2009.04.28 (Tue)
「ごね得」の構図
「ごね得」について。
分かるようでいて、分からない。
その「分からない」というのは・・・・何故、「中畑さんのごね得」だけが問題とされているか、ということ。
「ごね得の構図」の説明として頂いたコメントを挙げる。
向き合うのは中畑さんが今の手法をやめてからにすべきだと思います。アカリさんは「誠実に向き合う」を解決の手段として考えているだろうと思いますが、中畑さんにとってはそれが要求の一つだとすれば、アカリさんの提案にのったと同時に中畑さんの汚い手法が通用してしまうことになりますね。中畑さんは自分の手法をかえることなく、当事者だけが要求に応える形になるわけです。だから「ごね得」なのです。(stachyose | 2008.04.07(月) 00:44)
別の方のブログで、他の方々が「中畑さんのごね得」についてしている会話も見た。(そのブログが削除されたようなので、今はその会話を読むことはできない。)
その方は、私宛にも「中畑さんのごね得」について言っていたので、自分のブログでの詳しい説明を探してみたのだが、探すことができなかった。
なので、stachyoseさんのコメントを元に考えてみる。
当時から疑問があって、今も変わらないものは2つある。
1)そもそも、中畑さんの「要求」とは、何なのか?
2)「ごね得」なのだろうか?
【More・・・】
1.そもそも、中畑さんの「要求」とは、何なのか?1)「会話する」というのが要求の一つであり、その為の手段として「今の手法」を用いている、という事だとする。
(1)「会話する」ことにより、何を求めるのか?
此処は私には分からない。
何故なら、その前の「会話」が出来ないという状況であるから。
(2)「会話する」という要求について。
・・・・本来なら「会話する」のが当たり前ではないか、と思う。
此処までに至る流れは、「会話の阻害(削除・罵倒など)→会話要求」。
だから、「会話するということが「ごね得」になってしまう」と言われても、ピンとこなかった。
普通に会話すればよかっただけのことだから。
それをしなかったのは中畑さんではなく、「当事者」の方々だから。
(3)「普通に会話しにくい状況」を作り出している、というのは、「当事者」の方々だけの責任ではなく、中畑さんにも責任がある。
何故なら、他の場所で他の方に対してのコメントを見て、「中畑さんと会話は出来ない」と思ってしまう方法を選択しているのだから。
私が問題視しているのは此処。
「当事者」の方々のブログにおける中畑さんのコメントの「やり方」には正当性が感じられない。
だが、他の方々(見ていた第三者)が罵倒・中傷していい筈はない。
2)「会話する」というのが要求の一つではない、とする。
(1)「会話する」というのが要求ではないのだから、「会話する」=「ごね得」とはいえなくなる。
会話の中で、「要求を聞き出す」というのも可能ではなかろうかと思う。
2.「ごね得」なのだろうか?
1)会話の阻害(削除・罵倒など)→会話要求という流れで、「普通に話して叶えられなかったから繰り返しコメントや言葉汚いコメントになった」とする。
(1)この状況で、中畑さんの「会話要求」を認めない、ということは、当事者の方々の会話の阻害を認めるということで、「会話しない」=当事者の方々の「ごね得」となる。
(2)中畑さんの「方法」は認めない、ということと、「会話要求を認めない」ということはイコールではない。
私はそう思っているのだが、「当事者」の方々の「沈黙(会話に向かわない状態をこう仮称する)」の理由が表明されない以上、よく分からない。
中畑さんの「方法」を止めればいい、そうすれば会話に応じる。
「当事者」の方々からの、このような言葉を私は見たことがない。
「方法」を認めない、とする場合説得方法として考えられるのは
(あ)「この方法では会話は出来ない」ということを理解してもらう。
(い)別の方法を行えば会話ができる、ということを示す。
だろう。
この二つを私が実行できたか、と言われると自信はない。
(此処を指して、「努力が足りない」「考えが足りない」とされると、その通りなのかもしれない。)
(あ)については、今まで相手がかたくなになってきたことで十分証明可能な気がしていたので、あえてしていなかったが・・・・それでも、明示しているとはいえない。
(い)については、「別の方法」を試すべき、とは言えるが、相手がそれで会話を行うという保証があるのか・・・・其処の部分が弱い。
(3)私は、駆け引きの結果、両者が立ちすくんでいるだけだと思っている。
両者とも駆け引きを廃してみてはどうか、と思うのだけど・・・・それまでの経緯からして難しいというのは理解している。
先に駆け引きを止めた場合、少なくとも周囲の印象は良くなるだろう。
でも、「相手が駆け引きを止めない」という保証のないまま、自分だけが止めてしまうのは話の展開を不利にすると、双方が考えるだろうと思う。
だが、にらみ合いでは話は止まってしまう。
話を止めることを目的としている人がもしいるのなら、その人の「ごね得」であろう。
一つ、気になるのが。
人が違えばその人の態度も違って当たり前なのに、中畑さんが「○○さんがこうだったから〜〜〜する」と、会話の相手ではない人のことをもちだしている点。
2)会話の阻害(削除・罵倒など)→会話要求という流れではない、とする。
又は、「普通に話して叶えられなかったから繰り返しコメントや言葉汚いコメントになった」のではない、とする。
この場合、繰り返しコメントや言葉汚いコメントには全く理由はない、となるのではないか。
(他の理由としては「害意」「愉快犯」くらいしか、私には思いつかない。)
そして、このような前提で「当事者」の方々が中畑さんに「会話する」というのであれば、「中畑さんのごね得」だと思う。
だが、私が今まで見てきた経緯は
『「当事者」の方々による会話の阻害(削除・罵倒など)→中畑さんによる繰り返しコメントや言葉汚いコメント』
だった。
だから私は「中畑さんのコメントには理由がある」と言っている。
又、経緯を知らないままの判断(=中畑さんは「荒らし」である、と表現すること)はするべきではないと思っている。
〜〜〜〜〜〜
考察、此処まで。
論旨のすり替え、ミトモナイ。
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♪ 荒らしは荒らし
当り前ではありません。
常識という言葉を用いることに抵抗感があるのに、「当たり前」はいいんですね。
特定の人のコメントだけを受け付けたり、排除したりすることが問題になるのなら、コメント削除機能や特定IP・IDの排除機能を付加しているブログは運営できませよね。だから会話することが「当たり前」で常識などということはありません。