも今、このリング上で最弱は自分だ。それは前から分かっていたことじゃないか。場違いかもしれない。でもここまで来てしまった。もう後には引けない。
「選手を代表して、米原凪より挨拶をさせていただきます!」
心地よい声の男性のアナウンスと共に米原にマイクが渡される。
「えー、こんばんは。本日は観戦に来ていただき、ありがとうございます。」
ちょっと、間が空く。言うことを忘れたのか、考えているのか。
「えーと、選手一同、一生懸命にファイトするので最後まで……、あ、セミまででもいいですよ、見てってください。」
「えー!」
客席の一部からツッコミとも取れる歓声が沸く。米原はそちらに笑顔で手を振ると、四方に礼をする。他の選手達もそれに習うと、アキラも慌てて真似をする。
「選手退場!」
再びアナウンスが流れ、スタッフがあけてくれたロープの間からアキラはリングを降りる。
アキラの試合は目前に迫っていた。すぐにこのリングに上ることだろう。三十分後には決着もついているはずだ。勝っているだろうか、負けているだろうか。
控え室に戻る前、アキラはもう一度リングを見つめた。
「スタンド!」
レフェリーの声。このフレーズ、何度も聞いたなとアキラは思う。
それだけ失敗してきた。
次はもっと集中しよう。
左のジャブを潜り抜け、タックルしたら、一気にガードを抜けてサイドに回るつもりでいないとダメだ。出来ないはずはない。事実、一ラウンド終了前にはそういう風に形を作れた。
立ち上がろうとする。疲れている分、身体は重い。特に左足の踏ん張りが利かない。
蓄積されたローキックのダメージだ。身体はボロボロだった。
人間の身体はこんなに短時間でボロボロになれるんだなぁ。
ふらりと立ち上がり、ファングを見る。
やれやれとファングは立ち上がる。寝技で下になるのはかなりスタミナを消耗する。もうなりたくない。いや、なる前に終わらせる。
リングの中央に移動してアキラを見た。疲れた顔をしている。それでも笑顔なのな、お前。
微笑返し。
何やってるんだか、自分も。
ファイティングポーズをとる。
「ファイト!」
レフェリーの声が聞こえる。分かってるよ、止められても戦うよ。
重い身体でアキラはとにかく自分のやることに集中する。
パンチをかいくぐって、タックル。
来た、左!
だが、前には動けない。自分も左に周る。パンチから逃げるが、せめて後ろには下がらないように。
だめじゃない、いかないと。
自分を叱咤する。
左のジャブ。浅めに撃って。
――ダンッ!
マットを蹴りだして、ファングの左足に取り付く。
重い。
再びタックルは切られそうになる。
足をかけろ、と柔道の内股のように、ファングの右足を刈る。
倒れない。
ファングの重さがアキラの背中に集中する。
潰れる。
足を離し距離をとろうとすると、あっさりファングはアキラを解放した。
立ち技の打撃が望みのファングには寝技にこだわる理由はない。それにしても割り切った戦い方だ。
仕切りなおしと、アキラは再び構える。
ファングの構えは厄介だ。
腰がしっかり落ちている。
序盤にテイクダウンできたのはファングがあの構えじゃなかったからだ。
だが、考えてるだけでも仕方がない。
カンカン、と乾いたゴングが鳴る。
残り一分の合図である。
再び、アキラは前進した。
ファングはタイミングがつかめず、後悔した。
受け止めるだけじゃダメだ。素早く、突き放す。
相手の思考が追いつかないタイミングでないと、見破られる。
今ならできる。
残された時間は少ない、来い!
よし、来た!
両手でアキラを突き放す。
右腕がズキリと痛い。
だが、アキラはバランスを崩している。
打てない右。
一度は諦めた意思を込めよう。
倒す意思を!
力を込めろ!
発射!
アキラはバランスを崩し、バックステップで体制を整えようとした。瞬間、ファングの右拳を見た。
右ストレートが来る!
握りこんだ拳が向かってきていた。
すぐに逆に周り込む。
間に合わないと思った時、拳は来なかった。
フェイント。
そうだ、ファングは右はもう打てないはずじゃない。
そう思ったときにはもう遅かった。
動きが、止まる。
――ガッ!
非日常の音が弾けた。
ファングの勝ち名乗りは、上がらない右手ではなく、左手を上げてのものだった。
先程、アキラの顎を打ちぬいた左。
「ただいまの試合、二ラウンド四分四十八秒、ファング選手のKO勝ちです!」
場内アナウンスがファングの耳に届く。残り十二秒だったのか。ほぼ、フルラウンド戦ったのだから、それは疲れもするはずだ。ほぼ、ノンストップで動き続けてたしなぁ。
意識なく倒れているアキラを介抱するセコンドに挨拶に行く。
アキラのセコンドの女性は優しい笑顔だった。
ああ、この人も選手だったっけ。
そのうち戦うのかな。
「いい試合だったね、ありがとう。」
彼女のその言葉に、頭を下げる。
右肘に冷たい感触。
森口さんが氷嚢を当てていた。
「無理しやがって、バカヤロウ。」
皮肉めいた笑顔じゃない、嬉しそうに笑う森口さんを見て、ファングも笑った。
医務室でアキラは意識を取り戻すと、麻衣の顔が目の前にあった。
麻衣が抱きしめてきた。
「おつかれさま」
耳元で聞こえた。何がなんだか分からない。体中が痛い。
「よくがんばったよ。」
そうか私は試合をしていたんだ。プロで初めての試合。ファングさんと一生懸命に戦った。ファングさん、楽しそうに笑ってたな。腕十字固め、極まってたのに向こうは立ち上がってきて。全力で殴り合って。
テイクダウン、練習どおり出来て良かった。最後の方は出来なくなってきてたけど。あれ、最後はどうなったんだっけ?
麻衣が、より強く抱きしめてきた。
試合に負けた事実と麻衣の優しさを感じると、アキラは号泣した。
外の雨はやんでいた。ひんやりとした夜の空気が、観客達の熱気を静かに冷まそうとしていた。「最初から最後まで、今日の興行はアタリだったね」と客達の感想が聞かれた。
その中に混じって、痣だらけの顔になったアキラは、麻衣と一緒に会場を出ていた。
左のまぶたの上には絆創膏が貼ってある。顔の腫れは大分治まった気がする。処置が早かったのだろう。痣はどうするか? 前髪とかで上手くごまかしても親には突っ込まれるに違いない。帰り道は言い訳を考えながらになりそうだ。
第一試合だったアキラの身体はとうに冷めており、春の夜は寒く感じた。
アキラの目に右腕を釣った、短髪の少女が映った。
「やあ。」
ファングが挨拶と共に近づく。
「ど、どうも」
ファングはアキラの赤く腫れた目を見た。
「楽しかったよ。」
ファングの一言でアキラの顔が笑顔になる。
「はい。」
「それに褒められた。」
「?」
「最後の右のフェイントからの左フックは、良かったってね。」
ファングの勝ち誇ったような笑顔にアキラの表情が曇る。
「でも、スゲー痛かった!」
ファングは苦笑いと共に右腕を軽く上げる。
「あ、ごめんなさい。」
「謝るなよ。」
アキラの言葉にファングの苦笑いが強くなる。
「だから、おあいこな。」
「え?」
驚きの表情を浮かべるアキラにファングは左拳でファイティングポーズをとり、言った。
「また、やろう。」
アキラは嬉しかった。
笑顔で頷いたアキラを見て、じゃあな、とファングは去って言った。
麻衣に優しく背中を押され、一之瀬あきらは帰途に着いた。
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