COLUMN
一見何でもないアニメの画面に見えるのに、気持ちの深いところに妙な感覚を覚えることはないだろうか。アニメがアニメである必然性、それはこうした映像の伝達する超言語的な意味にある。その正体も「重箱の隅」を観察すれば、読み解けるかも?
今年、アニメ版『true tears』(監督:西村純二、シリーズ構成:岡田麿里)が始まったときには、まったくのノーマークだった。ていねいな画づくりの作品だということは観ればすぐ分かるが、その表現の奥深さに気づくにはタイムラグがあった。まことに不明を恥じる次第である。 回を重ねるうちに、「これは居住まいを正して観るべき特別な作品だ」と気づく。それは、作画や美術の見た目の高クオリティの問題ではない。繊細な画を積み重ねていくことで、繊細な心情を伝えていこうという、その姿勢である。作画も美術も、そうした演出意図に応えるべく、「映画のパーツ」として正しく機能するのが本来的な役割である。クオリティとはある意図の上で役割をはたして初めて価値に転化し、注目に値するようになるものである。 この作品では、画面に提示されている要素に、深い映画的な意味が込められている。そうした言葉に頼らない表現がこの作品で描かれるデリケートな心情の揺れに結びついている。注目すべきは、まずそこだ。 『true tears』は北陸の冬を舞台にしているため、雪が降る。だが、降雪や積雪は単なるシーンの装飾として使われているのではない。序盤のエピソードではヒロインのひとり比呂美の抱える内心をビジュアライズする媒介として使われている。 自分の内に抱えた葛藤の苦しさのあまり、石動純のバイクに乗せてもらって「雪のない場所」を目ざそうと逃げ出す比呂美。その逃避行は、雪の招いたスリップ事故によって失敗に終わる。なぜ逃げだそうとしたのか、何から逃げたかったのか、なぜ雪なのか。理由は言葉では語られない。ところが、晴れた朝に自らシャベルで雪かきをする比呂美のショットが、すべてを明らかにする。 彼女は雪を、心の中を冷たく閉ざす何かの象徴としてとらえていたのだ。それから逃げ出すことはできない。雪にこだわるあまり、雪が彼女をスベらせる。その痛ましい経験から彼女が何をつかんだのか、これは言葉でも映像でも具体的には描かれないが、自力でその「冷たい雪」を排除する道を選んだことだけは、雪かきの態度で分かる。 もちろん劇中そのシーンでの彼女が、そうした気負った意識で雪かきをしているのだと言いたいわけではない。彼女にとってみれば雪国の単なる朝の習慣としての行為であるかもしれない。とは言え、雪から逃げようとしたときの墨絵のようなモノトーンの雪景色と、朝の新鮮な色に充ちた風景の印象が与える落差は、彼女の心境の変化を「神の視点」をもつ作者サイドが祝福した表現のようにも見える。 こうしたものが「映画的表現」なのだ。映画というのは、ある視点で作者が登場人物を見つめ、フレームで事象を切り取り、その視点や切り口の変化や対照を描くことで、感情的な起伏を生理的に伝達する。それは非言語であるがゆえに、感情面へダイレクトに届き、心を激しくゆさぶる。こうした映像と感情表現の関係性に鋭敏でありたいと願う観客にとって、『true tears』はまさに待望の作品なのだ。 では、こうした映像表現は感情を伝えるものだから、感覚的なもので「センスが良い」ものならOKなのか。それも違う。実は映像作品の感情をそのレベルに持っていくためには、むしろいたるところ論理的な仕掛けが必要なのだ。 数学的とも言えるロジックをベースに敷いているからこそ、作画や美術などで描かれるものが激しく響く。この仮説の証拠になる映像も、いたるところ発見できる。たとえばどれくらいスタッフがロジカルに画面を作りこんでいるのか、充分伝わってくる暗喩のサンプルがある。見逃すかもしれない、ささやかなその一瞬のインサートと伝えようとする意図の巧みさには、正直言って驚かされた。 主人公・眞一郎の親友である三代吉は、今川焼き屋「あいちゃん」の愛子と付き合っていたが、愛子の真意を知って悩んでいる。そういう状況下で、三代吉が数学の授業中に黒板で方程式に取り組んでいる場面がインサートされる。これは本筋と一見関係なく見えるシーンだ。 ところがここで板書されていたのは、虚数方程式なのだ。これには本当に驚いた。つまり「虚数=i」を中心にした方程式である。そのココロは「愛(アイ=i)は虚数だった」ということで、間違いないはずだ。なぜならば三代吉の問題とは、まさしく「恋に恋し、愛に愛する」という思春期に陥りやすい虚構なのだから。気の毒な男子・三代吉は若さゆえにその方程式が解けない。しかも彼女の名前も「愛ちゃん」というのだから、出来すぎである。悲哀とユーモアを映像にこめつつ、こう語ることも可能なわけだ。 これは決して偶然ではない。謹慎中の比呂美に代わって眞一郎がノートとる回も授業は数学で、「方程式」が使われている。ここは集合の論理式「ド・モルガンの法則」が使われていたはずだ。これも「AとB」がカップルの意味であり、バーがついた状態が「否定」を現すという風に考えれば、登場人物のカップル状態の否定、個々人の自己否定の状態を意味するものと読み取れる。 事実、『true tears』は男子3人、女子3人の青春群像劇なのだが、その関係性も実に数学的にできているのだ。つまり、「1名の関係(内面)」と「2名の関係」と「3名の関係」を明確にし、それを交錯させるようにドラマが組み立てられている。 こうしたことは明確に分かる必要はない。隠し味で良い。しかし、隠し味があるとないとでは、確実に上物の味も変わる。 ざっと観ただけでもいろんなところにこんな発見のある『true tears』。「重箱の隅」への観察は、ときにこんな贈り物もしてくれるのである。