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アニメ好きの真骨頂、画面の隅々まで観察するとはどういうことなのか? 先月に引き続き、ハードウェア的な「画面の隅」をつついてみよう!

氷川竜介のアニメ重箱の隅
アニメ好きの真骨頂、画面の隅々まで観察するこのコラム。隅ってそもそもなんだ? 隅を超えたアニメ表現とは何なのか?
第4回 「画面の隅」とはいったい何なのか? 2007.09.25


  アニメを長く観続けていた結果、どうやら筆者は「根源的なこと」を一回はどこまでも掘りさげてみたくなってしまったようだ。
 なぜかと言えば、アニメーションとはその成り立ちが徹頭徹尾「人工的」な表現だからだ。これは何度か公言していることだが、そもそもこんな「ぺったんこの絵」のチャカチャカ明滅するだけの残像に、人格を見いだしたり思い入れを感じたりする方が「おかしい」わけで、その異常さを乗り越えてくるからこそ「アニメならではの感動」がより尊い。そういう関係にある。その貴重さを理解するには、一回、分解してみないとダメだろうと考えているわけだ。

 単純に「観たまま」「感じたまま」で済ますならともかく、もしもう一歩踏みこんでアニメのことを考えたり語ったりするならば、アニメのハードウェアとソフトウェアの仕掛け、さらに言えばその両者が同時に動いて感動を生成しているのかというシステムのメカニズムに無関心ではいられないはずなのだ。
 ……などという問題意識を改めて脳の片隅にセットしつつ、この8月に放送されたNHK BS-2「BSアニメ夜話 生放送 まるごと押井守」のトーク部を聞いて(出番はその後だったが、スタジオの脇で見ていた)から改めて映画『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』(1984年)を観ると、「やりたかったこと」が20数年目にしてようやく腑に落ちてきた。

 ずっと永らく「よく分からない」と思っていたことのひとつに、物語の登場人物の一人しのぶが「風鈴に囲まれる」シークエンスがあった。ヒントを与えられてみれば話は実に単純で、黒と白の激しいコントラストは「映画フィルムのパーフォレーション(送り穴)」であって、風鈴とは「サウンドトラック」のことだったという。

 このパートのみならず、本作は「アニメ」という技法を使って「映画って何?」「物語って何?」という「それ自体を解体する」というメタな試みに充ちたフィルムである。物語の因果関係や時間軸に準拠した整列関係もあちこち乱れているわけだし、キャラの一人がフィルムの中から脱落して戸惑いを見せたとしても、それはアリだろうということ。

 そしてトークで問題になっていたのは、窓辺からしのぶを見つめている「少年」は誰か? という設問だった。これだけは初見時から筆者は直感でこう理解していた。「これは作り手だよね」と。結局、演出を担当した西村純二氏によって「押井監督からは自分の若いころを描けという指示があった」という内情が示される。多くの観客は、あの少年を諸星あたるだと思ったようだし、映画は受け手がそれぞれの解釈で楽しめばいいものだから、それはそれで良い。
 だが、筆者にこれだけは自信があったのはなぜなのか? 理由は単純。少年が「窓枠」から「外界としのぶ」を見つめていたからである。

 さて、ようやくこれでこの回りくどい話は「画面の隅」につながる。いまみなさんがこの文章を読んでいるパソコンもテレビも映画も、実は天地左右に「枠」がある。当たり前と言わないでほしい。映像用語的には「フレーム」と呼ばれているものだが、それが「何なのか?」役割を強く意識したことはあるだろうか?

 ずっと説明していくと絵画の歴史までさかのぼって長くなりすぎるから子細は端折るが、その正体は実は「窓枠」と同じものなのである。「絵画」なら枠が必ずあると思ったら大間違い。枠のない「絵巻物」という分野もあるし、また人間の視野角は長方形にピタリと切りとられたものではないことも、パソコン画面から顔を上げて左右を見渡せばすぐ分かるだろう。さらに同じ「映画」であってもフレームのない映画さえ実在する。「アイマックス」という70mmフィルムの数倍のサイズで撮影した映画は、映写スクリーンには一応の四辺があるが、映写環境上はそこが視野角の外になるよう設計されている。なので、フレームのない映像を体験した観客は驚くべき臨場感が得られるという仕掛けだ。

 ということから逆算すれば、本来「窓枠=フレーム」からのぞいたような映画のシステムとは、没入感を時に妨げる「画面の隅」が常に存在するわけだ。ただしその「フレームありき」をお約束(プロトコル)とすることで、「実景を枠でどのように切りとっているか」が「送り手の意図」になり、観客は眼前に次々と出てくる映像を脳内でハードウェア的に受け取りながら「意図」をソフトウェア的に敏感に受け取り、一種のデコードをしながら物語のレベルに翻訳して楽しむ。

 こういう「画面の隅=枠」に関する「手続き」が確実にあるわけだが、人間の環境順応能力が「なんとなくのお約束」として了解させているに過ぎない。だから、『うる星2』ではフレーム内に窓枠と作り手を配することで、このからくりを一回観客に顕わに提示した。ただしそれをギリギリ「なんだか良くわからないけど、シュールな表現になってる」という抑制をしている。その「画面の隅」で踏みとどまっている危ういバランス感覚が一番面白いところなのかな……と、改めて思った。

 なぜなら、世の中にはその「仕掛け」をもっと露骨に見せてしまい、「画面の隅」を乗り越えてしまったメタなフィルムが、アニメ、実写、洋の内外を問わずけっこうあるからだ。アニメや映画って「いったい何なんだ?」と考えると、一度はそういうとこまで行ってしまうものなのだろう。
 だけど「どこで踏みとどまっているか」と「娯楽性」の関連も、「画面の隅」の扱いの検証から浮かびあがってくるわけだ。「画面の隅」を見つめることにはこうした面白さの発見も存在するのである。

 

 
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