2009年03月24日
コペペじいさんの帰化申請
父島にコペペ海岸と言う地名があります。
コペペじいさんがいたんだって!ほんとかな~?なんて声もよく聞かれるようになりました。
「コペペじいさん」(作詞:町田 昌三 作曲:大浜 勝彦)
最近は,小笠原の研究調査も進みまして,明治9年に開設された小笠原島内務省出張所初代所長小花作助が書き残した膨大な文書が活字化(小笠原諸島史研究会発行『小笠原島要録』(全4冊))され,そこから典拠にあたりやすくなり,明治初期の小笠原の様子が容易にかつ正確に知ることができるようになりました。
小笠原島内務省出張所庶務課の編纂した『明治10年分小笠原嶋庶務類纂』なんかをみますと,欧米系島民の帰化第一号は,コペペじいさんはじめ合計5名(英国人1名,西国人1名,カナカ人3名)が帰化したことが記録に残っています。
英国人,西国人は,各国の籍から「転籍」。しかし,カナカ人は,国がない人からの帰化なので「入籍」手続きのようです。
さて,コペペじいさんの帰化申請書の写しを見てみましょう。
氏名は,ご覧のとおり「コピーベー」さんと記録され,氏はありませんでした。
帰化申請は明治10年3月20日付で,小笠原島内務省出張所長小花作助あてに提出されています。
小花は,内務卿(内務大臣)大久保利通に帰化申請を回付し,明治10年7月23日に内務卿大久保利通代理で(郵政の祖である)内務少輔前島密が決裁しています。
興味深いのは,明治9年4月16日に小花が大久保に宛てて「小笠原島在住人民戸籍の儀につき上申」という書面を起案し,「本名ありて字のみをもって通称のごとく呼ぶ者,あるいは本名これ無く字のみの者もこれあり・・・」つまり,姓名がちゃんとそろってない人がいるので,将来帰化したら氏名はどうしましょう?という問い合わせをしています。
結果として,コペペじいさん(帰化当時35歳)は「コピーベー」という名前で戸籍に記載されています。
氏名は,「コピーベー」さんです。
コペペ本人の申請によれば,出身は,カナカ諸島のうち「ノノツ島」。ギルバート諸島(今のキリバス)にあるノノウチ(Nonouti)島のようです。
興味深いのは,コペペじいさんの帰化に先立ち,小笠原にすでに定住していた外国人たちに,帰化の意向確認をしているのです。
トーマス・ウエッブさんは,「従来英国の籍につき,ご厚意には候えども転籍しがたき旨申立て候」
チャーレス・ロビンソンさんも「英国の籍につき転籍しがたき候」
チョージ・ワシントンさん「右同様」
サアー・レツワーさん「従来仏国の籍につき転籍仕らず候」
ホーレス・セイボレーさん「従来米国の籍につき転籍仕らず候」
ということで,みなさんいやいやしているのです。
これには結構小花たちは手を焼いているようで,さらにコペペも実は,「英米仏葡西等の籍名ある者はしばらくおいて,「カナカ」人の無籍の輩抔に至りて種種説諭に及び候えば,弁答の詞なく,ただ好まざる趣申出…」とがんばっているようです。
しかし,3月9日ころから説諭を開始し,17日に至って,コペペじいさんを含む「無籍の者3名」は根負けしたのか,強制されたのか,帰化を承諾します。
無国籍の者にいかに小花たちが臨んだのか,なぜ欧米列強の国籍を持つものは「しばらくおいた」のか興味のあるところです。
さて,翌11年の書類綴りを見ますと,コペペじいさんたちには,さまざまな部品を給付します。
帰化及移住民へ下げられたる品の儀上申(明治11年11月1日小花→内務卿あて)
コペペじいさんには,
小鍬1丁,草刈カマ1丁,鉈(ナタ)1丁,鍋1ツ,麻縄15丈,白天竺木綿1巻,更紗1巻,茶2斤,砂糖2斤,鏡1面…
コペペじいさんたち5名をてはじめに,小花たちは外国人たちに帰化を勧め,結局今日に至っては,日本人たる欧米系島民として小笠原村を中心に生活の根拠を置いているわけですが,なぜコペペじいさんたち無籍の者たちが最初だったのか,どんな説諭をしていったのか,考えるに興味深いところです。
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