制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
公開
1999-10-21
改訂
2001-06-12

讀賣新聞を斬る

かつて讀賣新聞は文藝新聞として一流だつた。その讀賣新聞が、いまや日本語の破壞者である。

漢字と平假名の無茶な交ぜ書きを批判する投稿者

平成11年10月16日付、讀賣新聞より。

読売新聞では、常用漢字と常用外漢字で構成されている熟語を払しょく、処方せん、破たんなどのように、漢字とひらがなを組み合わせて表記していますが、何となく間が抜けた印象を受けます。かと思えば、常用外漢字だけで構成されている熟語が、漢字のまま掲載されている場合もあります。漢字の表記については、どのような基準があるのでしょうか。

先づこの投稿の眞意を説明しておかう。山仲氏は、讀賣新聞の「漢字と假名の交ぜ書き」が見苦しい事、また、時と場合によつて交ぜ書きをやつたりやらなかつたりして一貫性がない事を、批判してゐるのである。單に「どのやうな基準があるのか」と云ふ、新聞の基準を尋ねてゐる譯ではない。

即ち、山仲氏は「讀賣新聞のやつてゐる漢字と假名の交ぜ書きは止めるべきだ」と云ふ主張を讀賣新聞にぶつけてゐるのである。

百歩讓つて、これは主張ではない、ただの疑問であると云ふ「官僚的」な答辯を認めるとしても、「漢字の交ぜ書きは間が拔けて見える」事、「場合によつて漢字と假名の交ぜ書きをやつたりやらなかつたりする」事の、二つの問題點がある事について、讀賣新聞は釋明せねばならない。

讀賣新聞の「わかり易い」と云ふ紋切型

然るに讀賣新聞は、「漢字の交ぜ書きは間が拔けて見える」事に對して、「いいえ、漢字の交ぜ書きはわかり易いのです」と決めつける事で御茶を濁してゐる。間が拔けて見える事とわかり易い事は、關係ない事で、話を摩り替へてゐるだけなのだが、讀賣はそれで話は濟んだものと思ひ込んでゐる。そして「場合によつて漢字と假名の交ぜ書きをやつたりやらなかつたりする」事について、長々と説明をする事で、「漢字の交ぜ書きは間が拔けて見える」と云ふ指摘をごまかしてしまふ。

この時點で、讀賣新聞の釋明が詭辯である事は明かなのだが、さてでは實際の「漢字表記の基準」とはどう云ふものかと云ふと、これもまた詭辯の連續なのである。

新聞の使命は幅広い読者によりわかりやすくニュースを伝えることです。このため読売新聞社では、記事や見出しを常用漢字表に示された漢字(千九百四十五字)の範囲内で書くことを原則としています。

「このため」と云ふ接續詞の前後は、論理的に何の關聯がない(論理的に飛躍してゐる)。また、前の文章は「幅広い」「よりわかりやすく」と云ふ形容句を伴つてゐる。形容詞の限定的用法と云ふやつで、これによつて前の方の文章の意味内容は限定されてゐるやうに見える。だがかうした形容過多の文章は、實は後の文の目的を却つてぼかすばかりである。

常用漢字表の範圍内で表記する事の目的は、一體何なのか──「幅広い読者に伝える」ためなのか、「よりわかりやすくニュースを伝える」ためなのか。「幅広い読者によりわかりやすくニュースを伝える」と云ふ美辭麗句が目くらましになつてゐる。そして「常用漢字表の範圍内で表記する事」で、「幅広い読者に伝える」事、「よりわかりやすくニュースを伝える」事──そのいづれもが必ずしも可能になる譯ではない。すると、この二つの文章は論理的に聯關が無い──そして論理的に聯關のない二つの文章を恰も聯關があるかのやうに見せかける事を、詭辯を使ふ、と云ふ。

居丈高に説教をする讀賣新聞

これは、本紙だけでなく日本新聞協会に加盟する各紙もほぼ同様で、常用漢字の前身である当用漢字の内閣告示(一九四六年)を受け、取り決めて以来堅持されているものです。

ほかの新聞もやつてゐる事だ、しかもそれは業界の「談合」で決定したものだ、と云ふ譯である。新聞は獨占禁止法の適用對象外の存在だから、「談合」は正當なものでこそあれ排除さるべきものではない、とでも言ひたい所なのであらう。或は内閣告示に俺たちは從つてゐるだけだ、と豫め責任逃れをしてゐるのである。(勿論、新聞側が反對すれば、内閣告示も掛け聲倒れになつた筈──新聞は率先して内閣告示を支持したのである)そして、「堅持されている」と云ふ言ひ方に、新聞記者の誇らしげな表情を看てとるのは、うがち過ぎの解釋か。

しかし常用漢字だけでは表現できない場合があり、このような時には常用漢字以外の漢字(表外字)を含む語は「安堵→安心、ほっとする」「諧謔→ユーモア」「詭弁→奇弁」「燻製→薫製」のように、わかりやすく言い換えたり同音の常用漢字に置き換えたりしています。

さあ、ここから讀賣新聞の──否、「日本新聞協会に加盟する各紙」が共同で行ふ──堂々の「奇弁」の始まりである。

「わかりやすく言い換えたり」──「安堵→安心、ほっとする」「諧謔→ユーモア」の事を指すのだらう。だが、安堵よりも安心の方がわかりやすいだらうか。「諧謔を弄ぶ」を「ユーモアを弄ぶ」と言換へられるだらうか。

「同音の常用漢字に置き換えたり」──「詭弁→奇弁」「燻製→薫製」の事を指すのだらう。實は「詭弁→奇弁」には前段階があつて「詭辯→詭弁→奇弁」と云ふ3段階の「置き換え」が行はれてゐる。まづ、「辨辯瓣」を「弁」一つに纏める事は、言葉の意味を不明瞭にするもので、「わかりやすく」したとは言へない。また「詭→奇」では意味が異なる。「詭」の意味は「いつはる。あざむく。だます。」である。「奇」では「めづらしい。すぐれてゐる。不思議な。思ひがけない。」とあつて、やつと「いつわり。」の意が出てくる。嚴密にはこの二つの文字は別の意味を表す。或は「奇」は「詭」よりも意味が廣く、曖昧である。結局、「詭→奇」の「置き換え」は、一つの字に澤山の意味を持たせようと云ふもので、言葉の意味を不明瞭にするものであると言へる。「燻製→薫製」では、「薫」に「いぶす」意味がないのだから、完全に別の意味になつてしまふ。

このような方法をとることが難しい語では、ご指摘の「払しょく」「破たん」のように漢字と平仮名の交ぜ書き表記にすることがあります。

否、否! 「このような方法」は一切の熟語で不可能である。一切の熟語には存在意義があり、それを亂暴に他の漢字に「置き換える」事は出來ない。或はそれが可能な熟語と可能でない熟語の選別基準は何か。

「わき目」「つづり方」など和語では違和感は少ないのですが、漢語の場合は見た目が不自然な印象を与えることがあるのは事実です。このため、表外字を含む漢語は読み仮名(ルビ)をつけて使えるようにすべきだという意見があります。

「事実です」と云ふ文章の次に「という意見があります」と云ふ文章を置いて、事實を意見に摩り替へる「テクニック」が使はれてゐる。

 本紙でも、使用頻度が高く、耳になじんでいる語は凱旋、檀家、拉致などのようにルビ付きで表記する事を認めていますが、

所詮「認めてい」るだけなのである。

一般記事でルビを採用した本来の目的は、人名、地名など難しい固有名詞の読み方を示して読者の便を図る事です。

一々讀者に恩を着せるのは見苦しいが、それはともかく──結局讀賣新聞は、ルビには反對なのである。

ルビ使用の範囲を広げて表外字を含む難しい言葉を全面的に使えるようにすれば、紙面が黒っぽく、読みにくくなってしまいます。

「紙面が黒っぽく」なる事即ち「読みにくくな」る事ではない。ここは讀賣新聞のイメージ戰略である。

小さなルビはお年寄りの目には判読しかねることもあるでしょう。

老人が漢字を知らないのも困りものだし、老人にまで無理矢理新聞を讀ませようと云ふ根性には恐れ入る。

さらには小中学生でも読めるわかりやすい記事を書くという一番大事なことがおろそかになる恐れもあります。

「漢字と平假名の交ぜ書き」をやれば「小中学生でも読めるわかりやすい記事」が書けると云ふ理屈は成立たない。或は漢字にルビを振れば小中學生は難讀漢字が幾ら澤山入つた文章も讀める。それにしても、かう云ふ書き方が小中學生を馬鹿にしたものであると云ふ事に、讀賣新聞は氣附かないのか。氣附かないのである。

交ぜ書き表記のなかにも干ばつ、あん馬、さい配などある程度"市民権"を得ているものがかなりあります。最近のワープロやパソコンの仮名漢字変換ソフトの多くでも、これらが変換候補として示されています。

開き直りである。もう御前ら、俺たちの書き方に從つてゐるぢやないか、と言ふのである。表記を押付け、拒否できないやうにしておいて、既成事實化を圖る──しかしさすがに後ろめたいのだらう、市民權が「 " 」で括られて「所謂市民權」である事が示されてゐる。

辞書を引かなければ理解しにくい難しい漢語はやさしい言葉に言い換え、どうしても使わざるを得ない場合は、伝統的な言葉の使い方を尊重しながら、定着しつつある交ぜ書き表記も選択肢として、わかりやすく読みやすい紙面のための努力を続けていきたいと考えています。

「安堵」「諧謔」が「辞書を引かなければ理解しにくい難しい漢語」だとは恐れ入つた。そもそも、辭書を引くのは惡い事なのか。また、「伝統的な言葉の使い方を尊重」するのは「どうしても使わざるを得ない場合」だけだ、と言切る邊りも、新聞の獨善を感じさせる。

國語を破壞して反省しない讀賣新聞

「交ぜ書き表記」が「定着しつつある」と決めつけつつ、それは「選択肢」に過ぎないと逃げを打つ。おまけに「わかりやすく読みやすい紙面」と言つて讀者に恩を売り、自分達は「努力を」してゐるからと言つて反論を封じ込める。

新聞は日本語の表記をいぢくり囘しながら、詭辯を使つてそれを正當化し、あまつさへそれを己が功績として讀者に誇つてゐる。讀者が「新聞の表記には間が拔けた印象がある」と言つてゐるのを默殺する。

戰前の新聞は讀者を僞り、泥沼の戰爭へ日本を引きずり込んだと言はれる。或は大本營發表のせゐで戰爭は眞實を報道出來なかつたと新聞は言ふ。しかし戰後の新聞もまた、讀者を僞つてゐるではないか。或は内閣告示に唯々諾々と從つてゐるではないか。それは大本營發表に唯々諾々と從つてそれを掲載した愚を繰返してゐる事ではないか。

新聞は反省しない。新聞は國を誤る。

追記(2002-04-03)

2002年春、日本新聞協会が漢字の表記を見直す事にしたさうである(NHK報道による)。常用漢字の制限に從つた漢字表記の原則も見直す可能性があると云ふ。「交ぜ書き」も新聞はやめる可能性があるさうである。

もしこの「見直し」が實現したら、居丈高な調子で投稿者を嘲笑した讀賣新聞はどうする積りだらうか。もちろん、讀賣新聞は平氣な顏で、方針を轉換するのである。馬鹿を見るのは、新聞の紙面で實名を出されて嘲笑された投稿者である。