銀河鉄道は夢を裏切らない |
僕は飴が怖い。 幼い頃に、はちみつドロップを喉につまらせたんだ。 僕は息苦しくなって血が逆流して頭が真っ赤になって、うぐぐぐぐと変なうめき声を出して、異変に気付いた母親が僕の口に指を突っ込み、僕の背中をばんばんと激しく叩いて僕は嘔吐したけど飴はすっかり喉に挟まっていて、受話器をとって救急車を呼んだところでようやくドロップがぴょいと口から飛び出した。3歳の時のことだ。 大きくなった今の僕が飴を口に含んでも飲み込んだりはしないだろうけど、今でも恐怖を覚える。飴を見ただけで、それを喉に詰まらせる想像をしてしまい、気分が悪くなる。これは一生克服できないと思う。一度できたトラウマは身体に巣を作って、ずっとその場に留まるんだ。 性格というのは、そんなふうに形成されていくような気がする。 図書室で騒いだのを先生に怒られて学年集会で謝罪させられて、そのせいで生涯図書室や図書室に行けなくなったり、女の子に告白したらふられた挙句にそのことがクラス中の噂になって、自分の想いを人に伝えることに臆病になってしまったり。 性格を変えるのは簡単じゃない。運動苦手な人に急にマラソンをさせるのは不可能だというのと同じだ。自分が明日から別の人間として生活することはできない。授業中に面白いことを言って笑わせるクラスの人気者に、僕は成り代われない。 僕は僕という肉体を捨てることはできない。 ガタン、ゴトン。ガタン、ゴトン。ガタン、ゴトン……。 車輪がレールの継ぎ目をまたぐ度に、心地よい振動のリズムが僕の身体に刻まれる。 柔らかい乗客席に深く沈み込み、窓の縁に肘を置いてリラックスした状態で、全開にした窓からびゅうびゅう吹きつける強風を顔に受ける。目を細めてしまいそうな風圧。髪をくしゃくしゃにされてしまいそうだ。こうして風に当たっていると、なんだか心地よい気分になってくる。 銀縁の窓枠が四角く切り取った風景は、青空。 そして一面に広がる水田。山の方までずうっと田んぼが続いている。もう稲の収穫は終わっていて、すっかり丸坊主になっていた。 曲がりくねった川にかかる、錆びた赤い鉄橋。 帰宅途中の小学生たちが、ランドセルを置いて川原で水切りをして遊んでいる。 次の停車駅を告げる車内放送が流れる。でもその声に耳を傾ける人は僕以外にいない。 まだ高校生の下校時刻ではない今の時刻は、電車はがらがらだ。見渡しても誰も人はいない。こんなに乗客がいなくて、経営は成り立っていけるのだろうか、と心配したくなるくらいだ。 荷物で膨らんだ鞄から蜜柑を一つ取り出す。僕の実家から山のように送られてきた蜜柑。もうすっかり熟していて、皮の上から触ってもぶにょぶにょしている。 膝にハンカチを敷いて、その上で皮を剥く。齧る。 からからに乾いた喉に、甘味と酸味が混じった果汁が駆け抜ける。 僕は今、電車に揺られながらこの文章を書いている。お気に入りのノートパソコンを広げて。たぶん僕はこの小説を東京に戻る前に完成させて、健康ランドかネットカフェで投稿することになると思う。 僕が旅に出ることにしたのは、自分の性格を変えたかったからだ。僕は正直言って自分が嫌いで、人格を一変させる機会に飢えていた。この歳で自分探しの旅というのは何年か遅いような気もするが、僕は今の自分にうんざりしていたのだ。そんな時に、ミクシィで出会った人が地元を案内してくれるというので、言葉に甘えさせてもらった。 頭をすっきりと目覚めさせるような寒い朝。僕はJR上野駅を発ち、やまびこ45号に乗って東日本をびゅんと突っ走った。所狭しと立ち並んでいたビル群が北へ進むごとに少なくなり、代わりに田んぼやビニールハウスが多くなる。若者の姿が見えなくなり、農業暮らしの老人たちが歩いている。文明は退化し、自然が広がってゆく。時代を遡って昔へタイムスリップしているみたいだった。 3時間と30分ほどで、終点の盛岡駅に到着。新幹線の改札機をくぐり、西口から外に出て、岩手の空気を吸う。陽はすっかり真上に登っていた。人のごった返していた東口とは違って、西口は建物が少なく人もまばらで、静かなところだった。北上川が街を割って流れていた。 ここから普通電車に乗り換え、さらなる北を目指す。路線名は、いわて銀河鉄道線。つい数年前にJRから分離してこういう名称になったそうだ。子供の頃にテレビで見ていた銀河鉄道999の歌詞を口ずさむ。 サビ以外はあまり覚えていないけれど、こんな内容の歌詞だったと思う。 錆びた心を洗い流し、地平線への旅に出よう。 昔の記憶は全て忘れて、新しい気持ちで。 銀河鉄道999は君を旅の最果てまで連れてゆく。 銀河鉄道999は君を旅の最果てまで連れてゆく――。 電車は山のあいだを縫うようにして、青森方面へと駆け抜ける。 旅のお供は、このノートパソコンが一台。 軽量でコンパクト。キーボードがちっちゃくて打ちづらい。動作が遅い。すぐフリーズする。なかなか愛嬌のある奴だ。これまでに購入したどのパソコンより僕はコイツが大好きで、いつも肌身離さず持っている。今では僕の相棒だ。 前述したけれど、電車内は全く人がいなくて、僕がこうしてキーボードを叩いていても、誰かの居眠りの邪魔にはならない。巡回する車掌さんも暇そうだ。ときおり老人が無人駅から乗ってきて、切符を車掌さんが売っているくらいだ。岩手の田舎っぷりは凄い。僕の田舎の無人駅でも、ちゃんと駅舎くらいは建っていたのに、岩手の無人駅は本当に何もない。驚いた。駅名が書いた看板があって、電車に乗れるように段差があって、本当にそれだけだ。コンビニも自動販売機も公衆電話も待合室も屋根もベンチも何も無い。駐輪場も無いので、自転車がそこらへんにバラバラに停めてある。360度見渡しても店の一軒も見当たらないので、間違ってこんな駅で降りてしまったら、民家に助けを求めるしかない。 電車は岩手山のふもとを走っていく。 ぷおー。アナログな汽笛が鳴る。トンネルに入るんだ。窓を閉める。田舎の風景が一瞬にして闇に変わる。ふっ、と。夜中に停電したみたいに。ガタンゴトン。反響する音。広い客席に一人ぼっち。孤独。狭い押入れに閉じ込められた時のような寂しさ。暗い。ぼんやりとした弱々しい蛍光灯。今にも消えてしまいそうだ。誰かが放置した空き缶が転がって壁にぶつかる。カランカラン。気が沈む。胃が痛む。悪夢を見る直前の嫌な気分。何かよくないことが起こる予感。虫の報せ。暗い想像。消したい記憶。心の中で暴れるトラウマ。頭を抱えて体を丸める。身を守る甲虫みたいに。土の足跡のついた汚い床が視界を覆う。ガタンゴトンと乱暴な音が響くたびに意識が何度も途切れる。そして暗いイメージが――。 びゅうと北風の吹きつける、うすら寒い地域。 日本じゃない、どこか外国の荒地にて。 暗くて冷たい雲が白い空を覆い、地上の植物たちが身を縮こまらせて震えてる。 うり坊が乗っただけで崩れ落ちてしまいそうな脆い崖があって、谷底には、枯れ草が腐って溶け込んだ柔らかい地面。長い間雨が降って、粘り気のある土が溶解していって、沈殿した泥沼ができる。何百年もの間、一度も陽の当たることが無かった沼だ。 その沼に僕は埋まっている。 外の空気を吸いたくて必死にもがいても、沼は蟻地獄のように僕の手足を引っ張って奥へ奥へと誘い込む。 僕は溺れていた。 口の中に土が入り、沼は僕の体内にまで蝕ばんでいく。僕はただ一人、孤独の流砂に飲み込まれる。いつしか身体が沼に溶け込んで一体化してしまう。 休み時間。 教室の窓際、一番隅の席に突っ伏して、僕はそんな夢を見ていた。 僕は深い、霧のようなため息をつく。 生徒たちが声を張り上げてモザイクのように教室の喧騒を作り出している。 それぞれ気の合う仲間を作って、談笑しているクラスメイトたち……。 ノート貸して、腕相撲しようぜ、昨日9時からテレビ何見た、連れション行こうぜ、宿題回収します教卓に提出してください、うわ宿題忘れてた、いい加減新山キレるぞ、まだ告白してなかったの、そろそろミクシィの日記更新したら、テスト勉強してないよ、まだ一週間もあるじゃん、一緒に職員室までついてきてくれないかな、一人で行けば――。 空の晴れ渡った日の、快活で活動的な、ありふれた一場面。 そんなクラスメイトたちを、僕は机に頬杖をついて、まるで楽器屋の店頭でガラス越しのギターを物欲しそうに見つめている少年のように、羨ましそうに眺めていた……。 僕もあの中に混じることができたら、どんなに楽しいだろうなぁ……。 そう考えると胃痛が始まり、息苦しくなり、再びあの泥沼の中にずぶずぶと沈んでいく。 教室の僕の席を中心に、沼が円状に広がっていって、人や壁、天井やあの青空までもを全て飲み込んでしまう。 暗い。闇だ。沼の中に光は当たらない。身体と共に思考も沈む。友達を作れない自分の性格に嫌気が差し、そしてやるせない気持ちになる。 泥は足の先から順番に、腰、腹、肩、頭を飲み込み、幸福を掴むために伸ばした腕だけを残し、すっかり沼に埋まってしまう。 そんな僕に、ときおり誰かが手を差し伸べてくれることがある。 「○○くんっていつも教室の隅っこの席で、むつかしそうな本読んでるよね。なんて本を読んでるの? へぇ、面白そう。今度わたしにも貸してよ。○○くんは頭いいんだよね? 勉強教えてほしいな」 そんなふうに僕を助けてくれようとした子はみんな、とても優しい人だった。 絶望的な雪原で灯すマッチの火のような、暖かい心を持っていた。 僕は打ち震えて、涙が出そうだった。 けれども僕は、彼らの救い手を掴もうとはしなかった。 恐れているのだ。彼(あるいは彼女)の手を引っ張ったがために、その子も沼の中に引き込んでしまうかもしれない、ということを。 一度、こんなことがあったんだ。仲間はずれにされている僕に構ったがために、その子も除け者にされてしまったことが。「お前ら仲いいんだろ。ずっと二人で一緒にいればいいじゃん。もうこっちに戻ってこなくていいよ」そう突き放された。 その子は苦しそうだった。僕に手を差し伸べたことを後悔していたと思う。僕は罪悪感を覚える。 そんなのは二度と嫌だった。 あんなに優しい子を道連れにしてしまうことに、耐えられなかった。 あの子は普段のあの子のままで、幸せに生活していってほしい。 僕なんかに構ったがために、不幸にさせてしまいたくはない。 だから僕は人の好意も受け取らずに、今もひっそりと生暖かい土の中で静かに息を潜めている。 溺れた子犬のように手足をばたつかせて岸に辿り着き、ようやく地上に這い上がれたかと思ったら、僕は泥人形になっていた。 つま先から頭のてっぺんまで、どろどろとした粘土に覆われていた。視界は無い。顔にたっぷりと張りついた泥が目の前にあるだけだ。 この泥は、僕がこれまで生きてきた中でこびりついてきたものだった。 沼の中で無我夢中で泳ぎ続けるうちに、自然に付着していったのだ。 友達に話しかけづらくなったとき。心細くなったとき。さまざまな場面で心に泥が塗られていく。 泥は僕の体内にまで入ってきて、こう訴える。 「お前はひどく心が弱い。言葉の暴力に耐性が無い。人が自分をどう思っているかをすぐ気にしてしまう。傷つくのが怖い。それならば初めから誰とも関わるな。他人との距離を置くべきだ」 僕は体の重みに自由を奪われて、ふらふらとあちこちを歩き回る。 顔にまで泥が張りついた僕は盲目で、また深い沼に落っこちる。そして泥を塗られる。繰り返しだ。悪夢みたいに。 僕はそんな人生を根本から変えたかった。 川や湖に辿り着いて、全ての泥を洗い流したかった。 錆びた心を洗い流し、地平線への旅に出よう。 昔の記憶は全て忘れて、新しい気持ちで。 銀河鉄道999は君を旅の最果てまで連れてゆく。 銀河鉄道999は君を旅の最果てまで連れてゆく――。 トンネルを抜けて視界が開けた。電車は山と山の隙間を走っていた。北国の木々はまだ紅葉し始めで、葉っぱは緑と赤が交じり合っていた。二色の絵の具を染みこませた筆で描いたみたいだ。 青森と岩手の境目の手前の駅。そこが旅の目的地だ。 「間もなく○○駅、電車待ち合わせのため5分間停車します」車掌が読み上げる。スピードが落ちていって、電車がプラットホームにぴたりと収まる。 僕は地面に降り立ち、澄んだ空気を吸う。自分の中に充満している暗い煙が、化学反応を起こしたみたいにすうっと透明になる。 駅はなかなか大きくて、改札員がいてキヨスクも設置されている。駅舎は山のふもとに建っていて、街が遠くまで見渡せた。住宅地がずうっと広がっている。ちゃんと駅前にはコンビニがあって、土産屋もある。駅舎前にタクシーが待っていて、同じ電車から降りたおばちゃんがデパートの紙袋を抱えながらタクシーに乗っていった。 僕は着替えやらパソコンやらを詰めた重い鞄を待合室の椅子に下ろし、自分もその隣の席に身体を預ける。 待ち合わせの相手には、僕がここに到着する時刻を伝えていた。だからもう、迎えに来ていてもおかしくないはずである。待合室にはもう一人、ぽつんと女の子が座っていた。ブレザーの制服を着ていて、小柄だけどたぶん高校生だと思う。本を読んでいる。 僕は西本ふゆとの面識が無い。 写真も見たことが無いし、体型や髪型、顔の造詣、年齢さえも分からなかった。ただ、ネット上の日記の文面から考えて、十代後半から二十代前半だろうとは想像していた。 だからおそらく、この女の子が西本ふゆである可能性が高い。 しかし問題は、僕が彼女に話しかけるのも、彼女が僕に話しかけてくるのも困難であるこということだった。 なにしろ僕らが知り合うきっかけとなったミクシィのコミュニティが、『自分の性格を矯正しよう!』という趣旨のものであり、僕も彼女もいわゆる対人恐怖症なのだ。 知らない人に向かって、「もしかして西本ふゆさんですか?」なんて、人違いである可能性を考えると怖くて声をかけられないのである。彼女も同じだ。 僕がちらと女の子の顔を見つめる。それと同時に、彼女が本から目を離してこちらを見る。視線が合う。すると彼女は恥ずかしくなって顔を本で隠してしまう。僕も耳を赤く腫らせながら、すぐに外の景色を見て視線を泳がせ、何でもないようなふりを装う。 そのまま幾分かの時間が経過した。彼女の携帯電話を呼び出せばいいのだろうけど、すぐ目の前にいる相手に電話をかけるというのも躊躇われる。駅員さんに変な目で見られるだろうし。 女の子は、本を実際に読んでるのかどうのか分からないようなスピードでページをめくっている。僕は、どうしよう、どうしようと頭の中で考えを巡らせて焦る。 だけど、このままじゃダメだということは分かる。なにしろ僕は、自分の性格を変えるためにここまでやってきたのだ。自分に張り付いた泥を洗い流すために、銀河鉄道を辿ってきたのだ。ここで勇気を振り絞って彼女に話しかけなければ、人と接することが怖いままだ、そう思った。だから僕は話しかけなければならない。だから僕は話しかける。震える足を立ち上がらせ、僕は近づく。女の子もそれに気付いている。 「あ、あの」 「は、はい!」 女の子はびくっと身体を縮こまらせる。 「そ、それ、なんて本を読んでるのですか……?」 震える声で僕は訊く。 「ええ!?」 女の子はなぜかびっくりして、声が上ずっている。自分が何か悪いことをしてしまったんじゃないか、とでも思っているかのような慌てぶりだ。 「こ、こここ、これはですね、だ、だざい、太宰治、です。あ、じゃなくて、人間失格、って本で……」 「人間失格、ですか。うん、聞いたことあります。どういう話なんですか?」 「え、あ、これは、あのですね……、主人公が、人と付き合うのが苦手で、道化になるんですけど、すごく共感できて……、えっと、そんな話なんです」 よく分からなかった。彼女自身も人付き合いが苦手だということだけは、よく分かった。それは僕も同じだ。僕は気の利いたことも言えず、当たり障りのない答えを返す。 「へ〜。面白そうだね」 「あ、はいっ!」 女の子が慌てて本を差し出す。今度は僕が狼狽する。 「え、なに? これを僕に?」 「読んでくださいっ!」 なぜか目を赤くして涙ぐんでいる彼女。これじゃあ僕がこの子に絡んでるみたいじゃないか。 「あっ」 僕は彼女が差し出した本のカバーに、サインペンで『西本ふゆ』という署名がしてあるのを発見した。自分の持ち物全てに名前を書くような性格の持ち主なんだろう。 「西本ふゆ、さん?」 「は、はい! わたしです!」 「あ、どうも、○○です」 僕は自分のハンドルネームを告げる。 「は、はい! よろしくおねがいします!」 彼女は身体を折り曲げて深くお辞儀をする。僕もよろしくと言って、軽く頭を下げる。 こんなふうにして、僕とふゆはこの秋、出会った。 ミクシィで知り合った西本ふゆに、最初に訊いたのが彼女の趣味についてだ。 ふゆはこう答える。 「読書と……、あと、散歩が好きです」 「散歩?」 「はい。なんとなく、ふらっと外に出て、そのまま何時間か歩くんです。公園なんかを渡り歩きながら。街の郊外へと」 なんだかそれって、時間を無駄にしているような気がする。散歩しているだけでは非生産的じゃないかな。僕は思った。 「そんなことありません。歩いていると、いろんなイメージが膨らんでくるんですよ。そのイメージに浸っていると、すごく気持ちがよくて……。正面から向かってくる自転車に気付けなくて、はっとしちゃうことがよくあります。急ブレーキかけられて、怒鳴られて、ごめんなさいって謝るんです」 「あはは……」 ふゆは空想にふけっているのが好きなんだな、と思った。読書でその空想を補っているのかもしれない。誰かと一緒でないと孤独で鬱になってしまう僕とは違って、彼女は一人でいる時間を楽しんでいる。むしろ他人が自分の領域に踏み込んでくるのを嫌っているのではないだろうか。そう考えると、彼女に友達はいらないのでは? という気がしてきた。失礼な話だけど。 「あなたの趣味は、なんですか?」 今度はふゆが質問する。 「うーん……」 僕の、趣味。彼女に合わせた方がいいのかな。 「僕も、読書が好きだな」 「本当ですか!?」 「うん」 実はそんなに本は読んでないけど。 「どんな小説が好きですか?」 小説……。最近は全く読んでない。小学生のときに読書感想文を書くために読まされた本の名前を言う事にした。 「銀河鉄道の夜、かな。子供っぽいって笑われるかもしれないけど」 銀河鉄道999は君を旅の最果てまで連れてゆく。 「わたしも好きですよ、銀河鉄道。ノスタルジーな雰囲気で」 「うん。それに僕はあの、夢と現実が溶け合ったようなイメージが好きなんだ」 「そうですね。星空の綺麗な日に、天の川を駆ける特急列車――そんな夢を見る二人の少年。全ての生き物を幸せにするために自分を犠牲にした蠍の火。夢の中での死は、現実での死」 学校でいじめを受けていたジョバンニに、カムパネルラはこんなことを言う。「僕たち、どこまでもどこまでも一緒に行こうね」そんな友達が僕にもいてくれたら、どんなに素敵だろうと思う。 「他には?」 「え?」 「他には、どんな趣味を持っていますか?」 「うーんと……」 何か、あったっけ。 「たまに小説を書くかな」 そう答えた。 西本ふゆと同じように、僕も一人でいると、たくさんのイメージが浮かんでくる。 たとえば、冬。 北国の小さな街。 氷河期のように冷たい朝だ。 野良猫を凍死させるには十分な、おそろしい豪雪だった。 街中が雪に埋まってしまっていた。屋根はその重みで軋む音を立て、今にも潰れそうだ。 黒いランドセルを背負い、白い息を吐きながら、僕はたった一人で歩いている。 雪で視界が狭く、世界で自分以外誰も外に出ていないように思われた。 歯をがちがち鳴らしながら、さむい、さむいと何度も呟いて青い唇を震わせる。 頭がくらくらする。額が熱っぽい。風邪をひいたんだ。でも、休ませてもらえなかった。「少し熱があるくらいで学校をさぼるな。もうすぐ皆勤賞だろう? 我慢しなさい」父親には逆らえなかった。 ふらついた歩調で、ずぼりずぼりと積雪に深い足跡をつける。 スニーカーの中に雪が入って白い靴下に染み込む。 ――冷たい。 足の熱で雪が溶けて、靴の中はぐちゃぐちゃだ。 耳は寒さで真っ赤になっていて、ちぎれそうなくらいに痛い。 毛糸の手袋もすっかり濡れていて、少しでも寒さをしのぐためにポケットに手を沈めている。 そのせいで、足のバランスを崩したときに地面に手をつけず、顔を雪の上にどしゃりと突っ込んでしまう。 雪のベッドに埋まりこむ。 起き上がれ、ない。 力なく、ぐったりと横たわる。 どこまでもどこまでも続く雪原。 学校まではまだ、ずうっと遠い。 すっかり濡れてしまった教科書の入った重たいランドセル。 泥で汚れたジャンパー。 誰一人の声も聞こえず、 静かで、 孤独。 涙が溢れてきそうだ。 凍えそうな冬景色に佇む僕。 誰かに助けを求めたかった。 通学路に並ぶ家。その窓から暖かなだんらんが。眼鏡をかけた穏やかそうな父、エプロン姿の優しそうな母、中学校の制服姿の娘、湯気をたてているミルク、マーガリンを塗りたくったトースト、雪による交通渋滞をテレビが伝えてる。 あの家のチャイムを押して、「寒くて、風邪をひいていて、辛いんです、ストーブの前に暖まらせてください。ほんの少し、数分でいいですから」助けを求めたい。でも怖いんだ。人と接するのが。 誰かと一度は仲良くなったとしても、その子の何気ない言葉、日常の会話の中でふと呟く悪意無い一言に、ぐさりと心臓を突き刺されるような痛みを受けることが度々ある。 「お前、ほんっと記憶力悪いよな、あはは」 ……。 冗談のつもりで出た、一言なのだろう。 それでも僕は、自分の心に土足で踏み込まれたような、犬のふんのついた靴で床中を汚されたような、そんな辛い気持ちになる。 「ねぇ、君ってわたしの目を見てしゃべれないの?」 そんなことを言われたらおしまいだ。僕は顔を真っ赤にして自室に鍵をかけて閉じこもり、布団を頭からかぶって、あの子に嫌われたんじゃないか、嫌われたんじゃないか、嫌われたんじゃないか、嫌われたんじゃないか、人の目を見て話せないのは僕の習性なんだ、僕がこれまで生きてきた中でこびりついた泥なんだ、あの子のことが嫌いなわけじゃないんだ、嫌われたくない! 気が狂ってしまいそうになる。 そして僕は傷つくのが怖くて怖くて、それなら初めから誰とも接触しない方がいい、と決めた。 どうか、お願いだから、誰も僕に話しかけてこないでほしい。 そんなオーラで、 醜く汚い泥の塊で、 自分の身を包んだ。 だから僕は人に助けを求められない。過酷な出来事に遭遇しても自分の中に押し留めて我慢しなければならない。 広大な雪原の中にただ一人。羨ましそうに他人の家の窓を覗き込むのはもうヤメだ。そこには僕の望む幸せがあるのかもしれないけれど、僕にはそれを掴む自信が無い。雪に埋もれて冬を明かそう。冬眠みたいに、ぐっすりと。 でもそれは寂しいことだ、孤独が辛い、夢を見るんだ、大勢の人々に囲まれて、たくさんの友達、誰かと一緒に、生活を共にする、そうすれば心も暖まる。でも僕に泥のように張り付いてしまった性格は直せない。別の人間になろうと思っても、性格を変えるのは半端じゃなく難しい。人と接したい、でも怖い。彼を傷つけ、僕も傷ついてしまうかもしれない。彼を泥沼の中に引き込んでしまうかもしれない。だから僕は諦める。ずっと一人雪の中、寒さに耐え凌ぐ。 少しでもあったまるためには、マッチをこすり、かすかな風でも消えそうなくらいの小さな火を灯すしかない。 マッチ売りの少女みたいにマッチの炎に幻影が見え始めたとき、物語は幻想に飲み込まれる。 性格を変えるなんて不可能だと思っていた。 身体に染み付いた性格は血や肉や骨になって、なかなか代謝されないものだと思っていた。癌みたいに僕の身体に巣を作ってしまった習性を除去することは、できないと思っていた。でもその病巣の治療法が見つかったのだ。 僕がミクシィ内を散歩していたら、『赤ちゃんコミュニティ』というコミュニティが話題になっているのを発見した。性格矯正を目指すコミュニティとして、自分の性格に悩んでいる人たちの間で話題を呼んでいた。 コミュニティ紹介ページの序文はこうだ。 「一説によると、ゴータマ・シッダルタ(仏陀)は人格障害者でした。王子としての裕福な生活を与えられながら、ひどい憂鬱と虚無感が彼を襲います。彼は絶望に落ち込む中、その思考を変えるために、王の地位も財産も投げ出して山奥で思索瞑想に没頭しました。その結果、悟りを得て人格障害を克服することに成功したのです。 人格障害を治す一つの方法として、シッダルタのように過去の自分を捨て去って性格を再構築するというやり方があります。このコミュニティは、それを実践しようというものです。今までの価値観を破棄し、目に付いた全てのものを初めて見たものとして再考し、新たな視点で物事を捉えることによって性格を作り直していくのです」 僕はそのコミュニティにすぐに飛びついた。これなら自分にこびりついた泥を洗い流せると思った。これに参加するしかない。頭を抱えて悶えているほどに、自分の性格が嫌だったのだ。 コミュニティの参加資格はこうある。 「新規でアカウントを取り直した後、今のアカウントを削除してください。それはつまり、過去の因縁を切り捨てるということです。今までの記憶は全て忘れて、コミュニティ上で新しい人格を作るのです。そうすればきっと、実生活での性格も変わっていくことでしょう」 僕は自分の苦い過去を綴った日記を、焚き火の中に放り込んで燃やすみたいに、古いアカウントを削除した。 僕はその炎の中に、幻影を見た。 2006年の10月。僕は生まれ変わった。 新しいアカウントのプロフィール欄には文字が全く刻まれておらず、それは僕がまっさらな、まるで買ったばかりのノートのような状態であることを意味した。 記憶や習性は泥と一緒に全部洗い流され、きれいな身体に生まれ変わったんだ。 静かで心地よい風の吹きぬける無人島に生み落とされた自分を想像した。 何一つ持ってなくて、何一つ知らない。 森や谷や山のある大自然の中で、生きる術をこれから身につけていくのだ。 列車が停まる。 「銀河鉄道下り車線、八戸行き。電車行き違いのため、しばらく停車します」 ドアの開く音がする。 「着いた?」 ふゆが訊く。 「みたいだね」 僕は立ち上がる。 ふゆと一緒に列車を降りる。 「段差が高くて危ないからね」 僕が言ったと同時に、ふゆが躓いて僕の背中にしがみつく。 「ごめんなさいっ」 「気をつけなきゃね」 「はいっ」 「ここ、どこだろ……」 僕らが降り立ったのは、砂浜だった。 何も無い場所だった。 コンビニも自動販売機も公衆電話も待合室も屋根もベンチも何も無い。360度見渡しても店の一軒も見当たらない。 ただ、広大な自然だけが横たわっていた。 「無人島、かな……」 列車があって、海があって、森があって、島の中央に山が聳え立っていて、そうして僕らが二人だけでいた。 息をすると、潮の匂いが鼻から身体の奥へと吹き抜けていった。 僕とふゆはこの島で生活を共にする。 僕らが無人島に到着するまでの経過を話す。 僕はミクシィの赤ちゃんコミュニティに入会して、友達になれそうな人を探した。けれどもコミュニティ参加者たちは、それぞれ自分の性格に問題があると思っているような人たちだったのに、みんなちゃんとコミュニティ内で友達を作って互いの日記に書き込みしあって仲良く話し合っていた。 実生活のこと。勉強のこと。ゲームのこと。本のこと。好きな子のこと……。 みんな笑顔で楽しそうだった。僕はその輪の中に割って入っていくのがひどく億劫だった。僕なんかが声をかけたら迷惑になるのでは? 嫌な顔をされるのでは? そう思った。 これじゃあ現実の僕と、一緒じゃないか……。 自分がまた、泥にまみれていくことを危惧していた。 そんな中、たった一人、誰とも接することなく、日記に読書の履歴だけを綴っていた女の子がいた。 西本ふゆだ。 こうやって一人でいる姿は、現実の僕と同じ境遇だなと、親近感を覚えた。 僕は彼女に勇気を振り絞って話しかけた。 「なんて本を読んでるの?」 僕とふゆはすぐに仲良くなれた。 自分の好きな本の話題で盛り上がった。 以前まで、彼女はミクシィの日記に読書のことしか書かなかったのに、最近の日記には僕とメッセンジャーで会話したことなどが書き込まれているのを発見して、すごく嬉しかった。彼女は僕といることで生き生きとした生活を取り戻したのだと思った。僕はふゆに手を差し伸べることで、彼女の埋まっている泥沼から救い出したと思った。 でもそれは、違った。 僕はぎゅっと腕を掴まれ、彼女の棲む泥沼の中に引きずり込まれていたのだ。 孤独を好む人のことを、スキゾイドという。 彼らは自分の世界を作り上げ、自分の領域に踏み込まれることを極端に嫌う。人と付き合うと疲れる。性欲が極端に薄くて、もし恋人を作るとしてもプラトニックな恋愛を求める。ノスタルジーな物語や、静かな場所を好む。 そんな西本ふゆが必要としていたのは、自分の世界を文字にして表現してくれる人間だった。だから彼女はミクシィのコミュニティに入って、蟻地獄みたいに、泥沼の中で獲物がひっかかるのをひっそりと待っていた。僕のように友達を作りたくても作れないような人間を、利用したかったのだ。 僕はあちこちにゴミの散らばった汚い部屋でテレビを見ていた。窓からは、向かいの古びたアパートが顔を覗かせ、どこからか道路工事の五月蝿い騒音が聞こえてくる。 テレビはまるで暴力みたいに僕の心情へと訴える。 「信じ合える親友がいなければ、充実した生活は営めない。心の拠り所があるなら、どんな壁だって乗り越えていける。一人きりで歩む人生なんて下らないゴミ虫の生涯みたいなものだ」 僕は頭を抱えて苦しむ。どうして僕には友達がいないんだろう。どうして僕は友達を作れないんだろう。頭に亀裂が入ったみたいな頭痛がして床中を転げまわる。僕のそんな様子を無視してテレビは続ける。 「友情は素晴らしい。愛は素敵だ。人と人とのふれあいは豊かな心を創る」 僕が呻き声を上げだしたところで、テレビの電源がぷちっと切れた。 「ねぇ、小説書こうよ」 西本ふゆだった。 部屋の中心に立って、床に寝そべっている僕を見下ろしてた。 「小説……。そんなの書いてちゃ駄目だ! 友達を作らなきゃ……。一刻も早く、友達を……」 「うーん……」 ふゆは小首を傾げて困ったような顔をする。 「ねぇ、わたしたちって、友達だよね?」 「えっ」 彼女の口から出た、ともだちという単語。温かみのある言葉だ。 「そうなりたいと、思ってる」 「じゃあ、わたしとあなたは友達になろう。その代わり、わたしの考えたお話を、小説にしてほしいな」 「う、うん! 僕は文章書くの下手だけど、絶対頑張るよ。どんな話でも書く」 「良かったぁ。それなら友達になった記念に、わたしと握手してくれないかな」 ふゆが手を差し出す。細くて折れそうな腕。真っ白な皮膚だ。まるで彼女がしばらく外に出ていないかのように。 女の子の手。触るのは初めてだ。僕はひどく恥ずかしがりながらも、この手を握れば泥沼から救われると思って、てのひらと、てのひらを、重ね合わせて、指を絡ませた。ふゆのぬくもりが伝わる。 すると突然、ごうと風が吹いて、僕の部屋がばらばらに吹き飛び、向かいのアパートが崩れて土に還り、道路からはみるみる植物が生えだして、山が膨れ上がって川が流れて田んぼが作られ、まるで現代から昔へタイムスリップしてるみたいに景色が変わっていった。 そして僕は銀河鉄道の電車に乗って、流れる風を身に受けながら小説を書いている。心地良かった。なんだか懐かしいような、子供の頃に返ったような、そんな気持ちになった。カンカンカンと警報機が鳴って踏切が閉まる。田舎の中学生たちが自転車から降りて電車が通過するのを待っている。橙色の太陽が山に沈もうとしていて、夕焼け空が森の木々を鮮やかに染める。現実じゃない、空想の中の風景。ふゆがくれた、安息のイメージ。僕はその中で、居心地よさを感じていた。以前の僕なら孤独に苛まされていたはずなのに。ふゆが僕の中へと侵食していく。それはまるで流れに身を任せるみたいで、気持ち良かった……。 「旅館までは、まだ遠いの?」 僕は制服姿のふゆに話しかけた。もう駅から10分は歩いていた。都会育ちで運動不足の僕はすっかり歩き疲れていた。ノートパソコンの入った鞄がずっしりしていて、アスファルトの上に引きずってしまいそうだった。 「もう少しですよ」 ふゆは僕に少しは慣れてきたみたいで、喋り方が流暢になってきた。ネット上で話していた相手と実際に一緒にいるというのは、少し変な気持ちだった。 「あ、あれってもしかして……」 僕は電信柱にぶら下がっている提灯を指す。 「あれはですね、収穫祭ですよ。この先の神社で明日、お祭りがあるんです」 「お祭りかぁ。賑やかそうでいいなぁ」 登りや下りを繰り返しているうちに、その神社に着いた。軽トラックが何台か停まっていて、屋台を組み立てる姿が見れた。 「ねぇ、そこのベンチで休んでいこうよ」 僕はもうくたくただった。肩が重くて、足が棒になっていた。 ふゆはさすがに散歩が趣味だということもあって、全然疲れていないみたいだった。 僕とふゆは神社のある小山のふもとのベンチに腰を下ろす。 「おつかれさま。旅館はもう目と鼻の先ですよ」 「あと何分くらい?」 「10分くらいかな」 「うへぇ……」 僕はため息をつく。 ベンチに座ったまま、空を見上げる。 神社に並ぶ木々の紅葉の向こうに、秋の夕焼けが見える。 風が吹くたびに葉っぱがざあざあ音を立て、僕らの影は屑箱のあたりまで長く伸びている。 「本当はね、休まない方がいいんですよ」 ふゆがこちらを向いて言う。 「無理だよ。もうへとへと……」 僕は目を回してしまいそうだった。 「いいえ。一度歩き始めたら、ずっと歩いていた方がいいんです。長い距離を走ってると、途中から楽になってきますよね? あれは脳内でβエンドルフィンが分泌されているからなんです」 「βエンドルフィン?」 聞いたことがあるような無いような。 「脳内物質の一種です。βエンドルフィンは快感を生み出し、痛みを和らげる効果があるんです。だから長い距離を走った後は気持ちよくなるんです。これを味わうために走っている、ランニング中毒者呼ばれる人たちが大勢いるんですよ」 「へぇ」 さすがに本を読んでるだけあって物知りなんだなあと感心する。 だけど彼女の知識披露はこれだけには収まらなかった。 「脳内物質は人の行動を操っているんです。怒っているときにはノルアドレナリンが分泌されて、幸せだと感じてるときにはセロトニンが分泌されています。これらの分泌機能に欠陥があると、さまざまな障害が出るんです。たとえば――」 ――たとえば、子供は両親と一緒にいると安心します。これは人間だけじゃなく他の動物も同じですよね。けれど、両親が仕事で子供と接する機会が少ないと、幸せだと実感する機能が働かなくなるんです。ようするに脳内でのセロトニンの分泌機能が衰えてしまうんですよね。その人はセロトニンを分泌できないから、何をやっても充実感を得られなくなってしまう……。 ドーパミンも重要です。これはやる気を起こす脳内物質です。この分泌機能に欠陥があると、鬱病や統合失調症になってしまいます。だからこれらの患者は、薬でドーパミンを補充するんですね。他にも多くの精神病が脳内の働きの障害によるものだったりします。 性格というのも脳内物質の分泌機能によって形成されます。キレやすい人はノルアドレナリンが過剰分泌されやすいんです。過剰に賞賛を得たいという人はエンドルフィンの脳内麻薬中毒になってますね。こんなふうに人間の行動を司っているのは、脳内物質なんです。 人が行動を起こす源は、脳内物質である。 βエンドルフィンやドーパミンの作用によって快感を得るために、人は行動している。 学校へ行って勉強するのも、仕事をして金を稼ぐのも、ゲームをするのも、友達と戯れるのも、創作をするのも、小説を読むのも、求愛するのも、セックスするのも、全ての行動の源泉は脳内物質への欲求にある。 ならば、そういった過程を踏まずにβエンドルフィンを分泌することができたなら……、学校へも行かずに仕事もせずにβエンドルフィンを分泌することができたなら、それは苦痛を味わってその結果ようやく快感を得るよりも、よっぽど楽なのではないだろうか? 生きるのが嫌になって、麻薬や覚醒剤に走る人たちがいる。現実より妄想の中の方が楽しいと言って。βエンドルフィンやドーパミンは麻薬や覚醒剤と同様の効果がある。麻薬の一種であるモルヒネが痛みを和らげる薬として使われているのも、βエンドルフィンがランニングによる痛みを和らげているのも、同じ鎮痛効果だ。あるいはβエンドルフィンやドーパミンを分泌することによって、実生活の苦しみさえも和らげてくれるのかもしれない。 この話に読者がどう反応するかは分からない。自分の世界を作って自分だけで楽しむなんて、マスターベーションと一緒じゃないか、と思う人もいるだろう。けれども、西本ふゆはこの問題に対して是と考える。つまり彼女は、脳内物質さえ分泌することができれば他の一切の事象は関係ないのだ。自分が空想に浸っていられればそれでいいのだ。 ふゆは小説世界の住人だった。彼女は小説をたくさん読んでその世界に身を置くことでβエンドルフィンを分泌していた。だから彼女は友達なんて必要無かった。一人きりで本を読んでいられればそれでよかった。ただ、ふゆはどうしても自分の世界を文章にしたかったらしく、僕を利用したのだ。 西本ふゆの作った世界に、僕は侵食されていく。彼女の棲む泥沼の中に引きずり込まれていく。けれどそれは僕に一種の心地よさを味あわせた。湖の水に身体を浸しているような安息感。僕が灯したマッチの火。炎に映る、幸せだけを詰めた幻影。「マッチ売りの少女は悲劇としては書かれていません。少女は冬の夜、亡くなった優しいおばあちゃんの腕に抱かれて天に召されます。そして物語はこう締めくくります。『その子は売り物のマッチをたくさん持ち、体を硬直させてそこに座っておりました。マッチのうちの一たばは燃えつきていました。「あったかくしようと思ったんだなあ」と人々は言いました。少女がどんなに美しいものを見たのかを考える人は、誰一人いませんでした。少女が、新しい年の喜びに満ち、おばあさんといっしょにすばらしいところへ入っていったと想像する人は、誰一人いなかったのです』。ほら、少女はとても幸せに死んでいったんですよ。誰かが可哀想だなんて言っていても、本人が幸せならそれでいいんです。銀河鉄道の夜も結末も一緒ですね。カムパネルラが幸せに死んでいったのに、誰もが彼を可哀想だと言うんです」 人の死に顔は笑顔になることが多いと聞きました。 人が死に直面したときには、大量のβエンドルフィンが分泌されるんです。 だから最高の快感と、走馬灯とも呼ばれる幸せな幻覚を見ながら、死んでいけるんですよ。 マッチ売りの少女が最期に見た幻影。カムパネルラが死の直前に思い描いた銀河鉄道の旅。彼らの脳内ではβエンドルフィンが爆発のように大量発生していたのでは? だから彼らはあんな幻覚を見たのだろう。幻聴が聞こえていたというジョバンニとカムパネルラ。彼らはβエンドルフィンの過剰分泌による妄想性統合失調症だったのかもしれない。その病気は幻覚や幻聴を誘発するという。そして妄想の世界の住人になる。現実からの回避。脳内麻薬中毒の西本ふゆ。彼女はジョバンニのようにいじめにあっていたのだろうか。現実が辛くて小説の世界に逃げたのかもしれない。銀河の超新星のように生まれ続ける断片的なイメージ。それは彼女の思考を束縛し、麻薬のように神経を破壊する。 僕は祭りの喧騒の中にいた。街中の人間たちが集まって神社を埋め尽くしている。みんな笑ってる。賑やかで楽しい。こういう雰囲気が僕は好きだった。友達をたくさん作ってこんなふうに大勢でわいわい騒げたらどんなに楽しいだろうと思う。ここでふゆが登場する。浴衣姿だ。僕は見とれてしまう。僕らは出店を見て歩く。手を繋いで。はぐれないように。ぎゅっと。クレープ。トロピカルジュース。射的。金魚掬い。一通り眺め終わる。ふゆの呼吸が荒いことに気付く。「人混みの中にいると疲れるんです」苦しそうに呟くふゆ。顔が蒼ざめている。僕は心配する。人の少ない場所へ移る。森林の中だ。暗い。遠くで電灯の光がゆらゆら輝いてる。「嫌なんです。人がたくさんいる場所が。クラスメイトの誰かに会ったらどうしようとか、そう考えると息苦しくなって、胸が痛くなるんです。本当は外に一歩も出たくないんです。人と関わりたくないんです。どこか、どこか誰もいないところに行きたい……」僕はふゆが可哀想だと思う。彼女は人間と一緒にはいられない。「お願いです、わたしと海を渡って逃げましょう。どこか、誰もいない場所に」そうして僕らは列車に乗り込んだ。カムパネルラが死の直前に幻覚によって生み出した銀河鉄道。星の眺めの綺麗な夜に、天の川を渡る。無人島に到着した。僕らは降り立つ。何一つ持たずに。僕は木を切って家を作り、魚を釣って木の実を採って、ふゆの作った料理を食べる。おいしい。僕が褒めるとふゆは赤くなる。「お粗末さまでした」静かだ。波の打ちつける音。潮の匂い。水平線に日が沈む。草のベッドで二人で眠る。朝日が昇る。そんな毎日が続く。子供の頃に失くした、懐かしい想い。涙が出てきそうだった。あるとき無人島に船がやってくる。人間たちが侵略しに来たんだ。二人だけの聖域を。「ずっと家に篭ってないで学校に行け!」僕らは逃げる。列車に駆け込む。車輪が宙に浮いて空を走る。僕らは求めていた。誰にも見つからない場所を。けれどあの船が追いかけてくる。空を飛んで。音速を越えた、物凄いスピード。あっという間に追いつかれる。僕らは客席で小動物のように縮こまる。ドンドン。列車のドアが叩かれる。敵だ。ふゆが怯えてる。僕は奴を倒さなければならない。ドンドン。ノックの音が大きくなる。「開けろ!」敵の声だ。僕は耳を貸さずに急いでパソコンに立ち上げる。あるサイトを開く。そして列車の窓を開ける。「ふゆ、ここから飛び降りるんだ。そうすれば現実に帰れる。今ならまだ間に合う」「嫌です、わたしもここに残ります!」「駄目だ。君は降りなきゃならない」「嫌ですっ! あなたと一緒にいたいです!」「駄目だ!」「どうしてですか!?」涙をためて目を腫らしながら、ふゆが訊く。僕は答える。 「銀河鉄道は、死者を乗せる列車だから……」 二人を乗せた列車。けれど天国への切符を持っているのはカムパネルラだけ。まだ死んでいないジョバンニは銀河鉄道から降りなければいけない。僕はボタンをクリックしてサイトに小説を投稿する。ふゆの身体が列車から落下する。「お願い、絶対に死なないで!」落下しながら叫んだふゆの言葉に僕は頷く。ドンという大きな音が鳴って敵がドアをぶち破る。奴だ。僕を銀河鉄道の夢から覚まそうとする悪の手先。髪がぼさぼさで眼鏡をかけていて、右手にバットを握っている。「お前のせいで……、お前が引き篭もりになったせいで、俺の人生まで滅茶苦茶だ! クソ! お前みたいなガキがいなければ! お前みたいな奴が生まれなければ!」敵は気が狂ったような唸り声を上げる。バットを振り回す。殺気を感じた。僕を殺す気だ。バットが僕の腕に当たる。轟音。骨が折れる音。雷撃のような痛みが走り、顔をしかめる。僕は反撃しようと拳を振り上げる。だがそれも遅い。奴はバットを振り下ろしてそれが僕の頭部に直撃する。視界が地面に落ちる。頭から床に叩きつけられて身体が転がる。血がべたりと床に落ちる。僕はカーペットの上に沈む。ぐったりと。起き上がれ、ない。全身から力が抜けていく。部屋には燃え尽きたマッチが転がっている。豪雪の中、暖まろうとして炎を灯したんだ。孤独の氷に閉ざされた心を溶かすために。 朦朧とする意識の中で、テレビが僕に語りかけてきたような気がした。 「下らない人生だったな。一人きりで歩む人生なんてゴミ虫の生涯みたいなものだ」 「違うよ」 僕は否定する。 「とても幸せな人生を、ふゆと一緒に過ごしたんだ」 そうしてβエンドルフィンが分泌されて大量のイメージが生まれ、僕は安らかで静かな深い眠りへと落ちていく。 マッチ売りの少女の翻訳は結城浩氏によるものを引用した。 Copyright (C) 1999 Hiroshi Yuki (結城 浩) |
アイフィ
http://aify.exblog.jp/ 2007年01月17日(水) 02時01分22秒 公開 ■この作品の著作権はアイフィさんにあります。無断転載は禁止です。 |
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始めまして。読ませていただきました。 素直に素敵な文章だなぁと感じました。一つ一つの表現を「上手だなぁ」と思いながら読み進めました。 ふゆの事を悪く例える? ような文章も味があってしっくりくる感じでした。 ふゆと一緒に過ごした出来事は想像だった、でいいんでしょうか。 どこまでが現実でどこまでが空想なのか、全部空想なのか。どちらとも判断がつきませんでした。そこのところは読者が想像した方が楽しめるのかな。 最後の改行がない場面ですが、演出、なんでしょうか。そうだとしても、自分には読みづらかったです。表現したいもの、というのが読み取れませんでした。すみません。 とても面白かったです。 |
10点 | トーラ | ■2007-01-21 16:08:40 | 221.85.148.63 |
合計 | 10点 |