■□■□■ 姓氏系図事典の紹介(オロモルフ)■□■□■
◆◆◆ 姓氏系図事典1『新撰姓氏録』 ◆◆◆
▲日本歴史大辞典(河出書房新社)の解説。
平安時代初期に朝廷で諸氏の系譜を集成した古代史研究の重要資料。
西暦七九九(延暦十八)年に桓武天皇が勘本系使をおき、諸氏に本系帳の提出を命じたが、これが嵯峨朝に継承され、万多親王、藤原園人、藤原緒嗣以下が勅命により編纂に従事し、西暦八一四(弘仁五)年六月一日に序文を付してこの書を完成し、さらに臣籍に降下した源・良岑・長岡・広根の諸氏の条項をこれに追加して、翌年七月二〇日に上表文とともに奏進した。
内容は三〇巻と目録一巻から成り、左右京と畿内五国(大和・山城・河内・摂津・和泉の五国)に住む一一八二(現存本では一一七七)氏の系譜を、皇別(三三五)・神別(四〇四)・諸蕃(しょばん)(三二六/帰化人を元にする氏族)の三部に大別して収め、最後に未定雑姓(系譜不確実のもの一一七)をまとめてある。
はじめから京畿の諸氏だけに限ったものらしく、それも完全に網羅されてはいない。
現存本は抄録本で、原本の逸文は諸書に散見するが、鴨脚(いちょう)家本によって伝えられる巻一七の賀茂朝臣と鴨県主の二条項のほかは、原本の全容を知ることはできない。
▲姓氏録作成の理由
『神皇正統記』は、南朝の忠臣で大学者でもあった北畠親房が、天皇にご進講するために執筆したとされる史書で、西暦一三三九年に初版がなったとされています。
この中に、次の一文があります。
異朝の一書の中に、日本は呉の太伯が後なりといふといへり(注1)。かへすがへすあたらぬ事なり。昔日本は三韓と同種なりと云ふ事の有りしが、彼の書を桓武の御代に焼き捨てられしなり。天地開けて後、素戔嗚尊韓の地に到り給ひきなど云ふ事(注2)あれば、かれらの國々も神の苗裔ならん事、あながち苦しみなきにや。それすら昔より用ゐざる事なり。天地神(注3)の御末なれば、なにしか(注4)代下れる呉の太伯が後にはあるべき。三韓震旦(注5)に通じてより以來、異國の人多くこの國に歸化しき。秦の末、漢の末、高麗、百濟の種、それならぬ蕃人の子孫も來りて、神皇(注6)の御末と混亂せしによりて、姓氏録(注7)と云ふ文をも作られき。それも人民にとりての事なるべし。異朝にも人の心まちまちなれば、異學の輩の云ひ出せる事か。
▲『神皇正統記』の文の解説
注目すべき記述で、なぜ『新撰姓氏録』が編纂されたかの理由がわかります。
要するに、桓武天皇の御代の前後には、半島大陸が重んじられたため、百済の王様の子孫である――といった偽系図がたくさん作られたので、その弊害を除くために編纂されたというのです。
これは桓武天皇の生母の血統を飾るための部下による粉飾が原因らしいのですが、後には桓武天皇にも御反省があって、偽系図を除こうとされた事が記されています。
(注1)『晋書』の四夷傳の中の倭人の条に、「自謂太伯之後」とあります。太伯とは春秋時代の呉の国の先祖です。『晋書』は唐の初期(七世紀初)にできた西晋東晋を通じての史書で、三世紀後半から五世紀前半にかけてのシナ王朝の記録です。この倭人の条は、『魏志倭人伝』の抄録のような短い文章で、その中に前記の文言がありますが、これだけが『魏志倭人伝』には無いものです。日本からの使者の誰かが自分を誇示するために、呉の偉人の子孫だ――と言ったのではないかと思います。
この大陸に媚びへつらった誇称は、後の時代にもあったらしく、平泉澄先生の『少年日本史』でも厳しく批判されています。
(注2)『日本書紀』の一書にあるごく短い記録。
(注3)日本神話の神々。天神地祇。
(注4)どうして
(注5)三韓は馬韓、弁韓、辰韓(のちの百済、任那、新羅にほぼ相当)。震旦はシナの異称。
(注6)日本神話の神々や皇族。
(注7)『新撰姓氏録』のこと。
▲菅野真道の創作?
偽系図が激増した原因に、菅野真道のごますりがあったとされます。
真道は桓武天皇の生母の系図を脚色した功績によって、菅野朝臣という氏姓を貰いましたが、この願い出の上奏分の中で彼は、すごい事を書いています。
すなわち、天皇の生母だけでなく自分自身の先祖も百済の第十六代の貴須王の末裔であると、王仁の伝説を換骨奪胎したような長い話を創作し、百済王――百済末期の王の子孫を自称する帰化人系で身分が高いわけではない――の一族を三人も証人に仕立てて、証言させたのです。
このような事から、位ほしさに偽系図をつくる役人が増えてしまったのです。
▲平城天皇による懲罰
役人たちがわれ先に、先祖は朝鮮半島から来た――と主張しはじめたため、朝廷としても厳しい態度を取り始めたようです。
たとえば、『続日本紀』の次の正史である『日本後紀』の平城天皇の巻十七に興味深い一文が見つかります。
平城天皇は桓武天皇の第一皇子で、跡をついで第五十一代の天皇に即位しました。
在位期間は西暦八〇六年から八〇九年で、病弱なことや政争などによって実質三年で退位しています。
で、その八〇九年の箇所に、つぎのような記述があります。
辛亥。勅。倭漢惣歴帝譜圖。天御中主尊標爲始祖。至如魯王。呉王。高麗王。漢高祖命等。接其後裔。倭漢雜糅。敢垢天宗。愚民迷執。輙謂實録。¥博i官人等所藏皆進。若有挾情隠匿。乖旨不進者。事覺之日。必處重科。
(大同四年(八〇九年)二月辛亥(五日)に以下の勅語が出された。倭漢惣歴帝(わかんそうれきてい)譜圖は(日本神話の)天御中主尊をたてて始祖としており、そこから魯王、呉王、高麗王、漢高祖などに至っている。そのような貴人の後裔に自分たちの氏族の系譜をつないでいるので、日本と漢(韓人)の系譜が入り混じってしまい、天孫に連なる日本人本来の系譜を汚している。おろかな民どもが迷い執着して、この乱れた系譜を真実だと称している。諸司官人たち(姓氏を持つ人たちでもある)は、自分の家に所蔵するそのような系譜(倭漢惣歴帝譜圖やそれに類似した系図のことでしょう。現存はしていないようです)を皆提出せよ。もし私情をはさんで隠匿し、命令に背いて提出しない者があれば、発覚した日には必ず重罪に処する)
勝手に先祖を創作する偽系図は奈良時代から有ったようですが、桓武天皇の百済重視でさらに酷くなったのでしょう。
桓武天皇も在世中に氏姓の整理を意図していたようですが、それは平城天皇の次の第五十二代の嵯峨天皇(平城天皇の弟君)のときに本格的になり、嵯峨天皇の弘仁六年(西暦八一五年)に完成した『新撰姓氏録』に結実しました。
平城天皇の上の勅語は、当時の混乱を収拾するとともに、日本初の本格的姓氏録である『新撰姓氏録』への道程でもあったと考えられます。
『新撰姓氏録』の現在の刊行本はいろいろあると思いますが、次の二種は代表的なものだと思います。
▲佐伯有清先生の著作
(現存する資料を最大限集めて、研究解説を付した本です。吉川弘文館発行)
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▲田中卓先生による編纂
田中卓先生は、前記の佐伯有清先生の著作に批判的で、独自に原文とその注釈や解説をお書きになりました。
国書刊行会の田中卓著作集9の『新撰姓氏録の研究』です。
今でも入手できる筈です。私はこちらを推奨いたします。
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◆◆◆ 姓氏系図事典2『「大日本史」の中の「志」の中の「氏族」』 ◆◆◆
▲『新撰姓氏録』のあと
『新撰姓氏録』のあと、皇室の力が衰えたためか、その続編にあたる姓氏録はあまり出ていないようです。
その中で有名なのは、14世紀(室町初期)にできてその後改訂が続いた『尊卑分脉』です。初期の編纂は南北朝時代の末なのでしょう。
江戸時代になって平和がもどり、一般の学者が活躍するようになり、江戸から明治にかけて、いろんな事典類が出るようになりました。
たとえば、『古事類苑』『群書類従』『大日本史』など・・・。
私はそれらについては詳しくないのですが、『大日本史』はありますので、ご紹介します。
▲『新撰姓氏録』の正統的後継書
『大日本史』は、水戸光圀によって提唱されて1657年に編纂が始まり、1906年(明治39年)に完了した、膨大な日本史です。
内容は「本紀」「列伝」「志」「表」「後付」に分けられ、全397巻からなります。
この「志」の中の第267巻から279巻までの13巻が、「氏族」という部分で、姓氏録になっています。
構成は『新撰姓氏録』に準拠しており、あきらかに『新撰姓氏録』の続編を意図して編纂されています。
素人には無理ですが、こういう方面を研究する人にとっては重要な資料だと思います。
▲内容の一部
第268巻の冒頭(右)と第272巻の冒頭(左)とをご覧に入れます。
(大日本雄辨會の十七巻本より)
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◆◆◆ 姓氏系図事典3『新編 姓氏家系辞書』 ◆◆◆
◎太田亮(著)/丹羽基二(編)『新編 姓氏家系辞書』秋田書店(昭和49年12月)
刊行に当たって 秋田貞夫
新編の序文 樋口清之
編者序 丹羽基二
元版の序 上田萬年
元版の自序 太田亮
解説(太田亮)
索引
本文
(合計約1600頁)
▲太田亮の登場
日本の姓氏家系事典の類は、平安時代にはじまって江戸から明治にかけて、多くの先人の業績がありましたが、大正から昭和の前半にかけて太田亮の活躍があり、時代が変わったといって良いと思います。
『新編 姓氏家系辞書』は、太田亮の執念の結晶であり、同時に丹羽基二のライフワークでもあります。
▲太田亮の略歴
明治十七年奈良県生まれ。立命館大学、神宮皇學館を卒業。山梨県立女学校教諭。
内務省勤務を経て立命館大学教授。
法学博士。
博士論文は「日本上代ニ於ケル社会組織ノ研究」で、昭和二十年十一月七日六十一歳で授与。
(この博士論文は、たぶん、昭和四年に刊行された同題名書の改訂だと思います。これは1000頁以上の大著で、日本古代の姓氏問題についての、じつによく整理された解説研究書です)
昭和三十一年死去。享年七十二。
略歴を表面的に見ますと、大学教授として専門的に研究したように思えますが、どちらかというと、アマチュア学者として猛烈な勉強と超人的な史料収集によって、ついに一家をなした――という印象があります。
学界では傍流で、史料探索においても人脈の無い苦労があったようです。
上の元版は大正九年に出された『姓氏家系辞書』で、明治までの同類書を遙かに凌駕する画期的な業績でした。
原稿用紙にして一万頁に達し、それがすべて姓氏資料です。
▲丹羽基二の略歴
大正八年栃木県生まれ。國學院大學卒業。高校中学教諭。
柳田國男、樋口清之、折口信夫、太田亮らの教えを受け、教諭時代から姓氏の研究に没頭したが、とくに退職後に多くの仕事をなした。
お名前博士として親しまれ、『日本苗字大辞典』など姓氏や家紋神紋についての多数の著作がある。若いころから太田亮の『姓氏家系辞書』に熱中し、それを改訂して新編として世に出した。
平成二十年没。
▲書影
この方面に興味を持つ方の必携の書です。古書でも入手可能だと思います。
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◆◆◆ 姓氏系図事典4『姓氏家系大辭典』 ◆◆◆
◎太田亮『姓氏家系大辭典(全三巻)』角川書店(昭和38年11月/元版昭和11年)
(合計6800頁超)
▲驚異的な姓氏と家系の辭典
大判三段組で小さな活字で6800頁という超大作です。
調べて調べて調べ尽くした成果です。
むろん時代の制約はありますから、当時は知られていなかった新資料が戦後発見されたり、また誤りが訂正されたりはしている筈ですが、戦後のすべての同種辭典の作者が参考にしている大辭典であることは間違いありません。
日本の姓氏名字について知ろうとしたら、まず、欠かすことの出来ない資料でしょう。
▲太田亮の述懐
後書きの部分に、太田亮の述懐がありますので、その一部を引用いたします。
「やっと出来上がった。明治三十三年神嘗祭の日、上京して諸家の系図を集め出してから三十七年目になり・・・・・・その基礎工事たる史料蒐集に三十余年も費やしたのである故、これを纏める事は何でもないと思ってやり出したのであるが、なかなかそうは行かず、朝から寝るまで書き続け、毎日平均三十枚、一年に一万枚づつの原稿を書いて二年となり三年とたっても、まるで末の見通しがつかず、身体も疲れ、資力も尽き・・・・・・まったく命からがら、やっと渡りきった、と云ふよりは渡りきるべく余儀なくされて六万枚の原稿を書き了ったのである。・・・・・・」
(原稿六万枚自体が凄い数ですが、その一行一行がすべて学問的な史料なのです! 私が毎日書いている軽いエッセイとはワケが違います)
さらにこの復刻版にはご子息の思いで談があって貴重なのですが、そこには、
「骨と皮の痩せた身体で、よくも毎日毎日書斎に閉じこもって・・・」
「日露戦争当時の学者で、戦争を全然知らないで研究をつづけた学者があったそうだが、父もそれに似ていた」
「この姓氏家系大辭典を書いている時などは、原稿用紙も買えなくなって、ついには藁半紙に書いていた。それもインクがにじむような紙に苦労して書いていた」
・・・などといったエピソードがあります。
上野動物園に行ってくれるのかと思ったら、上野図書館の前で「お前はここで待っていろ」といって入ったきり、ずっと出てこなかった・・・などという思い出も。
▲書影
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◆◆◆ 姓氏系図事典5『日本上代に於ける社會組織の研究』 ◆◆◆
◎太田亮『日本上代に於ける社會組織の研究』磯部甲陽堂(昭和四年十月)
第一編 緒論
(全二章)
第二編 部
(全十一章)
第三編 氏
(全十二章)
第四編 カバネ
(全二十八章)
第五編 地方制度
(全七章)
第六編 中央制度
(全八章)
A5判1040頁の大著。
▲貴重な書物
日本の上代における氏(うじ)と姓(かばね)は、古い歴史を調べるとき、とても重要なのですが、私にはきわめて分かりにくいものでして、いろんな本を探しているうちに入手した太田亮先生の著書がこれです。
先に書きましたように、太田先生の法学博士の論文は、この書物が元になっているのだろうと思います。
その特徴は、「具体的」だという事です。
歴史学の大家による辞書的な説明はいろいろとあるのですが、どうも抽象的で、具体的なイメージが沸きません。
しかし太田亮先生は資料収集の大家ですから、すべてにわたって話が具体的なのです。
「資料をもって語る」といいますか・・・。
▲書影
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◆◆◆ 姓氏系図事典6『系図研究の基礎知識』 ◆◆◆
◎近藤安太郎『系図研究の基礎知識(全4巻)』近藤書店(平成元年〜平成二年)
第一巻 序章・古代・中世(I)
はじめに
序章
第一章 氏姓制度と古代氏族
第二章 武士の発生と中世武士団の形成
第二巻 中世(II)
第二章(続き)
第三巻 近世・近代
第三章 近世社会と家名・苗字
第四章 近代における苗字の諸相
第四巻 総括
第五章 系図研究の過去と現在
終章 系譜学の将来
あとがき
付録 神々の系譜 皇室系譜
姓氏・家名・苗字索引
事項索引
▲内容
この資料は、表題こそ「基礎知識」となっていますが、A5判で全四巻3000頁を越える大著で、通常の意味での基礎知識などといったものではありません。
これを全部読んだら、姓氏学と系図学の権威になってしまうでしょう。
太田亮先生の『姓氏家系大辭典(全三巻)』のような事典的な構成ではなく、文献の解説、用語の解説、制度の解説、そして数多くの氏族の系譜的な解説、さらに近世以降になりますと、平田篤胤・山崎闇斎・新井白石はじめ多くの学者や芸術家などの家系や学問的系譜に着目した解説・・・などを、分かりやすい筆致で記しています。
それにしても凄まじい量です。
著者は、歴史ものを多く出版している近藤書店の社長で、学問上の経歴は存じませんが、太田亮先生に憧れて姓氏学に没頭した方のようです。
年齢は、私より少し上のようです。
(政治思想や歴史観については、多少の疑問もありますが、いまは触れません)
太田先生にしても、丹羽先生にしても、この近藤先生にしても、歴史の専門学者とは別の世界の方でして、それが姓氏学や系図学の特色のように思えます。
有名教授に連なる歴史の専門学者とはまったく別の系統の方が、貢献しておられるのです。
さて、なぜ私が近藤安太郎氏のこの本を購入したかですが、それは次回にご説明いたします。
▲近藤安太郎『系図研究の基礎知識(全4巻)』購入の理由
私は、古代系図にはほとんど興味が無かったのですが、なぜか近藤先生のこの本を購入しました。
この大著が出たときは、丹羽基二先生など著名な系図研究者が新聞などで推奨していましたが、当時はそういう事も知りませんでした。
にもかかわらず本書を購入したのは、以下の理由によります。
▲七世紀/飛鳥時代の畿内では、人口の約三十パーセントが百済からの帰化人!
新しい歴史教科書をつくる会で会長をしておられた学者の方が、あるエッセイに上のような事を断定的に書いておられました。
私はショックを受けました。
近隣反日国の学者の中に、飛鳥時代の日本人のほとんどは朝鮮から渡った――という妄言を吐く人がいることは知っていましたが、保守派日本人の有名論客がこう言ったので、驚いたのです。
これはおそらく、『新撰姓氏録』における諸蕃氏族の数の比率をそのまま人口の比率としてしまったための錯覚ではないか――と考え、何種類かの方法で数値を出してみました。
その結果、数パーセント以下だっただろう――との自分なりの結論に達しました。
で、この検討のとき、『新撰姓氏録』の数値的な解説が無いかと探し、司書をしている知人が教えてくれたのが、近藤先生のこの大著だったのです。
私は、大まかな検討結果を、つくる会に送りまして、某会長のエッセイに疑問を呈しました。
しばらくして事務局から、古代史専門の高森明勅先生は「あなたの方が正しいだろう」と言っておられる――とのご返事がありました。
これで安心したのですが、さらに南原次男先生にもご意見を伺ったところ、「むろん貴殿の方が正しいが、実際には貴殿の推測よりさらに少なかっただろう」との御見解でした。
南原先生は学界では傍流の学者ですが、防衛幕僚を退職されたあと早稲田大学で研究し、「三王朝交替説」で知られる水野祐早大教授に「王朝非交替」を主張して論争を挑み、沈黙させてしまった――という御方です。
▲そういうわけで・・・
まあそういう事で、近藤安太郎のこの大著は、上の小論争の助けになったというわけです。文献に残っていない問題についての言及があるのです。
(飛鳥時代の人口って、なにしろ資料がありませんから、沢田吾一の研究などから推定する以外に方法がありません。なおこの小論争のことは、拙著『女性天皇の歴史』に書きました)
▲書影
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◆◆◆ 姓氏系図事典7『古代氏族系譜集成』 ◆◆◆
◎室賀寿男(編著)『古代氏族系譜集成(全3巻)』古代氏族研究会(昭和六十一年四月)
第一部 古代氏族系譜についての基礎的考察
第一編 鈴木眞年について
第二編 私の系譜論
第二部 系譜部
第一編 皇別氏族
第二編 神別氏族
第三編 諸蕃氏族
第四編 未定雑姓
近藤安太郎先生の著作より一回り大きなB5判、全1751頁の大冊です。
▲著者紹介(別の著書から)
昭和21年生まれ。東大法学部卒。大蔵省に入り、富山県副知事、東京税関長などを歴任して、現在、弁護士。
一方学生時代から長年にわたり、古代史、古代氏族、氏族系譜の研究に取り組んできた。
歴史関係の著書が多数ある。
▲購入した理由
これは、6で述べました近藤安太郎『系図研究の基礎知識(全4巻)』に、大変役に立った――として紹介されていたので、購入してみました。
古代系図研究者のほとんどは、いわゆるアマチュア学者ですが、前記略歴で分かりますように、この室賀寿男氏もその典型です。
本の内容は、解説はごく一部で、大部分は、あとで示す写真にありますような、手書きの系図です。
千何百頁にもわたって、手書きの系図を書き続ける労力たるや、想像を絶します。
元になっているのは、鈴木眞年という明治時代の研究家の資料だそうで、学問的な評価は私には判断できません。
(この本の解説部分や、別の著作に見られる氏の歴史観は、私とはずいぶん違うと判断されます)
▲書影
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▲の中身の一部。
このような手書きの系図が膨大な数、収録されています。
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◆◆◆ 姓氏系図事典8『古代豪族系図集覧』 ◆◆◆
◎近藤敏喬『古代豪族系図集覧』東京堂出版(平成五年九月)
序
解題
第一 皇統譜
第二 古代中央豪族
第三 古代地方豪族と主要社家
約450頁の系図集で、室賀寿男氏のものと同様、手書き系図を集めた力作です。
近藤安太郎氏も、前記大著の中で、室賀寿男氏の力技と、室賀氏が参考にした鈴木眞年の業績について記していますが、この近藤敏喬氏の著書にも、そのことが書かれています。
鈴木眞年とは、明治期の系図研究家で、古代氏族に関する膨大な系図を残した人物です。
ただしその信憑性について、学問的に厳密な太田亮博士が厳しい目で見ていたため、太田博士以後はあまり注目されず、その著作もあちこちに分散収蔵されているのみだったそうです。
学界の評価としては、民間の好事家の仕事――ということだったらしい。
室賀寿男氏は、その分散収蔵された膨大な系図集に着目して、自著に取り入れて、前記した大系図集を作り上げたわけです。
で、この近藤氏の本は、室賀寿男氏の本を参考にしているそうですから、その大本の多くは、鈴木眞年の系図だということになります。
鈴木眞年系図の信憑性については、近藤氏は、98パーセントまで信用できる――と記しています。
なにしろ古代氏族の系図ですから、その信憑性判断は難しい問題です。
この近藤氏の系図集は、全五冊の予定で、これはその第一冊めです。
第二冊めも入手しており、次にご紹介しますが、三冊め以降は、出ているのかどうか、分かりません。
▲書影
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▲本文の一部
――をご紹介します。
手書きできっちりと書かれた系図集です。
この頁は、わたしが伊勢神宮関係のある人物を捜していて、見つけた箇所です。
つまり、<役に立った>というわけです!
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◆◆◆ 姓氏系図事典9『宮廷公家系図集覧』 ◆◆◆
◎近藤敏喬『宮廷公家系図集覧』東京堂出版(平成六年九月)
序
解題
第一 王朝貴族
第二 賜姓皇族(源氏・平氏)
第三 堂上家
第四 浄土真宗准門跡
第五 地下家
A5判、700頁以上の大冊で、全頁手書きの系図集です。
参考にした書物は、『尊卑分脉』『公卿補任』『諸家伝』『地下家伝』・・・などで、それぞれ解説があります。
皇室に関係の深い氏族の系図ですから、資料は比較的多く残されているので、書きやすいでしょうが、それにしても大変な労力です。
▲書影
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◆◆◆ 姓氏系図事典10『日本古代人名辭典』 ◆◆◆
◎竹内理三・山田英雄・平野邦雄(編)『日本古代人名辭典(全七巻)』吉川弘文館
(第一巻:昭和三十三年五月)
(第二巻:昭和三十四年七月)
(第三巻:昭和三十六年四月)
(第四巻:昭和三十八年七月)
(第五巻:昭和四十一年三月)
(第六巻:昭和四十八年一月)
(第七巻:昭和五十二年六月)
編者のうち竹内理三先生(昭和五年東大文学部国史学科卒)は東京大学史料編纂所所長をつとめた方で、文化勲章受章者です。山田英雄先生(昭和十七年東大文学部国史学科卒)は古代史に関する研究者で多くの著作があり万葉集の研究でも知られます。平野邦雄先生(昭和二十三年東大文学部国史学科卒)は古代史関係の著名な学者ですが、次回にご紹介する辭典の編者です。
竹内先生の前書きによりますと、竹内先生の人名カードを元に平野先生が整理成稿し、それに独立して同様な仕事をしていた山田先生も協力して、20年をかけて成ったものだそうです。
これまでに知られているあらゆる古文献の人名を身分の上下にかかわらず網羅し、古代から天応(八世紀末)にいたる人名(延暦以後の事跡もその前から現れた人物については記載)を収録してあります。
全2000頁強で20000項目以上の大辭典です。
▲価値は高いが引きにくい辭典
これまでの非専門家による姓氏系図事典とは違って、これは、東大史料編纂所に関係の深い三人の学者が精魂込めて制作した辭典であり、学問的レベルは非常に高いものがあります。
ですから私もよく利用するのですが、問題はその引きにくさにあります。
一般に辭典の項目は、その言葉の読みの50音順に並べられているものですが、これはそうではなく、漢字の順です。ですから、人名の漢字が分からないと、なかなか目標に達しません。
古代人名の正しい読みはまだ分かっていない――という学問的な理由があるからだそうですが、それにしても、引くのは大変です。
でも、頼りになる古代姓氏辞典です。
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◆◆◆ 姓氏系図事典11『日本古代氏族人名辞典』 ◆◆◆
◎坂本太郎・平野邦雄(監修)『日本古代氏族人名辞典』吉川弘文館(平成二年十一月)
引きやすい一冊本です。
題名に「氏族人名」とありますように、古代(九世紀末まで)の氏族と人名についての辞典で、人名についてもその人がどういう氏族に属していたかなど、系譜的なことも分かる仕組みになっています。
筆頭監修者の坂本太郎先生は、日本の古代史の重鎮として活躍された方で、文化勲章受章者です。
実質的な責任者だったらしい平野邦雄先生は、前回10で記しました『日本古代人名辭典(全七巻)』の編纂者のお一人です。
まえがきによりますと、資料的には『日本古代人名辭典』と関係しているようですが、一般の古代史ファンにも使えるように、書き方を工夫してあるそうです。
また、期間も約100年伸ばして九世紀ごろまで(六国史まで)となっています。
収録項数は、前辭典とほぼ同じで、28000項目です。
構成は学界での慣用の読みの50音順で、ずっと引きやすくなっていますし、解説は読みやすくなっています。
ですから、まずは本辞典によってその人物や氏族の概略を頭に入れ、史料的により厳密に知りたい場合には、前の『古代史人名辭典』を見る――という方法を採れば、詳しい知識が得られます。
ただし、執筆者の史観については、十分な注意が必要かと思います。鵜呑みしないで田中卓先生の全集で補うなど、多面的に検討するべきです。
▲書影
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◆◆◆ 姓氏系図事典12『日本古代氏族事典』 ◆◆◆
◎佐伯有清(編)『日本古代氏族事典』雄山閣出版(199411)
20人ほどの方が執筆した、550頁ほどの、引きやすい古代氏族事典です。収録は、11の事典とほぼ同じ九世紀末までです。
編者の佐伯有清先生は、前に記しました『新撰姓氏録』の研究で知られる方です。
『新撰姓氏録』それ自体の活字化書としては、わたしは田中卓先生の書を推薦しますが、『新撰姓氏録』などの研究を元にした一般向けの事典としては、これはハンディで使いやすい本です。
▲書影
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◆◆◆ 姓氏系図事典13『日本史諸家系図人名辞典』 ◆◆◆
◎小和田哲男(監修)『日本史諸家系図人名辞典』講談社(200311)
天皇家・親王家
豪族・公家・武家
付録
A4に近い大型判で、740頁の大型一冊本辞典です。
監修の小和田哲男先生はテレビでもお馴染みですが、前書きで、「21世紀版『尊卑分脉』として長く使われることを願っている」と記しています。
とても使いやすい辞典です。
特徴は、系図とともに、その系図上の人物の簡単な解説があり、生没年も分かるかぎり書いてあることです。
(こういう構成はじつは珍しいのです)
近世以降が中心なのですが、古代からの豪族などもきちんと収録されております。
収録は天皇家・六親王家、401の豪族・公家・武家で、人数としては8800人です。
予算の事情で一冊だけ――という場合には、この本が良いかもしれません。定価9500円です。
◆書影
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◆◆◆ 姓氏系図事典14『尊卑分脉(國史大系版全五巻)』 ◆◆◆
◎洞院公定(原撰)/黒板勝美・國史大系編修會(編)『尊卑分脉(新訂増補國史大系版全五巻)』吉川弘文館(昭和四十九年七月/全五篇のうち最後の第五篇は編者による索引)
明治以降の姓氏系図事典の類に挙げられている古典参考資料の第一は、平安前期の『新撰姓氏録』ですが、その次に来るのが、この『尊卑分脉』です。
初版の成立は十四世紀末(南北朝末から室町初にかけて)とされていますが、それ以後多くの人が改訂・変更を加えており、原型の復元は困難とされています。
國史大系のこの五巻本は、現在入手可能なほとんど唯一の刊本でしょう。
系図の形式をとるまとまった姓氏事典としては、最古のものだと思います。
系図というのはどうしても作為が入りますから、歴史資料としては慎重な扱いが必要ですが、貴重な資料である事は間違いありません。
いずれにせよ、近現代の姓氏系図辞典の類に、必ず参考文献として挙げられる貴重な資料です。
▲書影
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▲内容の一部
参考までに、内容の一部の写真を載せます。
源氏の系図の一部です。
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