□トフラー(「第三の波」The Third Wave(1980)の著者)によれば、トフラーとその僚友たちは1982年にモレリ准将(当時)の訪問を受け、軍内部における新しい教義のコンセプト作りについて相談を受け、モレリ准将とトフラーら民間の学者は「第三の波」即ち第一の波は10,000年前にはじまった農業革命から始まる時代、第二の波は300年前に始まった産業革命以来の波であり、現在の時代は第三の波の中にあり、軍もその例外ではないとすることなどをめぐって討論した。モレリ准将は経済と社会が変質transformしている中において、戦争も同様の変質を遂げなければならいという点で、トフラーらの思想に共鳴したのである。モレリとトフラーらはビデオゲームの話から会社における分権経営、テクノロジーの話から時間の哲学にいたるまで様々な話題について議論し、モレリはこうしたことすべてが戦争の概念の見直しに含まれて然るべきであると語ったという。後にまとめられたエアランドバトルの概念の中に含まれる指揮の分権化などの記述を読むと、トフラーら民間にある学者の会社経営に関する知見が活かされていることを感得することができる。
□その後の経過は上に見た通りである。
そして第1次湾岸戦争(1990−1991)は基本的にはエアランドバトル教義を用いて戦われた。その後十余年、アメリカ陸軍はその経験を活用してこの思想を洗練されたものに改訂しつつある。
アメリカ陸軍は1993年にFM100−5を制定し、1995年に起草されたFM40の草案をもとにして2001年6月には1993年版のFM100−5を改め、「トランスフォーメーション」のために新たにFM3−0を発表するなど教義の改訂は日進月歩といっても過言ではない。
2003年3月に始まった第2次湾岸戦争はラムズフェルド国防長官が主導する新たな「トランスフォーメーション」の影響下において戦われ、戦争の新しい姿を見せつけた。「先制攻撃」pre-emptive、「衝撃と脅威」shock
and awe の標語が喧伝されたが、イラクの指揮情報中枢を打撃し、しかる後にバグダットを包囲したこの戦いは、ラムズフェルドの軍隊内機構改革に負うところが多いとしても、戦術の起源はエアランドバトルのドクトリンにあるといっても大きな誤りではあるまい。
(注3)
The United States Army Command and General Staff College と言い、大規模な作戦行動に携わる参謀と司令官になる将校を養成する大学。また、戦術や作戦・教義の形成にもあたることを目的としていた。"Levenworth
Men"でない者が陸軍のトップになれないわけではないが、この大学を卒業しないでトップに昇りつめた者は50年間のうち僅か数人にとどまると言われている(Col.Travor
N. Dupuy. et al. "How to Defeat Saddam Hussein" (Warner
Books)P.81)。湾岸戦争においてもこの在学将校(これらの将校はジェダイ・ナイトと呼ばれた)が現地に派遣され作戦指導にあたった。
〈参考文献〉
・Alvin and Heidi Toffler“War and Anti-WarSurvival
at The Dawn of
The 21st Century”(WARNER BOOKS,1993)
・U.S. Department of the Army“Operations
Field Manual 100-5”(1986)
・F.N.シューベルト/T.L.クラウス編(瀬川義人訳)「湾岸戦争砂漠の嵐作戦」(東洋書林,1998)