2005年10月23日
高句麗好太王碑文の新知見
徐 建新(中国社会科学院世界歴史研究所)「拓本から見た高句麗好太王碑」
氣賀澤保規(明治大学)「中国の墓碑・墓誌について」
高島 英之(群馬県埋蔵文化財事業団)「日本古代の碑」
それぞれ興味深い発表でしたが、私なりに注目したのはやはり徐先生の講演でした。明治大学で学位を取得され、授与式があるとうかがっております。
ご講演ですが、パソコンにおさめられた多くの画像データを示されながらのお話でした。以前、朝日新聞にも紹介記事が載りましたので、ご存知の方も多いと思いますが、今年5月に中国の学術誌『中国史研究』にすでに発表されています。
改ざん説との関連において、重要な発見があったのがなんといっても注目でした。
これまで問題となっていたのは、1883年に日本陸軍軍人・酒匂景信が入手したとされる墨本(いわゆる「酒匂本」)ですが、それによく似た墨本がみつかったのです。鑑定を依頼された徐先生の、検討によって、その新発見墨本の製作が1880乃至1881年であることが、附属する跋文からあきらかになりました。(この新発見の墨本ですが、徐先生に直接もうかがいましたが、双鉤した痕跡は無いので「墨水廓填本」と呼ぶのが、正確な表現になるようです。)
これにより、酒匂景信本が、碑文を意図的に変えた可能性が否定されることにもなります。当初、問題提起された、李進煕氏の説の根幹にかかわる新発見ということになります。(李説については、当HPの『高句麗広開土王碑は改竄されたか』もご参照ください。)
写真は、左が新発見本、右が酒匂本です。よく似てますが、微妙な違いもあります。くり返しになりますが、これは拓本ではなく「模拓」という方法でつくられたいわば拓本もどきということになります。ただし、同じ釈文があって、それを元に墨本が作られたと想像されます。ですから、同じ文字が書かれているわけです。酒匂本が鮮明なのは、日本に持ち帰ってから新たに墨を塗ったためのようです。
ところで徐先生が、原石拓本の調査・研究を主軸に置かれていることは、このHPでお伝えしてきました。「石灰補字前の原石拓本」というのは徐先生の表現ですが、風化の著しい現状の碑文より、石灰が塗られる前の状態の拓本こそ碑文の本来の姿に近いということになります。現在では、水谷拓本を含め13種類型になっているということです。
さらに昨日の発表では、石灰拓本についての新知見も明らかにされました。これまでは内藤湖南本が最古の「石灰拓本」とされたいたようですが、それよりも古い「石灰拓本」=「天津文運堂旧蔵本」が紹介されました。
さらにもうひとつ、大事なことをお話しになられました。拓本の編年について「碑字字形比較法」の提起です。限られた時間内でしたが、具体例を示されました。これらの成果は、年内に出版される予定とのこと、楽しみに待つことにしましょう。
トラックバックURL
この記事へのコメント
1. Posted by さわらびT
2005年12月29日 23:32
先日(24日)李進煕氏の講演「好太王碑を巡る論争 水谷拓本と新発見の墨本」を拝聴しました。先日の徐建新先生の講演内容に対する反論です。新発見の墨本については、偽書であることをほのめかすようなご発表でした。
李先生の編年によれば、水谷拓本は石灰が剥落した時期、1930年代のものだとされます。李説を特徴付ける点です。したがって、水谷拓本を原石拓本とする武田幸男説は成り立たず、この水谷拓本に似ているからとして原石拓本と考えてはならないという点も強調されました。私は、改ざん説が成り立つ歴史的背景を考えているのですが、拓本自体の研究が大事であることも強く感じさせられています。
李先生の編年によれば、水谷拓本は石灰が剥落した時期、1930年代のものだとされます。李説を特徴付ける点です。したがって、水谷拓本を原石拓本とする武田幸男説は成り立たず、この水谷拓本に似ているからとして原石拓本と考えてはならないという点も強調されました。私は、改ざん説が成り立つ歴史的背景を考えているのですが、拓本自体の研究が大事であることも強く感じさせられています。
2. Posted by 吉 村 武 彦
2006年04月09日 10:53
徐建新さんの著書は、
『好太王碑拓本の研究』東京堂出版
として、2006年2月に刊行されました。
なお、読売新聞の文化欄に好太王碑に関する特集があると聞いています。
『好太王碑拓本の研究』東京堂出版
として、2006年2月に刊行されました。
なお、読売新聞の文化欄に好太王碑に関する特集があると聞いています。