「ただ、これだけはいっておきたいですね--われわれはあたかも市民の半数が死滅させられる危険がないかのごとくふるまうべきではない、と。なぜなら、その場合には市民は実際そうなってしまうでしょうから」
フランスのノーベル文学賞作家、アルベール・カミュの代表作の一つ「ペスト」(宮崎嶺雄訳、新潮社)の一節です。「ペスト」はアルジェリア・オラン市で伝染病のペストが発生し、他都市への広がりを防ぐため外部と遮断された中で、医師や市民が見えない敵と戦う物語です。なぜ発生したか分からない。仕事でいただけで故郷へ帰れなくなった記者ら。さまざまな不条理に直面しながらも連帯し、助け合う人々の姿を描いています。
発表された1947年当時、記憶が生々しいナチス・ドイツの占領を重ねて読む人も多かったそうです。しかし、私は新型インフルエンザがいずれ発生すると言われていたため、ペストを新型インフルエンザに置き換えて読んでみることにしました。都市機能がストップし、死に至る病にいつ誰が感染するか分からない環境下の人間心理を不条理の作家はどう描いたのか興味があったからです。
この3月に読みましたが、現実が小説に追い付いてきました。なぜ鳥でなく豚なのか。なぜメキシコで発生したのか。なぜ感染者の死亡がメキシコに集中しているのか。どういう経路で感染が広がっているのか。分からないことばかりです。理由(説明)がないまま生死にかかわることに直面するのはとても不安です。
ただし、今のところ米国の感染者のほとんどが軽症で、ウイルスは弱毒性の可能性があるとも言われています。日本だけでも年間6000人以上が死んでいる“旧型”インフルエンザと比較して騒ぎすぎかもしれません。メキシコで死者が多い理由だけでもはっきりすれば対策のめどが立ち、不安はかなり和らぐように思うのですが、楽観的すぎるでしょうか。
厚生労働省がホームページで書いている「個人でできる対策」は「手洗い・うがいを日常的に行うこと」「手洗いは、せっけんを用いて最低15秒以上行い、清潔な布などで十分にふき取ること」「人込みや繁華街への不要不急な外出を控えること」「十分に休養をとり、体力や抵抗力を高め、日ごろからバランスよく栄養をとり、規則的な生活をし、感染しにくい状態を保つこと」などです。毎日新聞紙上でも連日のように役に立つ情報を提供していますので見逃さないようにしてください。
新型インフルエンザが本当に弱毒性であれば幸いです。この経験は次に来る可能性のある鳥インフルエンザ由来の強毒性の新新型インフルエンザへの対応、対策に生きるでしょう。【京都支局長・北出昭】
毎日新聞 2009年5月5日 地方版