『週刊金曜日』とうとう<佐藤優現象>末期症状で右側レーンを逆走行
実は、北村編集長のコラムについて、そのトンデモぶりにつっこみを入れたものを書いたのだが、まともに相手しているうちに馬鹿馬鹿しくなって一度公開したがボツにした。
ところが、ボツにしたタイトルが残っているのと、検索ワードに記事のフレーズが出ているので、書き直すことにした。いつもこのブログに立ち寄ってくれている方、「あれ?」と思われたでしょう。ごめんなさい m(_ _)m
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「北村編集長 おつむは大丈夫ですか?『週刊金曜日』の「特集 天皇制」&北村編集長の編集長後記は『週刊金曜日』の迷走そのままにコンヒュージョンしてますよ。」
このブログの以前の記事、
「『週刊金曜日』編集長、極右TVに出演」 、「『週刊金曜日』北村編集長の天皇制擁護論」 で極右TVチャンネル「チャンネル桜」での北村編集長の天皇制擁護論を批判した。そして「右翼だけに自身の天皇制擁護の考えを説明するのではなく、天皇制反対論者がほとんどと思われる読者にきちんと説明しなければいけないだろう。」と書いたが、『週刊金曜日』(2009.5.1号)北村編集長の編集長後記(ネット版 コラム「一筆不乱」)で自身の天皇制擁護論を展開した。
「親米の民族派」という大いなる矛盾」
http://www.kinyobi.co.jp/henshucho/
北村編集長の天皇制擁護論は、天皇教信者、極右の古典的な主張そのもので、彼の主な主張は「天皇制が中心となり国家が成立する」、「天皇制は日本古来の伝統と文化」、「天皇を戴いた日本は四民平等」など、現代では無知蒙昧の右翼でなければとても本気で思っているものなどいない。ましてや、『週刊金曜日』の読者がこれを受け入れるとは思えないはず(?)
この北村の主張に対する私の批判は、以前の記事 に書いている。特に、以下に再掲示する辺見庸氏の発言には全てが含まれる。
・・・
天皇制をなくしてこの国はやっていけないのかーーこれは、マスコミ、思想界が故意にさぼり、自己規制してきた重大テーマです。
・・・
我々の個、自我が発する論理のプロセスには、天皇制という見えない非言語系の縛りと心的規制が常に災いしている。それが世間というものをつくっていく。そのプロセスに共同的幻想として天皇制がある。そこから見えない身分制も派生する。とりわけ敗戦国であるこの国は天皇制を倫理的な土台として利用しながら朝鮮を支配し、中国侵略をしてきたことに対する歴史的な反省を、アカデミズムの世界もマスメディアの世界も怠ってきた。天皇制については共産党も社会党も同様に熾烈な議論を避けてきたと思いますよ。そこの戦後民主主義の虚妄の根源があると思いますね。
付け加えると、問題の編集長後記が載った『週刊金曜日』(2009.5.1) の特集「天皇制」の記事は、裕仁の戦争責任には言及しているが、「天皇制」そのものの原罪にはまったく触れていない。だから、天皇制が台湾、朝鮮、中国、東南アジアの国々を侵略し他民族を植民地支配したことなどまったく言及していない。これは北村編集長のコラムの支離滅裂な天皇制擁護論がぎりぎりの線で成り立たせるために意図したものだと思われる。
「天皇制擁護」は週刊金曜日編集部の総意ということなのだろう。
注目するのは、この北村編集長のコラムのタイトルが「「親米の民族派」という大いなる矛盾」という点だ。
この天皇制について書かれた支離滅裂なコラムで批判されているのは、天皇制ではなく米国と親米派右翼なのだ。日本の米国属国化を批判しているわけだが、そこには裕仁に全ての責任を負わせ、天皇制そのものは守るべき「日本の古来からの伝統と文化」という屈折した天皇制擁護論がある。*1
北村編集長の民族ナショナリストという立ち位置を表明したわけだが、当然リベラル・左派の読者に容認されると確信しているのだろう。この北村にとって民族主義ナショナリズムは、左右の壁のない共通した立場なのだ。
これはまさに<佐藤優現象>そのものである。
左も右も民族主義・国家主義の独善的視座でしか見えなくなっている。*2
敗戦前の日本人に回帰したわけだ。
*1) 北村は
ー 実は、反天皇制を掲げる側にとってこの事態は厄介である。昭和天皇がすべての戦争責任を負うことで、「日本の伝統と文化を継承する皇室制度」は無傷ですむからだ。」 ー
と、訳のわからないことを言っているが、どうも本気でそう思っているらしく、そうなると昭和天皇に全てに戦争責任を負わせ「日本の伝統と文化〜」を守る立場の発言をしている北村は、反天皇制側の敵ということになる。
*2) 右翼だけど赤尾敏氏が良いことを言っている。(笑)
「今の右翼は口ばっかでね、いい加減なことばっかやってんだよ。民族主義なんて言葉だってそうだ。民族主義なんてものはいかんよ、君! そんなことで世
界が平和になるか。キリストでも釈迦でも孔子でも、民族の道は説いていないよ。人類普遍の道を説いているんだ。共産主義も世界的だよ。民族を超えてるん
だ。民族主義なんて、バカの言うことだ。日本民族だけがよければいいというのは、民族利己主義じゃないか。宇宙を支配する神の道があるんだ。天の理法は世
界共通だから、それで平和をはからにゃいかん」
http://www.hh.iij4u.or.jp/~iwakami/right1.htm
おまけ
実は、反天皇制を掲げる側にとってこの事態は厄介である。昭和天皇がすべての戦争責任を負うことで、「日本の伝統と文化を継承する皇室制度」は無傷ですむからだ。
意味がわからない。なぜ昭和天皇が戦争責任を被ると、皇室制度が無傷で済むのか。それでは、これまで昭和天皇の戦争責任を回避してきたのは何だったのだ。昭和天皇の戦争責任を追及してきた反天皇制側が困ることは何もない。まったく北村は何が言いたいのだろう。
皇室制度は、日本の伝統と文化じゃない。皇族だけが継承している閉鎖した伝統。
しかし、ここに「米国」という要素を持ち込むと、天皇制は別の矛盾にさらされる。本誌今週号で特集したように、政治家・昭和天皇が事実上、日本の米国属国化を認めたことは、最近の研究から明らかである。そして、米国の支配下におかれることで、当然のことながら「日本古来の伝統と文化」は大きく揺らいだ。
「日本古来の伝統と文化」ってなにさ。日本国が成立した時に、日本古来の伝統と文化は西洋文化を受け入れることで葬り去ったのではないか。天皇制や北村の言う「日本古来の伝統と文化」は、近代に創られたフィクションだ。そもそも日本成立以来、欧米の配下だ。欧米に逆らったのは一時的なもの。結局元の鞘に収まっただけ。
評価は別にして、「天皇を戴いた日本は四民平等である」というのが皇室制の柱の一つだろう。どう考えても、米国のような優勝劣敗思想の国とは相容れな い。むろん、新自由主義の導入など、到底、許されるものではないはずだ。「情けは人のためならず」が、本来の意味とは真逆に解釈される社会、それがアメリ カナイズされた今の日本である。
極右の戯れ言。天皇制自体が身分制度。四民平等とは身分間での通婚や職業選択の自由などをいうことで、皇族、華族は存在しいる。本当の平等ではない。そして天皇の名で侵略した他国の民族を支配し最下層階級にし奴隷の如く扱ったことはどうなんだ。
平等思想は米国からの輸入だ。米国の優勝劣敗思想は身分階層がないことの証でもある。もちろん米国に人種差別はあるのだが。
「(天皇制ならば)新自由主義の導入など、到底、許されるものではない」などと言うが、天皇制帝国主義の日本社会には、裸の資本主義が跋扈していたではないか。一方には途方もない富を独占する財閥一族と一方には子供を女郎小屋に売る多数の貧農が当たり前に存在する社会だったではないか。
天皇制を美化するあまり、このようなデタラメを言ってはいけない。
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