ひとりで嫌いになれないのかしら。
先週から不可解な話の流れを電脳域で見ています。
事の発端は4月19日日曜日、神奈川県のカトリック教会に所属する方が東京都内の或る修道会管轄小教区教会(I 教会としよう)の主日ミサで聖体拝領時に聖体を口で受けようとして対面した司祭に拒まれたことを某SNS内のこの I 教会に関わるコミュニティにトピックスをたてて訴えたことです。すかさず30分未満でレスがつき、そこには司祭が聖体を口で受ける信者を断ることはできず信者は聖体を口で受ける権利が保障されており一司祭の裁定でこれを侵害することができないから、ただちに主任司祭に報告すべきだという勧めが書かれていました。

I 教会は私も知らないわけではない教会であり、学生時代は一週間のうち十日ほどココに入り浸り、昨年春は信者でもないのに主日ミサの中で私の母の名を読み上げて参列者のみなさま方に祈っていただきました。一方、主任司祭に報告を勧めた方は I 教会には関わりのない方であることも知っていました。なぜ I 教会のビジターである二人がこのSNS 内に存在するカトリック・コミュニティでトピックスを立てずにわざわざ I 教会にゆかりあるヒトが集うコミュニティに登録して討論を始めたのかも何だか不思議よね・・・

そんなことを思いつつ、この話題を静観しておりましたら、22日になって、トピックスをたてたご本人からこの神父さまにハンディキャップがあるため口に聖体を乗せるのを躊躇われたことが書かれました。それを私も読んだので これにて一件落着ぅうう かと思った私が甘かった。ヽ(`Д´)ノ マタかい? トピックスの最初で主任司祭に報告するように勧めた方が更に、口でいただくというのが単なる形式ではないことをスペイン人枢機卿のインタビュー記事を例に挙げて知らせ、その上、キリストが手による聖体拝領が各地で大規模に導入されたことに対し、大変に悲しみ苦しんでいる、と断言したのです。
なぜこの方にイエズスさまの感情がわかるのでしょう?
素朴な疑問です。口でのみの聖体拝領がカトリック教会で決まったのは16世紀だったかと思われますので、イエズスさまの帰天から1500年後のことを更に500年後の今、まるでイエズスさまの表情を直接見たかのように表現できるのはなぜでしょう?「悲しみ苦しんでいる」と聞くと、仏蘭西はアルプス山中のラ・サレットに現れた聖母を思い出しますが、イエズスさまもどこかで姿を現して嘆かれたのでしょうか?

ヴぃっくりはこれだけでなく、この論客さんは昨年夏のオーストラリアはシドニーで開催されたワールドユースデイのミサにおいても聖体は口にしか授けられず、手での拝領は禁止されていたと断言しているのです。¢( ・_・) そりゃ、ちがうでしょ? と蛍光灯の私の脳がめずらしく豆電球並みに反応し、KTO でビデオ・アーカイヴを検索してチェックしたら、教皇さまから直接、ご聖体をいただく場合は教皇さまの御前に跪き台が置かれるので、そこに跪き、口で聖体をいただきますが、他の司祭からいただく場合は直立に起立し、手で拝領することもでき、それはしっかりシドニーだけでなく来仏時も訪米時もアフリカ訪問時でもヴァチカンでも同様にそれぞれの記録ビデオ内で認めることができました。どこが禁止なんでしょう?何を証拠に禁止と断言できるのでしょう?不思議です。

時が流れるのは早いもので19日から7日が過ぎ26日、この I 教会であげられたミサの中で、19日に口に聖体を置かれるのを躊躇われた神父さまから聖体拝領前に「私は、口による聖体拝領は全く問題ないと考えている」とまず冒頭で述べられ、ご聖体を誤って床に落としてしまう危険と豚インフルエンザなど疾病の感染についてお話があったそうです。この I 教会コミュニティの 管理者 が偶然にも該当司祭の司式ミサにあずかり、神父さま方がおっしゃったことをコメント欄に掲載したことでこのトピックスは今のところ沈静しています。

そして今、私の耳や目に入ってしまったことはこの件が別の電脳域でも騒がれ同時進行だったということ。毎度書きますが、無知なら罪にならないけれど、知ってしまったからにゃあ、今回の場合は思いやりと臨機応変で各自が動くのが I am Catholic ありましょう。どんなTPOでも 絶対跪いて口で聖体拝領 なんて誰が決めたのでしょう?聖書にそんなシーンはありませんし、教皇B16でさえ「絶対何が何でもそうせよ」と聖俗を威圧したことなんてありません。それをまるで教会や教皇がそうシモジモに強いているかのような話に変わるのは日本國が島国だからでしょうか?十年前なら通じる伝説も今は教皇庁でさえYouTube専門チャンネル http://www.youtube.com/vaticanit を持つくらいですから事実確認は簡単にできます。
それに、I 教会に異議があるなら教会籍を移動してから段取り踏んで改善に努めたらどうなんでしょう?東京はじめ首都圏は教会を選ぶ余裕があるほど存在するのですから、ご自分の希望どおりの教会におみ足運ばれるのがよろしいのでは、と思います。私ならそうします。と書いたところで自分の思い通りの教会なんて世界のどこにあるのでしょう?

で、偶然の一致だと思いますけれど、今週に入って I 教会を管轄する或る修道会(J 会としよう)についての批判が電脳域でいっそう過激になっており、これもまた驚き。電脳域でつとに有名な関東在住の「立派なカトリック信者さま」が関西にお住まいの J 会所属の修道司祭(M 師としよう)についての批判を述べてらっしゃいました http://6019.teacup.com/sdyosefu/bbs/3133。4月28日付でこの方は以下のようなことを電脳上でおっしゃってます。3月の教皇さまのアフリカ訪問時におけるコンドームという語を用いての諸発言について、J 会のM 師が真っ向から反対意見を述べた、と。まあ、ここまでは私もM 師のブログを愛読しておりますので察しが付きますが、そこから先、お目目が @ @ きよっさんになるほどぶったまげました。こうあった。щ(゚Д゚)щ
教皇は、コンドームではエイズを防げないとおっしゃっています。
「純潔教育が必要である」とおっしゃっているのです。
( ̄□ ̄;)エエエエエエエエエ、いつ? どこで?
んなこと、教皇さまは一度もおっしゃっていませんぐゎ。それになぜこの方は
教皇さまが「純潔教育が必要である」とおっしゃっているのです
と、断言できるのです??????
教皇さまは毎度、いつでもどこでも、ヒトが生きていく上において何事にも「愛を忘れてはならない」とおっしゃっているのは誰もが知っていることですけれど、純潔教育ぅ、なにそれ? B16に限らず歴代教皇さまはもちろん、カトリックでは「愛のない性的関係はいけません」という根本があり、M 師だってその点を否定してはいないでしょう。「そこに愛がある」なら、もし子供が結婚より先にできたとしても教会はそれなりに厳しくも愛をもって導いてくれることをご存知の方は多いはずなんですが。逆に「そこに愛がない」から世知辛い社会で諸問題が勃発するというのはカトリックが常に要理でも結婚準備講座でもカトリック系中高の授業でも語っていることです。で、純潔教育って何?そもそも、このアフリカ訪問時の機内での教皇発言 についてはエイズ問題に取り組んでいるカトリック世俗団体 Sant'Egidio サンテジディオ が教皇さまに直にご意見申し上げたことについて教皇さまが賛同の上、代弁していることは教皇さまのご発言全文を見れば明らかですし、アフリカには以前として部族遊牧民がほうぼうにおり、彼らに必ずしも結婚の概念がないことから カトリック宣教にあたって「愛」を教えることだけでもエイズ罹患率が下がっている 事実もあるって私も以前、地元司祭から教えていただいた話を含めて書いたことがあるのですが。「アフリカの人々は教皇さまが言わんとしていることを理解しているのに、欧米人が理解できないと大騒ぎしているのは別の理由があるからだ」と 仏蘭西の一部の識者が指摘していること、私は頷けたりします。アフリカの人々のひとりでも多くが「愛」と「結婚」を知り、愛する人と幸せな家庭を作り、各家庭の平和がつながりますように。

とっころで、きょうび「純潔教育」という言葉ですけれど、調べてみたところカトリックではなく他の某宗教団体で好んで用いられているようです。URLをココには貼りませんが、「純潔教育 カトリック」で検索したら、上のコメントとほぼ同じ意見文を掲載したブログを発見しました。欧州某所のUN記者室から発信しているんですと。そのリンク先が・・・_| ̄|○ やっぱりそうだったのか。私には書けません。

これでは J 会や M 師に異論を唱えるというより、ひとり勝手にカトリックの外のあらぬ方向に飛んで行ってしまっていると言うか、J 会を嫌うにしても、I 教会に不満があるにしても、M 師が気に食わないにしても、おひとりでその感情を昇華することができないのでしょうか?仲間を集めて一緒に同じターゲットを嫌いになりたいのでしょうか?それとも仲間を集めて共にあらぬ方向に向かわれるが真の目的でしょうか?
気をつけましょう、主の平和のうちに
どうか無知による単語の誤使用でありますように。

le 29 avril 2009, Catherine de Sienne


by ma_cocotte | 2009-04-29 02:59 | 『?』なKTOりっくん | Trackback | Comments(69)
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Commented at 2009-04-29 09:46 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by 恵みのガブリエラ at 2009-04-29 09:56 x
ま・ここっと様、ごきげんよう。
26日にバチカン放送で教皇司式のミサが放送されていました。
教皇から拝領する人は跪いていましたが、他の司祭から拝領する人は
立ったままでしたね。

また、今年1月ごろでしたか、カトリック新聞に教会の「新型インフルエンザ対策」についての記事がありました。聖体拝領や入り口の聖水をどうするか、について書かれていたと思います。
(ごめんなさい、内容は詳しく覚えていないです)
Commented by あんとに庵 at 2009-04-29 12:08 x
元発言が判らないのでどういう文脈なのかなんとも言えませんが「純潔教育」ってのは某新興宗教の専門用語ですね。気持ち悪い言い回しだなと思った覚えがあります。

わたくしも野放図な性のあり方批判は( 俗な世界のトンでも事例は多いから)いくらでも出来ますが、他方でコンドームをナニがなんでも禁止みたいな場面が却ってもっと大きな罪を産むことがある場合がありますから、教条的すぎるのも問題だとは思います。

話題となった教皇の言葉の真意は判らないんですが、アフリカの社会構造や経済問題批判、その中で余裕が持てない民衆の心の問題というものが続くような話なんでございましょう。
Commented by ma_cocotte at 2009-04-29 15:01
★ 鍵09H46@290429 さま、伝達事項了解であります!
で、ご心配なさっていることは、私も同じです。教区も国境も越えて、日本語を
読める世界中の普通のカトリック、信者でなくともカトリックを知る方々が
心を痛める内容です。

 >電脳社会において「護教」をうたったり「左傾化」を憂うとうたう
 >サイトは、だんだんカトリック信仰の軸から離れていくように
 >感じます。何というか、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」のカンダタを思い出
 >します。

指導司祭(という語を今のカトリックが使用するのを禁じるとするなら)、
責任司祭がいないことが道から外れていく第一の原因ではないでしょうか。
某SNSでもかつて靖國昇殿を誘うトピックスが立ちましたが、その時も
その行動を認可した責任司祭の存在が論客から問われていました。
在家団体を目指しているのか存じませんが、教皇庁に認めていただくには
責任司祭や司教さまの推薦などが必要ですよね。
「純潔教育」という単語をカトリックの、しかも教皇さまがそれを使われたかの
ごとき断定を一世俗信者が用いられたことには正直、戸惑いを覚えています。
Commented by ma_cocotte at 2009-04-29 15:13
★ 恵みのガブリエラさま、ごきげんよう。
教皇さま司式のごミサも巡礼もインターネットが発達したことで画面を
挟んでも拝見できることが可能になりました。画面で免償がいただけると
ルルドの記念年などは掲載されていたほどです(ええ、本当に?疑うな~!)
で、ヲッチャーの私の凡なつぶやきですが、跪き台を置いたところで
台の作りや設置の仕方でかえって膝下が安定せず、教皇さまといただく
側の方々が苦労なさっていたこともありまして、そういうことを見つけたところで
台を作った方、設置した方のせい、はてはやっぱり第二ヴァチカン公会議のせい
という話になって行きそうで・・・なんかその渦には巻き込まれたくない
ブーフーウーなのでした。

伝染病と信者に関わる問題ですが、昔の仏蘭西のように教会の横に
貧者のためのLa Vieille Charité を復興しましょうか。鳩ぽっぽな
頭巾をお召しの修道女、いえ、ベルナデットも。
Commented by ma_cocotte at 2009-04-29 15:23
★ あんとに庵さま、以下に全文。

ttp://6019.teacup.com/sdyosefu/bbs/3133

まあ、某修道会やそこに所属する修道司祭、ほれ、おたくの元管区長さま
についてボコボコにしたいがために、口から飛び出た話が「教皇さまは
純潔教育が必要とおっしゃっている」という断定です。
この有名な方がどう思い巡らしての発言か存じませんけれど、「純潔」
という単語は実は私の母校のモットーのひとつです。「純潔」は聖母マリア
ですから、私たちは「ならう」にしても「習う」のではなく「倣う」のです。

続くぅ。
Commented by ma_cocotte at 2009-04-29 15:29
★ で、教皇さまの機内での発言ですが、カトリック世俗団体サンテジディオが
教皇さまにご進講した際の引用であることは、教皇さまの発言全文を
見れば明らかです。そもそもこのサンテジディオという団体は第二ヴァチカン
公会議の閉会とほぼ同時に当時の高校生たちが行動に移して作った
団体で、欧州でもイスラム教徒を筆頭に異教徒と共に聖書を読み、
自分の生き方にしみこませる運動を続けています。オプスデイがしばしば
過剰な教条主義で槍玉に上がるけれど、サンテディシオは対局の立場では
ないでしょうか。

教皇さまが訪問されたアフリカ2国ですが、B16はJPIIが訪問できなかった
国を訪問するという計画が前提にあるのに、今回はJPIIが訪問された
国に再びいらした。確認もあったらしいです。宣教の種が確実に芽を
出し始めたからです。かなりのミッションが入って母子教育や青空教室
で日常生活の中から「生活」を教えていますね。子供たちは10~20年後には
家庭を持ちますが、愛をもって家庭を築いてくれるだけでも「変わる」。
そう祈り、確信しているのがカトリックではないのでしょうか?
Commented at 2009-05-01 06:02
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by ma_cocotte at 2009-05-01 15:48
★ 鍵06H02@010509 さま、実はご連絡申し上げようとここ数日
もぢもぢと考えあぐねておりました。気持がまとまらないと申しましょうか、
ホワイトホールを逆から手繰り寄せることがこれほど難しいとは。

I での件も電脳上で分散して騒がれているけれど、出所はひとつというか、
手繰ると同じKWsになるというか。I の主任司祭に訴えろ、とか思いやりを
欠いた教条主義をオップレスする方はR 会管轄教会に所属する方です。
もうひとつの件ですがプチ・ミリンゴな還俗者が絡んでいませんか?
あの呪いに値する文の羅列、かつての身分をあげながらも某団体が
好む威圧方法ではないかと思われ。
AIDS については欧米や欧米の法を基礎に成り立っている先進国をそのまま
アフリカの現状に当てはめて、無知の先進国民に教皇さまの非を認めさせようと
するのは先導ではなく扇動ではないでしょうか?サンテジディオの見解を
教皇さまが代弁したことを隠したままの糾弾が続いているのも奇怪な現象です。
Commented by ma_cocotte at 2009-05-02 16:34
★ ココをご覧の方々へ
以下、URLをご覧くださいませ。

ttp://6019.teacup.com/sdyosefu/bbs/3146

私は上記エントリーの最後を

   どうか無知による単語の誤使用でありますように。

と結んでおります。カトリック全体に誤解を招く単語を用いること、教皇さま
ご自身が「純潔教育」という語を機内インタビューで用いられていないことを
問題にしております。「純潔教育」という美しい言葉を私が小馬鹿にした
とありますが、その語彙が現状でどう使われているかという現実を直視
したら、その内容についての疑問を私が投げかけるのも当然です。
カトリックで教える「純潔」と同じ発音でも某団体が教える「純潔」とは
中身がまったく違います。
そもそも教皇さまもサンテジディオも「純潔教育」なんて語を用いて
いません。しかも機内では「教育 Education 」という語さえ教皇さまの
お口から出ていません。
http://www.eglise.catholique.fr/actualites-et-evenements/dossiers/voyage-de-benoit-xvi-en-afrique/leglise-et-le-sida.html

  >教皇は「純潔教育が必要である」とおっしゃっているのです。

どこで?
Commented by あんとに庵 at 2009-05-02 22:48 x
御紹介いただいた元発言を読みました。
書き込みが出来る掲示板の記事ということでま・ここっとさんには悪いのですが、あまり他所の掲示板の話を持ち込むのは賢明ではないとは思います。紛糾しやすいんで。あちらの掲示板でもそうした批判が出ているようでまぁそれはそうだなと。批判する場合はリンクされるようにしとかないとフェアではない。故にこの件について言及しないつもりでした。

しかしまぁ、紹介されたようなので、双方向になったということで話を進めます。
Commented by あんとに庵 at 2009-05-02 22:49 x
「純潔教育」という件について、批判に対する批判が出ているのですが、実は申し訳ないが統一協会が主張する「純潔教育」が即座に連想される。ネットでもよく嫌韓厨が批判ネタにしていた覚えがありますね。その言葉でぐぐると嫌韓ブログの記事やら大量にヒットします。その時にきもいと思ったので、今回の件とは関係ないです。まぁ、ネトウヨにヲチされて統一協会とカトリックは一つ穴のムジナ呼ばわりされるのを恐れないでいるならいいですが。(彼ら、都市伝説や陰謀論が好きだからな)

こういうのは文脈と関係のない言葉の揚げ足取りでよくはないのですが、ネットに時代、やはり使用する用語には厳密になったほうがいい。元発言の主張がつまらないとこで引っ掛かってしまうのはよくないでしょう。

カトギョーカイ用語ならば「貞潔の教え」のほうが誤解を招かないと思う。
Commented by ma_cocotte at 2009-05-02 23:22
★ あんとに庵さま、
私は一年ほど前、典礼聖歌「ちいさなひとびとの」についてトラックバックを
先方のブログに行い、その旨を先方のブログエントリーのコメント欄に
報告いたしましたが、先方はブログエントリーそのものを消去して

  >この方、私たちのブログや掲示板の事をご自分のブログに持ち帰って
  >批判するんですよねぇ・・・前にもありましたね。

という話に変えているのです。
しかも、拙ブログに先方とお仲間が残されたコメントはその後、ご自分たちで
消去されています。リンクの件、了解。本文中に貼ります。
Commented by ma_cocotte at 2009-05-02 23:35
★ 作業完了。で、「純潔教育」という言葉についてですが、教皇さまの機内発言を再度確認しましたが一言もおっしゃっていません。私は

  >Nさんのおっしゃってることが正しいと思います。
  >純潔教育って 美しい言葉だと思いますけれど。

なんてどーでもいいことです。
「正しいNさん」が何を根拠に

  >教皇は「純潔教育が必要である」とおっしゃっているのです。

と、断言できるのか。教皇の兵のひとり(第二ヴァチカン公会議前なら
堅信の恵みを受けた成人は「兵」にたとえられたことは庵主さまもご存知)
が、教皇さまを守るどころか、あらぬ方向へいざなうがごとき鍵語を
用いるのかも理解に苦しみます。
ここにはURLを貼りませんが、同一の発言が「純潔教育 カトリック」で
ググるとヒットします。欧州在住の国際公務員のブログで教皇さまを
擁護するエントリーが多々ありますが、リンク先は某団体の機関紙です。
私はエントリー最後を「どうか無知による単語の誤使用でありますように。」
と結んでいます。今もそうであって欲しいと願っています。

Commented by あんとに庵 at 2009-05-03 12:37 x
申し訳ないが、わたくしは道理がどうであれ、紛糾しやすい手法は好かないというだけなんですね。

で、御紹介戴いた掲示板は関わりたくないというか、考え方というか思考ルーチンが違うんで議論になってもたぶん平行線を辿りそうで不毛だし、それにネト知人の掲示板なんで荒らしたくないという気持ちはあります。

故に元発言そのものについては向きあえば、批判せざるを得ないだろうが、同時に意図は理解出来る箇所もある。ただ、それやるなら自分のブログでやらんと長くなりそなんで、まあそこまでの興味はないので、取り沙汰もしませんでふ。ただ「純潔教育」という発言は誤解を招きやすい単語である事を指摘することに留まりたいです。
Commented by あんとに庵 at 2009-05-03 13:16 x
まぁ、わたくしが取り沙汰しないのは、
世の中のネトウヨがこんなリスト↓を造っていたりするんで
http://www35.atwiki.jp/kolia/pages/35.html
反対にカトギョーカイ内から反発勢力が吹き上がるのは無理もない。

つまり件の掲示板に見るようないくつかの極論については、一部の政治思考の聖職者やリベラル過ぎる聖職者どもが産みだした結果だと思ってるんで、自業自得。左右極端な言論がギョーカイ内に同居することでバランスが保たれてよいんじゃない?程度に思っていますんで、細かい事は実はまぁどうでもよかったりはします。

少なくとも、使徒継承のミサにあずかり、秘跡としてのローマ司教以下のヒエラルキアを構成する範囲の中で蠢いてるぶんには、極端な言論も多様のうちの一つで同居していくのでいいんじゃないかと思っています。議論はおおいにつくしてもよいとは思うので、まぁつまらないレベルでこじれないで、議論はして欲しいとは思っています。
Commented by ma_cocotte at 2009-05-03 15:13
★ あんとに庵さま、かなり前、私は無言のトラックバックを受け付けない
話をしました。右のサブメニューに書いてあるからです。
掲示板についてはトラックバックできません。庵主さまのブログでもかつて
トラックバックできないスペースからの文章を引用sれていたことありませんか?

上の掲示板ですが、少し前、討論しようと努めた論客をまず他の論客が
「出て行け」とカトリックではない考えを主張しながら促し、最終的に
板の主がアクセス禁止を宣言しました。
私は昨年の典礼聖歌「ちいさなひとびとの」のエントリーで彼らとこの場で
あったことも含め、どんな媒体であろうと紛糾するのは予想ついています。
が、黙っていたら、教皇さまがあらぬ方面と関わっているかのような
話になってしまいます。自分は知っているからいい、自分の関わりを
優先というのは第二次大戦時のカトリック教会における大きな反省を思い
起こします。カルワリオに至るまでの経緯も。続きます。
Commented by ma_cocotte at 2009-05-03 15:20
★ 上にいただいた鍵コメントの中にこういう意見がありました。

  >司祭の意見と一般信徒の意見に食い違いがでるのは人間故に
  >ある程度覚悟が必要な現実ではあります。
  >が、別の某掲示板のほうは「気にくわない意見を言う存在はボコボコに
  >してもよい」的な空気が漂っております。
  >そして純潔教育なる言葉、某掲示板では
  >この言葉を使う人=某「合同結婚式とかやっちゃうよ団体」がらみ
  >と疑われるほどの代物です。

この鍵コメは庵主さまからいただいたものではありません。
が、どうも普通の信者さん、普通のミッション校出身でカトリックを知る人、
ご家庭の事情でずっと求道者のままカトリックのかかわっている人がネット
上での喧伝に戸惑いを覚え、自分のことではなく他の求道者を思って
心配していること。 続く。
Commented by ma_cocotte at 2009-05-03 15:28
★ 私がこういう手段を取ればボコボコされることは私は重々わかっています。
前例をあげたら私は二度目だけれど他にはアク禁までされた人が何人
いますか?
既に掲示板では私が結婚していない同棲者だの、私自身は幼稚園から
カトリック校なのに彼らはカト校でも知っている純潔教育を私が知らないと
根拠のないことの羅列です。上のコメントに私の母校の校訓のひとつが

  「純潔」であり、純潔は聖母そのものだから「習う」ではなく「倣う」なんだ

と書いたところでキーワード起爆と自己を守ることで文章もコメントも
読まずに妄想垂れ流しです。でも、これもいつものことです。
それに私は今年3月23日にサンテジディオのメンバーから避妊具の問題を
なぜ現時点で受け入れないか、という具体的な話も聴いています。
運良くあちらの掲示板からこちらにリンクしてくださったので、ココでの私見も
ご覧いただけます。結果ではありますが、あちらの主力メンバーがほうぼうに
リンクづけくださった行為に感謝しています。
Commented by ma_cocotte at 2009-05-03 15:31
★ ココをご覧のみなさまへ。

昨晩、カトリック医師会に所属する友人から連絡があり、豚インフルに
ついての司教団への進言についてもれ伺いました。感染症専門医も
おり、スタッフの考えに基づいて司教団が判断したものです。

某大司教が口での聖体拝領をこの件を利用して妨害している、というのは
嘘と言っていいでしょう。イエズスさまに倣えば言葉による磔など聖職者
はじめ奉献生活者には喜びになってしまいます。なぜそこに気づかないンだか。
Commented by あんとに庵 at 2009-05-03 19:06 x
はなから対立する、紛糾するのが判っていてやるならば情報をきちんと開示して正々堂々とやれよというだけっす。わたしが以前どうしたとか、以前にこういう事があったとか言われますと「ああ?わたくしに喧嘩売ってんのか?」とか「昔の事はどうでもいいだろ?漢じゃねーな」とか、うっかり言いたくなっちゃうんで、やめてくらはい。

ソースを出さず行うと、どこで?誰が?どのように?語ったのかという情報がない状態で行うわけで、恣意的な情報のみが載せられることになるんで、批判するにしても2次資料で行う事になる。

勿論批判はしてもいいと思うし、問題意識を感じて取り上げるのは有りだと思う。んだが紛糾が予測される場合、まぁ徹底的バトルを愉しみたいなら別ですが、ある程度のフェアな手法は必要だと思う。余計なとこからつっこまれない為にもね。

まぁ、あまり関わりたくないので、わたくしとしては撤退しますよ。
Commented by ma_cocotte at 2009-05-03 19:50
★ あんとに庵さま、上記本文中に引用先のURLを昨日貼りました。
現時点で庵主さま指摘の件は改善しています。
一年ほど前、こちらからトラックバックし、送信先にその旨をコメント欄に
報告し、長い意見なので拙ブログの方にお出ましください、とも書き、
こちらはネットでできる礼は尽くしたつもりです。そのトラックバック先は
先方が消去したことで新たな話がご本人からネットで吹聴されている
だけの話です。
庵主さまはかつて無言トラックバックやリンクのないTBを受け入れると
おっしゃったことで私の方から今年はじめに庵主さまの意見どおりに
実行したことがあります。その時の庵主さまが取った行いはわかっている
つもりです。私、漢ではありませんが、カトリックや教皇さまがあらぬ方向に、
根も葉もない箔を塗られて持って行かれるなら馬鹿なりに考えて動きます。
ヴェロニカでもシモンでも、私は彼らには及びませんが倣いたい。
それだけ。逆にペトロやユダにはならないように気をつけています。

続く
Commented by ma_cocotte at 2009-05-03 19:59
★ 私について教会婚を挙げていない同棲者だの、カト校教育を知らないとか
書かれていますが、私自身が幼稚園(共学)、小学校(男女別学)、
中高(女子)という典型的カトリック環境で4歳から18歳まで過ごしました。
男女別学というのは女子だけをあずかるカトリック環境とは微妙に
違うことも我が心身にしみこんでいます。
しかも、母校の校訓のひとつが「純潔」です。
単語は同じでも中身の違いに心身が違和を感じているだけです。
教皇さまがおっしゃっていることは愛です。愛があったら結婚と出産の
順番が入れ違っても、教会がどう動くかは庵主さまもご存知でしょう。

イエズスさまは相容れない他人にあらぬ箔やら泥を塗ったくったり、
ボコボコにしていません。それに「倣う」のが信者であろうがなかろうが
イエズスさま、聖母、ヨゼフ、諸聖人の生き方を知った者が後に続く者に
示すことです。立場があって泥を塗られたままの方々の泥を少しでも
拭えることが「できる」なら「する」だけです。できないヒトに神様も誰も
強いてはいません。それがカリタスであり、カトリックの中の平等だと
思います。
Commented by ma_cocotte at 2009-05-03 20:21
★ で、あんとに庵さんがこういうことを書かれると

  >わたしが以前どうしたとか、以前にこういう事があったとか言われますと
  >「ああ?わたくしに喧嘩売ってんのか?」とか「昔の事はどうでもいいだろ?
  >漢じゃねーな」とか、うっかり言いたくなっちゃうんで、やめてくらはい。

いつでもどこでも同じ女性が庵主さまのこの手の発言について大喜びの
エントリーやらコメントを電脳域のほうぼうに書き散らすのも、もしかしたら
庵主さま以外のヲッチャーが気付き、知っていることです。
私は庵主さまから毎回この手の発言をいただいて、ヒトビトに貴方から馬鹿に
されたと私が嘲笑されることにも既に慣れました。内省しては雑草花束を
捧げています。喜んで受け取られているかどうかは私が死んでみないと
わからないけれど。
Commented by 通りすがり at 2009-05-05 02:34 x
たまたま通りすがったところ、ご指摘したい点がありましたのでおじゃまします。はじめまして。

>絶対跪いて口で拝領なんて誰が決めたのでしょう?

誰かと言われれば聖座です。典礼には決まり事があるのですよ。
聖体拝領の規準型はあくまでも口による拝領です。手による拝領は各国司教協議会が聖座から特別の許可(indultum)を得てはじめて可能になる“オプション”です。手の拝領の方が「標準型」だと思い込んでいる人が殆どでしょうけど(聖職者ですら)。しかし繰り返しますが手による拝領はオプションです。
ただオプションとはいえども「認可」されている以上は教皇もこれをいきなり禁止する事はできません。でも理想はやはり口による拝領です。だから教皇は去年?一昨年?あたりから跪いての口による聖体拝領を始めたわけです。おっしゃる通り、教皇はシモジモに強いたりはしていません。模範を示しているだけです。

また口による拝領の歴史ですが、早いところでレオ1世(5世紀)、あとグレゴリオ1世が口で拝領する習慣について書いているようなんですが。
communion on the tongue historyで検索すれば色々参考になるものが見つかると思いますよ。
続く
Commented by 通りすがり at 2009-05-05 02:35 x
>なぜこの方にイエズス様の感情が分かるのでしょう?
同じ言葉を教皇にも・・・
確か十字架の道行で「キリストが自分の教会で苦しんでるのを考えなくていいのか?」みたいな事おっしゃってましたので。イエズス様が苦しんでおられるなんて、どうして分かるんでしょうかね?

>I 教会に異議があるなら教会籍を移動してから段取り踏んで改善に努めたらどうなんでしょう?

残念ながらカトリック教会は本来自分の住む地域の教会に所属するのが伝統で、自分の都合であちこち変える事は奨励はされないんです。もっとも今時はそんな事だれも気にかけませんが。

続く
Commented by 通りすがり at 2009-05-05 02:39 x
>このアフリカ訪問時の機内での教皇発言 については・・・教皇さまが賛同の上、代弁していることは教皇さまのご発言全文を見れば明らか

「教皇が代弁している」という根拠は?教皇が「自分は代弁している」と言ったのですか?
私の知る限りでは、教皇は枢機卿時代から機内での発言を主張していたと思いますが。コンドームでエイズが防げるという一般論には前から反論してましたね(ヨーロッパでは周知の事実だと思いますが)。コンドームは決して万能ではなく、むしろエイズ問題で重要なのはコンドーム以上に倫理だと。つまり「貞節」です。で、その貞節を純潔と誰かが言い換えたところで、なんといいますか、そんなにいきりたたなきゃいけないほどの間違いなんですかね?貞節を植え付ける方法として「教育」以外に何があるのか私には分かりませんが・・・

>気をつけましょう、主の平和のうちに

「主」という尊い言葉を、こういう言い方につかうのは止めた方がいいと思います。「主よ、主よ、と言う者がみな天国に行けるわけでなはい」と他でもない主がおっしゃってますからね・・・ま、お互い、そういう意味で「気をつけましょう」。 おじゃましました。

Commented by ma_cocotte at 2009-05-05 04:43
> 通りすがりさま、ご足労かけまして申し訳ございません。

  >手による拝領は各国司教協議会が聖座から特別の許可
  >(indultum)を得てはじめて可能になる“オプション”です。

この事実が存在するならば、現時点で教皇さまが「絶対跪いて口で拝領」
の「絶対」は存在しません。Authorization → Permission の手段が
存在しなくなった時に「絶対」という言葉を用いることが「できる」と思われます。

この認可請求と許可証受領の仕組をオプション(選択)とおっしゃる神父さまが
いらっしゃるのでしょうか?
選択という単語はこの許可が聖側におりた後、世俗側に用いられるのが
適当ではありませんか?
Commented by ma_cocotte at 2009-05-05 04:57
> 次に、I 教会の件ですが、原文のまま以下に。

  >キリストは、手による聖体拝領が各地で大規模に導入されたことに対し、
  >大変に悲しみ苦しんでおられます。

これに対し、私が「なぜこの方にイエズス様の感情が分かるのでしょう?」
と書きました。教皇さまが十字架の道行で「キリストが自分の教会で苦しん
でるのを考えなくていいのか?」とおっしゃったことに同様の質問をするよう
通りすがりさんは私に勧めますか?
通りすがりさんもご存知かと思いますが、
十字架の道は「いのちの道」で喜びへと私たちを導く苦しみの道、復活を
準備する十字架の道、いのちへと変容する死の道であり、今日もなお
「教会の中でキリストの殉教が絶えず繰り返されている」のですから、
教皇さまはじめカトリックのこの信心業を知る方なら誰でも道行における
黙想、内省のひとつは教皇さまの問いかけそのものだと思いますが。

I 教会の件で世俗さんがおっしゃった推測とはまったく違います。
Commented by ma_cocotte at 2009-05-05 05:25
> 次に、アフリカ訪問の機内発言についてですが、発言の第一段落から
サンテジディオ(他の団体)に賛同しているとなります。欧米語は最初に
結論をズバリ述べて、後に理由を展開します。
で、私個人ですが、3月23日にローマでサンテジディオの創立メンバーの
方がこの件について説明してくださいました。サンテジディオが教皇さま
に進言したことはコンドーム使用ではっきりとした予防は確認されていな
いこと、快楽のために安心を与えているだけであること、それは富裕国で
コンドームを使用しているにもかかわらずエイズは増加傾向にあることが
証明しており、故にコンドームにかける費用を新薬開発に当てるべし、以
上です。

以下、続きます。
Commented by ma_cocotte at 2009-05-05 05:34
> 教皇さまの以下の発言以降、
Direi che non si può superare questo problema dell’Aids solo con soldi, pur necessari, ma se non c’è l’anima, se gli africani non aiutano (impegnando la responsabilità personale), non si può superarlo con la distribuzione di preservativi: al contrario, aumentano il problema.
が短くはありますが、教皇さまが現場で働くカトリック団体の報告を
語ってくださいました。

サンテジディオのエイズ対策専門HPは以下です。
http://dream.santegidio.org/homep.asp?Curlang=EN

で、コンドーム使用については教皇さま個人ではなくカトリック教会が
認めていません。オギノ式など女性の生理周期計算で計画することが
奨励されています。
欧米や欧米生活習慣が基本の国々とアフリカの現状では並列で語れません。
それについては拙ブログ別エントリーで述べました。
http://malicieuse.exblog.jp/10651481

続きます。
Commented by ma_cocotte at 2009-05-05 05:46
> アフリカ大陸内の遊牧民や部族によっては現在も結婚の概念さえない場合
があります。ですからカトリックを宣教するにあたり、そこから教えるそうですが、
その苦労は言葉で語りつくせない、と宣教経験のある神父さまから伺いました。実際、仏蘭西には母子だけの移民がかなりいます。

「純潔」という単語が問題ではなく、「純潔教育」という熟語が問題なのです。
誤解を招きますし、教皇さまご自身が純潔教育が必要とおっしゃったのは
いつですか?
繰り返しますけれど、私の母校(カトリック系)の校訓のひとつは「純潔」です。
故に、純潔という単語は問題ではありません。
で、「貞節を植え付ける」とカトリック校の教育者がおっしゃいますか?
「純潔を植え付ける方法として教育する」のですか?
カトリックでは純潔は聖母ですから「倣う」のであって「習う」ではありません。
貞潔については小中学生程度の女子に繰り返し、聖アグネスはじめと
する諸聖女の話で少しずつわからせるようにするものです。
カトリックの授業と保健体育の授業の中身は別です。保健体育でも同時に
別の角度から貞潔については習うのもカトリック校なら普通です。
Commented by ma_cocotte at 2009-05-05 05:54
> 以下、最後です。

  >気をつけましょう、主の平和のうちに

と私が書いたことで以下のご意見を頂戴しましたが、

  >「主」という尊い言葉を、こういう言い方につかうのは止めた方が
  >いいと思います。「主よ、主よ、と言う者がみな天国に行けるわけで
  >なはい」と他でもない主がおっしゃってますからね

「主の名を軽んじること」または「主の名をみだりに使う無かれ」と私が
「主の平和の中に気をつける」ことに用いる「主」は並列で語れないと思います。
が、「気をつけましょう、平和のうちに」でも私は構いません。自己中心が
ゆるされるなら平和が神そのものだと私個人は知っていますから。
それと、「貞潔という個人が守ること」と「愛がある家庭、愛し合って母の
胎にいのちが宿る」ことも明確にした方がよろしいかも。教皇さまは常に
後者を繰り返し私たちに語ってくださいます。「愛がない」ことの危機を
私たちに警告しているのではありませんか?
Commented by ma_cocotte at 2009-05-05 14:35
★ 通りすがりさま、
I 神父さまの件でいただいたコメントについて書き忘れました。

 >残念ながらカトリック教会は本来自分の住む地域の教会に所属するのが
 >伝統で、自分の都合であちこち変える事は奨励はされないんです。
 >もっとも今時はそんな事だれも気にかけませんが。

誰も気にかけていなければ、ネットで教区枠や自身の立場を忘れて、
I 教会主任に直訴を勧めて構わないのですか?
通りすがりさんもご存知かと思いますが、この件は横浜教区内の教会に
所属の方が某SNSであげたトピで、

   ただちに主任司祭に報告すべきです。(原文のまま)

と勧めた方は都内の別修道会管轄小教区教会所属の方です。
通りすがりさんが書かれた「地元教会に所属する」という抜本は私も
知っていますが、でしたら、ご自身が所属する教会の司祭に訪問先の
教会で経験したことを話して導いてもらうのが「伝統的」です。
Commented by ma_cocotte at 2009-05-05 14:56
★ 次に「純潔教育」の件ですが、教皇さまが機内で言葉を発して数分後に
機内からこの話題が配信されています。フランスでは日本とは比べられない
ほどの騒ぎになりました(裏には報道各社のAIDSイヴェントと同じ週
だったことがある)。すぐフランス司教団がカトリック系メディアとHPを
使って

   Ce qu'a vraiment dit le Pape sur le SIDA

と。つまり、「本当に教皇さまがエイズについて語りたかったこと」と題して、
機内のビデオと教皇さまの問題発言部分の仏文訳を掲載したのです。
http://www.eglise.catholique.fr/actualites-et-evenements/dossiers/voyage-de-benoit-xvi-en-afrique/leglise-et-le-sida.html
ここ↑をスクロールすると、司教団からの教皇さまと教会の立場が詳しく
説明されています。第2項にSJ のロンバルディ師からの説明が補足
されており、教育において箇条書きでカトリックが宣教地で何を行うか
あります。第一は性と家庭や結婚の概念を教えること、とあります。
これは既に学業を終えた子供を持つ独身女性にも教えることです。
Commented by ma_cocotte at 2009-05-05 15:22
★ 問題はフランス100教区の長が教皇さまを守っていることに着目
してください。この100人の個々の考えはコンドームについては微妙に
違います。が、教皇さまを守るために自己の立場をわきまえています。

拙ブログのこのエントリーのコメント欄で通りすがりさんに見える、見えない
にせよ、複数の方がたった0.5%しかカトリック信者がいない日本で
「純潔教育」という言葉を

  教皇は、「純潔教育が必要である」とおっしゃっているのです。

と断定がごとき表現をしたら、某団体とリンク付けする可能性と、99.5%
のカトリックを知らない日本人に「世俗が誤解を与える」ことを心配して
いるのです。
ところが、某掲示板では「発言者が正しい」「純潔という言葉が美しい」と
発言者を守ることが第一になり、教皇さまやカトリック教会にいらぬ誤解が
与えられることを忘れていませんか?

  >そんなにいきりたたなきゃいけないほどの間違いなんですかね?
Commented by ma_cocotte at 2009-05-05 15:27
★ 「純潔教育」という熟語を私個人はカトリック環境の中で聞いたことが
ありません。
例えばカトリック校の入学案内に掲げられていますか?父母会や授業で
見聞するカトリック用語でしょうか?教会学校でも教えても教えられても
いません。正直、なじみのない言葉であり、違和感ある言葉です。

教会と教皇さまを守るなら、カトリックを知らないヒトに誤解の種を蒔いて
自分ではなく教会や教皇さまや聖職者が嘲笑される方向に導かない。
それが堅信を受けたカトリックとしての「成人信者」の務めでは?
発言者を弁護するために言論の自由があるだの、カトリックや主の名を
連発しながら教会や教皇さまに疑心の視線が強くなるようにするなんて、
カトリックの名を出しての話の軸が大きくずれていることに気づくべきです。
カトリックの長女国の聖職者方はパァパを守っています。マスコミの力が
強いからどこまで守れるか、それを支えるのは私たちです。
Commented by 通りすがり at 2009-05-06 01:32 x
沢山のご反論等ありがとうございます。一つ一つには対応しきれないので、幾つかの点だけ・・・

聖体拝領について:
permisson…すみません。indultumを分かりやすいと思って「許可」としましたが訂正します。厳密には「免除、赦し、容赦、恩赦、赦免」です。許可ではありません。(「オプション」という言葉遣いはどこかの英語サイトで見て頭に残っていて、言葉遣いを吟味せずに安易に利用しました。)拝領方法が2通りある、という意味では確かに「絶対」ではないですね。
で、手による拝領のindultumの存在にも関連しますが、教皇典礼の儀典長グィド・マリーニ師のインタビューがあります。ヘタな翻訳ですみませんが。

つづく
Commented by 通りすがり at 2009-05-06 01:39 x

「法的観点からすれば、手による拝領は要請のあった司教協議会に対して聖座が与える普遍法[全世界のカトリック教会に適用されている教会法]の免除で、これは変わっていません。ベネディクト16世が採用した拝領方法[跪いて口での拝領]は世界の教会に対してこのスタンダード[跪いて口での拝領]が有効である事を強調するのに資するものです。更に、この拝領方法を使う方が[…]ご聖体における現存の真理により光を当て、信者の信心を手助けし、神秘の感覚をより易しく導き入れるのに役立つこともわかるでしょう。これらの側面は、司牧的に言って、今の時代はっきりと示し再発見するよう強く求められることです」。
つづく
Commented by 通りすがり at 2009-05-06 01:50 x
(インタビューのリンクを貼ると「スパムメールに判定」されてしまって、貼れません…インタビューは2008年6月のロッサバトーレ・ロマーノ紙です)

発言者の意図が分からないままに通りすがりに横槍を入れた事は反省いたします。以下は個人的考えですが…
手による拝領が問題になっている理由の一つに、ご聖体が冒涜されるケースが多くなっている事があります。未信者による聖体拝領が多発していますし、ご聖体を手にした人がそれを食べずに持ち去る人もいます。手による拝領の為せる業です。こういう事例を目の当たりにしていると「イエズス様が手による拝領で大変苦しんでおられる」という“推測”は有りだと感じます(発言者の前後の文脈は知らないので、この文を単独で見るなら理解はできる、ということです)。
つづく
Commented by 通りすがり at 2009-05-06 01:54 x
十字架の道行で教皇様は「キリストが苦しんでいる」理由を割と具体的に挙げていますが、その中に「ご聖体の乱用」「空疎な心の中に[ご聖体として]入っていかれる事の苦痛」というのがあります。手による拝領が敬虔な信仰心を信者の意識から削いだという事は伝統的信者の間では一般に言われている事で、外的動作[手による拝領]と内面[空疎になった信仰心]には関連性があるのだと言います。だからこそ儀典長も教皇典礼での口による拝領の再導入は信心を呼び覚ます助けとなるだろうと言っています。つまり「キリストは手による拝領の導入で苦しんでおられる」と「キリストが自分の教会で苦しんでおられる事」の間には“違い”ではなく“関連性”はあると思います。
Commented by 通りすがり at 2009-05-06 01:54 x
十字架の道行で教皇様は「キリストが苦しんでいる」理由を割と具体的に挙げていますが、その中に「ご聖体の乱用」「空疎な心の中に[ご聖体として]入っていかれる事の苦痛」というのがあります。手による拝領が敬虔な信仰心を信者の意識から削いだという事は伝統的信者の間では一般に言われている事で、外的動作[手による拝領]と内面[空疎になった信仰心]には関連性があるのだと言います。だからこそ儀典長も教皇典礼での口による拝領の再導入は信心を呼び覚ます助けとなるだろうと言っています。つまり「キリストは手による拝領の導入で苦しんでおられる」と「キリストが自分の教会で苦しんでおられる事」の間には“違い”ではなく“関連性”はあると思います。
Commented by 通りすがり at 2009-05-06 02:15 x
次に教皇の機内発言。
カトリック系サイト、ブログは結構見ているつもりですけど、教皇発言の背景にサンテディジオをあげる議論は初めて見ました。普通に読めば、エイズ患者への奉仕に携わっている例の一つとしてサンテディジオを挙げたまで、と見えますけれども…。
それから「純潔教育」について。こういう特定の熟語があってしかもそれが相当問題のある言葉だという事を私はここで生まれて初めて知りました。ですからこの言葉の発言者もそんなこと知らなかったという可能性はないんですか?それともそんな可能性は無視ですか?誤解を招くおそれのある問題熟語なのだったら直接その発言者に、非難する前に、教えてあげるのが普通に親切というものだと思いますけど・・・ま、私はそう思うというだけの話ですが・・・。(私のポイントは「純潔教育」という言葉の問題性ではありませんよ。その点については勉強にはなりましたが、言及は避けます)。
つづく
Commented by 通りすがり at 2009-05-06 02:25 x
長くなっちゃいました。すみません。もうこれでやめます。

>「純潔を植え付ける方法として教育する」のですか?

「植え付ける」「教育」…貴女に対してどの単語を使えば真意が分かってもらえるのか、私には分かりかねるのですが…
>第2項にSJ のロンバルディ師からの説明が補足
>されており、教育において箇条書きでカトリックが宣教地で何を行うか
>あります。第一は性と家庭や結婚の概念を教えること、とあります。
…ロンバルディ師が「教育」と言ってませんか…?私が「教育」という言葉を使った根拠もこのロンバルディ師の説明です。ちなみに私のソースは南アフリカ司教協議会のサイトです。

では、ここで退散いたします。沢山コメントしてしまってすみませんでした。
Commented by ma_cocotte at 2009-05-06 04:04
★ 通りすがりさま、ご足労おそれいります。
まず、いただいた聖体拝領に関するお話と I 教会の件をどうつなげて
捉えるよう通りすがりさんは読者を導きたいのでしょうか?神父さまが
間違っているのですか?
「あがないの秘跡」の中に
「聖体の授与において聖職者は、適宜に秘跡を求める者に対し、その者が
ふさわしく準備しており、かつ法律上秘跡の受領を禁じられている者で
ないならば、それを拒んではならない」ということを忘れてはならない。
従って、洗礼を受けたカトリック信者で、法律によって禁じられていない
者は誰でも聖体拝領を認められなければならない」とありますが、
洗礼を受けたカトリック信者である証明、法律によって禁じられているか
いないかの判断についてどう通りすがりさんは考えてらっしゃいますか?
これは当事者の問題、当事者各自の良心にあり、第三者は第八戒を
守るのではありませんか?
私は昨年、 I 教会でご聖体を手でいただいてもすぐに口に入れなかったことで
係の女性が追いかけて注意したことをこの目で見ました。
完全な目に見える検挙を通りすがりさんは求めてらっしゃいますか?
Commented by ma_cocotte at 2009-05-06 04:05
★ イエズスさまご本人はパンを取り、感謝を捧げ、割って、弟子に
与えましたが、弟子方のお口にいれたのでしょうか?舌で聖体を
いただくようになった習慣は人によるものですから、何より「全ての人々に
同じように良心の声があり、それを無視することはできず、このような
良心の声があるという事実は人間が人間以上の法に服していること」
が重んじられるのではありませんか?

  >手による拝領が敬虔な信仰心を信者の意識から削いだという事は
  >伝統的信者の間では一般に言われている事で、外的動作[手による
  >拝領]と内面[空疎になった信仰心]には関連性があるのだと言います。

これは必ずしもそうではないと私は思います。口でいただいている方にも
空疎になった信仰心は問うことができます。そもそも信仰心は動作で
表現され、他人がその所作で信仰を量れるのですか?
Commented by ma_cocotte at 2009-05-06 04:27
★ 次に機内発言の件ですが、新聞の場合は文字数制限、テレビラジオは
時間制限があり、報道側の思惑でサンテジディオ他の団体名を端折り、
教皇さまのお口から出た発言を、教皇さまの頭から出た発言という
形に変えた、と私は3月24日にお目にかかったヴァチカン高官から
伺いましたが。レーゲンスブルグと同じ罠だ、とおっしゃっていました。
そもそも英文ではThink of ~ ですから、活動の中身を熟考したと
団体名を挙げ、そこから続くのは具体的内容というのはスピーチの
基本です。
まあ、通りすがりさんが「カトリック系サイト、ブログ」と同じ意であれば
教皇さまの頭から出た考えになります。サンテジディオの活動方針に
なんら関係ない。私は実際にサンテジディオの創立メンバー、ヴァチカン
高官から直接事情を伺う機会にローマで恵まれましたし、このお二方の
お話とフランス司教団が教皇さまを弁護している内容に納得しています。
教皇さまは教皇認可諸団体の活動方針について具体的に説明したに
過ぎません。
Commented by ma_cocotte at 2009-05-06 05:04
★ ロンバルディ師がおっしゃったことですが、

エイズの蔓延に対する闘いにおけるカトリック教会が約束する必須事項
の要点は以下、
①結婚や家庭の意義の再確認と性行為におけるヒトが持たねばならない
責任についての教育、
② エイズに対しての有効治療実践と研究による解決。カトリック諸団体
の率先した行動と衛生的な手段を用いて可能な限りの病人に関わること、
③ 教会に住まう全ての者がエイズ患者の心身のために祈りを捧げる

この3点です。①に教育について語られていますが、これは「純潔教育」
というより「カトリックとしての愛の概念を教えること」です。
Commented by ma_cocotte at 2009-05-06 05:13
★ >「植え付ける」「教育」…貴女に対してどの単語を使えば真意が
  >分かってもらえるのか、私には分かりかねるのですが

私自身、幼稚園から高校までカトリック校に育ちましたが、「純潔を
植え付ける教育」にあずかったのでしょうか。申し訳ありませんが
「純潔教育」という四字熟語で「生きたカトリック」を思い起こせません。
教導職資格を持たれる方ならばこの語がカトリック教会で生きた言葉として
用いられているかどうかご存知だと思われますが、羊飼いではなく
羊にすぎない私にはカトリック環境(教育、教会、家庭)はもちろん
友人との会話でも聞いたことがありませんでした。

おそらく通りすがりさんは教導権が認めた教授資格(STL)を持って
らっしゃるのでキリストの苦しみと聖体拝領の関連をここに残して
下さったと拝察しております。ありがとうございました。
Commented by ma_cocotte at 2009-05-06 05:23
★ 通りすがりさま

 >こういう特定の熟語があってしかもそれが相当問題のある言葉だという事を
 >私はここで生まれて初めて知りました。ですからこの言葉の発言者も
 >そんなこと知らなかったという可能性はないんですか?それともそんな
 >可能性は無視ですか?


通りすがりさま、このエントリーの文章の終わりに私は

  >どうか無知による単語の誤使用でありますように。

と結んでいます。この一文をどう捉えられたのでしょうか。
「可能性の無視」を私がしているとでもおっしゃいますか?
Commented by 通りすがり at 2009-05-06 12:11 x
ご聖体の件について、私はI教会の話は念頭に入れていません。すみません。ですから、横槍を入れた事は反省しています・・・

>洗礼を受けたカトリック信者である証明、法律によって禁じられている>かいないかの判断についてどう通りすがりさんは考えてらっしゃいます>か?
>これは当事者の問題、当事者各自の良心にあり、第三者は第八戒を
>守るのではありませんか?

当事者とはもちろんご聖体を受ける信者でしょうが、第三者とは、当該信者以外の信者の他、聖体を授ける司祭もこの第三者に入るという理解でよろしいですね?そうだとして・・・

Commented by 通りすがり at 2009-05-06 12:17 x
>完全な目に見える検挙を通りすがりさんは求めてらっしゃいますか?

求めるというか、うちではそれが普通です。 その「あがないの秘蹟」の92項あたりだったと思いますが、ご聖体を授ける者はそのご聖体がちゃんと食されるよう見ていなければならない、冒涜の危険がある時は手に授けるべきではないなどの指示があります。アメリカで中絶合法化を支持する議員たちにもご聖体を渡すべきではないと多数の司教たちが公に発言しています。以上の事から「絶対に」当事者の良心だけに任された問題ではないように見えます。

>舌で聖体をいただくようになった習慣は人によるものですから、

その「人による習慣」つまり教会法、典礼式次第、典礼総則、典礼省の手引きなどなどに、従うか従わないかは、もう人それぞれです。私は従いべく努めますが・・・ローマは当然信者、聖職者がみな従う事を要求しているわけですが。
Commented by 通りすがり at 2009-05-06 12:27 x
>これは必ずしもそうではないと私は思います。口でいただいている方にも空疎になった信仰心は問うことができます

もちろんです。私は「口で拝領している者は全員信仰心の篤い者だ」などとは言っていませんし、それを言ったら私は嘘つきになります。
ただ、手による拝領と最近の信仰の状況には「関連性」がある、と。儀典長の発言もそういう考えがベースになっていると思う、と申し上げたので、それ以上の事は意見の相違です。貴女を何が何でも説得したい、というわけではないので、これが、私の意見だ、とだけ申し上げておきます。


Commented by 通りすがり at 2009-05-06 12:36 x
>どうか無知による単語の誤使用でありますように。

>と結んでいます。この一文をどう捉えられたのでしょうか。「可能性の無視」を私がしているとでもおっしゃいますか?

でも、実際には直接教えてあげていないんですよね?
無知でありますように・・・と願いつつ、無知かどうかを実際には調べずに、次段階の「非難轟々」に進まれたのですよね?
実質としては、無視してるのと同じだと、私には見えます。

それでは。全体として有意義な議論をさせてもらえて、大変よかったです。お時間とお手間をとらせてしまい申し訳ありませんでした。ありがとうございました。
Commented by anbai at 2009-05-06 13:44 x
視力のハンディキャップであれば、ご聖体を落とす心配なども当然でしょう。そのことで神父さまを<公開の場で責めることになる>前に、「I教会に一度は聞いてみる」ことをしたら良かったのに。

っていう風に、個人的には思いますけどねえ。

通りすがりさま>
ここの管理者さんはI教会の事例ってのをSNSでご存じになって書かれてます。それは明記されておられますよね?

 「教条主義的になり過ぎて、事実確認をしないで司祭を責めた結果」

については私もかなり残念だと思う一人です。
「正しいことを正しく行うこと」は勿論、当然のことです。しかし、その上で人間的な思いやりを忘れてはいかんと思うのです。言葉悪いように見えましょうが、それだけのことを書かれたに過ぎないエントリなのでは?
通りすがりさまが『通りすがり』という名義で書いておられる事情を深読みする気持ちは無いですが、<そのSNSの騒ぎが無ければなかったエントリ>に対して書かれるコメントとしては、正直、書き過ぎてないかな…と。
Commented at 2009-05-06 14:00 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by ma_cocotte at 2009-05-06 16:10
★ 通りすがりさま、何度もご足労かけまして申し訳ございません。
まず、以下の件

 >でも、実際には直接教えてあげていないんですよね?

本文中にリンク付けしました某掲示板ですが、金剛教会の信者さんが
管理するサイトと伺い、近年、拝読しておりました。私が知る限り、これまで
カトリックの生活慣習から道徳や規則を説明された方が少なくとも4名
アクセス禁止にされています。しかも最新の一例は、「教皇さまが純潔
教育が必要だとおっしゃっていると断言された論客さんが「一対一で
勝負したい」とまで書かれたのに、掲示板管理人が勝負の相手をアクセス
禁止にしました。ネット上とは言え、カトリックらしからぬ環境のドアを
開けて入りますか?
しかも、ありがたいことにその掲示板の常連の方が拙ブログのURLを
貼ってくださったことで、無数のヲッチャーがこちらに訪問くださいまして
教皇さまが純潔教育なんておっしゃっていないことがわかり、某団体との
関連を疑わなくて済みました。複数の掲示板にURLを貼ってくださった方
には感謝しています。
Commented by ma_cocotte at 2009-05-06 16:22
★ そもそも通りすがりさんはその発言をした論客を影で批判したことで
何度もこのエントリーについて意見をくださっていますが、誰もそんなことを
この場では取り上げていないことになぜ気付けませんか?
通りすがりさんは弁護に必死になりすぎて、私が先に書いた一文を
読み忘れていませんか?以下のとおりです。

======十
拙ブログのこのエントリーのコメント欄で通りすがりさんに見える、見えない
にせよ、複数の方がたった0.5%しかカトリック信者がいない日本で
「純潔教育」という言葉を

  教皇は、「純潔教育が必要である」とおっしゃっているのです。

と断定がごとき表現をしたら、某団体とリンク付けする可能性と、99.5%
のカトリックを知らない日本人に「世俗が誤解を与える」ことを心配して
いるのです。
十======

ここ↑の複数の方というのはこのコメント欄の鍵コメントも含まれます。
非難されていると拙ブログを掲示板に持ち帰って意見を述べた方から
通りすがりさんの弁護がつながります。が、上のエントリーや通りすがり
さんがコメントを始める前のコメント欄をよくご覧ください。
Commented by ma_cocotte at 2009-05-06 16:27
★ 
カトリック教会や教皇さまに誤解を招くことは私たちがすべきでない、
これに尽きます。ご本人ではなくても通りすがりさんが「無知」だとここに
残されたなら、私はこれまでこのブログ内で繰り返し「無知は罪にならない」と
書いています。とは言え、真っ白いお召し物の教皇さまにいらぬ泥を拭うのは
誰なのかなあ?通りすがりさんはずっとあちらの掲示板の論客さんの
泥をはらうことで懸命ですね。あちらの掲示板に集う方々も発言者を守る
ことで懸命で、純潔教育は戦前の日本の教育で使われた言葉だから
何が間違っているとまで書いていましたが、その言葉をカトリック教育に
おいては省みている事項のひとつです。純潔という語の中身が違います。
ここで彼の泥を拭ったと通りすがりさんが確信されたら、次は教会と教皇
さまへの泥を拭うことを共に行いましょうよ。
油脂が混じっていなければ水で洗い落とせます。その水って何?
通りすがりさん以外、ここにコメントをくださった方々は教会と教皇さまに
ついた不要な泥を心配しているのに。不思議な現象です。
Commented by ma_cocotte at 2009-05-06 16:36
★ 次に聖体拝領の件ですが、I 教会のような状況は世界中にゴロゴロ
ありますけれど、書物に書いてあることのみでの断罪を通りすがりさん
(教導職でらっしゃいますよね?)がここに述べられますか?
通りすがりさんは

 >当事者とはもちろんご聖体を受ける信者でしょうが、第三者とは、
 >当該信者以外の信者の他、聖体を授ける司祭もこの第三者に入る
 >という理解でよろしいですね?そうだとして・・・

聖体を間にして聖体を授与する側と聖体を拝領する二者の問題です。
なぜ聖体を授ける司祭が第三者と想像できますか?その二者の良心の
問題を傍観者が批判すること自体、摩訶不思議なんですが。例えば、
未信者が「知らないで聖体拝領した」とします。I 教会で私が目の当たりに
したように係員がその人を追って注意したとします。その人物に良心が
あるならば二度としないでしょう。なぜなら「事実を知った」からです。
Commented by ma_cocotte at 2009-05-06 16:45
★ 再度、ここにコピーします。良心とは

何より「全ての人々に同じように良心の声があり、それを無視することは
できず、このような良心の声があるという事実は人間が人間以上の法に
服していること

です。で、次。

  >>完全な目に見える検挙を通りすがりさんは求めてらっしゃいますか?
  >求めるというか、うちではそれが普通です。 

神様でさえ、アダムとエワが悪魔と交渉していたことを後で知ったのに、完全に目に見える検挙を実現するには通りすがりさんはどうしたいのです?
聖体拝領時に洗礼証明書を見せながらいただく?罪あるものは「緋文字」
の主人公のように生涯、他人にわかる目印を胸に掲載する義務を
カトリック教会が作りますか?ナタニエル・ホーソンはピューリタニズムの
行き過ぎへの危機感を小説で表現し、彼らが否定したローマン・カトリックの
赦しの精神を暗示したと学びましたけれど。「無知による罪」は罪では
ありません。だから羊飼いがいるのですよねぇ。
Commented by ma_cocotte at 2009-05-06 16:53
★ 次に。

 >アメリカで中絶合法化を支持する議員たちにもご聖体を渡すべきで
 >はないと多数の司教たちが公に発言しています。

多数の司教ではなくて、教会法で中絶幇助者も自動破門です。
中絶合法支持のカトリック信者は聖俗とも「自動破門」。
聖体拝領できないのはロジックです。
この点、ブラジルの一件でも世界中のマスコミが教皇さまと司教さまを
批判していますが、教会法ですから、どの教皇だろうが司教だろうが
第一定義は「自動破門」です。

  >以上の事から「絶対に」当事者の良心だけに任された問題ではない
  >ように見えます。

「良心とは人間の行いの善悪を判断し、善を命じ、悪を禁じ、善をほめ、
悪を戒める神よりの心の声です。ですから人はみな良心に従って
生活しなければなりません。人間は良心に対して忠実に生きることに
よって、神のみ旨を全うし、他の人々とよく交わることができます」

通りすがりさん個人の意見はわかりました。通りすがりさんは教導職では
ありませんね?なぜなら、上に書いたカトリック根幹の教えを否定されました。
当事者の良心に任せられないですって?
Commented by ma_cocotte at 2009-05-06 17:01
★ 通りすがりさまは良心に任せられない。しかも他者の良心を
疑っていませんか?各自の良心の語りかけはその方が神父さまに
お話すべきこと。

 >その「人による習慣」つまり教会法、典礼式次第、典礼総則、典礼省の
 >手引きなどなどに、従うか従わないかは、もう人それぞれです。
 >私は従いべく努めますが・・・ローマは当然信者、聖職者がみな
 >従う事を要求しているわけですが。
 >手による拝領と最近の信仰の状況には「関連性」がある、と。儀典長の
 >発言もそういう考えがベースになっていると思う、と申し上げた

ですから、通りすがりさん。
私はI 教会の一例をどう捉えているのですか?と質問しているのです。
そもそも、口による拝領のみに限定したのは16世紀です。初代教会を
思い起こし、イエズスさまに倣うとしたら、「パンを割って、人々に与えた」
です。ローマ典礼が16世紀に「禁止」され、第二ヴァチカン以降に再び
行われるようになったことをどう捉えられています?
通りすがりさんのお話は16世紀以前が見えませんし、16世紀の公会議を
証明するためにそれ以前の過去をピックアップしているに過ぎません。
Commented by ma_cocotte at 2009-05-06 17:10
★ anbai さま

どうも話がかみ合わないというか。
教会法諸々の箇条書きとTPOの臨機応変さに現法や当事者がどう
判断するか、が「事件は現場で起こっているんだ!」で重要なことだと
私は思うのです。
絶対に口でしか聖体拝領できないなら、それなりの配慮を聖側で
決めるにしても、祭壇の手前の者があれこれ意見するにはカトリックの
生活の中に決まり事があります。それを知らないなら、教えるヒトがおり、
それを知ったら遵守するのがカトリックワールドではありませんか?

通りすがりさんが神父さまだか教導職だか存じませんが、どうも
こうしてコメント交換していると、カトリックのようで「?」な部分があります。
他人の良心を疑うヒトって、カトリック幼稚園の園児でもいないし、
そういう疑心を他人にしゃべったら第八戒に触れるから、職員室に
呼び出し喰らうんですよ。その罪状を箇条であげるなんて聖域の方は
しないけど、心身でわかるようにします。そうゆうのがカトだと思ってた。
聖体への思いやり、良心の信頼がなんら通りすがりさんから説明されない
こと、残念です。
Commented by ma_cocotte at 2009-05-06 17:17
★ 鍵14H00@060509 さま 、

そうなんです。既に「フランスはカトリックの長女国のクセに今では~」
というフランスカトリック批判のコメントが消去されていました。
長女だからアフリカ発言で必死にパァパを庇っていますよ、仏司教団は。
マスコミにどれだけ闘えるかわかりませんが、神に正義を祈っています。

某掲示板は発言者を庇うあまりに「純潔という言葉は美しい」だの
戦前日本の純潔教育という言葉を引き合いに発言者の弁護に必死に
なるあまり、教会と教皇さまを矢面に出しているようにしか見えません。
教皇さまって某団体と仲良しなんですか?
日本のようにカトリックを知らない90%以上の人は勘違いされませんか。
だったら、藩兵たるもの誤解の種を蒔くより、守り、見本を示すべきでは
ないのでしょうか?
Commented by 通りすがり at 2009-05-06 21:52 x
もうコメントは終わろうと思っていたのですが、これは私に完全に非があります。全体をじっくり読まずにコメントを付ける癖があるので、話をどんどん混乱させてしまいました。申し訳なかったです。

1)「純潔教育」
2)I教会と聖体拝領の形式
3)良心の問題

分類するとこれくらいの論点が混在している感じですか?
なるべく整理してあらためてお返事、反論、説明等します。

それではのちほど。

Commented by 通りすがり at 2009-05-06 23:03 x
1)「純潔教育」発言
ma cocotteさんはこの特殊用語の誤用によって世間が教会や教皇様を誤解するという事で、発言者を批判されていると思います。

「純潔教育」という言葉の意味は私のポイントではありません。
発言者が正しいのか間違っているのかでもありません。
(この言葉を使う事が非常に拙かったのは仰る通りなのでしょう、その点については全く反論はありません。「純潔教育」という特定の熟語そのものの存在、特殊な意味、特殊団体との関連については初めて知り、前にも書きましたが、勉強になりました。)

Commented by 通りすがり at 2009-05-06 23:11 x
私のポイントは、その発言者も「純潔教育」の特殊性など知らないで使用したかもしれないのに、教える前に非難する、という貴女のやり方でした。教会や教皇に誤解を与えるような事をするな・・と言われても、そもそも「純潔教育」が誤解を与えるような言葉である事を知らないでどうやって教皇への誤解を回避する事が出来るのでしょうか?本当に世間が教皇を誤解しないようにしたい、という目的を持つのなら、取るべき手続きは非難よりも前にまず教える事じゃないのかと考えるわけです。子供を持つ親にも2通りあるのと同様です。子供が何か失敗したとして、それをただただ叱る親と、どこが誤りなのかを教える親と。
Commented by ma_cocotte at 2009-05-06 23:46
★ 通りすがりさま、やはりどこか話が食い違っていると思います。
私のエントリーのどの点が批判になっていますか?私は教皇さまが
「純潔教育」が必要であるとおっしゃっている、と断言されていることに
対し、

  いつ? どこで?んなこと、教皇さまは一度もおっしゃっていませんぐゎ。
  それになぜこの方は教皇さまが「純潔教育が必要である」とおっしゃって
  いるのですと、断言できるのです?

と書きました。これ、批判ですか?質問だと思いますが。
その後は教皇さまが常に「愛」を強調されていることと、この四文字熟語を
自分で検索してみたところで日本語環境ではあらぬ方向ばかり引っかかると
いう事実を書きました。
「無知は罪になりません」と私が常にこのブログ内で繰り返しているのですが。
知った「今」から誤解を招かないようこの四文字熟語を使う時には(私たちも
含めて)気をつけよう、に過ぎません。
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