そもそも謎だと思うこと自体が主観であり、
基のデータには客観的な謎が存在してるわけではない。
(森博嗣 『φは壊れたね』)
高速道路から降りて市街地を抜けて山道を通過すると
工藤さんの別荘が見えてきた。
森の中に佇む二件の、木造二階建ての建物。
どっちが工藤さんの所有する別荘ですか、
と聞くとどっちも、と答えた。
到着したのは夕方だったので、
部屋割りしておこうということになった。
「本当なら、片方の建物を新山さんと菊池さんの男性棟に、
もう片方を女性棟にしようと思っていたのですが、
菊池さんが風邪でノックアウトされてしまったみたいですから、
私と中川さんでこちらの建物に、
新山さん兄妹はこちらの建物に泊まりましょう」
それでいいよ、と俺は承諾した。
「殿方と一緒の建物に泊まって夜這いかけられて、
スーフリ事件みたいなことになったらたまりませんからね」
工藤さんは冗談で言ったつもりなんだろうが笑えなかった。
俺にとっては本当に工藤さんを襲いたいくらいだった。
ヘレンが腕によりをかけて
おいしいカレーを作るって言い出したので、
工藤さんと俺と中川さんは部屋に篭って勉強、
料理苦手なヒルダは読書、そしてヘレンは
一階のキッチンで料理して時間を潰すことになった。
合同勉強会は明日からで、今日は個別に勉強!
が、俺は勉強なんてもっぱらする気がなかったので
林道をぶらぶら歩いていた。
常に音の刃に傷つけられているような
喧しい都会とは違って森は静かで心が和んだ。
木々に夕日が落ちるさまは美しく、
夏なのに西日は緑樹を紅葉に染めていた。
俺が別荘に帰ると一階は
カレーのおいしそうな匂いで充満していた。
「もうすぐできるからね、おにいちゃん。味見する?」
「いや、夕食のときまで楽しみに待ってるよ」
二階の奥の俺の部屋に戻ると、
俺は信じられないものを目にした。
三角帽子をかぶっているだけで、
他に何一つ身に纏っていないヒルダが、
床にロープと蝋燭で魔方陣を作って怪しい呪文を唱えていたのだ。
「ヒ、ヒルダ、何やってるんだお前は!」
「あ、お兄ちゃん、お帰りっ。
なにって、お兄ちゃんを悪霊から守る儀式だよ」
「そんなもんしなくていい! 早く服着ろ!」
「駄目だよ、この部屋はまだ結界張ってないんだもん〜」
「まさか、お前、
新山家の俺の部屋でもこんなことやってたのか……?」
「うんっ」
「いらないからそんなこと! 早く服着ろ!」
俺は床に脱ぎ捨ててあったヒルダの服と下着を取り、
ヒルダに無理矢理着させようとする。
ヒルダの膨らみかけの乳房と、
無毛の…………が、引力のように俺の視線をひきつけるが、
なるべく見ないようにしながらヒルダに着衣させる。
その時ドンッと扉が開いて中川さんが飛び込んできた。
「新山さん大変です! って、なんですかこの部屋は!?」
駆けつけた中川さんは不気味な魔方陣を見て驚く。
「いや、妹がいたずらをね……」
あと1分早く中川さんが来ていたら
とてつもなく危険な勘違いをされていたに違いなかった。
俺ははらはらして口から心臓が飛び出そうになる。
「そんなことより、工藤さんが! 工藤さんがっ!」
「工藤さんに何かあったのか!?」
「とにかく来てください!」
俺とヒルダとヘレンと中川さんで、
工藤さんたちの宿泊する建物に走る。
二階の工藤さんの部屋、扉を開けると、
血にまみれた工藤さんが部屋の中央に横たわっていた。
「うわぁっ」
俺は思わず叫び声を上げて尻餅をつき、
慌ててその場から逃げだそうとする。
「わっ」
ヒルダとヘレンもその惨状を見て驚く。
ただ俺と比べると動揺が少ないようだった。
「くっ、工藤さ……ああ……な、なんなんだ……!
し、死んで……るのか……?」
「大丈夫ですかっ、新山さん!
私の部屋に行って落ち着きましょう」
俺は腰を抜かしてしまい、
ヒルダとヘレンの肩を借りて中川さんの部屋に行った。
「工藤さん、工藤さんが……」
俺は涙ながらに連呼していた。三人がその様子を哀れむ。
「私たちも危険です、工藤さんを殺害した誰かが、
この辺りにいるってことですから……」
俺が落ち着きを取り戻してから、
深刻そうな声で中川さんが言う。
「ああ、そうだな。今からは四人で行動した方がいい。
一人でいると何があるか分からない。
工藤さんを殺した奴が、
またこの建物に侵入してくるかもしれない」
「いや、もしかしたら犯人は中川さんかもしれないわ」
ヒルダが睨むように中川さんを見る。
中川さんは驚く。
「おい、馬鹿なことを言うのはやめろ!」
「中川さんはあの死体にどうして気付いたの?」
「えっと、そろそろ夕食ができた頃かなと思って、
工藤さんを呼びに行ったんです。
そしたら、工藤さんがあんなことに……」
「それって変じゃない?
中川さんはこの部屋で勉強していたんだから、
隣の部屋で工藤さんが殺されるときに、
悲鳴を聞いたはずでしょう?
相手が見知らぬ人間だったら、
抵抗して物音だって響いたはずだし」
確かに、言われてみればそうだった。
だがしかし、仲の良かった中川さんが
工藤さんを殺害するなんて想像もつかない。
「眠っていたんじゃないでしょうか?」
ヘレンが思いつく。
「あ、もしかしたらそうかもしれません。
私は悲鳴とか、物音とかは聞きませんでしたから……」
でも工藤さんは部屋の真ん中に横たわっていたはずだ。
そんなところで寝ていたというのは不自然である。
ベッドの上から移動させたのか?
なんのために?
「ちらっと見ただけでは詳しいことが分かりません。
もう一度あの部屋に行って、状況を確認しましょう」
ヘレンが提案する。
そういえばヘレンは探偵小説が好きだった。
でも実際にこんな事件が起こって
探偵の真似事をするなんて不謹慎だ。
「行ってきます!」
ヘレンは部屋を飛び出す。
「おい、一人になったら危ないだろ!」
俺たちはヘレンを追いかけて工藤さんの部屋に行く。
血で染まった工藤さんは、
相変わらず、ぴくりとも動かず、
死んだままの状態を保っていた。
さっきまで僕らに笑顔を与えてくれていたのが嘘であるかのように、
彼女の体は生物から物質へと変化を遂げていた。
死体を受容した部屋は沈黙を守っていて、
古い蛍光灯が寂しそうに弱弱しい光を注いでいた。
俺ははじめ、工藤さんの死体をちらと見ることすら躊躇っていた。
だが少しずつ、現実を受け止めるかのように、
彼女の顔を、彼女に起こった状況を、視覚的に認めた。
そのうち、また別のものが自分の芯から込み上げてきた。
彼女の体には無数の刺し傷があった。
あちらこちらから出血し、服がどす黒い赤色を吸い、
表面を伝って床に流れ落ち、血溜まりを作っていた。
そして彼女の手の先、これは……。
「ダイイングメッセージ、ですね……」
俺の頭の中を読んでいたかのようなタイミングで
ヘレンが口に出す。
工藤さんは人差し指を血に染めて、文字を書いていた。
『H』。
それが、工藤さんの最後の言葉。
俺たちに何かを知らせるために残してくれたメッセージ。
俺はなんだか、とてつもない悲しみに襲われ、やるせなくなり、
だんだん吐き気を催してきた。
「もう、戻ろう……」
俺がつぶやくと、誰が返事をするわけでもなく、
とぼとぼと歩いて中川の部屋に赴いた。
「誰が、なんのためにこんなことを……」
工藤さんが恨みを買うようなことをしているとは思えなかった。
だとすれば、狂人が、殺害するための殺害を、
起こしたのかもしれない。
いいや、工藤さんの家はお金持ちだ。
誰かしら、彼女を殺して得をする者がいるかもしれない。
「群馬には、こんな言い伝えがあるそうなの」
ヒルダが口を開いた。
「人間が独りになった隙を伺って、
危害を加えようとする魔物――。
彼らは周りの人間の注意を引くために、
女性の人格を装って、標的に近づき、斬りつける――。
その名は、"ねかまいたち"――」
ねかまいたち……その伝説は俺も聞いたことがあった。
幼い頃に母が口を酸っぱくして何度も教えてくれたこと。
『相手の姿が見えないなら、相手を信用してはならない。
特に女性を名乗る人には気をつけなさい。
真の姿は男かもしれない。気をつけなさい。
ゴノレゴ対メカゴノレゴの二の舞にならないように――』
俺の住んでいる街では、
母親は息子にそう言い聞かせるというしきたりがあった。
だがそんな伝説、御伽噺だ。
ねかまいたちが絵本から飛び出したかのように
工藤さんを襲ったとでも?
ねかまいたちの夜が俺たちに迫ってきているとでも?
「馬鹿馬鹿しいよ、そんなの」
そう。工藤さんを殺した誰かが、現実に存在しているのだ。
それはもしかしたら、僕たちまでも標的にするかもしれない。
「工藤さんの残したダイイングメッセージ、あれ、なんだろ」
「H――エイチ。何かの図にも見えないこともないけど、
たぶん、アルファベッドのHでしょうね。何かの頭文字かな」
「この中で、名前にHがつくのは……」
中川さんの言葉を受けて、
各々が、それぞれの名前の頭文字を確かめる。
「ヘレンとヒルダ……か……」
「ええっ、わたし、あんなことしないよ!」
「私もだよ!」
ヘレンとヒルダが慌てて否定する。
「分かってるよ。
ヒルダもヘレンもそんなことをするような人間じゃない」
「妹思いなんですね、新山さんは。
二人のこと、ずっと信じてあげてください」
中川さんが微笑みを浮かべて言う。
口では二人を信じると言っても、
俺は二人が犯人である可能性について検証してしまう。
俺が森に行っている間、
ヒルダは俺の部屋に魔方陣を張っていた。
一階ではヘレンが料理をしているので、
ヒルダが建物を出ようとすれば、
階段のすぐ側にあるキッチンにいるヘレンに気付かれるはずだ。
ヘレンが犯行をすることも不可能だ。
彼女はカレーを作っていて、
とてもじゃないけど工藤さんのいる建物に行って
殺害をするなんて時間はなかったはずだ。
まさか料理番組みたいに、
現在調理しているものとは別に
『これが完成品です』なんて出すわけにもいかないだろうし。
ヒルダもヘレンもアリバイがある。
あるにはあるけど、
それは圧力をかけて押せば脆く崩れ去りそうな、
危ういものであるような気もする。
何かを見落としているのではないだろうか。
ヒルダか、あるいはヘレンが犯行を行う方法。
ダイイングメッセージのH。
もしヒルダかヘレンが犯人だとしたら、
『ヒ』とか『ヘ』と書けばよかったはずだ。
そうせずにわざわざHと書いたのは――――――――。
「さっきの部屋、おかしいところがありました」
俺の思考を遮るかのようにヘレンが呟く。
「サスペンスドラマや推理小説に書いてある限りでは、
人を刃物で刺した時に血しぶきが上がって、
周りに飛び散るそうです。
でも、あの部屋にはそういったものが見られませんでした。
壁に血痕はついていなかったし、
ただ、血が床に零れ落ちていただけ……」
さすがにヘレンは冴えていた。
俺はそんな細かいところまで気付かなかった。
推理モノに触れる機会が多いか少ないかの差だろう。
「やっぱり、中川さんが犯人じゃない?」
ヒルダは確信を持っているかのように言う。
「ダイイングメッセージを書いたってことは、
工藤さんが眠っていたという可能性が否定されるわけでしょ。
工藤さんが起きていたならやっぱり物音を立てていただろうから、
この部屋にいた中川さんが気付くはずじゃない」
「睡眠中に刺されたことで、
目を覚ました、なんてことは考えられないでしょうか?」
ヒルダの考えを打ち消すようにヘレンが言う。
自分の推理が間違っていたことに落胆するように
ヒルダは口を閉ざす。
待てよ。
何か変だ。
幾度も凶器で刺された工藤さんは、
その時点でまだ生きていたのだろうか。
あれだけの刺し傷を負いながら
ダイイングメッセージを書く余裕があったとは思えない。
部屋に血が飛び散らなかったのは、
彼女が何度も刺されていたときには、血が抜かれていた、
あるいは血が抜けていたということじゃないだろうか。
体内に血があまり残っていなければ、
刃物で刺した時に血しぶきは飛ばないはずだ。
ということは、つまり――。
「分かったわ!」
と威勢よく声を上げて言ったのは、
俺でもヘレンでも中川さんでもなく、
ヒルダだった。
「真剣に聞いてほしいの、これから私が言うこと」
俺たちは自分の頭の中で渦巻かせていた推理を止め、
ヒルダの声に耳を傾ける。俺はごくりと唾を飲む。
「もしかしたらね、そうなんじゃないかって、
ずっと思っていたんだけど……、
わたし、おにいちゃんのこと、
兄妹として好きなんじゃなくて、
ひとりの男の人として、好きだったかもしれない」
ヒルダの突然の告白を聞いて、俺の心臓が高鳴る。
「それは私もだよ!
私も、おにいちゃんのことが、この世で一番好き!」
ヘレンも続く。
「いや、だがしかし、俺たちは兄妹だぞ」
「愛があればそんなの乗り越えていけるよ!」
ヘレンは大声で訴える。
「いえ、私たちの両親が
ずっと隠してきたことだったんだけど、
実はわたしたち血が繋がっていなかったの」
「なんだって!
それなら結婚もセックスもできるじゃないか!」
「新山さん!」
今度は中川さんが口を開く。
「実は私もあなたのことが好きだったんです」
「ええ!? だって僕ら、今まであまり話さなかったし、
そんなに面識ないじゃないか!」
「違います、小学生の頃、
私たち一緒のクラスだったじゃないですか!」
「そうだ、思い出した!
中川さん、君は僕と仲が良かったけど、
転校していったんだ!」
「思い出してくれてありがとう!
私はずっとあなたのことを想っていました。
もしかしたらこの大学に行けば
あなたがいるかもしれないと思って、
必死に勉強して入学し、この街に戻って来たんです!
愛してます、新山さん!」
「僕も君のことが好きだった!
でも中川さんが転校したときのお別れが悲しすぎて、
ずっと記憶を封印していたんだ!
中川さん、僕はあの頃から君への想いは変わらない!
だけど、僕はこの二人の妹のことも好きだ。
どうしよう、この中から一人なんて選べないよ!」
「それなら四人で一緒に暮らしましょう!」
「賑やかでいいね! そうしましょう!」
こうして俺たちは家に四人で生活することになった。
三人の女の子に囲まれて俺は幸せだった。
えっちしたり一緒にお風呂に入ったりもした。
もう俺、最高っすよ!
めでたしめでたし。
完