COLUMN
今回はひさびさに「隅」の話。人工物を世界に見立てていくアニメ。映像の「隅」にあたるフレーム、その外にあるものとは? 何をどう加工すると「アニメになる」のか、根源の話を考えてみたい。
フレームがどういう役割をはたしているか。その話は4回目と5回目に書いた。窓枠がはまることで「画になる」。そこに意図が生じる。これは何度でも強調したい話だ。 それは、携帯電話にデジカメ実装が当たり前になって、誰もがフレームのついた画を撮影する機会が増えた時代になって、より切実に思う。おそらく大半の人が「枠内にいる被写体」のことだけを気にしていて、「枠と被写体の位置関係」には注意を払っていないだろう。だから、素人写真でありがちな現象として「首切り」なんてことが容易に起きる。親子が立っている写真でカメラマンが子どもだけに注意して撮影してしまうと、親の方の首がバッサリ……なんて現象だ。もちろん本当に斬首されたわけはないが、気持ちのいいものではない。 フレームで「画」を切り取ることに予想外の強い意味が発生するのは、こういう事例からも分かることだ。 そういう意識で周囲を観察してみると、たとえばTV収録に立ち会っているときでも、フレーム論がベースになった意識が見受けられる。「そこ、見切れているよ」という会話が飛び交っていて、カメラ位置を微妙に修正したりしている。この「見切れ」とは、カメラが被写体とそのバックにある大道具などからハズレてしまい、セットの端が見えたり、ADなど余計なスタッフが入ってしまうことを指す。 これがなぜいけないか。当たり前のことだが、映像の世界は「夢」であり人工物である。たとえニュース番組であってもセットの中はフィクションで、美術スタッフが作りあげた大道具でバックを囲い、特殊な空間を描出して観客に届けているのだ。ニュース番組やバラエティ番組の一部では、わざとカメラを振って「これは作り物ですよ」と見切れを視聴者に示す場合もあるので、割と日常的に目にしているかもしれない。 これも大本は舞台用語である。劇場の演劇において、客席から舞台がどう見えるのか。美術を設計して大道具を組み立てるときに、どこまで作りこむか、かなり重要なポイントにもなる。そもそも映像の世界を構築する要素も、「舞台→映画→アニメ」という流れで来ているものが非常に多いので、アニメの背景やセルの役割を考える場合、根源のところはこうやって一度考えておく必要がある。 そういうわけでアニメにも「見切れ」はある。そもそも人工の「画」であるため、その役割は重要だ。一方、たとえアップになっていても、全身を描いているわけではない。アニメーターの神様の一人、故・森やすじさんはアップのカットでも全身を描いていたそうだが、そういう例外は除くと、だいたいは作画用紙に描いてあるフレームを意識して、一回りか二回りぐらい大きい範囲まで描くのが普通である。 デジタル移行後はほとんどなくなったが、フィルム時代ではこの作画時点でのフレームをハミ出した部分が画面内に写ってしまうことが、たまにあった。アニメの場合は現場用語では「見切れ」の他に「バレ」という言葉を使う。「セルバレ」とか、そういう感じで表現する。やはりフレームで囲ったことで観客に生じさせるべきマジックが、「バレ」によって現実に引き戻される――魔法を消滅させる意味で「バレ」なのだ。 特に通称「貧乏ビスタ」の作品に「バレ」は多かった。本来の演出意図は横長のビスタサイズなのに、作画はスタンダードで行っている作品が貧乏ビスタで、一時期の劇場アニメでは主流だった。ビデオグラム(当時だとVHSとかLDとか)がスタンダードサイズの時代だったため、劇場では天地にマスクをかけて上映するものの、ビデオ化ではそのマスクを外してスタンダードでテレシネする。そういう事情によるものだった。 「マスクを外す」ということがスタッフ間に周知されていないと、ビデオグラム版では上半身のない人間や着陸脚しかない戦闘機が登場する……なんてことがままあった。アニメの制作現場は常に逼迫しているので、劇場スクリーンに映らない部分まで作画・ペイントしている余裕がないという台所事情もある。 そういう不完全な画面は、アニメづくりの知識を持たない一般観客にいったいどう理解されているのか。筆者は「あ、バレだ!」とすぐ気づいてしまうので、逆に分からなくなってしまったのだが、不自然極まりないものをフレーミングしたとたん、「ねらい」のある映像に変化する実例としては、妙にありがたいとも思ってもいる。 一番印象深かったバレは『王立宇宙軍』のTV用CMで、クライマックスのカットで右上にマジックで書かれたセル番号がものすごい勢いでカウントアップしているので、「あ、1コマ打ちだ」と感激したという事例である。しかも、何枚も重ねている様子まで分かってしまう。「バレ」とはエラーなので、LDやDVDにいっさい収録されていないのは、個人的にはちと残念なことだ。 ハイビジョン時代になって、むしろワイド収録(スクイーズ)の方が標準的になりつつある昨今、こうしたバレが出ることもなくなって、何となく寂しい。スタッフが手塩にかけてフィルムに記録されているものは全部出してほしいという残念さもある。フレームはズームなど映写側で調整できるのだから……というのが、マニアックな我が儘で意味のないことも分かっている。バレのまま製品化したらクレームの電話が来るだろうしなということも予想つくが……この「マスク外し」を意図的に敢行した事例を思い出した。『トップをねらえ!』のHDリマスター版第6話だ。あれは実に快挙であった。 ちなみに「バレ」はフィルムだけでなく、かつては雑誌の記事上でも多かった。アニメーションの16mmや35mmのフィルムは膜面が小さいので拡大に耐えられず、「セル撮」と言って特別に組んだセル画を6×6、6×7のブローニーサイズで特写することがあったからだ。これは背景・セルのバレ部分丸ごと写すものなので、掲載時にトリミングを間違えると容易にバレる。70年代、80年代の古いアニメ雑誌をパラパラめくってると、あちこちにバレが見つかるはずだ。 筆者の若いころは、カット袋の中からセルと背景を出して組み上げ、カメラマンに指示する仕事をよくやっていた。何のことはない、演出における「撮出し」に近い作業である。だから、人工物を組み上げて「アニメの画」に変えていくというマジックにもひときわ敏感なのかもしれない。 こうした物体としての仕掛けは、アニメを論じるうえで「外」にあると切り捨ててしまう人もきっと多いだろう。もちろん常時、意識しているわけにはいかないし、それでも構わない。しかし、「なぜアニメが好きなのか」「なぜアニメという表現でなければ成立しないのか」ということをとことん考えたいなら、一度は自分自信で工程をシミュレートしたり、掘り下げて観察したりするのが良いだろうと思う。そうやって本質をつかんでおくこと、それ自体がまずは面白いし、そのバックボーンがあれば、さらにより深いところに到達できるのではないかなと思うからだ。 「重箱の隅」は重要ではないかもしれないが、不要なものではないのだから……。