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【芸能・社会】忌野清志郎さん逝く 熱烈ドラ党2009年5月3日 紙面から ロックバンド「RCサクセション」のボーカルとして「雨あがりの夜空に」などのヒット曲を生んだミュージシャンの忌野清志郎(いまわの・きよしろう=本名・栗原清志)さんが2日午前0時51分、東京都内の病院で、がん性リンパ管症のため、死去した。58歳だった。東京都出身。06年7月に喉頭(こうとう)がんであることを明かし、08年7月には左腸骨へのがん転移も公表していた。清志郎さんはバンド、ソロ活動を通じて日本のロックシーンに大きな影響を与え、「キング・オブ・ロック」とたたえられた。一方で、中日ドラゴンズの大ファンとしても知られ、巨人全盛時代に「右にならえの世の中が気に入らね〜!!」と“アンチ巨人代表”のロッカーでもあった。 熱血D党だった清志郎さんは、2007年10月31日、ドラゴンズが日本一に王手をかけた日本シリーズ第4戦を観戦するためナゴヤドームを訪れた。大好きなドラゴンズの試合を生で観戦したのはこれが最後となった。 この時、清志郎さんは、前年夏に発症した喉頭(こうとう)がんから復活を遂げ、元気な姿で内野席に陣取り、ビールまで飲みながら、スタンドから声援を送った。「負ける気がしないよ。ドラゴンズの風が球場に吹いているもの」と53年ぶりの悲願に太鼓判を押していた。 同年12月、清志郎さんは、名古屋のダイアモンドホールで友人のベーシスト藤井裕のライブにゲスト出演。オープニングで「ドラゴンズ日本一!」と書かれたハタを高々と掲げ、ステージに登場。「53年ぶりの日本一、おめでとう!!」と叫び、名古屋のファンと心から喜びを分かち合った。これが名古屋での最後のライブとなった。 清志郎さんが、ドラゴンズファンになったのは、1988年(たつ年)。もともと「アンチ巨人」で、その年に、セ・リーグ優勝したのがドラゴンズで、同年11月に長男が生まれ、竜平(たっぺい)と名付けたことから、D党になった。そのころ清志郎さんは「23ズ」というバンドを組んでおり、中日の背番号「23」のユニホームを着て、ライブに出演。それを知った川又米利さん(本紙評論家)が「23」グッズを清志郎さんに贈ったことから交友関係がスタートした。清志郎さんの名古屋のライブに川又さんら中日選手がゲスト出演したこともあった。 ナゴヤドーム元年の1997年7月に初めてナゴヤドームを訪れ、当時の星野仙一監督や川又選手を激励した。その時「ナゴヤドームはきれいですね。できるなら、僕もここでライブをやりたいな」と語っていた。その夢はかなわなかったが、清志郎さんの不屈の“ロックスピリッツ”は、ドラゴンズファンに受け継がれるはずだ。
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