米国のオバマ大統領は4月5日、チェコ・プラハで「米国は、核兵器を使った世界で唯一の核大国として行動する道義的な責任がある」と述べた。大きな方針転換とも受け取れるこの発言に、広島・長崎で被爆した人たちから期待の声が上がっている。きょう5日で84歳になる広島県原爆被害者団体協議会理事長の坪井直(すなお)さんもその一人。「希望という言葉が頭の中で行ったり来たりしている」と話す。平均年齢75歳を超え、高齢化した被爆者から直接話を聞ける時間は長くない。オバマ大統領にはぜひ、被爆地広島・長崎を訪れ、被爆者の話に耳を傾けてほしい。それが「道義的責任」を果たす第一歩だと思う。
私は今年3月まで2年間、約20人の記者がそれぞれ1人ずつの被爆者を長期取材し、季節ごとに現状報告する長期連載「ヒバクシャ」(大阪・西部本社発行の朝刊社会面に掲載)に広島支局員としてかかわった。取材を担当した坪井さんは20歳の時、爆心地から約1.2キロの路上で被爆。大やけどを負い、40日間意識不明のまま、生死の境をさまよった。額や耳にはやけどの跡が残り、戦後は貧血、大腸がん、前立腺がんを発症。狭心症の薬も手放せない。中学校の数学教師をしながら、核兵器廃絶運動に一身をささげてきた。
担当した当初、私は坪井さんの「被爆者団体の代表」という一面ばかり見ていた。自分の祖父ほどの年齢にもかかわらず、ひたすら前へ進む姿勢に圧倒されるだけだった。だが取材の中で、大切な人を亡くし、被爆による差別を受けたことを知り、前向きの姿勢はつらい体験の中から生まれたことを知った。
広島工専(現在の広島大)の学生だった坪井さんの被爆体験は、私の想像を超えていた。それだけではない。被爆前夜にデートしていた女性は原爆で亡くなり、原爆投下直前に朝食をともにした学友は帰らぬ人となった。ある同級生は被爆3年後、突然原爆症を発症して死んだ。「自分の原点は、亡くなった人を(大勢)見たこと。核兵器は、絶対許されん」と声を強める。
戦後は被爆者への差別も体験した。結婚しようとした相手の親族には「被爆者はすぐ死ぬ、どんな子どもが生まれるかわからない」と猛反対され、二人で駆け落ちしようとしたこともあったという。
「軍国少年だった」というこの人の心からは、そうした経験から「アメリカ憎し」の思いがなかなか消えなかったという。戦後10年ほどは「日本は再軍備して、アメリカをやっつけないといけない。このかたきは絶対に討つぞ」と考えていた。しかし核廃絶運動に参加するうち、米国への憎しみを「核被害を二度と繰り返さないため」の活動のエネルギーに変えていった。オバマ大統領の就任後、他の被爆者団体とともに広島訪問を要望する手紙を送った。「核廃絶への道のりはまだまだ遠い。やらなければならないことが多く、時間が足りない。まだ死なれんよ」と言う。
プラハ演説の「道義的責任」という言葉について「米国は『原爆投下は正しかった。戦争終結を早め、多くの人命を助けた』という主張だった。大転換だ」と評価する。一方で、冷戦を含む「核の時代」を64年間見続けた経験から、楽観はしていない。演説後、米国内では批判も巻き起こったという。「反対勢力もあり、大統領の言うようにはなかなか進まないだろう。今後を注目したい」と言う。
坪井さんが大統領に広島で伝えたいことは、原爆の陰惨な被害だけでなく、多くの被爆者が生き残ったことで感じた苦しみと、それを乗り越えて訴え続けた思いだろう。被爆地訪問が実現した場合、被爆者の中には米国のトップとして原爆投下についての謝罪を求める声がある。だが坪井さんは「謝罪があるかないかは気にしない」と言う。「過去に対する責任よりも、未来の方が大事。オバマ大統領は『核兵器のない世界』という未来に対して、責任を感じているはず」と期待する。
私はオバマ大統領が「道義的」という言葉を使ったことに期待したい。「核兵器は必要だ」と主張する人でも、被爆者の話を聞いて被爆体験の過酷さに心を痛めない人はいないだろう。大統領が坪井さんたちの話を聞く場があれば、言葉の重さを感じ、道義的な責任を果たすため、核兵器のない世界への第一歩としてくれるのではないかと思う。
広島・長崎には海外の多くの要人の来訪があった。カーター米元大統領の広島訪問(84年)や旧ソ連時代のゴルバチョフ大統領の長崎訪問(91年)などだ。しかし現職の米大統領は広島・長崎を訪れたことがない。オバマ大統領が被爆地で坪井さんたち被爆者と向かい合い、その経験が、核兵器のない世界を実現する力につながることを願う。
(阪神支局)
毎日新聞 2009年5月5日 0時22分