COLUMN
アニメにおいて、セル画のキャラに塗られた色とはいったい何なのか。アニメーション表現を考える上で避けては通れないはずなのに、あまり言及されない色の問題。「重箱の隅」っぽいとらわれ方をくつがえすためにも、とりあえず深く考えてみよう!
話し出したら止まらないという感じになってしまった「アニメの色」の話題である。というのは、「そもそもセルに塗られた色って何なんだ?」という疑問があり、その割にあまり突き詰めて問題にされた記憶がないからだ。 ここ10年程度のアニメと20年前、30年前のアニメとで、「見た目」に関して何が一番違うかと言えば、それは「色替え」を施したシーンの数の多さではないだろうか。アニメの色彩設計では、まずキャラクターの「ノーマル色」を決める。そしてそれぞれ配色された塗り分け部分に対して、「ハイライト・ノーマル・カゲ」の3段階を設定する。 ただし、これは昼光(デイライト)のもとで見える色という考え方で設計を行っている。物語の進展上、夕景になれば背景はオレンジ系の色味になるし、夜になればブルー系となる。それにともなってキャラクターの色味も変化する。これが「色替え」である。「あれって、撮影のときにキャラをオレンジやブルーに染めているんでしょ」と思われるかもしれない。ところがそうではない。ペイント色の変化で表現している。 実写の世界には「アメリカン・ナイト」という言葉がある。フランス映画で使われる用語で(だから本当はフランス語だが)、ハリウッドで開発された「夜景を昼にうまく撮る手段」、つまり「疑似夜景」のことである。これとの対比で考えると、アニメの「色替え」の意味、あるいは「アニメの色」の本質に迫れるように思う。 そもそも「夜」には映画が撮れない。映画とは写真術の延長にある技術で、充分な露光が必要というのがその理由である。夜だからと言ってライトを当てると「光源のある場所」になってしまい、屋外などでは不自然になる。高感度フィルムを使うという手もあるが、かつては粒子が荒れてしまったし、そもそも「光と影」によって被写体が浮き立たないと、映画的表現にはならないという事情もある。ということで、昼光のもとでフィルタを使って撮影したり、あるいは現像段階で「ツブシ」という露光処理を行って「夜」に見せかける技法が編み出されたというわけだ。 だったらアニメでも同じようにフィルタ処理すれば良いじゃないかというと、コトはそんなに簡単には行かない。試しにアニメ雑誌のノーマル色の場面をデジカメで撮影して、Photoshop上に持っていって、紺色のレイヤを重ねて透明度を変えるといった実験をしてみればすぐ分かる。確かに夜景っぽくも見えるかもしれないが、非常にニュアンスが乏しく薄暗いだけの絵になってしまうだろう。そしてセル画の部分を見てみると、非常に妙な「汚い色」の部分がいくつか出てきてしまうはずだ。実際に「アメリカン・ナイト」にも同じ弱点があって、どうしても作為的な画面になってしまうし、発色も良くない。 そこでアニメでは「色替え」を行う。アニメの制作途上では、シーン毎に「美術ボード」が起こされる。それが夜景であったり、あるいは色味のついた光源の存在する場合、そのキーとなる色味はまず美術ボードで決まる。次に、そこにいるキャラクターの色がシーン単位で新たに設計される。 これは「色」とは何か、本質を考えれば当然のことでもある。フィギュアやセル画を見慣れたアニメファンは、物体に「固有の色」があると思い込んでいるかもしれないが、現実世界にはそんなものは存在しない。ある光源が存在して、物体に光が当たって、その反射光が目に飛び込んだものが「色」と認識されるだけなのだ。光源の波長が変われば色も変わる。それも全体に一様に変わるのではなく、物体の反射率などの差によって個別に変わるのである。 デジカメを扱い慣れている人なら「ホワイトバランス」で色味がまったく変わるのを知っているだろう。アニメでも場合によっては、蛍光灯と白熱電球と、光源の種類が変わるだけでもキャラの色替えを行う。これは色温度の差を、たとえば蛍光灯は冷たく、白熱電球は暖かくと、情緒的な表現に応用できるからだ。 そうしたもろもろの演出的要件を重視して、個別のシーンごとの「色替え」を決めていくのである。気持ちの悪い色にならないよう、また隣り合わせとの色の配合にも気をつけながら、背景とのなじみを考え、心理的な効果も考えるという大仕事だ。場合によっては、その1カットだけの色替えを行うことさえある。大事なのはそれだけ色を替えても、フィルムトータルでは「同じ色のキャラが、光源の違う場所にいる」という感覚を残さなければいけないということ。というのは、抽象化されたアニメキャラでは「色」は「そのキャラらしさ」の重要なファクターになるからである。 セル画時代は、この色替えも絵の具の「カラーチャート」の中から指定しなければならなかった。これがデジタル時代になると、スポイドツールで美術ボードから色味を拾ことができるようになったので、それを手がかりに「色替え」を指定し、その「色見本」をデジタルデータで添付することで、仕上げもカット単位での色塗りが多くできるようになった。 そういうわけで、デジタルアニメでは「色替え」を行うことが、むしろ普通の作法になって久しい。確かにその方がシーン単位の臨場感から演出的な心理効果まで、表現の幅が広がって感じられる。アニメの色表現も、ずいぶんリッチになったものだ。 と言うことで万々歳……とは、どうもいきそうにないと、最後に釘を刺しておく。それは私が仕事で『ど根性ガエル』を観ていたときのこと。お祭りの夜のシーンで、ひろしたちが出てくると、みんなノーマル色に塗られていた。それは時代的に当然と思いつつ、「あっ、これはこれでアニメの世界観なんだ」とも同時に考えた。 結局、色とは最終的には「主観の問題」に行き着く。夜だろうと昼だろうと、「やあ、ひろし!」と出会って彼と認識したなら、もしかしたらズバリ「そのキャラ固有の色」で心がとらえているかもしれないのだ。 キャラクターを抽象化し、色数も正規化してスペクトラムを絞りこんで、ピーク・ピークのエッジの立った限られた情報で勝負する。それもまた、アニメの作法なのだから、現実世界には存在しない「キャラ固有の色」があってもいい。光源と色の関係を調整するのはリアリズムの考え方だ。それが似合い、色を調整することで表現の深度が増す作品もあれば、逆にアニメ本来のパワーで勝負した方がいい作品もあるということ。 そういった差も見分けられるようになりたいなと、今日も「色替え」をふんだんに施され、色情報にあふれた深夜アニメを観ながら思うのであった。