2009年05月06日

パーティー・ジョークと記号論

 

 寺島実郎の発言

思潮21「主体的日本とは何か」

朝日新聞2006116日(夕刊)掲載  

<引用開始>

欧米社会での欧米社会でのパーティー・ジョークで何度となく聞かされた定番の話がある。 「沈没した客船の救命ボートで、誰かが犠牲にならないと全員が死ぬという極限状況が生じた。 英国人には『あなたこそ紳士だ』というと粛然と飛び込んでいった。 米国人には『あなたはヒーローになれる』というとガッツポーズで飛び込んだ。 ドイツ人には『これはルールだ』というと納得した。 日本人には『皆さんそうしてますよ』というと慌てて飛び込んだ。 という小噺である。国民性をからかう笑い話なのだが、昨今、とても笑う気になれない。 <中略> 改めて、イラク戦争に向かった局面で、この戦争を支持した日本のメディアの論説と知識人の発言を読み返し、その見解を支えた情報基盤の劣弱さと時代の空気に迎合するだけの世界観の浅さに慄然とさせられた。真摯な省察がなければ、こうした失敗は繰り返されるであろう。

 貧困な判断が繰り返される事態の本質を突き詰めると、戦後六〇年を経てもなお、米国への過剰依存と過剰期待の中で思考停止の中にある日本という姿が見えてくる。

<引用終了


郷原信郎氏の著書「思考停止社会」から

 <引用開始> 食の偽装、建築の強度偽装、ライブドア事件、厚生年金記録の「改ざん」問題。取り上げられる事例に共通することは、コトが表面化した途端に企業、組織がメディアや世の中からバッシングされ、事実や背景、原因は無視される構図だ。

 「法令遵守」「偽装」「隠蔽(いんぺい)」「改ざん」「捏造」バッシングに使われる言葉の数々を、時代劇になぞらえ「印籠(いんろう」と呼ぶ。

 日本人は「印籠」を出されるとひれ伏してしまう。メディアも世の中もバッシングに加担。思考停止です。
<引用終了

419日 朝日新聞 

 「記号論」を文章で説明するのは実に難しいのですが、「記号論」を知らなければ現在の日本社会の暗部は見えてきません。反対に「記号論」の世界を知ることにより、これまで見えていなかった世界が見えてきます。「目からウロコ」とは言いませんが、「記号論」を意識した生き方をするのとしない生き方をするのでは、人生の意味も大きく変わってしまうことでしょう。

なぜ、このような会社のブログで「論」について書かねばならないのを先に申し上げておきます。 日本人はマスコミに洗脳(マインドコントロール)されていることに気がついていないからにほかなりません。もちろん「記号論」をご存知の上で「最後のパレード」の著者や出版社をバッシングしているのかも知れませんが、「記号論」を知らない読者の方にも「記号論」の存在だけでも知っていただきたいと思い、私が知っている「記号論」を手短に書かせていただきたいと思います。

「記号論」の記号とは、ひとまず皆さんが思い浮かべる記号とお考え下さい。トイレの男女のマークや交通標識などはみな記号です。そのトイレの記号を見れば誰でも自分が「行くべき場所」が分かります。止まれの交通標識を見れば誰でも「とるべき行動」が分かります.

このように、誰でも同じものを関連させる情報が「記号」なのです。別に悪いものではありません。見る人に共通の概念を伝える記号は、異文化間コミュニティーにも役に立つ、とても便利なものです。

次に、こんなシーンを思い浮かべてみてください。
大きな「のれん」がかかった割烹の店先には「打ち水」と「盛塩」が・・・

この情報から皆さんに何が伝わりましたか。たぶん、「打ち水」からは「清潔さ、ネタの新鮮さ」を、そして「盛塩」からは「伝統」が皆さんにインプットされたことでしょう。つまり、情報の送り手であるこのお店は、情報の受け手である皆さんに、「打ち水」により「清潔さとネタの新鮮さ」を、「盛塩」により「伝統」を印象づけることに成功したということです。

あるいは・・・
無垢の木をふんだんに使ったペンションの暖炉の前にロッキングチェアが二つ並んで置いてあったら・・・情報の受け手である皆さんに何が伝わりますか。「カップルを大事にしている」という良いイメージが伝わることでしょう。

そうです、まさにこの「打ち水」「盛塩」「ロッキングチェア」が「記号」なのです。送り手が伝えたい情報の「シンボル」であると言ってもよいでしょう。

これらの記号も別に悪いものではありません。企業は商品の差別化のためこぞって世にオリジナルの記号を発信し続けています。

さて、問題はこの記号が「権力」や本来権力を監視するべき立場の「マスメディア」の広告宣伝に利用されたらどうでしょうか。
実に恐ろしいことがおこるのです。それは「大衆操作」「情報操作」「大衆洗脳」「マインドコントロール」という言葉で表される「思考停止人間の大量生産」なのです。

どうしてそんなことができるのでしょうか。それには広告の持つ特性を理解することから始まります。

広告とは
◇お腹はみたされていてもその野菜をたべたくなるような好みを植えつける。
◇デザイナーブランドの服に身を包み、有名百貨店の紙袋を下げて街を闊歩するとき、私たちはまさにサンドイッチマンとして広告している。
◇広告はそこにいる人が「広告である」と認知しないようなカタチで寄生してくる。
◇人間は利益のためなら、いとも簡単に美しい言葉や見事な論理を作り出すのです。
「広告都市・東京その誕生と死」北田暁大著 広済堂出版より

記号も同じです。記号の送り手は、人をマインドコントロールさせる「記号」であると人々が認知しないようなカタチで受け手に送りつけてくるものです。

コインには裏表がありますが、表の情報とともに裏の情報も同時に思考回路にインプットされる、と言っても良いのではないかと私は思います。同質社会を好む日本人は「みんなが、みんなが・・・」という大衆支持の多寡が、個人の意思決定の判断基準になってしまっています。

みんながコインの表面を良いと言っている・・・裏面もきっと良いのだろう。こんな風に考えさせるような情報を送り手は、受けてである消費者、生活者に送りつづけてくるのです。
そして、これらの記号化された情報をインプットしつづけると、人間は「思考停止状態」になります。

表と裏、現実と虚構の違いが区別できなくなり、人間はまるで「条件反射」のように、情報発信者の意図するままに動くようになってしまうのです。

街には記号が氾濫しています。記号により、あの「サラ金」でもなんとなく「庶民のみかた」に思えてしまい、後悔している人も多いでしょう。メディア・リテラシ-同様、記号を「見極める目」がこれからは問われることでしょう。

自民党のタウンミーティングでの「やらせ」が大問題となりましたが、このタウンミーティング自体が、小泉内閣の「記号・シンボル」として情報の受け手である国民に放たれたものであるのかもしれません。もっと言えば、そう、小泉前総理自らが「記号・シンボル」と自覚して活躍していたのではないのでしょうか。そう考えることにより、郵政選挙の自民党大勝利の多くの疑問点の「謎」も解ける、そんな気持ちにもなってきます。

最後に、
「記号論」といえば映画「トゥルーマン・ショー」を思い出します。ひょっとしたら読者の皆さん自身もすでに「トゥルーマン」であるのかも知れません。お気をつけになった方がよろしいのではないか、私はそう思いますが・・・