3.「朝鮮神話研究の最前線−檀君神話を中心として」『ユリイカ』1997年2月 号、97〜101頁
一朝鮮半島独自の暦に、檀君紀元がある。キリスト教信者にとって、「教祖イエ ス・キリストの生誕日を基点として計算する年代法」がキリスト紀元(通称「西 暦」)であるとすれば、檀君紀元は「朝鮮民族の始祖檀君が古朝鮮を建国した日 に ちなむ年代法」である。この檀君紀元は、大韓民国(以下、「韓国」と略す) では 公式年代法として一時期採択され使用されたことがある(1948〜196 1年 )。その計算方法は、西暦を基準とすると、それに±2333年である。例 えば、 西暦1997年は、檀君紀元(通称「檀紀」)では4330年に該当す る。 さて、 西暦1993年10月初め、朝鮮民主主義人民共和国(以下、「北朝 鮮」と略す)社 会科学院は、「檀君陵」と言い伝えられてきた墳墓の発掘報告を 公表した。それに よると、平壌市江東郡江東邑大朴山の山麓に位置する高句麗式 石室封土墳に合葬さ れた男女2体の、主に腕・脚・骨盤などの人骨86片が出土 したという。そしてそ の中の男性の人骨にして、電子スピン共鳴法による年代測 定を実施し、 「檀君陵か ら出土した人骨の絶対年代は、いまから5011年前±267年前(筆者 註:1993年現在)である。相対誤差は5.4%で、信頼 確立は95% である」(金教京「檀君陵から出土した人骨の年代学的研 究」『朝鮮の始 祖檀君』朝鮮・外国文出版社、1994年、25頁) の年代測定データが得られた として、次のような北朝鮮の公式見解が発表され た。 「これまで神話的・伝説的人 物と思われてきた檀君が実在の人物だったこ とが科学的に明らかにされ、 これによって朝鮮は、実際に5000年の 悠久な歴史と燦然とした文化を 持つ東方の先進文明国だったことが明らかになった」(社会科学院「檀君 陵発掘報告」『朝鮮の始祖檀君』朝鮮 ・外国文出版社、1994年、7 頁) こうした一連の発掘報告が発表された1993年以来、今日に至るまでの4 〜 5年の間に、論文名のみを知り得るだけで未見の物も含めて、50編を越える論 文がエネルギッシュに北朝鮮で公刊されているようであるが、不思議なことに一 編 たりとも檀君実在説に疑いを抱く研究者はいない。 むしろ我々にとって当面の心配 は、かっては西暦と檀紀との計算方法が、前述 したように±2333年であったの に対し、今後は檀君による古朝鮮建国時期に 関する新説に基づいて±3018年に 変更すべきかどうかであるが、それ以上に 朝鮮民族の精神的支柱に檀君神話が今な お確固として存在することに留意してお くべきであろう。 二拙劣な比喩で表現すれば、いたずらな誤解を招く恐れがあるものの、虚構であ ると 信じてきたはずの神武天皇の建国東征説話であったが、ある日突然に彼の遺 骨が発 見されその実在が科学的に確証されたとして、建国神話から史実へと、日 本人の知 的パラダイムを180度シフトしなくてはならないような、こうした北 朝鮮の檀君 実在説の公表であっただけに、韓国の歴史学界からは幾つかの疑問が すぐさま提出 された。とりわけ考古学者の崔夢龍は具体的に6つの疑問点を取り 上げているが (崔夢龍「北韓の檀君陵発掘とその問題点」『檀君』ソウル大学校 出版部、199 4年、290〜295頁)、本稿では、それらの内容を一々紹介 しないにしても、 北朝鮮で科学的に実証されたとして新説の基本軸に据えている 電子スピン共鳴法に よる年代測定結果や、BC3000年代初めに実在した檀君 の遺骨がなぜ高句麗式 墳墓(AD6〜7世紀頃の形式に酷似)に埋葬されていた のかという2点に対し て、崔の強い疑念が表明されていることだけは忘れないで おきたい。 しかしながら 興味深いことに、古朝鮮建国の始祖檀君が実在するにせよしない にせよ、韓国と北 朝鮮に共通するのは、国家としての檀君朝鮮が実在したとして 疑わないことであ り、それを否定したのは日帝植民史学者たちだけであり、「歴 史歪曲」の結果であ った、というのである。観点を変えると、こうした大合唱に よって、残念ながら、 檀君神話の研究には一種の<聖域>が設定されるわけであ る。 三檀君神話を知るためには、1280年頃に僧・一然(1206〜1289)が 撰述 した『三国遺事』巻1、紀異篇冒頭「古朝鮮」条と、ほぼ同一時期成立の書 である 李承休撰『帝王韻記』巻下、「東国君王開国年代」の分註に引用された記 事の二つ が、最も基本的な一次資料である。これら両資料ともに、『三国遺事』 がおよそ漢 字350字、『帝王韻記』が漢字140字ほどのごく短い分量に過ぎ ず、しかも二 つのバージョンに本質的な食い違いはない。有名なストーリーであ るので今さら紹 介するまでもないが、概略は次の通りである。 「『古記』によると、天界の支配者 桓因の支持を受けた桓雄が、レガリア である天符印三箇を携帯し、太伯山 頂に風伯・雨師・雲師を率いて降臨 した後、無秩序状態にあった地上の掌 握に勤め、熊女と結婚し、始祖王 の檀君王倹をもうけたという」 この檀君 神話をめぐる研究はせいぜい500字ほどの漢字との闘争の産物であ るが、韓国を 中心に200編近くの檀君神話を取り扱った専論が生産されてき た。当然ながら各 自の政治的立場やイデオロギー、さらには分析視点などによっ て、そこに内蔵され たメッセージの解読作業は、実にさまざまな結論に到達して いる。 当面の関心に 即して比較神話学的にみても、この檀君神話は大変に面白い資料 である。例えば三 点のレガリア(神宝)のセットで神聖王権を象徴する「天符印 三箇」は、三という シンボリカルな数字から容易に日本神話の「三種の神器」を 想起させる。そればか りでなく、吉田敦彦・大林太良の両氏が指摘するとおり に、このレガリアが三点一 組の意味ある組み合わせになっていることから、印欧 語族の古い伝統的世界観に基 づく「三機能体系」の枠組みを認めても良いはずで ある。また熊の化身である女と 人間の男が通婚して特定集団の始祖となるという モチーフは、東北アジアのアムー ル河流域に住むツングース族の神話との類似に 気付く(大林太良説)。それら以上 に、桓雄の天降シーンは、日本の天皇家神話 の根幹をなす天孫降臨神話と酷似す る。 したがってこの檀君による建国の経緯を主題とする英雄譚が、一人の宗教者の 思弁ないしは夢想家の幻想の産物であると即断し、神話ではなく幼稚で荒唐無稽 な でたらめな話であるという結論に達するならば、筆者はその見解を支持できな い。 むしろ神話学的世界観の枠組みの中で、東アジア諸民族に特有な神話素をか なり忠 実に保存していると考えているほどである。 四では、われわれは檀君神話を朝鮮古代神話として取り扱うべきであろうか。 これに 関する韓国・北朝鮮における通説は、檀君神話の粗型が古朝鮮時代に成 立し、それ が13世紀末に僧・一然の手で記録されるまでの間、ほぼ原型に近い 形で口承され 伝承され保存されてきたというのである。この考えの最大の弱点 は、言うまでもな く文献記録の初見が古朝鮮から遥かに後代の高麗時代のみに確 認されることであ る。だがこの点を指摘することは、半島の研究者たちの怒りを 覚悟しなくてはなら ない。というのも彼らには、『三国遺事』などの一部の資料 を除外すれば、檀君関 係資料はすべて日帝植民史学者たちによって完全に抹殺さ れ・廃棄されたという反 論が用意されているからである。 しかしながら常識的に考えても、高麗時代に編纂 された『三国遺事』に定着す るまでの約3600年の間(檀紀。北朝鮮:およそ4 300年間)、どのように 誰がこの檀君神話を保存・管理してきたかの説明を抜き にした議論には、どうし ても承服しがたいのである。これまでも繰り返し指摘され ていることであるが、 例えばAD1123年に高麗を訪れた中国人・徐兢の見聞記 『宣和奉使高麗図 経』「建国」の章にも、檀君に関する言及が皆無である。本来な らば、もっとも 聞かせたい神話であるはずだが、奇妙なことに一言もない。 それ に加えて、檀君を記述した記事の後半部分に登場する箕子への言及がほと んどな く、それがまったく無視されていることは驚くばかりである。次の記事で ある。 「唐高(尭)の即位五十年庚寅に平壌城を都とし、始めて朝鮮と称した。そ れから都を白岳山阿斯達に移した。これは弓忽山とも今於山ともいう。国 を治めること千五百年にして、周虎(武)王の即位己卯の年に箕子が朝鮮 に封 ぜられたので、檀君は蔵唐京に移り、後また阿斯達に隠れて山神とな った。 寿千九百八歳であった。」(田中俊明氏訳) 周知の通り、古朝鮮には檀君朝鮮と 箕子朝鮮・衛氏朝鮮の三王朝が興亡したと 伝わっている。そして箕子朝鮮開国伝説 だけならば、『史記』や『漢書』地理志 などに載録されており、少なくともBC4 〜3世紀頃にこの始祖伝説が物語られ ていたと確認できる。しかしながら中国史書 に残る箕子伝説には、『三国遺事』 にみるような檀君から箕子への王権移譲のスト ーリーなどないばかりでなく、ま ったくその名さえも現れてこない。 こうした二つ の理由を挙げるだけでも、檀君神話を朝鮮古代神話であるとか、 檀君神話を史実と 認定する韓国や北朝鮮の研究たちの説に、安易に鵜呑みにしが たい。むしろそうし た主張に否定的にならざるを得ないので、このあたりで筆者 の基本的な立場を表明 しておきたい。まず檀君神話の成立時期に関してである が、韓国・北朝鮮の歴史学 界では異端の今西龍や文.咲驍轤フ学説を支持し、モン ゴルの侵略下の高麗時代に檀 君神話が最終的に纏め上げられたと考えるものであ る。高麗人のナショナリズムと 民族的アイデンティー同定が檀君神話を作り出す 原動力になっていたのではあるま いか。ただし今西らの考えと相違するのは、か れらば高麗時代のある一時期に檀君 神話が作り出されたとするのに対して、筆者 はそれに懐疑的である点である。なる ほど『三国遺事』(王暦篇)に認められる ような朱蒙が檀君の子であるとかの伝承 は、おそらく『三国遺事』定着期の神話 伝承であろう。またこの時期に、仏典や道 教などからの語句が数多く借用されて (「檀君」「天符印」など)、神話伝承に厚 い化粧が施されたにちがいない。 だが筆者は、そうした完成に至る一つの前の段 階の伝承が存在したと推定する ものである。即ち、檀君神話の段階的成立説の提唱 である。紙幅も限られている ゆえに、結論のみを略述するならば、檀君神話を記し た『古記』が『旧三国史』 の一部であると推定し、その『旧三国史』の成立が11 世紀始めであるとの田中 俊明の説に全面的に依拠するならば、檀君神話の『三国遺 事』定着以前の伝承が 語り伝えられていたことになる(田中俊明「檀君神話の歴史 性をめぐって」『韓 国文化』1982年6月号)。つまりこれによって檀君神話の 文献に残る第1次 的形態が、逸書『旧三国史』の中に記述されていたと推論するの である。今日に 伝わる檀君神話の大枠は、この『旧三国史』(編者未詳)に描写さ れていたはず であるが、それを作り出した背景には、檀君が朝鮮・新羅・百済・高 麗・南北沃 沮・東北扶餘などを支配したとする小中華思想の高揚を抜きにしては考 えられな い。言い換えならば、史実としての箕子朝鮮(中国からの亡命者が主体) の前 に、伝説の檀君朝鮮を加上する事で、中華思想に強力にプロテストをし、いや む しろ小中華思想を自らが進んで尊びながら、檀君神話を作り上げたのではあるま いか。その時期は、高麗の国初から11世紀始めに至る間であっただろう。漢民 族 を唯一除外して、東アジアの全民族を支配・君臨したとする神話上のヒーロー 檀君 を創出することで、箕子朝鮮開国伝説に対抗する朝鮮民族独自の主張を国内 外に誇 示する意図をもって編纂されたにちがいない。 五『旧三国史』が早くに逸書となったために、それ以前の形態を推察することは 不 明の儘に残さざるをえないが、それでもここで仮定しておきたいのは、小中華 思想 とナショナリズムが投入され、その大枠にはめ込まれたことで、原檀君神話 の体系 が大きく変容したことである。つまり檀君神話に関して現在所有する知識 を総動員 すると、檀君朝鮮の実在は信頼できないが、この檀君神話を主張した 人々がいたこ とは確かであり、この人々の神話的世界観に着目する必要があるだ ろう。言うまで もなく「すべての宗教においてその核にあたる部分を構成するも のは、組織された 宇宙論を劇的に表明する神話の体系であり、神話を欠く宗教は 存在しない」(吉田 敦彦)のであれば、かって檀君神話を構想した人々からは、 たとえ完全に忘却され ていたとしても、小中華思想・仏教・道教的要素などを受 容する以前に、かれらは 独自の崇高な神観念を所有し、それを一個の神話体系に 組織していたと、当然に想 定しなくてはならない。しかしながら現檀君神話は、 あまりにも断片的な情報に過 ぎず、原体系全体を復元するどころか、体系を構成 する諸要素の割り出しさえ困難 な状況である。現檀君神話は建国のみを語るので あるが、それはもともと原神話体 系では宇宙創造神話から開始され、人間の誕 生・文化の起源・政治的支配者の出現 に至るまでの、首尾一貫した宇宙論が表明 されていたはずのものの、ごく一部にす ぎないと考えるのである。ただし残念な がら、檀君神話を主張した人々が書き残し てくれた、かれらの断片的な神話から では、その神話体系全体の具体像を知る手が かりはつかめないが、その檀君神話 の原神話体系がBC3000年代に遡るとは、 とうたい考えがたい。 六 この数年の北朝鮮における檀君顕彰の賑やかさは目を引くが、その精神的系 譜はな にも今に始まったものではなく、高麗時代からの伝統を引くものなのであ る。ナシ ョナリズムや小中華思想などが強烈に意識されたとき、たえず檀君はそ のシンボリ ックな存在として浮かび上がってきた。檀君が実在したかどうかの是 非は本稿の埒 外であるが、今や檀君なくして、自己のアイデンティーの確認はあ り得ないことは 疑いないところである。 1994年10月、平壌市江東郡にピラミッド式の檀君 陵が完成し公開された が、それに注入された象徴性が複雑であるだけに、その巨大 なモニュメントを、 一度は拝観したいものである。
参考記事「昔、桓因の庶子に桓雄という者がいて、たびたび天から降って人の世に行きたいと思っていた。父は子の気持ちを知り、三危太伯を下視し、そこに降して人々を弘益させようとし、天符の印三箇を授け、天から送り出し 人の世を治めさせた。雄は徒三千を率いて太伯山頂の神檀樹の下に降っ た。ここを神市といい、桓雄は桓雄天王というようになった。風伯・雨 師・雲師をひきいて、穀物・生命・病気・刑罰・善悪など、およそ人々に とって大事な三百六十余りの事を主管し、世の中を統治教化した。時に一 匹の熊と一匹の虎が同じ穴に住んでいた。いつも神熊に祈り、人間になりたいと願っていた。あるとき神は霊なるよもぎとにんにくを与え、お前た ちがこれを食べ、日光と百日の間みなかったならば人の形になることがで きよう、といった。熊と虎はこれを食べ、熊は二十一日忌こもって女身と なることができたが、虎は忌むことができず、人身とはなれなかった。熊 女は結婚する相手がなかったので、いつも檀樹の下で妊娠することを呪願 した。雄はそこで仮に化して熊女と婚し、熊女は妊娠して子を生んだ。こ の子を檀君王倹といった」 (田中俊明氏訳) |
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