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アニメ好きなら気になるのが作画のクオリティ。脚本や演出などと違って、見た目ですぐ分かるだけに、取りざたされやすい部分である。しかし、その質とはどこでどう保たれているのか。気にすべきこととは?

氷川竜介のアニメ重箱の隅
アニメ好きの真骨頂、画面の隅々まで観察するこのコラム。隅ってそもそもなんだ? 隅を超えたアニメ表現とは何なのか?
第8回 ガーブルな作画――生ゴミに化けてしまうクオリティ  2008.01.25


 年末年始は『北極の基地 潜航大作戦』という1968年の洋画をDVDで観ていた。『ナバロンの要塞』のアリステア・マクリーンによる冒険小説を『大脱走』のジョン・スタージェス監督が映画化した超大作だ。ちょうどベトナム戦争が激化し、TVでは『ウルトラセブン』を放送している米ソ冷戦時代に公開されたアクション映画で、小学生だった筆者はこの映画のポスターに妙な高揚感を覚えていた。

 店頭で再発見した「ジャケット」に惹かれ、つい買ってしまったというわけである。ようやく念願かなって観たら、なんと序曲(客入れ)、間奏曲(トイレ休憩タイム)、終曲(観客の送り出し)がついている、紛れもない「シネラマ超大作」であった。
 さて、それはそれとして映画の内容と関係なく筆者の耳に大きく響いた英単語がある。それが「ガーブル」だ。

 物語は北極圏にある移動基地ゼブラが急に消息を絶ち、そこに潜水艦部隊が調査に行く作戦がメインの軸として置かれている。正確な情報をとるべく腐心した結果を報告としてあげるシーンが何度か出るのだが、その劣悪な受信状況を原語では「ガーブルです」と表現している。「やっぱりそう言うんだ」と思い当たる節があった。
 意味合いとしては「ノイズだらけです」とか「正確に受信できません」ということになるが、これだと微妙なニュアンスが落ちてしまう。意味としては、ネット時代以後で言う「文字化けが起きてます」に近い。

 筆者がこの言葉をネイティブで聞いたのは20年前の1987年――米国に通信技術者として7ヶ月間暮らしていたときのことだ。初期の立ち上げでは、各機器の接続を行うとトラブルが頻出する。原因を切り分けるためにプロトコル・アナライザを使って通信をT型分岐してモニタし、正常性を確認する。そのとき、同期信号がズレるなどの要因で「文字化け」になると、米国側の技術者が「こりゃガーブルだ」と言い出した。
 もちろん前後の文脈から意味は分かるが、学校でも習わないような単語で。最初は面食らった。しかし、すぐに筆者の頭にはある連想が浮かんだ。それは今から30年前(渡米時点から10年前)、大学生時代に読んだSF小説だ。

 『ブレードランナー』の原作者として知られるP.K.ディックが、まだそれほど一般的でなかったころ、「ハヤカワ銀背」と呼ばれるポケットタイプの書籍を読みあさり、古書店で当時レア本だった「火星のタイムスリップ」を探しあてた。ディックは現実が崩壊して非現実化し、虚実の境界が曖昧化するというモチーフを再三再四取り上げている。吾妻ひでおの漫画『不条理日記』でも「わんぱたんのディック」と愛ある悪口を言われるほどだが、この作品にもそういうシーンが登場する。
 クライマックスはすべての事象が崩壊し、登場人物が「ガビル、ガビル、ガビッシュ」という妄念のような単語のつぶやきを列挙するシーンである。「なんだよ……。あれって、“ガーブル、ガーブル、ガービッシュ”が正解だったのか」と思い至ったのである。

 さて、それでは「ガーブル」とは何か。
 米国で暮らしていると、同じ「ゴミ」でもかなり細かく概念が分かれていることに気づく。たとえば「dust:ダスト」はチリやホコリのことで、「trash:トラッシュ」とは紙くずやボロきれのことだ。そして問題の「garbage:ガーベジ」。これは日本人には耳慣れない言葉かもしれないが、「台所から出る生ゴミ」を意味する。つまりかつて食物であり人の営みにとって有用だったものが、不要になったり腐ったりして価値を無くしたもののことを指す。

 この生ゴミのイメージをつかんだ瞬間、通信上で有意でなければならないテキスト(電文)の劣化による「文字化け」、そしてディックの小説上で描かれている「意味のあったものが形も価値もなくし、すべてが崩壊していく」事象と、互いの概念が脳内で一直線に整列しセットされた。まるでミステリーの真犯人が分かったような快感とともに。

 さて、ようやくここでこの遠回りで長い話はアニメにつながる。
 アニメ好きにとって大事なものとは、物語はもちろんのことだが「作画」が大きなパートを占めている。動く画によって語られるものでない限り、アニメにする本質的な意味はないからだ。だから画のクオリティ(質)が優先的に取りざたされることが多いのは、当然のことでもある。
 だが、アニメーションの制作とは集団作業が基本であり、様々な役職間で多岐にわたるプロセスが緊密に連携しているものだ。そのトータリティの中で「クオリティ」を支える秩序が何らかの理由により「損なわれる」ことがある。それは、「伝言ゲーム的」というか「熱力学の第2法則的」というか、ある種の「必然」でもある。

 つまり作画クオリティとは、放置すればすぐ「ガーブル」になってしまうものなのだ。
 こういう認識に基づいた「作画の評価」というのは、案外行われていないのではないだろうか。結果がヘタレていれば、それがまずいのは当然のことではあるが、それがたとえば原画の段階から良くなかったのか、明らかにレイアウトと原画はしっかりしていたのに、動画段階で劣化してしまった……つまり「ガーブル」になったのか、あまり区別がついていないように感じる。
 両者は実は視覚印象的にもかなり違う。そしてある程度の場数を踏めば、両者の差は完成画面からでもある程度は推察がつく。逆に言えば、そうした推察をつける行為から、作画に対する評価の厳密性を上げる言葉も見つかっていくはずなのだ。「言葉でアニメを語る」作業をしていると、その言葉がどうしても気になる。

 レイアウト段階で盛り込まれるべき「質」とは何か、ひとくちに「作画がいい」と言っても、それはデッサンが整っていることなのか、動きのことなのか、それとも演出の要請にどう応えているかという演技力のことなのか……。

 DVD時代になって「作品を買う」ことに関し、かつてなく「質」が問われる時代になった。それは分かるが、「質」を云々するのであれば、たとえば「ガーブルになっているのか、そうでないか」というようなモノサシを当てるような研究なり評価もまた、必要なのではないだろうか。  「ガーブル」という言葉が30年近い経験が一気に脳内で化合する触媒として作用する中で、そんなことをふと考えてみた瞬間があった……という話である。

 

 
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