2009-05-02
■[回想]終・いかにして私は社会人になり、そして脱落したか。
人はそれを弱者の敗北と馬鹿にするかもしれない。それは全く間違っていないだろう。しかし、それでも僕は生きている。
社長には辞表を書いてすぐに「今後について相談したい」とメールを出したが、スケジュールの都合で次に社長と会えるのは二週間後、事務の先輩を交えて昼食を取りながらということになった。具合を悪くしていた僕は昼食を取る習慣がなくなっていたのだが、社長と同席して食べないわけにもいかず、またこれから話す内容を考えただけで気分が悪くなるのだった。
食事を終えた社長が促すので、ようやく僕は会社を辞めさせて欲しいと伝えることが出来た。言った瞬間、これで楽になれると思った僕だったが、社長は僕の言う事を予想していたのであろう、頭を下げた僕の願いを笑顔のまま駄目だ、と一蹴した。私は必死で頭を下げたが、口くせぇからこっち向いて喋るな、とだけ言って社長は席を立った。事務の先輩はお付きの様に無言で後を追った。極度の緊張と体調不良でからからに乾いた僕の口からは確かに悪臭が漂っていた。僕は恥ずかしさと情けなさと、何より会社を辞められない絶望で一人残された席で涙をぼたぼたとこぼした。
しかし断られたからといって働き続けられるわけではない。この日から更に体調を崩し、食欲もなければ眠れもせず、情緒不安定になっている自覚があった僕は、藁にもすがる気持ちで心療内科に行った。友人の自殺、会社であったこと、今の自分の状態を話し、会社を辞めたいが辞めさせてもらえないと話した僕を医者は軽症鬱と診断し、抗鬱剤と精神安定剤、そして会社に提出するための診断書をくれた。
僕は会社を辞めるためならなりふり構わなくなっていた。友人が自殺したことも鬱病と診断されたことも全て伝えて会社を辞めることを了承させようとした。しかし病気の真偽を確かめさせる為に、僕は140人切り先輩を診断書を書いた医者のところまで連れて行かなければならなかった。僕を診察する場に立ち会うように会社から命令されていると医者に言った先輩は、お前の会社はキチガイ会社だと医者に怒鳴られ微妙な表情で帰っていった。そして鬱病の話だけで十分だったはずなのに友人の自殺を「僕は追い詰められています」アピールに利用した僕は自分を見下げ果てた。これらの出来事は病状の悪化を招いたが、甲斐あって会社を辞めることは認められた。退職にあたり手続き等について例の140人切り先輩と話し合う必要があるが、ここまでくればもう退職したも同然の筈だった。
さて、140人切り先輩を社長はあまり評価していない口ぶりだが、なぜ退職に関する打ち合わせといった比較的大切な処理を任されていたか。考えられる理由は二つ、評価されていないだけあって重要な案件を任されていないこと、そしてもう一つは評価されていない人間だからこそ社長に評価されるために社長の言うことをよく聞くからだ。社員が退職するという時はそういう人間が必要だという事なのだった。私が辞表を提出したのと同じ時期に、例の一人で研修を受けている新人も辞表を提出したようだった。彼が何を考えてその時期まで会社に残り、何があって会社を辞めるに至ったのか、それは分からない。恐らくは碌でもないことがあったのだとは思うが、それは僕には関係のないことだった。僕に関係があることと言ったら、その彼が辞表を出したおかげで140人切り先輩は彼の対応を先にすることになり、僕が後回しにされたということだ。辞表が受理されてから一週間待ってもまだ140人切り先輩との話し合いの場は設けられず、7月も終わりに近付いていた。埒が明かないので僕は先輩の予定を教えてほしいと社長に言った。その理由を問われ、退職するための話し合いをする都合をつけたいからと答えた僕に社長を罵声を浴びせる。あいつは今別の奴の退職手続きで忙しいんだ!お前は自分ばかりで他人はどうでもいいのか!お前はそうやって友人を自殺に追い込んだのか!僕は目の前が真っ暗になった。死んでしまえと思った。殺してやりたいと思った。しかし身体は動かなかった。気持ちがどうであれ社長の怒声に萎縮する身体になっていたのだ。足音荒く社長は部屋を出て行き、僕はトイレに駆け込んでげぇげぇと胃液を吐いた。僕はなぜ生きているのかとも思った。
翌朝140人切り先輩から連絡があり、夕方に退職に関する話し合いの場を設けることになった。彼の手続きに時間が掛かっちゃって遅くなってごめんね、と先輩は言ったが、さぼっていただけだと僕には分かった。何故なら僕の退職に関する話し合いはすぐに終わったからだ。先輩はテープレコーダーを用意し、前から話していた通り会社から借りている工数分は返済してからじゃないと退職できないと言った。新人が担保する工数は自分自身の給料、交通費、研修を担当した先輩達の研修分工数を人数で割った分と様々で、最終的に僕が会社に返さなくてはいけない金額は保証金という名目でかなりの額になっていた。弁護士にも認められているし、入社時に会社への損害が発生した場合は賠償金を支払うということで誓約書も書いているから、これは理解しているよね、と先輩は言った。恐らくこれを読む人は払う必要なし、どこどこへ駆け込め、と言うだろう。僕が今誰かに相談されたら同じことを言うだろうし、相談先の連絡先まで調べて伝えるだろう。しかし泣き言ではないが僕には無理だった。僕の周りにはこういったことを相談できる人間はいなかったし、今ほどネットが普及しているわけでもなかった。何より僕は正常な判断ができる状態ではなかった。この日も僕は処方された薬を予定より多く飲んでいて、度々トイレに駆け込んでは便器に胃液をぶちまけていた。僕はただ楽になりたい一心で書類にサインしたのだった。
しかし仮に僕が支払うべき正当な理由がある金額だとしても、僕はそれだけの金を持っていなかった。支払われた給料には税金だってかかるし、満額が手元に残っているわけがない。学生時代にバイトした時の給料は殆ど残っていなかった僕に出来ることは親に頭を下げてお金を借りることだけだった。後にも先にも、地面に頭をつけて土下座をしたのはこの時だけだった。両親は僕がおかしくなっていることを知っていて、深く追求せずに満期となった僕の学資保険からお金を出してくれた。元々これはお前に渡すつもりだったから、そう言ってくれた両親に僕は一生頭が上がらないし、金を払わなければその両親の職場に押しかけることも辞さないと言外に脅すのが僕が入ってしまった会社なのだった。
7月最終日、すべてが終わった日。その日、皆の前に出された僕は当日付で退職することを告げた。社長は「こいつは優秀だったが、入社前から鬱病をわずらっていた。そのことを隠していたことが残念でならない」と言った。もしろん僕は入社前に鬱病を患っていたことはないが、その話を聞いた彼らが何を思いショックを受けた顔をしたり悲しそうな顔をしたのかなどどうでも良かったので黙っていた。彼らについて何かを思う事はなかった。僕は黙って頭を下げ会議室を出た。140人切り先輩と銀行に行き、あらかじめ用意していた金を下ろし、封筒に入れて渡した。ひたすら無言の僕に先輩は、やっぱりみんなと離れるのが悲しい?と聞いた。僕はただ、どこで目の前のこの男を殴り倒せば金を払わずに済むだろうか、と考えていただけだったが、あまりにも馬鹿な質問にその気力もなくなった。勘違いを正す気にもならなかった。僕は頭を下げて先輩と別れた。僕は自由になったのだ。
僕はそのまま電車に乗り、自殺した友人の田舎へ向かった。予定外の行動だったのでひたすら鈍行に揺られ、途中で具合が悪くなり電車を降りた。トイレで胃液を吐いてからホームに戻り、次の電車を待った。電車を待っている間、僕はただ考え事をしていた。田舎の駅には人もいなければ売店もないが、時間だけはたっぷりあるのだ。自由になった僕は次に何をしたらよいのだろう。何しろ自由になったのだから、何をしてもいいし、何もしなくてもいいのではないだろうか。僕は線路に下りてみた。線路に座り込んでみた。寝転がってもみた。しかし何も起こらなかった。当たり前だ。自由になった僕が線路に寝転がったところで何も起こる筈がないのだ。僕は馬鹿馬鹿しくなってホームに上がり、スーツの汚れを払った。ふと、会社を無事に辞められたことを誰にも報告していないことに気付き、携帯電話を開いて相手も分からずリダイアルボタンを押した。落ち着いた声でなに?と出たその声は、先日まで彼女だった女性の声だった。会社を辞めるごたごたの間に精神的に依存をし過ぎた僕が負担になり振られたのだ。会社を辞めたよ、と僕は言った。良かったね、と彼女は言った。僕は何か言いたかったが何も言えなかったので、電車が来るから切るよ、と言った。周りが静かだけど、今あなたどこにいるの?と彼女が聞いた。僕は答えようとしたが答えられなかった。僕はどこにいるかも分からないし、これから何をしたらいいのかも分からなかった。分からないけど、とりあえず帰るよ、と言った。帰ったら会ってもらえるかな、と聞こうか迷ったけれど、結局は聞かずに電話を切った。僕は健康もお金も友だちも彼女も失ったのだと実感した。そして泣いた。田舎の駅には何もないが、何しろ泣く時間だけはたっぷりあったのだ。
以上で僕のしょっぱい思い出話は終わりだ。これが本当にあったことかどうかは別として、僕の手元には最後に先輩から受け取った一枚の紙がある。
つらい時にはこれを見返して、あの会社のことを思い出す。次の会社でも色々あり、そこが潰れてから入った今の会社でも色々あった。また鬱病と診断される羽目になり、薬を飲んだり自傷してみたりした。その間に何人かの女の子と寝る幸運に恵まれ(女を抱いたことのないチンカス野郎と馬鹿にされた僕が!)、いつの間にか結婚して、平凡な毎日を過ごし、たまにバカな日記を書いている。あそこでの経験が僕に何をもたらしたのだろうか、と彼の命日が近付くこの季節に考えるが、答えは出ない。あの事で決して強くなったわけでも大人になったわけでもない。ひどい目に会ったことは間違いないと思う。けれど結局は生きていて、たまに幸せだと思ったりする。だからいざとなれば逃げればいい、死ななければ何とかなる、というのが唯一学んだことかもしれない。僕がこうやって書いている様に、何があっても全てはいつの間にか過ぎ去り、ただの感傷になってしまうものなのだ。
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- 2009-05-02 カレーなる辛口Javaな転職日記 4/39 10%