映画「パール・ハーバー」の中で、日本の艦載機が病院を銃爆撃し、患者や看護婦がばたばた殺されていく場面があった。日本軍の残虐さを訴えたかったらしいが、これに石原慎太郎知事は「嘘が過ぎる」と怒った。
真珠湾やヒッカム飛行場攻撃ではこの種の言い掛かりが昔からあったと、羽田記者クラブ時代に付き合いのあった日航機長の藤田怡与蔵氏が言っていた。氏は民間航空パイロットとしては異例の旧海軍出身で、真珠湾攻撃にも参加したが、「米軍のパイロットならいざ知らず、日本軍はそんなことは思いつきもしない」と。
確かに、米軍パイロットはそういうこことを平気でやったと慎太郎知事が体験談を書いている。「麦畑を走っていると、米軍のP51がきて機銃掃射された。胴体に原色で漫画が描かれていた」。
二子玉川の床屋で聞いた話だが、戦時中、あの橋を東京側に逃げる若い女性を、米軍機が低空で追って撃ち殺した。パイロットの顔が地上から見えたそうだ。
教育出版の教科書に「夏の葬列」というのがある。疎開した男の子が地元の女の子に庇われて米軍機の機銃掃射から逃れる。でもちょっとした諍(いさか)いがあって女の子が外に飛び出して米軍機に撃ち殺される。作者の意図とは別に「米軍のパイロットは子供まで狙い撃ちしていた」ことを図らずも告発している。
米国はまた日本の文化財に敬意を表して京都を爆撃しなかったと主張する。これも米軍の公式資料を調べれば大嘘とわかる。即ち原爆の投下候補地は@直径3マイルを超える都市でAかつ有効な損害を与えられる地形をもちB通常爆弾による爆撃をしていないことが条件だった。
これに適うのが京都、小倉、新潟、広島、長崎などで、中でも盆地状の京都市街は申し分なかったため、本土爆撃が始まってからも一切の通常爆弾による爆撃は行なわれなかった。確かに最終段階で第一候補の京都に“執行猶予”がついたのは事実だが、それをもって「京都を守った」とはよくも言えたものだ。
広島もまた同じ。原爆を落とし、それがどれほどの人的、物的被害を及ぼすかを測るために、ここも通常爆弾を落とさなかった。それを元長崎市長の本島等は「広島は殺人軍団・第五師団の本拠地。原爆を落とされて当然」と言う。そんなに危険な軍都なら、原爆ができる前にとっくに通常兵器で爆撃しているはずだ。こういう馬鹿を言う人につける薬が欲しい。
米国はもう一つ、この原爆を落とすに当たって「日本には継戦能力があり、米兵百万が失われるおそれがあった」とも主張する。昭和20年の日本は、原爆用の都市以外の都市はすべて焼かれ、飛行機も船もなかったが、米国は「戦争を継続する能力あり」と判断したのか。
鳥居民氏は「原爆が完成するまで日本に降伏させなかった」と著書で説く。
8月6日に考えてみることは多い。
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■ アメリカが広島に通常の爆撃を行なわなかった理由
先日、中学時代に広島で被爆された方の体験談を聞く機会がありました。 語り部の竹本成徳さんは私の仕事面での大先輩で、数年前に現役を退いておられますが、かつては日本生活協同組合連合会の会長として活躍され、マスコミにもたびたび登場されていた方です。
竹本さんの被爆体験は本にもなっていて(『最後のトマト』到知出版社)、私も何度か読んでいます。また、直接お話を聞くのは2回目のことでした。被爆したお姉さんが水を欲しがるのを、「与えたら死んでしまう」と言って与えなかったお父さんが、ついにその最後を覚悟して、末期の水の代わりにお姉さんの好物だったトマトを畑から取ってきて、それを絞って飲ませるお話です。読むたび、聞くたびにしゃくり上げ、流れ落ちる涙を止めることのできない感動的な体験談なのです。
今回の話の中で、新たに印象として残ったのは、「いつからアメリカは原爆の投下候補地として広島を選んでいたのだろうか」ということでした。そのことについて竹本さんは、「全国の都市が軒並み爆撃されているのに、なぜ広島だけ爆撃されないのか不思議に思っていたが、ちゃんと計画があったのだということが、このときわかった」と語っておられました。
また、「(通常の爆撃では)必ず火の外側に逃げないと助からないぞと、親友から聞いていたので、そのようにした。だから助かったのです」と、爆心地にいながら奇跡的に助かった経過についても述べておられました。当時中学3年生だった竹本さんは、集団で作業に出掛けた同級生たちの弁当の番をしていたため、建物の陰にいて助かったとのことでしたが、爆撃から逃れる方法を教えてくれた親友は、作業に出た先で被爆して亡くなっています。運命というものの不思議さを感じるお話でもありました。
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ここで私が強調したいのは、アメリカは原爆ができあがるまでに、日本の各都市を軒並み爆撃し、一般市民の殺戮を行なっていたという点です。その殺戮の方法は、市街地の周囲にまず次々と爆弾を落として火災を発生させ、人びとが街の外に出られないように火で取り囲んでおいて、それからゆっくりと中心部に爆弾を落としていったということです。まさに無防備の市民を皆殺しにすることを主目的にしていたことがわかります。
竹本さんの親友が、「火の外側に出ないと助からないぞ」と言ったのは、爆撃を受けた各都市での教訓を聞いていたからでしょう。しかもアメリカは、広島をはじめいくつかの都市については原爆を落とす候補地として温存し、まったく通常の爆撃を行なわなかったのです。そのうえで、日本の中枢がすでに戦意を喪失しているのを知りながら、原爆が完成するまでは日本を降伏させないようにいろいろと画策したことが、鳥居民氏の本(『原爆を投下するまで日本を降伏させるな――トルーマンとバーンズの陰謀』草思社)で暴露されています(もちろん、このことは早くから知られていたことではあります)。
いま広島には、「私たちは二度と同じ過ちはくり返しません」と書かれた碑が建てられているそうです。それを見て、「これは誰の言葉なのか」と疑問を呈する方があるとか。「原爆を落としたアメリカが言うのなら分かる。しかし、落とされた日本人がそのような考え方になっているのは、まさに戦勝国アメリカによって仕組まれた東京裁判の呪縛に、日本人がいまなお縛られたままだからだ」と。
やっと間に合った原子爆弾の威力を確かめたいために、その実験台として日本の都市を選び、通常の爆撃を止めて街が破壊されないように温存し、日本が降伏のシグナルを発しているのを無視して、出来上がったばかりの2発の爆弾を投下して一般市民の大量殺戮を行なった国は、どんな反省をしているのでしょうか。
人類最大の罪を犯した国から、「日本が最初に戦争を始めたから悪いのだ」と言われて、「そうですね。ごめんなさい。もう二度と同じ過ちをしないようにしますね」と言って自分を責めている姿が今の日本なのです。少しおかしいと思いませんか?
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GHQ(占領軍)の総指揮をとったマッカーサーが、後に「日本の戦争は防衛のためのものだった」とアメリカで証言したことが、昭和40年頃の毎日新聞の連載企画(たぶん「マッカーサー回想録」だったと記憶しています)に載ったことがあります。アメリカは日本を戦争に引きずり込むことによって、当時ヨーロッパにおけるドイツとの戦争で旗色の悪かった同盟国のイギリスやフランスを助ける口実をつくり、アメリカの参戦に反対していた世論の流れを変えることができたのです。
戦後、日本に駐留してさまざまな情報を得たマッカーサーが、あの戦争の背景を知ることによってそのような発言をしたことは、大変大きな意味を持っています。このあたりのことは、「陰の世界政府の力」というテーマで、これから「なわのつぶや記」でも採り上げてみたいと思っています。 (なわ・ふみひと)
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