天智天皇 (626-672) |
志貴親王 (???-716) |
光仁天皇 (709-782) |
桓武天皇 (737-806) |
葛原親王 (786-853) |
高見王 (???-???) |
平 高望 (???-???) |
平 良文 (???-???) |
平 経明 (???-???) |
平 忠常 (975-1031) |
平 常将 (????-????) |
平 常長 (????-????) |
平 常兼 (????-????) |
千葉常重 (????-????) |
千葉常胤 (1118-1201) |
千葉胤正 (1141-1203) |
千葉成胤 (1155-1218) |
千葉胤綱 (1208-1228) |
千葉時胤 (1218-1241) |
千葉頼胤 (1239-1275) |
千葉宗胤 (1265-1294) |
千葉胤宗 (1268-1312) |
千葉貞胤 (1291-1351) |
千葉一胤 (????-1336) |
千葉氏胤 (1337-1365) |
千葉満胤 (1360-1426) |
千葉兼胤 (1392-1430) |
千葉胤直 (1419-1455) |
千葉胤将 (1433-1455) |
千葉胤宣 (1443-1455) |
馬加康胤 (????-1456) |
馬加胤持 (????-1455) |
岩橋輔胤 (1421-1492) |
千葉孝胤 (1433-1505) |
千葉勝胤 (1471-1532) |
千葉昌胤 (1495-1546) |
千葉利胤 (1515-1547) |
千葉親胤 (1541-1557) |
千葉胤富 (1527-1579) |
千葉良胤 (1557-1608) |
千葉邦胤 (1557-1583) |
千葉直重 (????-1627) |
千葉重胤 (1576-1633) |
江戸時代の千葉宗家 | 千葉宗家の女性・一門 |
(737-806) 【桓武天皇以前】
御諱 | 山部王⇒山部親王 | |
和諱 | 日本根子皇統弥照尊 | |
生没年 | 天平9(737)年~延暦25(806)年3月17日 | |
在位 | 天応元(781)年4月3日~延暦25(806)年3月17日 | |
父 | 光仁天皇(四十九代) | |
母 | 高野新笠(天高知日之子姫尊) | |
官位官職 | 天平宝字8(764)年10月7日 天平神護2(766)年11月5日 神護景雲4(770)年10月1日 神護景雲4(770)年11月6日 宝亀2(771)年3月13日 宝亀4(773)年正月2日 天応元(781)年4月3日 |
従五位下 従五位上 従四位下・参議 親王宣下(山部親王)・四品 中務卿 立太子 践祚 |
人皇五十代。父は四十九代の光仁天皇。母は和乙継娘・高野新笠。はじめ山部王。諱は日本根子皇統弥照尊。別称は柏原天皇。
聖武天皇の治世である天平9(737)年、天智天皇の孫・白壁王の第一王子として誕生した。父王・白壁王は、聖武天皇の父天皇・文武天皇とは従兄弟の間柄になる。しかし、この当時は天武天皇の子孫が皇位を継承しており、白壁王は山部王が生まれた年の天平9(737)年9月28日、29歳にしてようやく従四位下に叙せられたほど遠い皇親となっていた。
また、山部王も天平宝字8(764)年10月7日、「詔加賜親王大臣之胤、及預討逆徒諸氏人等位階」として、「无位(無位)」から「従五位下」に叙された。同時に「矢口王、三関王、大宅王、若江王、当麻王、坂上王」が叙位されているが、同年9月の「恵美押勝の乱」を討逆した功績によるものではなく「親王」の胤としての叙位だろう。山部王はこのとき二十八歳になっており、「令」の規定である二十一歳での叙位にも洩れるほど、印象は薄かったのだろう。矢口王ら他の王も出自は伝わらない。
天平神護2(766)年11月5日には従五位上に進み、朝廷の官吏としての道を歩み始めた。このころ山部王は大学頭になっていた。
しかし、神護景雲4(770)年8月、天武系最後の天皇・称徳天皇が崩御すると、藤原永手・百川らによって称徳天皇の勅として、妹宮・井上内親王の夫君であった白壁王を次期天皇にすると宣言。白壁王は10月1日に践祚した。
●桓武天皇系譜
⇒斉明天皇―+―天智天皇―+―志貴親王――光仁天皇――桓武天皇
| |
| |
| +―元明天皇
| ∥
| ∥――――文武天皇――聖武天皇
+―天武天皇―――草壁皇子
父・白壁王の践祚に伴ない、山部王は従四位下に叙せられ、大学頭を転じて侍従となった。天皇の皇子となったための措置であろう。代わって従四位下吉備朝臣泉が大学頭となる。
11月6日、光仁天皇は妃の井上内親王を「皇后」と定め、「兄弟姉妹諸王子等悉作親王弖冠位上給治給」と、王子王女らをそれぞれ「親王」「内親王」と改め、叙位を行った。これにより山部王は「四品」の「山部親王」となった。
無位⇒三品 | 酒人内親王(母:井上内親王。のち斎王を経て桓武天皇妃) |
従四位下⇒四品 | 山部王⇒山部親王(母:高野新笠。のち桓武天皇) 衣縫女王⇒衣縫内親王(光仁天皇姉妹) 難波女王⇒難波内親王(光仁天皇同母姉) 坂合部女王⇒坂合部内親王(光仁天皇異母姉) 能登女王⇒能登内親王(母:高野新笠。市原王妃) 弥努摩女王⇒弥努摩内親王(神王妃) |
従五位下⇒従四位下 | 桑原王(父王不明) 鴨王(父王不明) 神王(光仁天皇弟・榎井親王の王子) |
無位⇒従四位下 | 浄橋女王(父王不明) 飽波女王(父王不明) 尾張女王(光仁天皇兄・湯原王の王女。光仁天皇妃) |
そして宝亀2(771)年正月23日、「皇后御子」の他戸親王を皇太子と定めた。他戸親王は山部親王の異母弟であるが、皇后の子であるため皇太子とされた。一方、山部親王は母・和史新笠が妾であったため、異母妹・朝原内親王(母は井上内親王)の三品よりも下の品位である四品に定められたものと思われる。
2月22日、光仁天皇即位に尽力した左大臣・藤原永手が五十八歳で亡くなった。天皇は永手を深く信任しており、その死を聞くと大変落ち込み、中務卿・文屋真人大市、宮内卿・石川朝臣豊成を左大臣邸に派遣して詔を遣わしている。
3月13日、山部親王は中務卿に任じられた。このような中、宝亀3(772)年3月2日、皇后・井上内親王が光仁天皇を巫蠱していると従七位上裳咋臣足嶋が訴え出たため、井上内親王は大逆罪に問われて廃された。5月27日には連座して他戸親王も皇太子を廃されて「庶民」とされた。「親王」の位もおそらく召し上げられたと思われ、以降は「他戸王」と称されている。
宝亀4(773)年正月2日、山部親王は勅命により「山部親王立而皇太子」と定められ、立太子した。皇后の誣告罪は山部親王を擁立するための、藤原永手・百川の陰謀とも考えられるが、こうして山部親王は次期天皇としての地位を約束された。
10月19日、井上内親王は14日に病死した光仁天皇の実姉・難波内親王を厭魅した罪を着せられ、廃太子他戸王とともに「大和国宇智郡沒官之宅」へ移らされた。この井上内親王が幽閉されていた旧宅があったとされている地には「井上院(五條市岡口)」跡が遺されている。そして、宝亀6(775)年4月27日「井上内親王、他戸王並卒」と記録されており、母子は同日に幽閉前で亡くなっている。この死は明らかに不自然であり、自殺や暗殺の可能性が強いか。
こののち、疫病や落雷、雹、蝗害、旱魃などがたて続けて発生。宝亀8(777)年9月18日には、内大臣藤原良継(式家)が六十二歳で亡くなった。宝亀4(773)年正月2日、山部親王が皇太子となる。このころ藤原良継は娘の乙牟漏を山部親王の妃としており、井上内親王の失脚は藤原良継らによる陰謀だったのかもしれない。11月1日には「天皇不豫」、12月25日には皇太子山部親王が病に倒れた。これら天変地異は井上内親王の怨霊の仕業であるとされ、12月28日、井上内親王の遺骨を改葬することを決定。その墓を「御墓」と称させ、守塚を一軒附けるという御陵に准ずる対応とし、さらに宝亀9(778)年1月20日、従四位下壹志濃王、石川垣守を井上内親王の埋葬墓に遣わして遺骨を掘り起こし、改葬した(宇智陵)。
立太子より九年目の天応元(781)年4月3日、父天皇・光仁天皇が病のために山部親王へ譲位され、山部親王は践祚して人皇五十代となり、弟宮・早良親王を皇太子として立太子させた。
翌5月、天皇は後宮を司る中宮職を中務省に編入。8月、宝亀11(780)年、光仁天皇より東北地方の蝦夷地平定を命じられていた持節征東大使・藤原小黒麻呂が帰京。12月、父・光仁太上天皇が73歳で崩御された。
天応2(782)年閏正月1日、「因幡国守従五位下氷上真人川継」が謀反を企てたが、事が露見して京から逃走した。これを「氷上川継の乱」という。天皇はただちに「三関」を固める使者を遣わすとともに、「京畿七道」に川継を捕らえるよう下知。14日、「大和国葛上郡」で捕らえられた川継に対し、「潜謀逆乱、事既発覚」として法に照らして「罪合極刑」、川継の母・不破内親王も「反逆近親、亦合重罪」とされた。しかし、光仁太上天皇崩御からまだ年月も経たずに極刑とするのは忍びないとして、川継は死一等を減じて伊豆国三嶋へ配流とされ、不破内親王と川継の姉妹は淡路国へ流罪とされた。また、川継は妻・藤原法壱(刑部卿藤原浜成娘)の同道を許されている。
氷上川継は宝亀10(779)年正月25日、無位から従五位下に叙されているが、父は天武天皇の孫・塩焼王、母は聖武天皇の娘・不破内親王、伯母は孝謙天皇、井上内親王(桓武天皇の義母)という皇親である。
+―天智天皇―+―――――志貴親王―――――――――――――――――――光仁天皇―――桓武天皇
| | ∥
| | ∥
| +―――――元明天皇 +―文武天皇―――聖武天皇 ∥―――――他戸親王
| | ∥ | ∥ ∥
| | ∥ | ∥―――+―井上内親王
| +―持統天皇 ∥―――+―吉備内親王 光明皇后 |
| ∥ ∥ ∥ |
| ∥――――草壁皇子 ∥ +―孝謙天皇[称徳天皇]
| ∥ ∥ |
+――――――――天武天皇 ∥ |
∥ ∥ +―不破内親王
∥――――高市皇子 ∥ ∥
胸形君尼子――娘 ∥ ∥ ∥―――――氷上川継
∥―――――長屋王 ∥
天智天皇――――御名部皇女 ∥
天武天皇――新田部親王―塩焼王
この陰謀に加担したとして、正月18日、大宰府へ勅が下され「員外帥藤原朝臣浜成之女」が川継の妻となり、謀反に加担したとして、浜成の所帯および参議・侍従職を解いた。また、「正五位上山上朝臣船主」を隠岐守へ、「従四位下三方王」を日向介へ左遷した。
さらに翌日19日、「左大弁従三位大伴宿禰家持」「右衛士督正四位上坂上大忌寸苅田麻呂」「散位正四位下伊勢朝臣老」「従五位下大原真人美気」「従五位下藤原朝臣継彦」の五名が職を解かれ、川継の姻戚や友人三十五名が京を追放された。氷上川継の乱の余波はこれに留まらなかった。
3月26日には、「従四位下三方王」「正五位下山上朝臣船主」「正五位上弓削女王」の三名が川継に加担していたとして、三方王・弓削女王は日向国へ、山上船主は隠岐国への配流とされた。
そして6月14日、人臣の最頂点である「左大臣正二位兼大宰帥藤原朝臣魚名」までもが加担していたとして「免大臣」とされ、その子「正四位下鷹取」は石見介に、「従五位下末茂」は土左介へ、「従五位下真鷲」がそれぞれ左遷された。魚名自身は大宰帥とされ、赴任の命が下るが、6月28日に摂津国に至って病に倒れ、病が癒えてからの進発とされた。しかし、その後も快復せず、天皇は延暦2(783)年5月11日、魚名を京都へ帰還させた。しかし、京都に戻っても魚名の病は癒えず、容態は悪化の一途をたどったようだ。
6月21日、「従四位下多治比真人長野」を刑部卿とした。彼の娘・真宗はのちに桓武天皇の夫人となり、桓武平氏の祖となる葛原親王のほか、佐味親王、賀陽親王、大徳親王、因幡内親王、安濃内親王らの母となった女性である。
桓武天皇
∥―――――+―葛原親王―+―平高棟
∥ |(式部卿) |(大納言)
∥ | |
多治比長野―――多治比真宗 +―佐味親王 +―平善棟
(刑部卿) |(中務卿) |(無官)
| |
+―賀陽親王 +―高見王―――平高望
|(弾正尹) (無官) (上総介)
|
+―大徳親王
|(無品カ)
|
+―因幡内親王
|(無品)
|
+―安濃内親王
(無品)
7月19日、「紀朝臣船守」を正四位上とした。船守の父は紀猿取または紀諸人とされており、桓武天皇の祖母・紀橡姫とは再従兄弟または兄弟という関係にある。また、船守の娘・紀若子は桓武天皇に召し出され、明日香親王を産んでいる。
7月23日、天皇は魚名に連座して左遷されていた魚名の子「石見介正四位下藤原朝臣鷹取」「土佐介従五位下藤原朝臣末茂」らを急ぎ京都に召還した。魚名の容態を考慮したものと思われるが、魚名はそれから二日後の25日、63歳で薨去した。
7月30日、天皇は詔を発して魚名について、「疇庸叙功、彰于旧典、赦過宥罪」とし、その忠節を賞した上で、「今故贈以本官、酬其先功、宜去延暦元年六月十四日所下詔勅官符等類、悉皆焼却焉」した。「延暦元年六月十四日」の詔勅とは、魚名を氷上川継の加担者として大宰帥へ左遷する旨の勅令である。こうして魚名は名誉を回復した。北家藤原氏の魚名失脚の後、藤原式家が隆盛していることから、氷上川継の乱は式家の陰謀かもしれない。
8月27日、母方の出身氏族・和氏の一族で、外従五位下和朝臣家吉と真神宿禰真糸に従五位下を授けた。
11月19日、「田村後宮」に祀っていた「今木大神」を従四位上に叙した。この「今木大神」については後述するが、「皇大御神」とされており、光仁天皇の宮「田村後宮」において、天皇の祖先神を祀っていたものだろう。
延暦2(783)年正月11日、外戚の一族・無位の女孺和史家吉に従五位下を授けた。 2月7日には「正三位藤原朝臣乙牟漏」「従三位藤原朝臣吉子」を夫人とした。藤原乙牟漏は当時隆盛を極めた式家の藤原良継の娘、一方、藤原吉子は藤原家の長男流南家藤原氏の藤原是公の娘だが、すでに式家に勢力は衰退していた。
蘇我馬子――蘇我倉麻呂――蘇我連子――蘇我媼子 【南家】
(大臣) (大臣) (左大臣) ∥―――――+―藤原武智麻呂―――藤原乙麻呂―――藤原是公―――藤原吉子
∥ | (武部卿) (右大臣) ∥――――――伊予親王
∥ |【北家】 ∥
藤原鎌足―+―藤原不比等 +―藤原房前――……→藤原道長 桓武天皇
(大職冠) |(右大臣) | ∥――――+―安殿親王
| ∥ |【式家】 ∥ |【平城天皇】
| ∥ +―藤原宇合―――――藤原良継―――――――――――藤原乙牟漏 |
| ∥ (内大臣) +―加美能親王
| ∥ 【京家】 【嵯峨天皇】
| ∥―――――――藤原麻呂
| ∥
+―五百重娘
4月14日、第一皇子の小殿親王の名を「安殿親王」と改めた。夫人の藤原乙牟漏との子で、のちの平城天皇である。そして4月18日、「正三位藤原夫人(乙牟漏)」を皇后に冊立した。
4月20日、「左京人外従五位下和史国守等卅五人賜姓朝臣」とあり、生母・和史新笠の一族三十五人に対して「和朝臣」姓を与えた。
12月15日、「大和国平群郡久度神」を従五位下に叙して「官社」とした。この神ものちに平安京の平野神社へ勧進され、皇大御神の「今木神」、皇御神の「古開神」とともに祀られることになる。ただし、久度神の由緒は不明。
延暦3(784)年5月、桓武天皇は遷都を行うべく、藤原種継(式家)を山背国長岡村に派遣。翌月、種継を造長岡京使に任じて長岡宮造営に着手した。そして11月、長岡京はまだ完成していなかったが、遷都の勅令を発布して平城京を廃し、長岡京へ遷都した。
翌延暦4(785)年7月、長岡京造営のために全国から三十一万四千人もの人夫が徴収され、造営は順調に進むかにみえたが、9月23日夜、造長岡京使・藤原種継が、対立していた大伴継人(大伴家持の父)に射殺されたことによって工事は中断。彼の暗殺には皇太子・早良親王が関わっているとされ、激怒した桓武天皇は早良親王の皇太子を廃して淡路国へ配流とした。早良親王は無実を訴え続けて食事を取らず、淡路へむかう途路で餓死した。わずか三十六歳であった。天皇は11月、第一皇子・安殿親王を立太子した。
すると、蝦夷蜂起や旱魃が発生。延暦8(789)年12月28日には実母・高野朝臣新笠が薨去。さらに皇太子・安殿親王も病で臥せってしまった。
延暦11(792)年6月10日、陰陽寮にて神卜が行われた結果、早良親王の怨霊のしわざであるとされ、ただちに鎮魂の儀が執り行われた。しかしその後も怪異はおさまらず、延暦19(800)年7月、天皇は早良親王に崇道天皇の称号を与えた。
一方で、天皇は東北地方平定のために軍勢をたびたび派遣。もっとも著名なのが延暦20(801)年2月に派遣された征夷将軍・坂上田村麻呂であろうか。翌年、胆沢城を築いて多賀城から鎮守府を移し、4月には蝦夷の大首長・大墓公アテルイを打ち破って降伏させ、その翌年には志波城を築いて朝廷の拠点をさらに北進させた。翌年正月、天皇は田村麻呂を「征夷大将軍」に任じ、三度東北へと出征させた。
また、延暦23(804)年7月6日、肥前国田浦を出帆した第十六次遣唐使(大使:藤原葛野麻呂)には当時、一介の留学僧であった空海・最澄が同行している。
桓武天皇陵 |
天皇の治世は、長岡京・難波京などの造営、さらに平安京の造営と遷都、蝦夷地攻め、宗教界の統制強化、勘解由使の設置、勅旨田の設置などさまざまな政治改革がなされている。古い時代の奈良の都を捨てて、天智天皇の都・大津京に近く四神相応の地・平安京で新しい政治を始めたのであった。
延暦25(806)年3月17日、崩御。御年七十歳。同年5月18日に皇太子・安殿親王が践祚して人皇五十一代となる。陵墓は山城国紀伊郡柏原陵。現在、宮内庁が比定している桓武天皇陵は伏見区桃山町に存在しているが、それに隣接する伏見城が建つ山が実際の御陵本体のようである。豊臣秀吉によって伏見城が築城されたとき、破壊されてしまったという。
◆古代の天皇~桓武天皇◆
継帯天皇―+―安閑天皇 +―難波皇子―大俣王―栗隈王―美奴王―葛城王(左大臣・橘諸兄)
| |
+―宣化天皇――石姫皇女 +―莵道磯津見皇女(聖徳太子妃)
| ∥ |
| ∥―――――敏達天皇―+―忍坂彦人大兄皇子
| ∥ | ∥――――――――――――+―――――――舒明天皇
| ∥ +―糠手姫皇女 | ∥
| ∥ | | ∥―――――――+
| ∥ +―尾張皇子――位奈部橘女王 +―茅渟王 +―皇極天皇 |
| ∥ ∥ ∥ | |
+―――――――欽明天皇 +―用明天皇―――――――――厩戸皇子(聖徳太子) ∥――+―孝徳天皇―有馬皇子|
∥ | ∥ |
∥―――+―推古天皇 ∥ |
∥ | ∥ |
曽我稲目―+―堅塩媛 +―桜井皇子――――――――――――――――――――吉備姫王 |
| |
+―曽我馬子―曽我蝦夷―曽我入鹿 |
|
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
| 和史乙継――高野新笠
| ∥―――――桓武天皇
+―天智天皇―+―施基親王――――――――――――――――――――――――――――光仁天皇
| | ∥
| +―――――――元明天皇 +―元正天皇 ∥―――――他戸親王
| | ∥ | ∥
| +―持統天皇 ∥―――+―――――――文武天皇 ∥
| ∥ ∥ | ∥ ∥
| ∥――――草壁皇子 +―吉備内親王 ∥ ∥
+――――――――天武天皇 ∥ ∥―――聖武天皇 +―井上内親王
∥――――高市皇子 ∥ ∥ ∥ |
胸形君尼子―娘 ∥―――――長屋王 ∥ ∥―――+―孝謙天皇
∥ ∥ ∥ |
天智天皇―+―御名部皇女 ∥ ∥ +――――――――不破内親王
| ∥ ∥ ∥
+―新田部皇女 ∥ ∥ ∥――――氷上川継
∥―――――舎人親王 ∥ ∥ 天武天皇――新田部親王―氷上塩焼
天武天皇 +―宮子 ∥
| ∥
藤原鎌足―――藤原不比等―+―――――光明子
|
+―武智麻呂 +―真楯―内麻呂―冬嗣―良房
|(南家藤原氏)| (太政大臣)
| |
+―房前――――+―魚名
|(北家藤原氏)
|
+―宇合――――+―百川――緒嗣―春津―枝良―藤原忠文
|(式家藤原氏)|(左大臣) (征東大将軍)
| |
| +―清成――種継――――+―仲成
| (造長岡京使)|
+―麻呂――――――浜成 +―薬子
(京家藤原氏) (嵯峨天皇女御)
◆桓武天皇の子孫たち◆
高野新笠 (???-789)
父は和史乙継。母は土師宿禰真姝。贈正一位。桓武天皇の生母である。祖は百済国の武寧王と記されている(『続日本紀』)。号は皇太夫人。
新笠は「皇后容徳淑茂、夙著声誉」で、光仁天皇がまだ白壁王として雌伏のときを過ごしているときに召し出され、桓武天皇のほか、早良親王、能登内親王を産んだ。宝亀年中に「和史」姓から「高野朝臣」姓に改めたとされる(『続日本紀』)。
延暦8(789)年12月、高野新笠は亡くなり、翌年正月、平安京の西にある大枝山陵に埋葬された。その翌年、桓武天皇は「皇太后」の尊号を追贈している。諡は天高知日之姫尊。
なお、和乙継(贈高野朝臣乙継)の跡を受けて和氏の氏上となった人物は乙継の子と思われるが、名前は伝わっていない。
乙継の孫は和朝臣家麻呂といい、天平6(734)年の生まれ。新笠の甥で桓武天皇の従兄にあたる。しかし、延暦5(786)年正月7日に53歳で従七位上になるまではまったく無名の人物だった。だが、そこから異例とも言える昇進を重ねている。そして、延暦23(804)年4月27日に71歳で亡くなるまでのわずか18年の間に、従三位まで昇叙し、参議・衛門督・中納言・治部卿・相模守・中務卿を務める。8月11日、従二位大納言を贈られた。
和乙継 +―和某――――――和家麻呂
(高野朝臣) |(和朝臣) (中納言)
∥ |
∥――――――+―高野新笠
土師宿禰真姝 (高野朝臣)
∥――――+―桓武天皇
光仁天皇 |
|
+―早良親王
|(崇道天皇)
|
+―能登内親王 +―五百井女王
(三品) |
∥ |
∥――――――+―春原五百枝
市原王 (春原朝臣)
(天智天皇玄孫)
山部親王(のちの桓武天皇)は光仁天皇の第一皇子だが、異母弟の他戸親王が光仁天皇の皇太子とされた。これは、他戸親王の母・井上内親王(聖武天皇皇女)が光仁天皇の皇后であったためで、妾を母とする山部親王は庶子の扱いだったのだろう。母系に皇胤や有力氏族を持たない山部親王は他戸親王とは明らかに差が生じ、皇位に就く可能性は低かった。
しかし、藤原百川らの働きによって、井上内親王一党が排除されたため、山部親王は皇位を践ぐことができたが、生母が「史」姓という低い家格出身だったことに対するコンプレックスはぬぐえなかったのだろう。天皇は皇位にある間に、生母の地位を高める運動をしている。その代表的なもののひとつに『和氏譜』の編纂がある。
『和氏譜』は母の出身氏族である和氏の系譜を和気清麻呂に命じて編纂させたものである(『続日本紀』)。ただし、『和氏譜』自体は現在は喪われており、清麻呂が薨じた延暦18(799)年2月21日条に僅かに記載があるだけで、『和氏譜』の具体的な内容や編纂時期は不明。しかし、これを見た桓武天皇は「甚善之」とされ、大陸や朝鮮半島の文化に傾倒していた天皇を満足させる渡来人の系譜、つまり『和氏譜』の内容は、和氏は(大陸または朝鮮半島の)王裔というものだったと推測できる。同じく『続日本紀』の新笠薨去の記事内に、和氏は「百済武寧王之子純陁太子」の子孫とされているが、これはおそらく『和氏譜』を踏襲したものと思われる。
和気清麻呂がどのようにして和氏の史料を手に入れたかはわからないが、『日本書紀』に和氏の伝承に繋がると思しき記述が散見され、清麻呂はこうした伝記からも情報を得たのだろう。
『日本書紀』にある「百済武寧王之子純陁太子」は百済の史書には登場しない人物だが、『新撰姓氏録考証』においては『日本書紀』の継体天皇18(524)年正月の「百済太子明即位」とある「明」と同一人物としている。しかし、同書内には「百済太子明」の即位よりも11年も前の継体天皇7(513)年8月、「百済太子淳陀薨」という記述もある。「純陁太子」「太子淳陀」が同一人物であるとすれば、「純陁太子=太子淳陀」は11年後に即位した「百済太子明」ではありえない。
また、遡ること二十年ほど前の武烈天皇7(505)年4月、「百済王遣期我君進調、別表曰、前進調使麻那者、非百済国主之骨族也、故謹遣斯我奉事於朝、遂有子、曰法師君、是倭君之先也」と、前年10月に百済より遣わされた「麻那君」が「百済国主之骨族」ではなかったため、あらためて「斯我君」を遣わしたという。その「斯我君」の子が「法師君」といい、「倭君之先」とする(『日本書紀』「武烈紀」)。『新撰姓氏録考証』は「乙継公は決く其後孫なるべし」と断じるが、「史」姓と「君」姓では、賜姓対象氏族の性格がまったく異なる上、和氏が「君」姓を有した記録もない。また、「君」が斯我君や法師君と同様「キシ」であれば、不釣合いに低い「史」姓を賜ったこととなり、疑問が残る。
●和氏系譜(『新撰姓氏録考証』より抜粋)
武寧王―――聖明王―――斯我君――法師君――和史某――高野朝臣乙継――高野新笠
(462-523)(???-554) (本姓和史) (???-789)
『新撰姓氏録考証』においては、武寧王の孫を「斯我君」とする。しかし、武寧王の生年と「斯我君」が遣使された武烈天皇7(505)年とを考えると、孫とするには無理があり、「斯我君」が実在の人物とすれば、武寧王の子世代と考えられる。しかし、「武烈紀」からは「斯我」はあくまで「百済国主之骨族」であることを推測させるに過ぎず、その続柄は不明である。
高野新笠の父・乙継の父親については所伝がないが、参考として『新撰姓氏録考証』によれば「和史某」とある。つまり『新撰姓氏録考証』の編纂時、乙継の出自を明らかにすることができず、法師君と乙継を繋ぐ事ができなかったことを意味するものと思われる。
このように、和氏が書役の渡来系下級役人へ与えられた「史」姓の身分だったことや、「純陁=淳陀」太子の死期の矛盾、「武烈紀」に見える百済からの遣使「斯我君」の系譜上の位置、その子「法師君」と「和史」との関係性の不明確さなど多くの疑問があり、和氏が『続日本紀』に見えるような「百済武寧王」の子孫であった具体的な史実は見出せない。
一方、和史乙継の妻は土師宿禰真姝(『新撰姓氏録考証』によれば「土師宿禰真ノ妹」とするが、原文の「姝」と「妹」では字義も訓みも全く異なるため、誤りだろう)といい、平城京の西部一帯に広く勢力を有していた土師宿禰一族から出ている。
当時「土師氏惣有四腹」とあるように、四つの出自から構成される党のような存在にあったようで、「土師宿禰真姝」はそのうち「毛受腹」の出身だった。「毛受」とは「モズ」と思われ、現在の大阪府藤井寺市の百舌古墳群を守っていた土師氏の流れだろう。土師氏はもともと古墳や埴輪などの造営や管理を司っており、大王の墳丘墓が築かれた河内国の百舌地方を本拠としていたと思われる。その後、天皇が本拠を河内から大和へ移したとき、土師氏もともに移ったのだろう。
天応元(781)年6月25日、桓武天皇は「遠江介従五位下土師宿禰古人、散位外従五位下土師宿禰道長等一十五人」の請いを容れて、彼らに「因居地名」んで「菅原姓」を与えた。しかし、このとき「任在遠国」だった「少内記正八位上土師宿禰安人等」は賜姓に漏れてしまった。そのため、安人は「土師之字改為秋篠」を請い、延暦元(782)年5月21日、「安人兄弟男女六人」には「秋篠」姓が与えられた。両土師氏は菅原(奈良市菅原町)と秋篠(奈良市秋篠町)に住んでいた同族ではあるものの、深い交流はなかったのかもしれない。延暦4(785)年8月1日には、「右京人土師宿禰淡海其姉諸主等」が「秋篠宿禰」姓を賜った。
延暦9(790)年12月1日、桓武天皇は「朕君臨宇内十年、於茲追尊之道猶有闕如興言念之、深以懼焉」として、「朕外祖父高野朝臣、外祖母土師宿禰」へ正一位を追贈。さらに、外祖母の出身氏族である「土師氏」を「大枝朝臣」とした。これに伴い、「菅原真仲、土師菅麻呂等」は「大枝朝臣」となった。
同年12月30日、「外従五位下菅原宿禰道長、秋篠宿禰安人等」はそれぞれ「朝臣」姓に改められ、「正六位上土師宿禰諸士等」には「大枝朝臣」姓を賜った。「大枝」は高野朝臣新笠を埋葬した大枝山陵(西京区大枝沓掛町)に因むものと思われ、天皇は四流ある土師氏のうち、「中宮母家者、是毛受腹也、故毛受腹者、賜大枝朝臣」と、高野新笠出自の毛受流土師氏には「大枝朝臣」を授け、ほかの三流は「秋篠朝臣」「菅原朝臣」とすると定めた。
いずれの土師氏が氏上のような存在だったかはわからないが、桓武天皇はとりわけ生母に所縁の「大枝朝臣」に情熱を注いでいたように思われる。その「大枝朝臣」の子孫が氏神としたのが平野神社である。
京都市北区平野宮本町に鎮座する平野神社は、延暦19(794)年に桓武天皇が旧都から遷座した神を祀った社で、『延喜式』には「山城国」の「葛野郡廿坐」のひとつに「平野祭神四社」が見える。「祭神四社」は「今木神」「久度神」「古開神」「比咩神」の四柱で、このうち「今木神」については、延暦元(782)年11月19日、桓武天皇が「田村後宮」(奈良市四条大路)にあった「今木大神」を従四位上に叙したとある(『続日本紀』)。
『延喜式』によれば、「今木与利仕奉来流皇太御神」とあり、「今木神」は「今木より仕へ奉り来れる皇大御神」ということになり、皇祖神の一つと考えられていたことがわかる。さらに、「久度古関」については「供奉来流皇御神」とあって、「供へ奉り来れる皇御神」ということで、「今木神」の供として来た皇祖神ということであろう。
江戸時代後期の国学者伴信友は、「今木神」を百済王とする(『蕃神考』)。そのほか、「久度神」「古開神」についても百済王のこととし、これらの神々を桓武天皇ならびに高野新笠が祀ったとするが、高野新笠がこれらの神を祀ったという記録は一切なく、今木神ら四柱を渡来系氏族が祀っていたという史実もない。「今木神」を渡来系の神として新笠を通じて百済王とするのは、「今木」と「今来(新来)」が同一の意味合いを持つという解釈のみである。
一方、「今木神」について、平安時代末期の歌人・藤原清輔が著した『袋草紙』に、
平野ノ御歌
しらかべのみかどのおやのおほぢこそひらのゝの神のこゝろなりけれ
今案ズルニ、白壁ハ光仁天皇也。其ノ曾祖父ハ舒明天皇、其ノ曾祖父ハ欽明天皇也。
是レ平野ノ明神ナリト云々
という歌がある。これを系譜にすると、下記の通りになる。
欽明天皇――敏達天皇――押坂彦人大兄―舒明天皇――天智天皇――志貴親王――光仁天皇
(ひらのゝ神) (おほぢ) (おや) (しらかべのみかど)
歌の意は光仁天皇の祖父・舒明天皇こそが平野明神の御心に適っている帝である、という意味だろう。平安時代後期においては、平野明神は欽明天皇のこととされていたことがうかがえる。また、「こゝろ」の部分を「ひゝこ」とする伝もあるが、これは「案」が欽明天皇を登場させているにもかかわらず、歌にそれを導き出す言葉がないために、「こゝろ」は「ひゝこ」の間違いと考えて、後世に書き換えられたものではないだろうか。
つまり、歌の解釈の通りであれば、「平野明神(=今木神か)」は、欽明天皇を指すことになる。欽明天皇は百済国との関わりも深く、新羅と百済の戦いにおいては百済を支援し、百済の聖明王(百済王余明)から贈られた仏像を以って、仏教導入を図り、物部氏・中臣氏ら国神を祀る人々と、崇仏派の蘇我氏との間で論争が起こっている。また、欽明天皇の謚号「天国排開広庭尊」も、国を開いたという意味を持ち、「皇太御神」としてふさわしい。
なお、欽明天皇の陵墓は、「桧隈坂合陵 磯城嶋金刺宮御宇欽明天皇、在大和国高市郡、兆域東西四町、南北四町、陵戸五烟」(『延喜式』諸陵寮)とあり、桧隈の地にあることがわかる。桧隈は大和国高市郡檜隈村にあたると思われる。また、『新撰姓氏録』逸文「坂上系図」によれば、「阿智王奏、建今来郡、后改号高市郡」とあり、高市郡はかつて「今来郡」と称されていたとある。「今木より仕へ奉り来れる皇大御神」とは、この今来郡の檜隈の御陵から平城京の田村後宮へ遷された欽明天皇の御霊だったのかもしれない。
「久度神」については、延暦2(783)年12月15日に「大和国平群郡久度神」を従五位下に叙して「官社」としたとあり、平群郡に祀られていた神で、それまでは官社とはされていなかった神だったことがわかる。現在の奈良県北葛城郡王寺町久度に鎮座する久度神だろう。この神は平野神社においては竈、食事の神とされている。
一方、「古開神」については、『延喜式』には「久度古関二所能宮」と同列で祝詞があげられるように、「久度神」とも関係が深いと思われる神だが、どのような神かは不明。しかし、祝詞では、「皇御神」として両神は重要視され、「今木神」とも所縁の深い神だったことが推測される。平野神社では斉火の神として祀られている。
「比咩神」は、ほかの三柱よりもあとに祀られた神で、嘉祥元(848)年7月25日、「無位合殿比咩神」に従五位下が与えられた旨の記載がある(『続日本後紀』)。この神は高野新笠または天照大御神ともされるが、「比咩神」は主祭神と所縁の深い女性神である場合が多く、さらに「比咩神」は「合殿」であり、主祭神を「今木神=欽明天皇」とすれば、欽明天皇と近縁の女性を祀ったと考えるほうが妥当だろう。欽明天皇の皇后・石姫媛(宣化天皇皇女)は、「ひらのゝの神のこゝろ」である「しらかべのみかどのおやのおほぢ=舒明天皇」の曾祖母にあたり、彼女を祀っていたのかもしれない。
欽明天皇
(平野明神=今木神)
∥―――――――敏達天皇――押坂彦人大兄―舒明天皇―天智天皇―志貴親王―光仁天皇――――――桓武天皇
石姫媛 (おほぢ) (おや) (しらかべのみかど)
(比咩神)
なお、平野神社は、「凡平野祭者、桓武天皇之後王改姓為臣者亦同、及大江和等氏人、並預見参」(『延喜式』太政官)とあるように、桓武天皇の子孫の王(賜姓後の王氏も含む)のほか、桓武天皇の外戚である大江氏、和氏らの氏人は平野祭に参列が許されている。
実際に平野神社を氏神として祀った氏族は、一条兼良著の『公事根源』によれば、「第一の御殿は源氏、第二は平氏、第三は高階氏、第四は大江氏、すべて八姓の祖神にてましますなるべし」とあり、他の四姓は具体的の述べられていないが、『二十二社註式』の平野神社には、前記四社のほか、「天照大神子、穂日命、中原清原菅原秋篠、已上四姓氏神」と、中原、清原、菅原、秋篠氏の四氏が記されている。
このうち、『延喜式』にある「桓武天皇之後王改姓為臣者亦同」は諸王ならびに源氏、平氏、外戚である「大江和等氏人」からは大江、菅原、秋篠氏が相当する。和氏は子孫の伝がないため衰退していたか。高階氏、中原氏、清原氏については、高階氏と清原氏はそれぞれ天武天皇の皇子・舎人親王と高市親王の末裔であり、「桓武天皇之後王改姓為臣者亦同」には当てはまらないが、高階氏は桓武天皇の曾孫・在原業平の子・師尚が継いだという伝承が平安時代中期にはできていたようだ。清原氏・中原氏はともに大外記を世襲した家柄だが、平野神社とどのように関わるかは不明である。
+―八嶋──身─――根麻呂──甥―――――――宇庭――+―菅原古人―――清公―――――是善――――道真――高視
| |
| +―菅原守人
| |
| +―菅原道長
|
+―兄国──真敷──弟麿─―─百村──――――千村─――─秋篠安人
|
|【毛受腹か】
土師首―+―菟─―─土徳――富杼─+―祖麻呂―――――和麻呂―――大枝諸上―――大枝本主―――大江音人――千古――維時――重光――匡衡――挙周
|
+―土師真姝
∥
∥――――+―某―――――和家麻呂
∥ | (中納言)
∥ |
和乙継 +―高野新笠
∥――――桓武天皇―+――――――――伊都内親王
∥ | (無品)
∥ | ∥――――――――――――在原業平
光仁天皇 +―平城天皇―――阿保親王 (右近衛中将)
| (贈一品) ∥
| ∥――――――?―高階師尚
| +―恬子内親王
| |(伊勢斎宮)
| |
+―嵯峨天皇―+―仁明天皇―+―文徳天皇―+―清和天皇―――+―陽成天皇
| | | |
| +―源信 | +―源経基
| |(左大臣) | (武蔵介)
| | |
| +―源融 +―光孝天皇―――宇多天皇―――――醍醐天皇
| (左大臣)
|
+―葛原親王―――高見王――――平高望
(式部卿) (無位無官) (上総介)
これらから、平野神社は桓武天皇の子孫のための神社だったことがわかる。「大江和等氏人」はこの神社を定めた桓武天皇の外戚という特権(強いて言えば準王氏か)という立場で関わりを許されたということだろう。その後、平野神社は「桓武天皇之後王改姓為臣者亦同」のうち、「源氏の長者」が管領する事になる(『二十二社本縁』)。『十輪院内府記』の文明13(1481)年3月25日「凡源氏ゝ神、以平野社為正也、於八幡宮、清和源氏義家以来事也云々、往古以八幡宮、為氏神之条、不可有所見云々、此事猶不審事也」とあり、源氏の氏神は平野社であると明言している。また、『姉言記』の文治4(1188)年6月30日条には「平氏、依為王孫、可行平野社已下事之由被懇望云々」とあり、平氏も「王孫」として平野社を氏神とする旨が記載されている。
貞観元(859)年7月14日、「正五位下守右中弁兼行式部少輔大枝朝臣音人」が平野社へ奉幣の使者として遣わされている(『日本三代実録』)。大枝音人は桓武天皇外戚の家として平野社を氏神として祀っている。
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