1日目は私は叫び続けていたそうだ。
実際、病院中からクレームがついたらしい。
ナースコールがやまなかったとか。
「保護室がうるさくて眠れません」と。
本人「記憶にございません」
でも1日目、2日目と、薄れていく意識の中、鮮明に「泳げ!たいやきくん」のメロディーが流れ続けていたのは覚えている。
どんなにどんなにもがいても〜
針が喉から取れないよ〜〜♪
歌っては涙したものだ。
本当に精神力が弱まると、死んでしまうと思ったほど、極限状態に達した。
1日目の薬が効いている時のほうが楽で、2日目になるとA先生は、K先生とも連絡がつき、自分の下した「性格から来るもの」という持論も曲げたみたいで、「この人は本当に発達障害だ」とどこを見て確信したのかは分からないけど、「K先生と同じような処方で行きますね」と説明してくれた割には、K先生の処方していた3割にも満たない薬の量で、私は体から薬という毒素が抜けていくのを体感したのである。
痙攣が終始止まらず、顔の筋肉がゆがんでいく。
きっと鏡では見れない顔になっていたと思う。
顔がどんどんゆがんでいく。
口がゆがんでいくと、自然に舌を噛み千切ってしまう体制になる。
意識していないのに、血の味を感じて怖くなる。
「死んじゃう!!」と思って、助けを求めるけど、2日目となっていたので、叫びすぎて声が全く出無くなっていた。
私が筆談できることも伝わらない。
なんとか「もうダメ・・・」と言うと「ん?おしっこかな?出てないねぇ。出たら教えてね」と頼みの綱も切れてしまった。
だから声が出ないんだって!!
看護師さんからしてみれば、1日目に騒ぎまくってた患者さんなので、叫ばなくなって落ち着いたと思ったらしい。
でも実際には、私は2日目の方が、ずっとずっと辛かった。
カチカチ・・・という秒針の音が、病室に鳴り響く。
この部屋は広いなぁ。
でも私はここで死ぬのかな。
明日、新聞に載るのかな?
なんて題材にされるんだろう?
「発達障害者、亡くなる・・・かなぁ・・・」
どん底まで落ち込んでは、痙攣がピークに達し、もうダメだ!!と思ったとき、ゴボゴボ・・・と吐いてしまう。
苦しい。
吐いているのに、誰も来てくれない。
助けを呼ぶ声が出ない。
拘束されているので、ナースコールが押せない。
ヨダレもひどく、横を向いていたので、肩がひんやりしてきた。
吐いたもので余計不快になる。
こんなに吐くんだったら、水飲みであんなに水を飲まなければ良かった。
3時を回った頃、薬が体から抜けて行き、体が楽になってきたのを感じた。
眠れるかも・・・と思った。
でも目は閉じられなかった。
監視カメラがついていたらしく、夜勤で交代した看護師さんが見回りに来た。
やっと吐いてしまったことが伝わった。
「あぁ、これは可哀相だねぇ。でも一人でシーツ交換出来ないから、夜のうちはタオル当てとくね。着替えだけはしようか、気持ち悪いもんね」と言ってくれた。
副主任と書いてあるその人が、ナイチンゲールに見えた。
それにナースコールを延長コードでつないで、手の平に持たせてくれた。
「何かあったら呼んでね。何か薬出てないか見てくるね」と言ってくれた。
それだけで安心してしまって、ウトウトしてきた。
戻ってきたその副主任は、「次の薬は、点滴になってるけど、どうする?もう3時だもんね。この様子なら、少し体休まりそうだから、朝まで待とうか」と言われて、私も点滴は嫌だったので、そうすることにした。
泳げ!たいやきくんは、何周したことか・・・。
次の日は、お風呂日だった。
当然!!と言わんばかりに「入る意思」を示した。
でも保護室の人は、1畳ばかりのスペースのシャワーを浴びるだけだった。
しかも週に2回のみ。
それでも満足と思ったのだけど、私の体は自由ではなかった。
自分で服も脱げないし、「顔を洗ってみようか」と言われても、手が顔に持っていけない。
自分でもビックリ。
「ゆこたん、今日はやめておきましょう」の言葉に、すごくガッカリした。
A先生の診察は、その日を逃すと4日間くらい間が空いてしまう。
でもその日、1回目の診察では「K先生の所に戻る。K先生は来週の頭には入院できるって言ってた!!」と言っていたのに(実際、私が110番した時、ママがK先生に電話をしてくれて、翌週入院できると言う話も聞いていたし、来てくれればすぐに診察をするとも言ってくれたそうだ)2回目にA先生が来た時は、自分が受け入れなければいけない現状に打ちのめされて、リセットボタンを探しまくり、部屋の中を何時間もかけて1周回った。
雲の上にいるような感覚だった。
途中看護師さんが、おやつを持ってきたけど、振り向きもしなかった。
A先生は「あら、お話できなくなっちゃった?じゃあ、私から話しますね。今日はこれで私は帰ります。月曜日まで来ません(その日は木曜日だった)。あなたが落ち着いている所を見せてくれれば、拘束は外れて行きます。でも騒いだり、自分を傷つけるようなことがあったら、また拘束を行います。私たちは出来る限り拘束はしたくないんです。協力して下さいね」
その時、叫び声も上げられなくなっていたので、私は1時間限定で拘束が外されていたので。
後から聞いた話だと、その日の夜勤に、私の担当ナースとなる男の看護師さんが来ていたのだけど、私が男性に対して怯える態度を取っていて、一部の女性の看護師さんにしか反応しないので、自分は遠くから見守っていることにしたとか。
2日目に初めて見せてもらった「措置入院に関するお知らせ」
事務的なことが書いてあった。
通信の自由だとか・・・
ん?むむ?通信の自由?
私はその紙を熟読した。
相手の隙を狙うこと、これしか考えられなかった。
信頼関係が確立できていなかったのだから。
そして3日目、多少声が出るようになると、師長さんに訴えた。
「手紙は自由に書いていいんですよね?」
うろたえるように「はい、いいですよ」と言って、売店にお手紙セットを注文してくれた。
1時間おきにナースコールして「まだですか?」と聞いた。
注文してから、手元にお手紙セットが届くまで、半日かかった。
でもこの「通信の自由」で、束縛から逃れられた気になった。
確かにその日から、私は目覚しく快復していった。
従順になり、拘束も3日目には完全に取れた。
手元に何もないので、病院案内を持ってきてと頼んだ。
すぐに持って来てくれた。
なるほど、急性期閉鎖病棟ね。
ここから出ると、向こう側には一般病棟があるのか。
知恵もついてきた。
食欲も出てきた。
でも凹んだお腹を頼もしく思っていたので、食欲が戻ってしまうのはなんだか悲しかった。
あれほど、苦戦してS先生と取り組んでいたトイレの課題は、大きな室内にオープンに設置してあるトイレのお陰で、怖がらずにしょっちゅう座ることが出来、余り失敗もなかった。
後から色々聞かれたけど、トイレのことは、一言では説明つかないほど、心理的に難しいことを話したら、脊椎の障害のためと割り切ってくれて、「汚れたら教えて下さいね」と言って、実際に「漏らしちゃった」と言うと、すぐに「はーい」と言って、替えのおむつを手渡してくれた。
「どうして?」とか言われなかったのが、安心できた。
実際、病院中からクレームがついたらしい。
ナースコールがやまなかったとか。
「保護室がうるさくて眠れません」と。
本人「記憶にございません」
でも1日目、2日目と、薄れていく意識の中、鮮明に「泳げ!たいやきくん」のメロディーが流れ続けていたのは覚えている。
どんなにどんなにもがいても〜
針が喉から取れないよ〜〜♪
歌っては涙したものだ。
本当に精神力が弱まると、死んでしまうと思ったほど、極限状態に達した。
1日目の薬が効いている時のほうが楽で、2日目になるとA先生は、K先生とも連絡がつき、自分の下した「性格から来るもの」という持論も曲げたみたいで、「この人は本当に発達障害だ」とどこを見て確信したのかは分からないけど、「K先生と同じような処方で行きますね」と説明してくれた割には、K先生の処方していた3割にも満たない薬の量で、私は体から薬という毒素が抜けていくのを体感したのである。
痙攣が終始止まらず、顔の筋肉がゆがんでいく。
きっと鏡では見れない顔になっていたと思う。
顔がどんどんゆがんでいく。
口がゆがんでいくと、自然に舌を噛み千切ってしまう体制になる。
意識していないのに、血の味を感じて怖くなる。
「死んじゃう!!」と思って、助けを求めるけど、2日目となっていたので、叫びすぎて声が全く出無くなっていた。
私が筆談できることも伝わらない。
なんとか「もうダメ・・・」と言うと「ん?おしっこかな?出てないねぇ。出たら教えてね」と頼みの綱も切れてしまった。
だから声が出ないんだって!!
看護師さんからしてみれば、1日目に騒ぎまくってた患者さんなので、叫ばなくなって落ち着いたと思ったらしい。
でも実際には、私は2日目の方が、ずっとずっと辛かった。
カチカチ・・・という秒針の音が、病室に鳴り響く。
この部屋は広いなぁ。
でも私はここで死ぬのかな。
明日、新聞に載るのかな?
なんて題材にされるんだろう?
「発達障害者、亡くなる・・・かなぁ・・・」
どん底まで落ち込んでは、痙攣がピークに達し、もうダメだ!!と思ったとき、ゴボゴボ・・・と吐いてしまう。
苦しい。
吐いているのに、誰も来てくれない。
助けを呼ぶ声が出ない。
拘束されているので、ナースコールが押せない。
ヨダレもひどく、横を向いていたので、肩がひんやりしてきた。
吐いたもので余計不快になる。
こんなに吐くんだったら、水飲みであんなに水を飲まなければ良かった。
3時を回った頃、薬が体から抜けて行き、体が楽になってきたのを感じた。
眠れるかも・・・と思った。
でも目は閉じられなかった。
監視カメラがついていたらしく、夜勤で交代した看護師さんが見回りに来た。
やっと吐いてしまったことが伝わった。
「あぁ、これは可哀相だねぇ。でも一人でシーツ交換出来ないから、夜のうちはタオル当てとくね。着替えだけはしようか、気持ち悪いもんね」と言ってくれた。
副主任と書いてあるその人が、ナイチンゲールに見えた。
それにナースコールを延長コードでつないで、手の平に持たせてくれた。
「何かあったら呼んでね。何か薬出てないか見てくるね」と言ってくれた。
それだけで安心してしまって、ウトウトしてきた。
戻ってきたその副主任は、「次の薬は、点滴になってるけど、どうする?もう3時だもんね。この様子なら、少し体休まりそうだから、朝まで待とうか」と言われて、私も点滴は嫌だったので、そうすることにした。
泳げ!たいやきくんは、何周したことか・・・。
次の日は、お風呂日だった。
当然!!と言わんばかりに「入る意思」を示した。
でも保護室の人は、1畳ばかりのスペースのシャワーを浴びるだけだった。
しかも週に2回のみ。
それでも満足と思ったのだけど、私の体は自由ではなかった。
自分で服も脱げないし、「顔を洗ってみようか」と言われても、手が顔に持っていけない。
自分でもビックリ。
「ゆこたん、今日はやめておきましょう」の言葉に、すごくガッカリした。
A先生の診察は、その日を逃すと4日間くらい間が空いてしまう。
でもその日、1回目の診察では「K先生の所に戻る。K先生は来週の頭には入院できるって言ってた!!」と言っていたのに(実際、私が110番した時、ママがK先生に電話をしてくれて、翌週入院できると言う話も聞いていたし、来てくれればすぐに診察をするとも言ってくれたそうだ)2回目にA先生が来た時は、自分が受け入れなければいけない現状に打ちのめされて、リセットボタンを探しまくり、部屋の中を何時間もかけて1周回った。
雲の上にいるような感覚だった。
途中看護師さんが、おやつを持ってきたけど、振り向きもしなかった。
A先生は「あら、お話できなくなっちゃった?じゃあ、私から話しますね。今日はこれで私は帰ります。月曜日まで来ません(その日は木曜日だった)。あなたが落ち着いている所を見せてくれれば、拘束は外れて行きます。でも騒いだり、自分を傷つけるようなことがあったら、また拘束を行います。私たちは出来る限り拘束はしたくないんです。協力して下さいね」
その時、叫び声も上げられなくなっていたので、私は1時間限定で拘束が外されていたので。
後から聞いた話だと、その日の夜勤に、私の担当ナースとなる男の看護師さんが来ていたのだけど、私が男性に対して怯える態度を取っていて、一部の女性の看護師さんにしか反応しないので、自分は遠くから見守っていることにしたとか。
2日目に初めて見せてもらった「措置入院に関するお知らせ」
事務的なことが書いてあった。
通信の自由だとか・・・
ん?むむ?通信の自由?
私はその紙を熟読した。
相手の隙を狙うこと、これしか考えられなかった。
信頼関係が確立できていなかったのだから。
そして3日目、多少声が出るようになると、師長さんに訴えた。
「手紙は自由に書いていいんですよね?」
うろたえるように「はい、いいですよ」と言って、売店にお手紙セットを注文してくれた。
1時間おきにナースコールして「まだですか?」と聞いた。
注文してから、手元にお手紙セットが届くまで、半日かかった。
でもこの「通信の自由」で、束縛から逃れられた気になった。
確かにその日から、私は目覚しく快復していった。
従順になり、拘束も3日目には完全に取れた。
手元に何もないので、病院案内を持ってきてと頼んだ。
すぐに持って来てくれた。
なるほど、急性期閉鎖病棟ね。
ここから出ると、向こう側には一般病棟があるのか。
知恵もついてきた。
食欲も出てきた。
でも凹んだお腹を頼もしく思っていたので、食欲が戻ってしまうのはなんだか悲しかった。
あれほど、苦戦してS先生と取り組んでいたトイレの課題は、大きな室内にオープンに設置してあるトイレのお陰で、怖がらずにしょっちゅう座ることが出来、余り失敗もなかった。
後から色々聞かれたけど、トイレのことは、一言では説明つかないほど、心理的に難しいことを話したら、脊椎の障害のためと割り切ってくれて、「汚れたら教えて下さいね」と言って、実際に「漏らしちゃった」と言うと、すぐに「はーい」と言って、替えのおむつを手渡してくれた。
「どうして?」とか言われなかったのが、安心できた。