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よしもと100年笑いは地球を救う

「4時ですよーだ」でイケイケ生放送

「スポニチはためになるでー」と本紙をPRする今田耕司
「スポニチはためになるでー」と本紙をPRする今田耕司
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 ダウンタウンが関西で本格的にブレークした帯番組「4時ですよーだ」。「放送が始まると街から女子高生が消える」「戎橋が女性ファンで埋まって身動き取れなかった」など…1987年4月から89年9月までたった2年半の放送だが、いまだ語り草になるような伝説が残る。その生放送で今田耕司は着実に実力をつけていった。

 「番組の制作費が80万円だったのをなんか覚えてます。ダウンタウンさんのギャラが1本1万円。ボクらが1日2500円。月から金曜の5日間で5万円って“わ〜っ、すげえなあ〜”って思いましたね」

 大ブームの予兆はあった。番組が始まる前から心斎橋筋2丁目劇場にはファンが殺到していた。まだネットもない時にイベントの面白さが口コミで伝わった。今田も「よう大きな事故が起こらんかったなと。出待ちするファンもすごかった。もうアイドルでした」と振り返るほどだ。

 「ボクらは生の舞台しか知らないんで。帯番組の生も収録も関係なかった。自分が目立ったらええだけなんで。若さならではの緊張はありましたけど怖さがない。今なら怖くてできない感じですね(笑い)」

 同じくピン芸人の東野幸治との「Wコージ」が認められてトントン拍子で売れ始めた。NSC在籍時は「この世界で10年やって向いてると思ったら(島田)紳助さんのお弟子さんになろうと思っていた」というが、取り巻く環境の変化が速すぎた。

 「ダウンタウンさんがロケットのような売れ方をしていた。その後ろについてイケイケでしたね。このグループは特別やと…ボクが勝手に思ってただけですけど。それでダウンタウンさんが東京に行ったら仕事が見事になくなった。ロケットで一緒に上がって…ボクらは切り離しみたいな(笑い)」

 「4時ですよーだ」終了とともにテレビの仕事は一気になくなった。ただ、そこで得た経験が今に生きている。生放送のライブ感はいまだに大好きだ。今田のベースはここでつくられた。

[ 2009年03月30日 19:37]

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