レイシスト的保護主義グループの成立(1) [2009-04-27 00:00 by kollwitz2000]
読者からの岩波書店あてのメール [2009-04-26 00:00 by kollwitz2000] 『週刊新潮』編集部、質問状への回答を拒絶 [2009-04-16 00:00 by kollwitz2000] 佐藤優氏、公開質問状の受け取りを拒絶 [2009-04-13 00:00 by kollwitz2000] 改憲論の復調 [2009-04-07 00:00 by kollwitz2000] 金玟煥「日本の軍国主義と脱文脈化された平和の間で 」 [2009-04-01 00:00 by kollwitz2000] 『週刊金曜日』が、右翼雑誌の『月刊日本』と4月8日に共同集会を開いた。
http://www.kinyobi.co.jp/event/upload/0408_A4.pdf http://sankei.jp.msn.com/life/trend/090411/trd0904111054007-n1.htm この集会の開催については、かなり前からウェブ上でも話題になっていたから、このブログを見に来るような読者には知っている人も多いだろう。 私は、この件をここで取り上げると、以前の『金曜日』創刊15周年記念集会における「日の丸」ポスターのときのように、『金曜日』が及び腰になってしまう可能性がある(笑)ので、言及するのは『金曜日』本誌で集会の報告が載るまで待つことにした。もう『金曜日』編集部はこういった、社会排外主義とでも言うべき方向に進む以外の可能性はないのだから、行き着くところまで早めに行ってくれたほうがいい、その方が、世間一般にとっても『金曜日』という雑誌がどういう雑誌かわかりやすくなる、というのが私の認識である。 というわけで、『金曜日』の最新号(2009年4月17日号)には、編集部員によるこの集会の報告が、掲載されている。見てみることにしよう。 http://www.kinyobi.co.jp/backnum/antenna/antenna_kiji.php?no=586 業界初!!イベント 「右」「左」が共同開催 『月刊日本』と『週刊金曜日』共同講演会「貧困とテロ、クーデター」が八日、東京で行なわれた。「右」「左」を標榜する両誌が共催するという、業界初の試み。青木理氏進行のもと、雨宮処凛氏、佐高信氏、佐藤優氏、山崎行太郎氏が出演した。 山崎さんは「左右ともに思想の力が衰退している。両者が論理的に対立しない限り、テロやクーデターには転化しない」として、思想の問題を話し、佐高さんは「会社に対する視点が左右問わず弱い。思想戦だけやっていたら会社は逃げていく」と、批判の矛先を国家ではなく、会社にも向ける必要があるとした。 「生存運動は思想以前の問題。なのに意志を持って行動すると治安の対象になる」と雨宮さんが現在の警察権力の動きを危惧すると、佐藤さんは「テロ(ル)とは恐怖。政治を動かすには権力に対するテロが必要。派遣村も権力に対して恐怖を与えたならテロ。左右問わず、いろんな形のテロをやるべき」と話した。 五月一日には本誌と『週刊プレイボーイ』共催「カード会社から過払い金を払い戻せ!!」が東京ウィメンズプラザホールで行なわれる予定だ。 「業界初!!」って・・・。そもそも「業界」って何?この編集部員は、「業界初」であることに誇らしげであるが、仮にそれが事実であるとすれば、そんな馬鹿げたことはさすがにどれほどひどい「左」でもやらなかったというだけの話だ。その『月刊日本』という「右」は、日本の植民地支配を建前だけでも批判しているのか?戦前の日本の侵略やアジア諸国での虐殺を、建前だけでも批判しているのか?もし批判しているのならば、それはどういう根拠で「右」と言えるのか? この「業界初の試み」に言及して、『月刊日本』とは別系統らしいある右翼は、「戦前にも国家の革新を目指す青年達は思想を超えて集ったと聞いたことがある」と述べているが、的確に本質を捉えていると思われる。まさにこの「業界初の試み」は、右翼と転向左翼が提携して推進した、戦前の国家主義運動に極めて類似的である。 http://blog.goo.ne.jp/sekiseikai_2007/e/04f064255c71681f1c64ba5e1dfa65a1 これまでの言説・運動の流れに即して考えると、この合同講演会を指標として、一つの政治的なグループ(の原型)が成立したと思う。 この共同講演会は、共通の具体的な敵に対して、部分的に共闘する、というものではない。全体共闘である。 右翼との部分共闘にも私は嫌悪感を持つが、ここでは、それですらない。そのことは、この合同講演会ポスターの、「昨年、元派遣労働者による秋葉原無差別殺傷事件が起きた。元厚生事務次官の殺害事件ではメディアはこぞって「テロ」を疑った。われわれは今後、どのような時代を迎えるのか。また、それにどう立ち向かうのか。左右の論客が胸襟を開いて徹底討論する」という案内文が示している。相互不干渉の共同行動ではなく、「胸襟を開い」た「徹底討論」が必要とされているのである。 こうした全体共闘を支える論理と心性は、佐藤優の一連の主張もそうであるが、少し前に『金曜日』の編集委員に就任した中島岳志の「勇気と寛容の精神をもって、左右の「バカの壁」を崩していかなければなりません」という主張(佐藤のコピーのような発言だが)が、よく示しているだろう。この中島の主張は、この共同講演会や、「日本社会の「壁」を崩す」なる『金曜日』主催のイベントの文章からも明らかなように、『金曜日』という雑誌自体によって支持されている。 上記の、共同講演会の報告によれば、『金曜日』は今度は『週刊プレイボーイ』と共催のイベントを行なうという。周知のように、『プレイボーイ』もここ数年は、完全に排外主義・対外強硬論の論調であり、大規模な広告とともに、そうした主張を撒き散らしている。佐藤は『プレイボーイ』で連載を持っているが、こちらでは、『金曜日』での連載とは違い、最近のイスラエルのガザ侵攻に関しても、全面的擁護の論陣を張っていた。 『金曜日』の『月刊日本』や『プレイボーイ』とのイベント共催は、佐藤が橋渡しの役割を担っていると思われる。『金曜日』は、『プレイボーイ』の次は、同じく佐藤が連載している『SPA!』あたりとの共同でのイベントを行なうだろう。『SPA!』も周知のように、排外主義・対外強硬論の論調の雑誌である。こうした形で、「左右」の「バカの壁」(それにしても下品な言葉遣いだ)を崩して、「反貧困」または「脱格差社会」を旗印にして、ある一つの政治的なグループが、メディアレベルでは拡大していくように思われる。 私は、こうしたグループを、便宜上、「レイシスト的保護主義グループ」と呼んでおきたい。それは、レイシスト的な表象に基づき、経済的保護主義を主張するグループである。昔風の、「社会排外主義」と呼ばれるものに近い。このグループは、民主党の支持勢力とかなり重なる、かつて「抵抗勢力」と呼ばれた業界団体や利権団体の支持を得ていると思われる。中心人物として、佐藤優や山口二郎、田中康夫、中島岳志、萱野稔人といった人物を挙げることができよう。 そして、このグループは、韓国の同質の問題を含む運動体との「連帯」を表明したり、自分たちに追従する在日朝鮮人をグループに組み込んだりすることで、 自身の排外主義的主張への批判を回避しようとしていくだろう。 「在日特権を許さない市民の会」のような運動体への批判は重要であるが、私は、ヨーロッパと違い日本では、こうしたあからさまな人種主義団体はたいして大きくならないと思う。社会の支配的な価値観がすでにレイシスト的であるから、大多数の大衆は、人種主義団体に加入するほど不満や焦慮を抱いていない、ということである。したがって、人種主義団体だけを嘲笑し、罵倒しているのでは、あまり生産的な行為とは言えないだろう。 フランスの国民戦線のナンバー2であるブリュノ・ゴルニシュ(Bruno Gollnisch)の口癖は、「私たちは極右でも何でもない。日本のような移民政策を理想とするだけなのです」だと言う(国末憲人『ポピュリズムに蝕まれるフランス』草思社、2005年11月、後付ⅰ頁。強調は引用者)。国末は、フランスの国民戦線のデモに参加している若者の、「私たちも移民を制限すべきだ。日本のようにね」という発言も紹介している(同書98頁。念のため書いておくが、国末には、国民戦線の人々にここまで賞賛されている日本社会批判の視点はまったくない)。 天皇制ファシズムが、ヨーロッパ流のファシズムやナチズムを基本的に必要としなかったように、象徴天皇制下の日本社会も、大規模な人種主義団体を必要としないだろう。そうした団体は、鉄砲玉としての役割を果たせば足りるのである。 むしろ、新自由主義の進行による社会統合の破綻や、自身の没落に危機感を抱く中産階級の主張は、メディア上ではレイシスト的保護主義グループの言説として立ち現れるだろう。これから何回かに分けて、レイシスト的保護主義グループの言説の特徴、構造等について述べていく。 4月14日の『週刊新潮』編集部の佐貫氏との電話において、『週刊新潮』編集部は、3月27日に送った私に関する記事についての質問状に対して、答える必要がない、答えないとの見解を明らかにした。答えない理由を聞くと、これまでも送られる質問状に全て答えているわけではなく、私の質問状も、答えるに値しないと判断したからだという(より正確に言えば、私の記事を書いた、佐藤優と昵懇らしい記者が質問状を受け取り、答えるに値しない、答えなくてよいと早川清編集長に報告し、早川編集長も承認したとのこと)。
記事で主要に取り上げ、しかも虚偽の記述(部分的には、「首都圏労働組合特設ブログ」の「『週刊新潮』の記事について」参照)を行った対象である人物(すなわち私)からの質問に対して、一切答えないとし、答えるに値しないと返答するという『週刊新潮』編集部の姿勢に、驚くとともに、改めて強い怒りを覚えざるを得ない。この雑誌は、書かれた側の反論(私はこの質問状の中で、記事中での虚偽の記述をいくつか挙げ、それが虚偽である理由を指摘している)する権利を完全に無視した上で、書いたもん勝ちだと言わんばかりに居直っているわけである。 この姿勢は、最近注目を集めている、『週刊新潮』の「赤報隊」の手記掲載の件にも相通じるものがある。『週刊新潮』も、掲載前にいくらなんでも証言の怪しさは認識していただろうが、この雑誌は、報道機関としての最低限の倫理すら持ち合わせておらず、まさに書いたもん勝ちだとして、あの手記を掲載したのだろう。 なお、手記についての連載記事の中で、手記の信憑性は高いという旨の佐藤優のコメントが載っている。佐藤のコメント自体がお笑い草だが、ひょっとすると、「赤報隊」の手記の担当記者(デスク)は、私の記事を書いた、佐藤氏と大変親しく、毎日のようにやりとりしているらしい記者と同一人物かもしれない。だとすれば、「書いたもん勝ち」という姿勢が共通するのも当然だと言える。 『週刊新潮』編集部の佐貫氏との電話のやりとり(4月11日夕方)で、重要な事実が判明したので以下、記しておく。
佐貫氏によれば、3月14日の私と佐貫氏との電話の直後(14日当日か翌日)に、『週刊新潮』編集部の記者(佐藤優氏と大変親しいらしい)が、ウェブ上からプリントアウトした私の佐藤優氏への公開質問状を渡したい旨を、佐藤氏に(佐貫氏によれば、多分電話で)伝えたという。ところが佐藤氏は、この記者に対して、公開質問状を受け取らないと答え、受け取りを拒絶したというのだ。 公開質問状を受け取った上で黙殺する、ということですらないのである。受け取り自体を拒絶しているのである。これでは佐藤氏は、私の質問から逃げ回っていると言われても仕方がないのではないか。公開質問状は、ウェブ上で既に公開しているから、佐藤氏は、私の公開質問状の内容をウェブ上で見て、答えられないと考えたからこそ、受け取りを拒絶したのかもしれない。 これで、「左右両翼からの批判について、公共圏で論じる必要がある問題提起には、投書への返信を含め、時間の許す範囲で誠実に対応してきたつもりである」(『世界認識のための情報術』金曜日、2008年7月刊、8頁)、『週刊金曜日』の「編集部経由で筆者に寄せられた照会についても、すべて回答している。筆者の反論に、批判者がどの程度、納得しているかわからないが、筆者としては誠実に回答しているつもりである。いずれにせよ、編集部を経由して、このような形で読者との双方向性が担保していることをうれしく思う」(同書、222・223頁)といったこれまでの佐藤氏の大見得は、虚構であったことが完全に示された、と言えるだろう。 そもそも、佐藤氏は、私に関する虚偽の事実の記述を含む、『週刊新潮』2007年12月6日号掲載記事「佐藤優批判論文の筆者は「岩波書店」社員だった」において、私が『インパクション』第160号(2007年11月発売)に発表した論文「<佐藤優現象>批判」について、「私が言ってもいないことを、さも私の主張のように書くなど滅茶苦茶な内容です。言論を超えた私個人への攻撃であり、絶対に許せません。そして、『IMPACTION』のみならず、岩波にも責任があります。社外秘の文書がこんなに簡単に漏れてしまう所とは安心して仕事が出来ない。今後の対応によっては、訴訟に出ることも辞しません」などと発言しているのだから、最低限、 ・金が「<佐藤優現象>批判」において、「私(注・佐藤氏。以下同じ)が言ってもいないことを、さも私の主張のように書」いた箇所はどこなのかを具体的に指摘すること ・その箇所が、単なる金の誤解ではなく、金による「言論を超えた」佐藤氏個人への攻撃であることを示すこと ・(「私が言ってもいないことを、さも私の主張のように書くなど滅茶苦茶な内容です」と、「など」と佐藤氏が発言しているので)金が「<佐藤優現象>批判」において、「私が言ってもいないことを、さも私の主張のように書」いたこと以外のどの箇所が、「滅茶苦茶」で、「言論を超えた私個人への攻撃」であるかを示すこと は、佐藤氏の義務である。そうした義務を今日に到るまで果たすことなく、しかも、私からの公開質問状の受け取りまで拒絶しているのであるから、これでは、金の論文が、「私が言ってもいないことを、さも私の主張のように書くなど滅茶苦茶な内容」であるという佐藤氏の発言はデマで、『週刊新潮』上記記事での佐藤氏の発言は、金の論文に対して、自分の正当性を誇示しようと虚勢を張るためのものだった、と言われても仕方がないだろう。 また、『週刊新潮』上記記事を書いた記者は、佐藤氏と大変親しく、毎日のようにやりとりしているらしいと、『週刊新潮』編集部員は私に明言している。とすると、『週刊新潮』上記記事は、佐藤氏が『週刊新潮』の懇意の記者に書かせたものだとする、『実話ナックルズRARE』第1号(2008年10月売)や『中央ジャーナル』203号(2008年11月25日発行)の報道は、事実を伝えている可能性が高い、と言えそうである。 なお、前にも書いたように、自身のブログで佐藤氏を批判する記事を書き、佐藤氏批判の内容を含む本を刊行することを明言した原田武夫は、本の刊行直前、『週刊新潮』に大々的な中傷記事を書かれており、佐藤氏の怒りを買ったらしい『AERA』の大庭記者も、『週刊新潮』に中傷記事を書かれている。佐藤氏の怒りを買ったと思われる書き手について、『週刊新潮』が中傷記事を書くというケースが、私の件も含めて、3つも続いているのだ。佐藤氏と大変親しく、毎日のようにやりとりしているらしい『週刊新潮』の記者が、私に関する記事を書いているのだから、他の2つの記事に関しても、この記者の執筆、佐藤氏のこれらの記事への関与の可能性を疑う方が自然であろう。『週刊新潮』記事に佐藤氏が関与しているのならば、佐藤氏は、小林よしのりが佐藤氏を評したあだ名、「言論封殺魔」そのものである、ということになる。 以前の記事で、「今後、何らかの件で佐藤氏と接する機会のある人々は、佐藤氏に、金に公開質問状への回答を送るよう、佐藤氏に催促してほしい。佐藤氏の講演会で、この件に関して佐藤氏に質問をするのも面白いのではないか」と書いたが、改めてそのことをくり返しておこう。今後も引き続き、何らかの形で佐藤氏に回答させるよう、佐藤氏が自己の義務を果たすよう、行動していく。 読売新聞の3月14~15日の世論調査によれば、「今の憲法を改正する方がよいと思う人は51・6%と過半数を占め、改正しない方がよいと思う人の36・1%を上回った。/昨年3月調査では改正反対が43・1%で、改正賛成の42・5%よりわずかに多かったが、再び改正賛成の世論が多数を占めた」とのことである。
http://www.yomiuri.co.jp/feature/20080116-907457/news/20090403-OYT1T00006.htm?from=nwla 憲法9条に関しては、「「解釈や運用で対応するのは限界なので改正する」38%が最も多く、昨年(31%)から増えた。「解釈や運用で対応する」33%(昨年36%)、「厳密に守り解釈や運用では対応しない」21%(同24%)は、ともに昨年より減少した」とあるから、9条改正派が多数を占めたとまでは言えないだろうが、「解釈や運用で対応する」という33%の中には、民主党の安全保障基本法路線の支持者のように、改憲派が強くなれば、遠慮なく明文改憲を支持するようになる人々も多いだろう。改憲への「賛成派は自民支持層で54%(昨年比7ポイント増)に増え、民主支持層で53%(同12ポイント増)に急増した」とあるから、そうした人々も、今後は改憲派に移行していくのではないか。改憲論が復調したようである。 同紙は、この事態について、「国際貢献のための自衛隊の海外派遣が増えたことや、ねじれ国会での政治の停滞などで、今の憲法と現実との隔たりを実感する国民が増えたためと見られる」と、解説している。「ねじれ国会での政治の停滞」はさておき、「国際貢献のための自衛隊の海外派遣が増えたこと」が改憲論の復調の一因であるとの説明は、私も正しいと思う。改憲論の復調については、もう一つ、最近の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)のロケット打ち上げ(注)とそれへの日本政府の対応の件も含む、日朝関係の緊迫化を挙げることができよう。 私は2007年11月に発表した「<佐藤優現象>批判」で、山口二郎ら「平和基本法」の、対テロ戦争への協力や軍事的な「国際貢献」を容認するような「護憲論」であれば、改憲した方が整合性があるのだから大衆は改憲を選ぶであろうこと、また、護憲派が、日本政府の対北朝鮮強硬論や、日本社会に渦巻く北朝鮮バッシングに沈黙するか、もしくは自らも対北朝鮮強硬論を唱える(佐藤優の重用はその変奏である)かして、仮に「護憲派」を増やしたとしても、「対北朝鮮攻撃論が「国民的」世論ならば、そんな形で増やした層をはじめとした護憲派の多くの人々は「北朝鮮有事」と共に瞬時に改憲に吹っ飛ぶ」であろうことを指摘した。 手前味噌になるが、論文発表以降、今日の改憲論の復調に至るまで、基本的には上記の指摘通りに進んでいるように思う。「憲法9条は日本のナショナル・アイデンティティ」といった類の解釈改憲的護憲論や、有名人を多用したポピュリズム的護憲論は、結局、大して効果がなかったようである。大衆は馬鹿ではない。 ただし、改憲論の復調という事態に直面した護憲派ジャーナリズムは、上記の指摘に耳を傾けるどころか逆に、「自分たちが不徹底だったのが敗因」と「反省」して、上記の指摘で批判したまさにその傾向を、ますます強めていくだろう。 ロケット発射後、自民党内では、「発射基地への先制攻撃を想定した自衛隊の「敵基地攻撃能力」保有」の声が出てきている。山本一太参院議員は「対北朝鮮に関しては、自衛権の範囲内での敵基地攻撃を本気で議論することが抑止力につながる」と明確に主張している。こうした動きは、読売新聞の上記の世論調査の結果を意識した上で起こっているように思う。 http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2009040600796 http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090406/stt0904062026007-n1.htm (注)それにしても、北朝鮮が打ち上げたロケットについて、ほぼ全ての日本のメディアが、何の留保もなく見出しで「ミサイル」と表現していることには唖然とせざるを得ない。日本政府の見解は、「ミサイル関連飛翔体」(4月6日以降)であるから、それをも通り越している。 なお、用語の件については、韓国の中央日報(保守系)が触れている。 「衛星・ミサイル・ロケット…国の利害関係で変わる用語」 http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=113704&servcode=200§code=200 「資料庫」に金玟煥(キム ミンファン)「日本の軍国主義と脱文脈化された平和の間で ―― 沖縄平和祈念公園を通して見た沖縄戦を巡る記憶間の緊張」を掲載した。是非ご一読いただきたい。
http://gskim.blog102.fc2.com/blog-entry-18.html 著者のキムミンファン氏は、1972年生まれの、文化社会学専攻の研究者である。同論文は、もともと、「2003年度~2006年度科学研究費補助金 基盤研究(A)研究成果報告書 変容する戦後東アジアの時空間――戦後/冷戦後の文化と社会」(研究代表者 中野敏男、2007年6月)に収録されたものである。私は、その報告書でこの論文を見つけ、大変面白く読んだ。このたび、御本人のご了承をいただき、公開した次第である。なお、「現知事」「前知事」などの表現は、発表時(2005年11月)のものであることを付記しておく。 以下、蛇足ながら、私の問題関心に引き付けた上での内容紹介も交えつつ、この論文から受けた示唆について書きたい(念のために付記するが、現在の沖縄戦集団自決論争や<佐藤優現象>等に関する以下の見解は、私のものであって、キムミンファン氏のものではない)。本論を読めば明らかだと思うが、キムミンファン氏は、私よりもはるかに沖縄の左派への期待が強く、その視線は温かい。氏の指摘は、「連帯」への呼びかけとして受け止められるべきであろう(私の指摘もだが)。 キムミンファン氏はこの論文で、原爆被害等により日本人一般が、自らの加害責任を問うことのないまま、自らを戦争の被害者であると捉えがちであり、特に、広島の原爆被害が、「「平和」に関する言説と結合して日本人たちを犠牲者意識に浸らせ、日本がアジア-太平洋地域で行った侵略者としての姿を批判的に捉えることを不可能にさせる機能を担っている」点を指摘している。 そして、広島の平和博物館の館長の発言を引くなどしながら、こうした、日本人の加害責任を問わずに、日本人を戦争被害者とする立場から発せられる「平和」の声を、「歴史的な文脈が除去された「平和」」だとしている。 そして、注目すべきは、キムミンファン氏が、沖縄における沖縄戦の表象をめぐる政治的対立について、単なる右と左という対立図式を採らず、日本の侵略責任を問う立場と、「靖国」的な立場、「広島」的な立場――「歴史的な文脈が除去された「平和」」をそれぞれ別のものと捉えていることである。 その上で、キムミンファン氏は、沖縄戦に関する施設について、稲嶺恵一前知事ら沖縄の保守派が図ったのは、「靖国化」というよりも「広島化」であり、沖縄で日本の侵略責任を問う立場の人々は、「靖国化」への動きだけではなく、「広島化」への動きとも争わなければならない、とする。 そして――私の問題関心からは、特にこの点に注目したのだが――キムミンファン氏は、1990年代に日本の侵略責任を沖縄で問うていた人々が推進した「平和の礎」も、「広島化」への口実を与えているのではないか、と提起するのである。「平和の礎」の、「加害者と被害者を区分せず追悼しようとする試み」について、光州事件などの例も挙げながら、キムミンファン氏は、以下のように述べている。 「加害者と被害者の間に存在する差異を無化させるこのような論理は、特定の事件をそれが発生した歴史的文脈の中から抜き出して永遠に加害者と被害者の間の差異をなくす効果を発揮する。加害者と被害者の間の差異が消滅したその場所には、つまり過去にどのようなことがあったかが正確に語られない場所では、逆説的に「未来が忘却 」されてしまう。」(強調は引用者) このような論理は、あと一歩で「歴史的な文脈が除去された「平和」」、「広島」的な立場に容易に移行してしまう。いや、イコールだ、と言ってしまってもいいかもしれない。そしてキムミンファン氏は、1995年の「平和の礎」の建立発表の時には「全ての戦争犠牲者を同一視し、日本の戦争責任に関する問題を曖昧にする」として反対の声が見られたが、2004年段階では、こうした論争が沖縄では「収束」したことになっている、ことを指摘している。 この論文が示唆してくれる点は多々あるが、私が非常に興味深く思ったのは、この論文が、直接には意図されていないにもかかわらず、現在の沖縄戦集団自決に関する論争の構図それ自体を、根本的に問うものとなっていることである。 以前にも書いたが、現在の沖縄戦集団自決に関する論争をめぐる沖縄の左派の言説で特筆すべきなのは、「集団自決の日本軍による強制性の歴史教科書への記述を勝ち取り、「従軍慰安婦」や朝鮮人強制連行も歴史教科書へ改めて記述されるようつなげていこう」という声が、ほとんど見られない点である。 それどころか、沖縄の左派やメディアは、沖縄問題で佐藤優を重用する点に示されている(最近、ようやく目取真俊氏からの批判が出たが)ように、中国や朝鮮と、沖縄を一緒にされたくない、という意識で動いているように見える。これは、沖縄では、戦前の沖縄人の、台湾や東南アジアへの侵略主義的な進出という加害の側面が、全くといっていいほど問われないまま今日に至っていること(こうした加害の歴史を隠蔽しながら、「平和の島」を自称する欺瞞を暴いた吉田司『ひめゆり忠臣蔵』も、現在の沖縄の左派は完全に黙殺してしまっているようである)と、完全に対応している。 現在の沖縄戦集団自決をめぐる言説状況に関しては、沖縄の保守派までもが、教科書からの集団自決の強制性の記述の削除に抗議していることが強調されるが、キムミンファン氏の指摘を念頭に置けば、それは特に驚くほどのことでもあるまい。沖縄の保守派が志向しているのは、恐らく、「靖国化」ではなく、「広島化」なのであるから。そして、キムミンファン氏の論文が示唆してくれていると思うのだが、沖縄戦集団自決訴訟や教科書問題がはじまる以前に、すでに、沖縄の左派の「広島化」はほぼ完了していたのではないか。少なくとも言説レベルでは、沖縄は、ほぼ<島ぐるみ>で、「広島化」しているように見える。 沖縄は、戦後民主主義的な言説や価値観が日本で一番強く存在している空間のように見えるが、だとすれば、戦後民主主義的な欺瞞もまた、日本で一番強く存在している、ということになる。沖縄において、本土以上の強さで<佐藤優現象>が成立していることには、こうした背景があると私は思う。 そして、いささか出来すぎているとさえ思えるのだが、「平和の礎」建立の最大の立役者である、大田昌秀元沖縄県知事は、沖縄における佐藤を熱心に擁護している。 また、キムミンファン氏が論文で指摘しているが、稲嶺前知事時代の県当局が、平和祈念資料館の展示計画の変更に際して、アジア-太平洋地域の平和維持のためのアメリカ軍の役割を強調したように、「広島化」された、「歴史的な文脈が除去された「平和」」は、「日米同盟」にも親和的である。沖縄戦集団自決をめぐる論争で見られる沖縄の<島ぐるみ>の「広島化」は、沖縄県内での米軍基地のたらい回しという現状を、補完することになるだろう(注)。 付け加えておくが、「加害者と被害者の間に存在する差異を無化させる」論理は、決してキムミンファン氏が取り上げた例に限られない。最近話題になった、村上春樹のエルサレム賞受賞スピーチはその典型であろう。 村上はここで、徴兵されて中国戦線で従軍していた自分の父親が、戦後、「敵であろうが味方であろうが区別なく、「すべて」の戦死者のために祈っていた」ことを述べた上で、「私たちは、国籍・人種を超越した人間であり、個々の存在なのです。「システム」と言われる堅固な壁に直面している卵なのです」、「「システム」がわれわれを食い物にすることを許してはいけません」と説いている(「47トピックス」の訳文を便宜上、使わせていただいた)。 ここでの発言が、パレスチナ問題をも念頭に置いていることは明らかだが、村上の論理からすれば、イスラエルが加害者であって、パレスチナ人が被害者であるというごく当たり前の関係性がぼかされ、悪いのは、「システム」ということになってしまう。もちろんそれは、パレスチナの土地を奪い、パレスチナ人への虐殺・抑圧を続けているというシオニスト国家の加害責任、そして、そうした国家を支援する国家(例えば、大韓民国や日本国)の国民として少なくとも有する政治的責任を、捨象する機能を果たすことになる。ここでは、「歴史的な文脈が除去された「平和」」が、どれほど容易に政治的な機能を果たすかが、ほぼ完璧に示されている。 村上の発言の政治的機能を考える上では、例えば、イスラエルの擁護者の佐藤優を重用する、北村肇『金曜日』編集長の見解が参考になろう。檜原転石氏のブログ(「ヘナチョコ革命」)の3月21日の記事によれば、北村編集長は、イスラエル問題(ガザ侵攻の件?)に関する檜原氏の質問に対して、「「真の敵はシステム」(「イスラエル悪玉論」だけではことの本質が見えない)」という趣旨の回答を行なったという。北村氏は『金曜日』のホームページの自身の連載(「一筆不乱」2009年1月16日付)でも、イスラエルのガザ侵攻について、イスラエルの行為を「暴挙」としつつも、「むろん、単純に、「イスラエル悪者論」を唱えるわけにはいかない。ハマスにもアラブ各国にもさまざまな思惑があるのは事実だ」と述べている。これでは、檜原氏も指摘しているように、「どっちもどっち」という主張と大差ない。まさに、「加害者と被害者の間に存在する差異」が、「無化」されている。 現在のリベラル・左派の言説は、「歴史的な文脈が除去された「平和」」意識、「脱文脈化された平和」意識に覆われている。ここに、積極的に見出だすべき価値は、残念ながら、ないと言わざるを得ないのではないか。こうした言説状況こそが、<佐藤優現象>や、リベラル・左派の「国益」論的再編を促進している、と私は思う。 (注)この補完関係については、「<佐藤優現象>批判」注の「(52)」でもすでに述べたので、引用しておこう。 「佐藤ら右派が「日米同盟」の堅持を主張しながら、集団自決に関する教科書検定で文科省を批判することはおかしくない。アメリカの有力シンクタンクも、沖縄での米軍基地の拡張・新設にあたって、「台湾海峡という紛争水域周辺の重要な地域に足場を確保するために」、沖縄に海兵隊撤退などの「見返り」を与えることを主張している(浅井基文『集団的自衛権と日本国憲法』集英社新書、二〇〇二年二月、六三頁)。「見返り」には、歴史認識に関する沖縄の声に日本政府が配慮することも含まれよう。無論、「日米同盟」を支持するリベラルによる文科省批判も、同様の計算が多かれ少なかれ働いていると見るべきだろう。」 なお、佐藤学(教育学者ではなく、沖縄在住の政治学者)も、2007年9月29日の「教科書検定意見撤回を求める県民大会」に自民党が仲井真知事の参加を許したのは、基地移転問題や米軍による住民被害の問題への「ガス抜き目的」である可能性を指摘している(佐藤学「県民大会成功の陰で」『世界』臨時増刊「沖縄戦と「集団自決」」、2008年1月)。 また、2004年の沖縄国際大学への海兵隊ヘリ墜落直後の抗議集会に比べ、「明らかに、今回の教科書問題に関しては、自民党の対応が異なる」としており、「県民大会は、基地問題全般における、国の政策に対しての沖縄からの抗議表明とは考えるべきではない。県民大会で示された力は、あくまでも教科書検定問題限定であり、それを超えることはない。むしろ、基地問題に関しては、逆向きに働きつつあるのかもしれない」と述べている(強調は引用者)。
|