ひどい暴力だ。目に短刀で刺されたような鋭い痛みが走る。
生まれて初めて見た光はあまりにも破壊的で、僕は泣き喚いてしまう。
「ゲンキニナキサケンデルワネ。コレガアナタノアカチャンヨ」
身体が宙に浮く。誰かに持ち上げられているんだ。
視界が歪む。光が僕を嬲る。苦しい。助けて。オギャー。オギャー。
血だ。血だらけの僕の身体。
初めて使う眼球は正しくものごとを認識できているか分からないけど、
赤だけは鮮明に僕の目に飛び込んでくる。
それ以外、今何が起こっているのか全く分からない。
僕はとてつもない恐怖に襲われる。オギャー。オギャー。
誰かの手に抱かれている。暖かい手だ。
僕はこの人の肌の温もりを知っているような気がする。
はじめまして。私はあなたのお母さんよ。あなたの名前は――。
間もなく僕は狭くて透き通っている箱に入れられた。
僕の他にも"誰か"が大勢いた。
みんな小さな空間に閉じ込められていた。
目を開いてこちらを見ているものもいた。
眠っているものもいた。
そしてその全ての赤ちゃんが
『卵』と『ぬいぐるみ』のどちらかを抱えていた。
卵を持っている子とぬいぐるみを持っている子の割合は
半々くらいだ。
卵は滑らかに丸みを帯びていて、
真新しいキャンバスのように真っ白だ。
優しく包み込むような卵の曲線に僕は見とれてしまう。
残りの半分の赤ちゃんが持っているかわいい熊のぬいぐるみ。
茶色の毛がふかふかしていた。僕もあれを欲しいと思った。
その願いは最期まで決して叶わなかったのだけれど。
お腹の上に小さな重みを感じた。
よく見ると僕も卵を抱いていた。
一体いつからあったんだろう。
僕が暗闇から這い出たときには既に存在していたのだろうか。
僕の口に当てられている物体――呼吸を促進するものだろう
――と同じくらいの大きさの卵。
試しに優しく撫でてみた。
少しざらざらするけど、触り心地はよかった。
心が落ち着くような気がした。
僕は熊のぬいぐるみではなく、卵を持って生まれた。
そこにはきっと何らかの意味があるのだ。
僕はこのとき、自分に課せられた使命のようなものを感じた。
外の世界は恐ろしい場所だった。
情報が弓矢のように身体に突き刺さり、
僕は血を流しながらそれを取り込んでいった。
僕が新しい言葉を覚えると卵はぷるぷると震えた。
卵は喜んでいるみたいだった。
砂場で山を作って遊んでいると、
僕と同じくらいの背の男の子がやってきて、
砂山を蹴って壊してしまった。
ごつごつとした卵を持った男の子だ。
僕は頭に血が上って男の子に拳を振り下ろした。
男の子の頭からごつんと音がした。
男の子は怒って僕をがんがん叩いた。
痛くて砂場の上に座り込んでしまった。
ズボンが汚れるから砂場で座ってはいけないって、
お母さんに言われていたのに。
男の子もしゃがみこんだ。それから泣き始めた。
僕の目からも涙が溢れ出した。
えーんえんえん。二人で泣きじゃくる。
男の子のお母さんがやってきた。
「どうしたの?」
「この子がぶったんだよぉ!」
「あんた、私の息子になんてことするの!」
僕は大声で怒鳴られる。僕はもっと泣く。
男の子がひっくひっくいいながらお母さんと帰った後も、
僕は泣き続ける。
涙で世界がぐにゃぐにゃになる。
洪水が収まると僕の卵はまた、ぷるぷると震えていた。
僕がこんなに悲しんでいるのにこいつは喜んでいるのか!
僕は苛立って卵を蹴った。卵がぐらりと揺れたが倒れはしなかった。
卵の振動はようやく止まった。その代わりに僕は足に激痛を覚えた。
この卵、なんて堅いんだ。
ある日、ヒルダが僕に忠告した。
「ねぇ、あなたが誰かに叩かれると、とても痛いでしょう?
同じように、あなたが誰かを叩くと、その子も痛みを感じるのよ」
僕はそのことを肝に命じた。卵がいつもより激しく左右に揺れた。
卵はいつの間にかサッカーボールくらいの大きさに成長していた。
「テレビゲーム、買ってあげるから。ね?」
歯が痛いことをお母さんに言ったら、
歯医者さんに行こうと言われた。
自転車の後ろに乗せられて、郊外にある小さな建物に行った。
壁は白いけど塗装が剥がれて、ところどころ茶色くなっていた。
待合室で女の子が熊のぬいぐるみをぎゅっと抱きしめて
しくしくと泣いていた。奥の部屋からひどい叫び声がして、
しばらくすると泣きじゃくった男の子が、
ぶるぶると震えている卵を抱えて出てきた。
僕はだんだん怖くなってきた。
「大丈夫、麻酔もするし、痛くないからね?」
最初に口の中に注射をされた。
今まで腕以外に注射されたことはなかったから少し怯えたけど、
病弱な僕は注射自体には慣れていたから思ったより動揺しなかった。
歯医者さんは今度はドリルのようなものを取りだした。
とても驚いた。
ドリルなんて漫画の悪役の使う武器しか見たことがなかった。
チュイインとおそろしい音が響く。僕は抵抗する。
嫌だ、口の中に穴を開けられちゃう、すごく痛いに違いない。
助けて。
「お母さん、この子が動かないように抑えていてください」
お母さんは歯医者さんの言うことに従った。
裏切られた気持ちだった。 口の中に鋭い痛みを感じた。
チュイイイイイン。体が細かく上下に揺れる。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い――。
「来週もう一度来てくださいね」
治療は終わったと思ったのに、
また来ないといけないことを知って僕は一生懸命首を振った。
恐怖に怯えながら毎日を過ごした。
歯医者さんに行く日まであと5日、4日、3日、2日、明日――。
嫌がる僕をお母さんはなだめようとした。
歯医者さんに行ったらファミコンを買ってくれると言った。
「ほんとう?」
僕は畏怖と期待と自分の卵を抱きかかえて歯医者さんに向かった。
ファミコンを買ってもらったことを言うと、
幼稚園のみんなが羨ましがった。僕は鼻高々にして自慢した。
どうしてこんな高価なものを買ってもらえたのか聞かれた。
歯医者さんに行っても泣かずにいい子にしてたからと話した。
歯医者さんの怖さを知っている子に尊敬された。
もちろん泣かなかったなんて真っ赤な嘘だった。
下らない虚栄心を満たしたかっただけだ。
ヒルダはこのことを悲しんだ。
「ねぇ、偉そうに振舞うことと、偉いこととは、
全然違うんだよ?」
僕はヒルダの言うことを無視した。
卵の内側からぴしりとひびが入ったような音がした。
幼稚園の友達を家に集めた。みんなファミコンに夢中だった。
僕のものだから、という理由で自分が優先的に遊んだ。
難しいステージをクリアするとみんなが褒めてくれた。
今まであまり仲良くなかった子とも
ファミコンを通して友達になった。
幼稚園で紙飛行機を作るお遊戯をした。
直人くんが丁寧に飛行機を折って、一番遠くまで飛ばした。
「いつかは本物の飛行機を飛ばしてやるんだ」
直人くんの卵は僕のより一周り大きくて、
鮮やかな空の色をしていた。
僕はどういうふうに折れば飛行機型になるのかも分からず、
途中で投げ出していた。難しいことはすぐに投げ出しちゃうのだ。
鬼ごっこをすると僕はずっと鬼だった。
僕は鬼ごっこが嫌いになった。
健太くんの足はたぶん幼稚園で一番速くて、
誰も捕まえることができなかった。
「いつか野球選手になるために、今から鍛えてるんだ」
健太くんの卵は薄い桃色をしていて、
日に日に紅みがかっていった。
「鬼ごっこなんて下らないから」
と言って僕は家でゲームに没頭するようになった。
こうして僕はゲームの中で紙飛行機を飛ばして、
ゲームの世界を走り回った。
小学校四年生になったときにクラス替えをした。
入学式の日に掲示板にクラス分けの張り紙がしてあった。
仲の良かった子と離れ離れになっていて悲しかった。
僕が好きだった女の子の名前も別の教室に記されていた。
熊のぬいぐるみに赤いリボンをつけて、
自分で縫った綺麗な服を着せていた女の子。
ぬいぐるみへの装飾は彼女自身を象徴していた。
学活の時間に自己紹介をした。
女の子たちはそれぞれ自分の好きなように装飾した熊のぬいぐるみを、
男の子たちは様々な色に染まった卵を、互いに見せ合った。
十人十色の卵。どれも美しく輝いていた。
僕の卵だけ暗い緑色に染まっていて、気味悪がられた。
おかしいな。
僕はゲームが得意でみんなに羨ましがられていたのに。
そうだ、もっとゲームをうまくなるように特訓しよう――。
一週間に一度はゲームショップに行って
ずらりと並ぶ新作ゲームを眺めるのが楽しみだった。
ある日僕はそのうちの一本のパッケージに釘付けになった。
タイトルは『RPGツクール』だった。
コンテストで優勝すると1000万円がもらえると書いてあった。
すごい。1000万円があればなんでも買える。親孝行もできるぞ。
優勝したらみんなに尊敬されるに違いない。
僕は駄々をこねて母親に買ってもらい、
面白いゲームを作ろうと日々のめりこんだ。
学校にいる間中、アイデアを考え続けた。
ノートにびっしりとゲームの内容を書き溜めた。
ゲームが得意な自分にはすごいゲームが作れるに違いない。
そう思い込んでいた。
「ねぇ、勉強はしなくていいの?」
中学になったらするってば。
もう、ヒルダは母親みたいにうるさいな。
卵をカビと苔が覆っていた。
僕はいつしか卵を育てることをやめていた。
RPGツクールの続編が次々と発売されていった。
機能が増えて画質がよくなり自由度が広がっていった。
僕はそのどれもを発売日に購入した。
けれどゲームが完成したことは一度さえなかった。
中学生になってもゲームの呪縛からは抜けられない。
有名なソフトの発売日には学校を休んで徹夜でプレイした。
クリアすると触発されるようにツクールをいじった。
こんなゲームを作りたい。
僕は将来ゲームデザイナーになろうと思った。
プログラムもできた方がいいのかな。パソコンを買ってもらった。
パソコンゲームを少し遊んで飽きてしまった。
ヒルダが苦しそうにしながらベッドに横たわっていた。
「どうしたの? 風邪でもひいたの?」
「うん……。なんだか、少し気分が悪くって」
「ふ〜ん。もうすぐ俺寝るから、その前にはベッドからどいてね」
僕は学校では目立たない奴だった。
クラスの隅で影のようにひっそりとしていた。
それで良かった。
何事もなく一日が終わってくれればそれでいいと思っていた。
ただ体育の授業だけは嫌だった。
走るのは遅いし、水泳の授業では泳ぐこともできない。
カレンダーがめくれるごとに、
なんだか気力が失われていくような感じがした。
学校に腐った卵を背負って登校するのがたまらなく嫌だった。
僕は自分自身から卵を引き離そうとした。
卵を無理に強く引っ張った。
そこには強烈な痛みがあった。死んでしまうかとさえ思った。
卵と僕は切っても切り離せない存在なんだと知った。
地獄のような痛みにさえ耐えることができれば
卵から逃れることもできるだろう。
けれど僕にそんな勇気はない。
痛覚を感じずに卵と僕を分離する方法を考えた。
薬とか、ガスとか、一酸化炭素とか。
実際にはそんなことできなかったけど。
ヒルダは床に突っ伏して、もう自分から動こうとはしなかった。
時折スローモーションのように口を動かして、
僕の名前を消え入りそうな声で呼ぶだけだ。
黒ずんでいてハエがたかっている僕の卵。
もう卵とさえ呼べないかもしれない。卵はもう誰でもないのだ。
僕を責めるものも叱るものも励ますものも消え失せてしまった。
僕は自分という卵の殻の中に閉じこもってゆく。
保健の授業。精子と卵子がくっついて
命が生まれるというのを学んだ。
男の子も精子と卵子から生まれた。
女の子も精子と卵子から生まれた。
だから男の子も女らしさを持っている。
女の子も男らしさを持っている。
本屋で心理学の本とかいうのを立ち読みした。
僕はゲームのアイデアを考えるために
心理学や哲学や神話を好んで読んでいた。
この本はページの上半分が図解で分かりやすかった。
男性の無意識の中には女性的人格が潜んでいることを知った。
女性の無意識の中には男性的人格が潜んでいることを知った。
パソコン版のRPGツクールで、
生まれて初めてゲームを完成させた。
インターネットの掲示板でゲームを公開した。
自信満々だった。
返ってきた感想はひどいものだった。
僕の人格まで否定するような発言もされていた。
そんなはずはない! そんなはずはない!
丑三つ時なんてとっくに過ぎた。
扇風機と冷却ファンだけが僕の熱気を涼ませる。
ネット中を走り回り片っ端からフリーゲームをプレイする。
どれも個性が溢れていて、
今まで他人の作るゲームに興味のなかった僕は衝撃を受けた。
インターネットの掲示板ではみんなが自分の卵を見せ合っていた。
卵には綺麗な絵が描かれていたり、スクリプトが書かれていたり、
かっこいい音楽が刻まれていたりした。
僕にも何かできるはずだ。
そうだ、僕はストーリーを考えるのが得意だ。
プロットを書こう。主人公は魔法剣士がいい。
勇者はもう時代遅れだ。ダサい。
魔法剣士はかっこいいし、
最近クリアした大作ゲームでも主人公の職業になっている。
ヒロインの名前は――。
「もし私があなたの代わりに生まれていたら、
私はあなたという熊のぬいぐるみを
どんなふうに育てていたんだろうね」
僕が生まれたのは偶然だった。
X染色体を持つ精子が受精されていたら
僕の代わりにヒルダが生まれているはずだった。
人間は生きているうちに、
後世に残す遺伝子の性質を変えていけるそうだ。
例えば運動の苦手な遺伝子から生まれても、
彼が体を鍛えればその子供は運動能力を引き継ぐことができる。
神様はまず人間の男を作り出し、
その男の骨から女を作り出したそうだ。
"男女(おとこおんな)"という性別の人間を
神様が男と女に切り離したという神話もある。
男性の無意識の中には女性的人格が潜んでいる。
女性の無意識の中には男性的人格が潜んでいる。
精子と卵子の結合から生まれた人間は、
男の子なら女の子の人格を卵に押し込め、
女の子なら男の子の人格を熊のぬいぐるみに吹き込む。
君が悪いことをしでかそうとしたとき、
あるいは勉強しなきゃいけないのに遊んでしまいそうになったとき、
君の中のもう一人の誰かが、
それをやってはいけない、と声をかけてきたことはないだろうか?
自分の行動を客観的に見つめて、
ときおり助言をくれるのは誰なのか。
虫の報せを自分に教えてくれるのは誰なのか。
卵や熊のぬいぐるみのことを説明するために
わざわざ科学とか心理学とか神話とかを
持ち出す必要がないのは分かっている。
ただ僕の置かれた状況を抽象的に説明したいだけなのだ。
そもそも卵や熊のぬいぐるみなんていう言葉を使う必要さえない。
それは現実に存在し、僕もあなたも持っているものだから。
繰り返すが、僕は偶然、ヒルダの代わりに生まれた。
ヒルダが生まれる可能性もおよそ50%の確率であったはずなのだ。
熊のぬいぐるみとしてヒルダに抱かれる自分を思い浮かべた。
彼女は不器用で、僕のための服を縫っていても、
そこらじゅうから糸が飛び出して縫い目はちぐはぐだった。
ヒルダは落ち込んで断念する。
「あなたの服、私じゃ縫えないから、デパートで買ってくるね」
僕は首を振る。
少しばかり滑稽でも、僕はヒルダの手作りの服を好んだ。
彼女に何か嫌なことがあったときも、苦しいことがあったときも、
僕は彼女の腕にぎゅっと抱かれていた。
ときには彼女の癇癪で壁に投げつけられることもあった。
しばらくすると地面に落ちたままの僕をヒルダは拾い上げて、
目に水分を浮かべながら謝った。
ヒルダは一生懸命僕を育てようとした。
次第に裁縫も上達していった。
僕の装飾は彼女の努力の成果で、彼女自身を象徴している。
僕は彼女の喜びや怒りや悲しみを一緒に共有する。
彼女の入学や卒業や結婚や出産を祝う。
小さな卵を持ったヒルダの子供が、
綿の詰められた僕の手をぎゅっと握った。
僕の代わりにヒルダが生まれていたらどんなに良かったことか。
僕はヒルダと名付けたもう孵らない卵に寄り添って、
梅雨のように泣き続けた。
専門学校生になった僕は母親からの仕送りで生活していた。
学校には行っていなかった。一日一日を無駄に過ごしていった。
ある晴れた日曜日、ネットゲームで疲れた目を休ませるために、
僕は窓から外を見た。
紙飛行機が一機、空に向かって飛び立っていった。
空気を切り裂き、濃密な蒼へと吸い込まれていく。
そのさきは、僕が目指していたはずの場所だった。
もうこの大地からは彼らの姿が眩しすぎて
掌で目を覆ってしまいそうになった。
最期に僕は、空に向けて腕をまっすぐに伸ばし、こぶしを握った。
手を開いてみても空気さえ掴みとれていなかった。
部屋の窓から見下ろすと
子供たちが紙飛行機を飛ばして遊んでいた。
男の子たちはそれぞれ大事そうに卵を抱えていた。
彼らの卵は真っ白なキャンバスだった。
これからあの子達は卵にどんな絵を描くのだろうか。
僕は無性に悲しくなり、しばらくさめざめと涙を零した。