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help リーダーに追加 RSS 郷土の歴史のこといくつか。

<<   作成日時 : 2009/04/23 17:52   >>

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今日は郷土史でいくつか教えていただいたことがあるので忘れないように書いておきます。

・遠州横須賀の三熊野神社は平安・鎌倉時代には廃れていて、応仁の乱の頃に一度焼失している。それを江戸の頃中興した。

・窓泉寺は横須賀城初代城主・大須賀康高が正室を弔うために建てたものだが、風水の関係でもともとそこにあった龍眠寺を別のところに動かして建てた。当時はまだ龍眠寺を菩提寺とする西尾家は入ってなかった。そのようなことはよく行われたらしい。
http://www.asa1.net/siseki-meguri/koku150/3oosuga.html ←国道150号線〜沿線の歴史を訪ねて
当山の開山は茂嶽洞繁和尚で、康高の実の叔父にあたる。この地に寺を建立する以前は、天台宗で現在の大須賀町本谷寺ケ谷の地に荘厳な伽藍が建っていたが、山津波(山崩れの大規模なもの。土石流)にあい壊滅したといわれている。その後、大須賀町清ケ谷に伽藍が建立され、今でも「窓泉寺囲(かこい)」という地名が残っている。
 康高は寺建立後も亡室のため追善の湯茶会を催し、また境内は勿論門前及び周囲の山林を寄付した。その後城主は代々黒印をこの寺に賜る。十二代城主本多利長(在城期間1645〜82)の時に、大須賀出羽守忠政(二代1588〜90・五代1601〜7)が黒印を紀井大納言の墨付をもとに、徳川家光(1604〜51在職1623〜51)の朱印に改め、徳川代々家(いえ)茂(もち)(1846〜66在職1858〜66)までの朱印九通を残している。開山茂嶽洞繁和尚より六代繁山ァ茂和尚迄の間に建立された末寺は八ケ寺を数えた。
http://www.mason-kitani.co.jp/jiin/no09.htm ←和歌山西国三十三ヶ所9番龍門山窓誉寺
和歌山西国三十三ヶ所9番の龍門山窓誉寺は徳川頼宣公が紀州に入封した際、窓泉寺二世瓢外法察(けんがいほうさつ)大和尚が共に入国し開山したもののようです。
http://www.jtw.zaq.ne.jp/nankaizen/nankaizen_009.htm ←窓誉寺について
窓誉寺には「火しゃ(たけた猫のこと)」より報恩の有った水晶の数珠と番町皿屋敷のお菊のお皿が秘蔵されているそうです。
http://surugakoji.exblog.jp/7490315/ ←駿河工房の道具箱

・田沼家は元は源氏の豪族。田沼意次の相良城の取り壊しの立会いは西尾家が行った。
http://blogs.yahoo.co.jp/gnffn603/10683614.html ←お城のアルバム
二の丸跡は相良小学校の運動場になっているそうです。この前、谷川俊太郎さん親子の詩と音楽のコンサートで行きました(^^)。

・徳川家康もよく舟(八丁櫓)を利用していて、フグの天ぷらを食べて死んだ場所だという藤枝にあった田中城にも舟で行った。

・横須賀の祢里は、初期の頃、箱屋台という輪のないかつぐタイプの屋台だった(大須賀民俗資料館に展示)。

・石津のところは昔は海辺で、サクラエビのような白いエビや魚が取れた。

・庶民も実は苗字はもともとあったけれど、使用が禁止されていた。

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コメント(2件)

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magnoria さん、おひさしぶり、
 わたしが最近見つけた郷土の偉人は益頭俊次郎尚俊です。万延元年の日米修好通商条約批准書交換のための使節団が、太平洋横断航海をしたときの使節団の一員で、焼津の出身です。墓所も焼津にあることも、パンフレットにのっていたのですが、帰国後の経歴が、まったくわかりません。
 そのうち、暇を見つけて図書館で調べてみたいと思います。
罵愚
2009/04/23 18:39
罵愚さん、お久しぶりです!懐かしい〜、お元気でしたか?(^^)。焼津は八丁櫓で盛り上がりましたね。益頭俊次郎尚俊という方のことは初めて知りました。身近に感じられる人をきっかけに歴史に親しむことはいいことですね。私もコツコツ勉強していますよ(^^)。
magnoria
2009/04/23 20:49

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