[クモの巣と網の不思議、2003,pp41-51]   BACK TO 『クモの巣と網の不思議』 抜粋 

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   クモの糸とその性質      池田 博明・新海 明
   (『クモの巣と網の不思議』第2部)
 

  クモの糸にはいろいろな種類があるのですか        池田博明

 クモは糸を出す動物です。糸を出す動物には、クモのほかにもカイコやある種の毛虫などがあります。これらの動物の出す糸はタンパク質でできています。

 私たちが着るものに使っている糸(繊維)には動物性の繊維と植物性の繊維,合成繊維などがありますが、このうちタンパク質でできているものは羊毛のウールや、絹糸のフィブロインなど動物性の繊維です。綿や麻などのセルロース中心の固い植物性の繊維に比べて、タンパク質でできた動物性の繊維は、しなやかでじょうぶであるという特徴があります。

 クモの糸も、そのしなやかさとじょうぶさには定評があります。

ところで、クモの糸といっても一種類ではありません。網を作る糸にも、周囲のワク(枠)糸、放射状に張られたタテ(縦)糸、縦糸を円形につなぐヨコ(横)糸などがあります。この他にも、歩くときに引いているヒキ(引き)糸(しおり糸とも呼ばれます)や脱皮の足場糸、卵のうを作る糸など、太さも成分もちがったさまざまな糸を、クモは使い分けています。

 網の縦糸

1本に見える糸も
左右一対の出糸
管から出るので、
最低2本はあり
ます。
この縦糸は4本。

サンプルはズグロ
オニグモ
(SEM写真撮影
は梅林力)

 網の横糸

横糸には粘球が
付いています。
真ん中の粘球
には花粉が
付着しています。

サンプルはズグロ
オニグモ
(SEM写真撮影
は梅林力)

Savoryの「The Spider’s Web」よりオニグモの粘球の大・中・小

 これらのクモの糸は腹部後端にある糸いぼから出されます。カイコガの幼虫や、ある種のハダニは口から糸を吐きますが、クモの仲間で口から糸を吐く種類はいません。糸いぼは普通3対あり、前いぼ・中いぼ・後いぼと呼ばれています。糸いぼ上には細い吐糸管があります。吐糸管は体内の絹糸腺とつながっていて、絹糸腺内では液状の糸が圧力で押し出されると繊維状になります。吐糸管にもいろんな形があります。



左前糸疣
コシロカネグモ雌

約90本の出糸管が
あります。

(SEM写真撮影
は梅林力)


左前糸疣
コシロカネグモ雌

出糸管
先端から糸が
出ています。

(SEM写真撮影
は梅林力)


 ワカバグモの糸疣


 網を張らないクモですが
 3対6個の糸いぼ上に
 多数の出糸管があります。
 
 上から前いぼ、中いぼ、
 後いぼとなります。

 (SEM写真撮影は梅林力)


Savoryの「The Spider’s Web」より)

 クモの体内の絹糸腺はその形から梨(ナシ)状腺・ブドウ状腺・瓶(ビン)状腺・管状腺・集合腺・鞭(ベン)状腺などと名づけられています。これらの絹糸腺と糸いぼ、糸の種類は関連があります。比較的よく研究されているジョロウグモでは次のような対応関係があります。

    【糸いぼ】   【絹糸腺】    【糸の種類】
    後いぼ  ←  ナシ状腺   → 付着盤 
    後いぼ  ←  ビン状腺   → しおり糸、わく糸
    中いぼ  ←  ビン状腺   → 縦糸
    中いぼ  ←  ブドウ状腺  → 捕帯・精網、卵のう(外壁)
    中いぼ  ←  管状腺    → 卵のう糸
    後いぼ  ←  ブドウ状腺  → 捕帯・精網、卵のう(外壁) 
    後いぼ  ←  集合腺    → 粘着物質
    後いぼ  ←  鞭状腺    → 横糸

(
(Fig.1は、Sayoryの「The Spiders Web」より、A:なし状腺、B:びん状腺、C:管状腺)


 これらの絹糸腺のうち、鞭状腺とその機能は日本の関口晃一氏が発見したものです。もっともたくさんの種類の糸を使い、絹糸腺の種類も多いのは、いかにもクモの網らしい円網を張るクモの仲間です。地中から空中に網を張り出すにつれ、絹糸腺も糸も多様化していったに違いありません。地中性のクモには瓶状腺とせいぜい梨状腺しかないからです。


   糸の主成分はタンパク質

 タンパク質はアミノ酸から作られます。アミノ酸は食物中のタンパク質を消化、分解吸収して得られます。アミノ酸のちがいによって、タンパク質の性質が決まります。

 絹糸腺内のタンパク質のアミノ酸の種類を調べた研究があります。それによりますと、原始的なクモにもあるナシ状腺やブドウ状腺の糸液は多様なアミノ酸で構成されていますが,管状線、瓶状腺、鞭状腺の順にアラニンやグリシンといった構造の単純なアミノ酸に特殊化していっていました。その結果、特に鞭状腺の作る横糸は弾性力が大きい繊維となっています。

 絹糸腺内のタンパク質は絹糸腺から外へ引き出されることによって分子構造が変わります。液性のαらせん構造やランダム・コイル構造から、繊維性のβシート状構造に変わるのです。
 クモ糸特有のタンパク質部分は「スピドロイン」と名づけられました。


 クモ糸自身が立派なクモの食べものです。したがって、網をたたむとき、糸を捨てずに食べてしまうクモもたくさんいます。網糸に特殊なマーキングをしてニワオニグモに食べさせ、何分後に新しい網として再利用されるかを調べた研究があります。その結果、わずか30分後で、もとの網の80〜90%が再利用されていました。
 なんと無駄のないリサイクル・システムでしょう!

    クモの糸はどのくらい強いのでしょうか  

 1938年、ナイロンが発明されたとき、デュポン社は石炭と水と空気からつくられる「クモの糸よりも細くて、鋼より強い」繊維であると宣伝しました。では、クモの糸の性質をナイロンの糸と比べてみましょう。

 強度(テナシティ)はナイロンよりやや劣りますが、弾性力は約二倍です(クモ糸31%に対してナイロン16%)。同じ太さの糸で、引っ張ったときになかなか切れない性質(引っ張り張力)を比べますと、骨や腱、ゴム、植物繊維よりも大きく、鋼鉄の半分にも達しています。

 糸の強度や弾性力は含まれる水分の程度と関連があります。乾燥したクモの糸は弱く、1mの糸を30cmほど伸ばすと切れてしまいます。しかし、水分を含んでいれば3倍に伸ばせるほどの粘弾性をもちます。

 この強さに注目したアメリカ軍は、1990年にクモ糸を作りだす遺伝子を組み込んだバクテリアに、糸を作らせるのに成功したといいます。アメリカ軍はこの強い糸(鉄の5〜10倍の張力)を防弾チョッキやヘルメット,パラシュ−トのひもなどに利用しようとしています。 


  クモの糸の粘着物質は何でできていますか  

 集合腺は円網を張るクモにだけ見られる絹糸腺です。ここにはアミノ酸の他に他の絹糸腺と違う化学物質が含まれています。集合腺は横糸に付着される粘着物質を分泌する腺です。粘着物質は横糸のところどころに粘球を作ります。粘球の成分は表面を水溶性の有機物(主にアミノ酸)と無機物(硝酸カリウムやリン酸ニ水素カリウム)によって被われた糖タンパク質でした。この粘球の粘着力は強く、これにふれた昆虫が捕獲されます。

 オペルは円網性クモの粘着糸の粘性を計算して、糸の粘球量(粘球の幅と長さ、1mmあたりの数から算出)が直接粘性に相関していることを検証しました。

 【参考ウェッブ】トリノフンダマシの粘球の粘性はオニグモの粘球と比べて急速に低下します。化学的な成分に特異的な差があるはずですが、まだ突きとめられていません。


 クモはなぜ自分の網にかからないのですか     新海明

 「クモはなぜ自分の網にかからないのですか」という質問は「日本にクモは何種類いるんですか」などと共に、クモの観察会でよく耳にするものです。日本には2003年現在で1250種類が記録されています。

 では、「クモはなぜ自分の網にかからないか」という質問ですが、これは小中学生向きの理科の本などによく出てくる質問で、その答えとしては、@クモの網はよく粘るヨコ糸と粘らないタテ糸からできていて、クモは粘らないタテ糸を伝って歩くためとか、Aクモは足の先から油を出していて、粘る糸にくっつかないようにしているため、とよく書いてあります。そういえば、「どこかでそんなことを聞いたり読んだりした覚えがある」と思い出す方もいるに違いありません。しかし、残念ながら事情はそう単純ではありません。クモに関する常識とも思われるこんな質問も、本当のところは解明されていないのです。「まったくクモ学者は仕方がない」と考える向きもあるでしょうが、私には「まだまだ未解明の分野がいっぱいあって、なんと面白いことか」と思えます。

  足の先から油を出している?  

 そもそも私が最初にこの疑問に気付いたのは、円網上のクモの行動を観察していたときでした。クモはたしかに粘らないタテ糸を伝っていました。これは正しかったようです。

 ところが、円網上を歩くクモが、粘るヨコ糸にときどき足をからめてしまう姿を何度か見たのです。では、くっついた足をどうするのかというと、グイッとひっぱって離してしまいました。私はそれ以前にもクモの入門書に書かれていた定説に何度か裏切られていましたので、こんなものかと見逃さずに、立ち止まって「定説=足先油説」を疑う余裕がありました。そして、この問題を調べてみることにしたのです。まず、事あるごとにこの疑問をクモの研究者にぶつけてみました。「『クモは足の先から油を出している』と言われていますが、実際に確認したことがありますか」と尋ねたのです。

 多くの人は私と同じでした。「定説」を信じ、疑いなど抱かなかったようです。ところが一人だけこの問題について、実験してみた人がいました。テレビ番組の取材でこれを扱い、網からクモを採集して足の先を揮発油で洗い、再び網に戻したところ、クモは網にからまってうまく歩行できなかったとのことでした。そこで、私は次のような質問をしてみました。「その実験のときに、足の先を揮発油で洗わずに、そのまま網に戻したクモの行動との比較をしましたか」というものです。これは対照実験というもので、理科の教科書などでもよく出てくるものなのでご存じの方もいるかと思います。これをやらないと、足の先の油がなくなったために網上を歩けなくなったのか、クモの棲み家である自分の網から離されたために、なんらかの理由で思うように歩けなくなっただけなのかが判らないのです。

 こんな質問をしたのには、伏線がありました。私も同じような実験を何度もしていたからです。

    いつでも糸をひいている

 クモの足を揮発油で洗うには麻酔をする必要があります。これは容器にクモを入れそこにCO2を注入するのです。クモが麻痺しているうちに足を洗うのですが、このあとで網に戻すのが難しいのです。麻酔からさめたクモを網のワク糸につけてやると、その糸を伝って行くのですが、中心には戻らずにワク糸に沿って移動してしまいました。この糸は粘らないので、無理矢理に粘るヨコ糸に誘導してみました。すると見事に網にからまりうまく歩けないのです。やはり、定説は正しかったのか、いやそう判断するには早すぎます。

 麻酔からさめたクモを網に戻すのが難しかったので、私はまずこの練習からやることにしました。網からとって麻酔した後、足を洗わずにおき、麻酔からさめたクモを再び網に入れるのです。すると、なんと面白いことにクモは糸にからまったかのように、網上をうまく歩行できないではありませんか。つまり、洗っても洗わなくても同じような行動を示したのです。

 このときに、私は「クモにとっての異状な出来事」がいくつかあることに気付いたのです。

 ひとつはクモが網上を歩くときの位置どりです。円網は垂直に張られていましたが、実際にはいくらか傾いているのが普通です。自然状態でクモはこの傾きに対して下側つまり網の下面を歩行するのです。これは当然といえば当然で、クモは糸に吊り下がってしか歩けません。サーカスの綱渡りのように糸の上を歩くことなどは不可能です。ところが、麻酔したクモを網に戻す際にはその上面に置く方が便利なわけです。そのため麻酔からさめたクモはもともとうまく歩けるわけがなかったのです。

 では、下面を伝わらせてみたらどうでしょうか。なんとかやってはみたのですが、これも歩き方はぎこちないものでした。

 上面も下面もうまく歩けないとは、いったいどういうことなのでしょうか。
   
 野外で網上の歩行動作をよくみると、クモは網糸、とくにタテ糸は移動の際のみちしるべとしてつかんでいるだけで、お尻からのびた糸である「しおり糸」との間で自分の体を支えていることが判ります。つまり、網の下面を吊り下がった状態で移動しているのです。そして、この糸はいつもクモを網の中心へと導いてくれます。ところが、網からクモを離すときには、このしおり糸を切り離してしまうために、クモは自分の帰る場所を見失ってしまうのです。「クモにとっての異状な出来事」のふたつめはこの点でした。網の中心とつながったこの糸がなくなると、クモは自分の網なのに侵入をためらってしまいます。そのために、ワク糸を伝って網の周囲を移動したり網の中央でも慎重に動かざるを得ないようです。
 だったら、しおり糸を切らずに戻すとどうなるでしょうか。

 さっそく実験してみました。
 麻酔からさめたクモは足を洗ったものも洗わなかったものも、さっさとしおり糸だけをつかんでたどり、網の中心へと戻ってしまい、ヨコ糸に絡まるかどうかは不明だったのです。実験はなかなかうまくいかないものですね。けれども、今までの実験では少なくとも対照実験が不備だったようなので、「定説」の根拠は大きく揺らいだと言えましょう。

   「定説」はファーブルから

 次に、そもそも「足の先から油を出している」と初めて言い出したのは誰かという点に関心を向けました。なぜなら、この「定説」はクモの入門書や通俗書にはよく登場するのですが、論文などの専門書に書いてあるのをみたことがなかったからです。

 出典に関して、ふと思いついたのが、ファーブルの『昆虫記』でした。ファーブルはさまざまな生物について工夫を凝らした実験や観察を通して、自然の営みについての鋭い考察をしています。ファーブルなら、書いていても不思議はないと読み進むと、ありました。

 ファーブルの文章は次のようなものです.
 「子供の時分、あざみくいを取ろうと木曜日に皆と一緒に麻畑に出かけるとき、私は竿にもちをぬる前、もちがつかないように指に油を塗ったものだ。コガネグモは脂肪の秘密を知っているのだろうか。ためしてみよう。
 私は試験用の麦わらを、油を軽くつけた紙で軽くこすった。網の螺旋糸(ヨコ糸のこと)の上にそれをのせてもくっつかない。原理は見つかった。
 生きているコガネグモから私は肢を一本取った。そのままで粘る糸にさわっても、それは中性の糸、つまり放射線や骨組同様くっつくことはない。これはクモが鳥もちに足を取られないことからして、予期さるべきことだった。だが、いまや事の結果は根本的にちがってくる。私はこの肢を脂肪を特によく溶かす硫化炭素の中に15分ばかり浸しておいた。この液体を筆に含ませて肢を念入りに洗った。洗い終わると肢は捕獲線に非常によく張り付き、何でもいい他のもの、例えば油のついていない麦わらほどよくついた」(岩波文庫第17分冊p111-112.コガネグモ類−もちの罠,岩波文庫 ファーブル昆虫記 9)。

 足の先から油が出ているとは書いてありませんでした。後世の伝聞により変形していったのでしょうか。

 私は「クモの足から油など出ていない」とか「ファーブルは誤っていた」などと決め付けるつもりはありません。たぶん、クモの体はワックス状の物質でおおわれている可能性が高いと思います。きちんと証明するにはそれなりの実験や調査が必要でしょう。

 答えはまだ確定してはいません。ただ教科書などに書かれていることがすべて証明された真実であると思い込んだり、伝聞をうのみにせずに、注意深く疑ってかかることが、新たな発見につながる重要な態度であるといえましょう。

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