足の先から油を出している?
そもそも私が最初にこの疑問に気付いたのは、円網上のクモの行動を観察していたときでした。クモはたしかに粘らないタテ糸を伝っていました。これは正しかったようです。
ところが、円網上を歩くクモが、粘るヨコ糸にときどき足をからめてしまう姿を何度か見たのです。では、くっついた足をどうするのかというと、グイッとひっぱって離してしまいました。私はそれ以前にもクモの入門書に書かれていた定説に何度か裏切られていましたので、こんなものかと見逃さずに、立ち止まって「定説=足先油説」を疑う余裕がありました。そして、この問題を調べてみることにしたのです。まず、事あるごとにこの疑問をクモの研究者にぶつけてみました。「『クモは足の先から油を出している』と言われていますが、実際に確認したことがありますか」と尋ねたのです。
多くの人は私と同じでした。「定説」を信じ、疑いなど抱かなかったようです。ところが一人だけこの問題について、実験してみた人がいました。テレビ番組の取材でこれを扱い、網からクモを採集して足の先を揮発油で洗い、再び網に戻したところ、クモは網にからまってうまく歩行できなかったとのことでした。そこで、私は次のような質問をしてみました。「その実験のときに、足の先を揮発油で洗わずに、そのまま網に戻したクモの行動との比較をしましたか」というものです。これは対照実験というもので、理科の教科書などでもよく出てくるものなのでご存じの方もいるかと思います。これをやらないと、足の先の油がなくなったために網上を歩けなくなったのか、クモの棲み家である自分の網から離されたために、なんらかの理由で思うように歩けなくなっただけなのかが判らないのです。
こんな質問をしたのには、伏線がありました。私も同じような実験を何度もしていたからです。
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いつでも糸をひいている
クモの足を揮発油で洗うには麻酔をする必要があります。これは容器にクモを入れそこにCO2を注入するのです。クモが麻痺しているうちに足を洗うのですが、このあとで網に戻すのが難しいのです。麻酔からさめたクモを網のワク糸につけてやると、その糸を伝って行くのですが、中心には戻らずにワク糸に沿って移動してしまいました。この糸は粘らないので、無理矢理に粘るヨコ糸に誘導してみました。すると見事に網にからまりうまく歩けないのです。やはり、定説は正しかったのか、いやそう判断するには早すぎます。
麻酔からさめたクモを網に戻すのが難しかったので、私はまずこの練習からやることにしました。網からとって麻酔した後、足を洗わずにおき、麻酔からさめたクモを再び網に入れるのです。すると、なんと面白いことにクモは糸にからまったかのように、網上をうまく歩行できないではありませんか。つまり、洗っても洗わなくても同じような行動を示したのです。
このときに、私は「クモにとっての異状な出来事」がいくつかあることに気付いたのです。
ひとつはクモが網上を歩くときの位置どりです。円網は垂直に張られていましたが、実際にはいくらか傾いているのが普通です。自然状態でクモはこの傾きに対して下側つまり網の下面を歩行するのです。これは当然といえば当然で、クモは糸に吊り下がってしか歩けません。サーカスの綱渡りのように糸の上を歩くことなどは不可能です。ところが、麻酔したクモを網に戻す際にはその上面に置く方が便利なわけです。そのため麻酔からさめたクモはもともとうまく歩けるわけがなかったのです。
では、下面を伝わらせてみたらどうでしょうか。なんとかやってはみたのですが、これも歩き方はぎこちないものでした。
上面も下面もうまく歩けないとは、いったいどういうことなのでしょうか。
野外で網上の歩行動作をよくみると、クモは網糸、とくにタテ糸は移動の際のみちしるべとしてつかんでいるだけで、お尻からのびた糸である「しおり糸」との間で自分の体を支えていることが判ります。つまり、網の下面を吊り下がった状態で移動しているのです。そして、この糸はいつもクモを網の中心へと導いてくれます。ところが、網からクモを離すときには、このしおり糸を切り離してしまうために、クモは自分の帰る場所を見失ってしまうのです。「クモにとっての異状な出来事」のふたつめはこの点でした。網の中心とつながったこの糸がなくなると、クモは自分の網なのに侵入をためらってしまいます。そのために、ワク糸を伝って網の周囲を移動したり網の中央でも慎重に動かざるを得ないようです。
だったら、しおり糸を切らずに戻すとどうなるでしょうか。
さっそく実験してみました。
麻酔からさめたクモは足を洗ったものも洗わなかったものも、さっさとしおり糸だけをつかんでたどり、網の中心へと戻ってしまい、ヨコ糸に絡まるかどうかは不明だったのです。実験はなかなかうまくいかないものですね。けれども、今までの実験では少なくとも対照実験が不備だったようなので、「定説」の根拠は大きく揺らいだと言えましょう。
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「定説」はファーブルから
次に、そもそも「足の先から油を出している」と初めて言い出したのは誰かという点に関心を向けました。なぜなら、この「定説」はクモの入門書や通俗書にはよく登場するのですが、論文などの専門書に書いてあるのをみたことがなかったからです。
出典に関して、ふと思いついたのが、ファーブルの『昆虫記』でした。ファーブルはさまざまな生物について工夫を凝らした実験や観察を通して、自然の営みについての鋭い考察をしています。ファーブルなら、書いていても不思議はないと読み進むと、ありました。
ファーブルの文章は次のようなものです.
「子供の時分、あざみくいを取ろうと木曜日に皆と一緒に麻畑に出かけるとき、私は竿にもちをぬる前、もちがつかないように指に油を塗ったものだ。コガネグモは脂肪の秘密を知っているのだろうか。ためしてみよう。
私は試験用の麦わらを、油を軽くつけた紙で軽くこすった。網の螺旋糸(ヨコ糸のこと)の上にそれをのせてもくっつかない。原理は見つかった。
生きているコガネグモから私は肢を一本取った。そのままで粘る糸にさわっても、それは中性の糸、つまり放射線や骨組同様くっつくことはない。これはクモが鳥もちに足を取られないことからして、予期さるべきことだった。だが、いまや事の結果は根本的にちがってくる。私はこの肢を脂肪を特によく溶かす硫化炭素の中に15分ばかり浸しておいた。この液体を筆に含ませて肢を念入りに洗った。洗い終わると肢は捕獲線に非常によく張り付き、何でもいい他のもの、例えば油のついていない麦わらほどよくついた」(岩波文庫第17分冊p111-112.コガネグモ類−もちの罠,岩波文庫 ファーブル昆虫記 9)。
足の先から油が出ているとは書いてありませんでした。後世の伝聞により変形していったのでしょうか。
私は「クモの足から油など出ていない」とか「ファーブルは誤っていた」などと決め付けるつもりはありません。たぶん、クモの体はワックス状の物質でおおわれている可能性が高いと思います。きちんと証明するにはそれなりの実験や調査が必要でしょう。
答えはまだ確定してはいません。ただ教科書などに書かれていることがすべて証明された真実であると思い込んだり、伝聞をうのみにせずに、注意深く疑ってかかることが、新たな発見につながる重要な態度であるといえましょう。 |